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クラリッサは、嫁いだ身。妹には嘆願されたが、父が首を振ったために、しばらくの滞在は、以前の部屋ではなく離れた客間になった。最もそれは、些細な問題だ。以前までの生活に比べてしまえば、この家は日の光に満ち満ちていた。居心地のいい場所に、クラリッサの滞在は、数か月続いた。
そんな、ある日の午後。並べられた茶器と焼き菓子を前にして、クラリッサは首をかしげた。
「あら、オーレリアは?」
お茶の時間は、いつも姉妹で。それは、暗黙の了解だったが、その日に限ってオーレリアの姿がない。侍女に問いかけると、彼女は唇を引き結んだあとで答えた。
「お庭に。お散歩に出かけられたそうです。お茶の時間までには戻るとおっしゃられていたようですが……」
「……そうなの、残念ね。せっかく貴女が久しぶりにこの屋敷に戻ってきたというのに、ねえ。メアリー」
呼びかけると、クラリッサの侍女はびくりと震えた。侍女の名は、メアリー。もともとオーレリアのナニーメイドだった女だ。それと同時に亡き母の狂信者の一人で、母によく似たオーレリアに仕えることを至上の悦びとしている。そんな彼女からしてみれば、クラリッサの結婚を機に、心ならずクラリッサに仕えるようになったことも、今現在己に成り替わりオーレリアに仕えるようになった少年の存在も、屈辱の極みだろう。事実彼女は、三年ぶりに念願の屋敷に戻ってきたというのに、意図的にオーレリアを避けていた。自らを手放したオーレリアに、わだかまりがあるのだ。気遣うように、彼女の顔色を覗き込めば、案の定その顔は固い。
「いえ、仕方ないのです」
「戻ってしばらく忙しくしていたから、ようやく、オーレリアに会える機会をと思ったのに。あの子ったら、どうしたのかしら」
「それは……」
言葉を詰まらせた侍女。その原因に、心当たりがある。
――振り返ったその先で、金色の髪の少年が、口角を持ち上げ笑みを浮かべていた。
あの微笑みを思い出す度に、胸の内に不穏なものが身じろぎする。クラリッサは知っていた。清らかなオーレリアの傍らにあって、当然のように笑む少年。あれは、違う。綺麗であろうと、ふりをする。純粋である、ふりをする。あれの本質は、汚泥よりも混沌として、奸譎たる魔性に違いない。
侍女の困惑。そしてその、内なる苛立ちが手に取るように分かる。オーレリアはその散歩に、かの少年が同伴しているのだ。
「……かわいらしい、初恋よね」
クラリッサは微笑んで、侍女の入れた紅茶へと手を伸ばす。
「ねえ、そう思うでしょう。メアリー」
隣で侍女が必死でひそめていた怒りをあらわにしていく。体を震わせる、その気配が伝わってくる。
「……そう、でしょうか」
「見た? あの男の子、意外に可愛らしい顔をしていたのよ。成長したら、美男になるんじゃないかしら。そうしたら、きっと揃いでうつくしいわ」
「揃いだなんて、そんなこと!」
「あらあら、どうしたの? メアリー」
声を荒らげたメアリーに、クラリッサは微笑んだ。すると、彼女は早口に言葉を続ける。
「……お嬢様に必要なのは、あんな薄汚い子供などではないんです」
「ああ、メアリー」
クラリッサは立ち上がると、メアリーの背後へ回り込む。そうして、できの悪い生徒を言い聞かせるように、その耳元で囁いた。
「オーレリアの傍にいたいのね。でも、だめ。仕方ないわ、オーレリアが選んだのは、あの男の子で、貴女じゃない。オーレリアは貴女の事がいらなかったのだもの」
「……そ、んなこと」
「あら? どうして。本当に離れたくないのなら、きっと屋敷を発つとき貴女を止めたでしょう。お母様なら、当然止めたわ」
母の名を出すと、面白いくらいに女は動揺した。しかし、それに気づかぬふりをして、クラリッサはおっとりと微笑んだ。メアリーの肩に手を置き、彼女の心に寄り添うふりをする。
「ああ、でも。心配だわ。オーレリアは抜けたところがあるから。この前なんて、また、お母様の形見の櫛を置いたままにしていたわ。あの男の子もまだ若いから、そういったところまで目が届かない。あの櫛は高価なのに。置いたままにして……だめねえ、なくしたら、どうするのかしら。盗られたなんて、騒ぎになるわ」
ちらりとメアリーを眺めると、彼女は目を開いたあと、必死に首を振った。
「お嬢様! まさか私はそんなこと」
「あら、貴女の事じゃないわ。だってこの屋敷には、もっと、卑しい生まれの――疑われやすい人がいるじゃない」
そう囁けば、メアリーははっと息を呑みこむ。そして無言で考え込む女を眺めて、満足げに、クラリッサは手を離した。
その後すぐに窃盗事件が起きて、哀れな一人の少年に疑いの目が向けられた。
彼を弁護するものもいたが、最後に決断したのはオーレリアだった。彼女は少年に憐れみを施したあと、無残に突き放した。
追い出された少年は紹介状もなく、帰る家もない。クラリッサは立ち去る少年を眺めるために、自室の窓から外を見下ろした。彼は一人、立っていた。一枚の紙の金――オーレリアによって施された憐れみ――を握りしめて、戻れない屋敷を――オーレリアの部屋の方向をずっと見つめていた。動かぬ少年の上を、太陽が過ぎていく。場が夕闇に支配され、やがて星が瞬く。それさえも通り過ぎれば、翌朝。明け方の日の光が満ちぬころ、少年は全てを諦めた。希望を失った瞳は、夜闇よりも昏い。そうして彼は踵を返し、二度と――振り向くことはなかった。
かわいそうなことをしたかしら。
少年の絶望、その一部始終を眺め下ろしたクラリッサは、微かな罪悪感に苛まれながら、遅い就寝のため、やわらかなベッドにその身を横たえた。頭の端にかすめていた、頭痛の原因は立ち去った。そして横になり目を閉じれば、心地よい眠りは、すぐに訪れた。