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二年後。
夫の喪が明け、久々に訪れた生まれ故郷は、夏のはじめをまえにして透き通るような新緑の黄緑に覆われていた。晴れた青空はどこまでも澄み渡り、息を吐いて深く吸いこめば、摩耗した胸の内が満ちるのが分かった。当たり前だったころには、何気ない景色。におい。人々。その全てが、ただただ愛おしく、目の奥が熱くなる。
生家である屋敷を訪れると、クラリッサの帰郷に父はどこまでも事務的だった。落胆と同時に、それを予期していた自分が、ほらみなさいと囁く。父がクラリッサに興味を示すことなどないのだ。わだかまりを抱えて、父の書斎を出る。しかし、そんな彼女を家政婦長が笑顔で迎えた。鬱屈した思いごと、そのふっくらとした体で抱きしめ、辛かったですねと笑みでねぎらう。その声とともに押し付けられる巨体はすこし困ってしまったが、背中を撫でてくれる柔らかい手の平に、誰かに抱きしめられることがようやく、心地いいと思えた。
そんな彼女にとって、最も待ち遠しかった相手は、遅れてやってきた。
「お姉様!」
辿り着いた応接間で息をついて紅茶を愉しんでいると、慣れ親しんだ声がして、扉が開かれる。十二歳のオーレリア。母によく似た、うつくしい少女。年の離れた妹が、姉の姿を見つけると嬉しそうに駆けてくる。
「オーレリア」
クラリッサは立ち上がり、彼女に手を伸ばした。
打算もなく計算もなく、ただ純粋に――妹のオーレリアは姉の帰郷を喜んでいるようだった。恐らく彼女は、クラリッサの夫の死の子細も知らない。穢れない、うつくしい子。ああ。ほんとうに、私の妹は、かわいらしい。ほうと、陶酔に似たものを吐き出し、妹を抱きしめる。彼女は最後に会った時より、さらにその美しさに磨きをかけていた。抱きしめればわかる、膨らみかけた胸。女性へと近づく丸みを帯びはじめたからだ。その魅力は、少女然としたエプロンドレスでは近く隠せなくなる。今に女として、数多に愛されることとなる――その予感に気付いた途端、ぞわりと胸の内側が騒いだ。
「あ……あいたかったわ、オーレリア。出迎えてくれなくて、寂しかったのよ」
しかしざわつく心を笑顔でなだめて、クラリッサは妹を抱きしめ、その両頬にキスをした。抱きしめた、やわらかい体からは、日差しと――あまい花の香りがした。
(花の、匂い――?)
それは昔のオーレリアには、なかったものだ。
「ごめんなさい、お姉様。ちょっとお庭を散歩していたの。今の時期は、花がとても綺麗だって言いだしたから」
(誰が、言い出した?)
違和感に戸惑いながら抱擁を終えると、そこではじめて、彼女の傍らに立つものに気付いた。髪の長い使用人。一瞬少女の見まがう様な華奢な少年。その存在に覚えがあり、記憶の水面からすくい上げることは容易かった。
*
『はたらかせてください』
まだ、クラリッサが嫁ぐ前の、四年前のロンドン。
ひとりの少年が、旅行中のオーレリアの裾を、ひっぱった。その子どもは、やせ衰えて骨がうき、立つのもやっとというありさまだった。親の姿はなく、その薄汚れた身なりから、彼が浮浪児であることを想像することは容易かった。貴族に施しを乞う子供。珍しくもない、その姿。しかし、小さな少年は、はっきりと、オーレリアに向かって言った。
『いっしょけんめい、働きます、何でも、します』
彼は、貴族の娘に、施しではなく雇用を希った。そしてオーレリアは、気まぐれに、彼を拾って連れ帰った。あの、無邪気な少女は、気まぐれに一人の少年の一生を、ひろいあげた。
*
名前は確か、アレン・ホワイト。
彼の髪でかつらを作ると。ただそれだけの、妹の道楽につき合わされた少年。すぐ飽きて手放すだろうと思っていたが、四年の歳月を経てなお、彼はさも当然のようにオーレリアの傍らに立つ。
その髪は手入れが行き届いて、細い髪の一本一本が、長い毛の先まで光を放つようだった。この四年で、汚かった身なりは随分と整えられて、借り物の衣装も身になじんでいる。こうしてみると、拾った猫はただの汚らしい雑種ではなかったらしい。長すぎる前髪が邪魔していたが、白い肌の輪郭はすらりとして、薔薇色に染まった頬と唇が、少女のような可憐さを放っていた。
しかし値踏みするクラリッサの視線に目前の少年はどこまでも無関心だった。彼はそのまなざしをオーレリアだけに注ぐ。長い髪のあいまから見える、空色の瞳は熱心に、オーレリアを求める。あまりに露骨な視線の中に、その感情がにじみ出ているというのに、鈍感な妹はその視線に気づいていない様子だった。
(あらあら可哀想に。でも、かわいらしい、初恋ね)
そのまなざしの、あまりに若い熱にあてられ、クラリッサの頬も赤くなる。
身分差から、それが叶うことはない。しかし、あまりに見え透いた恋心の微笑ましさに、クラリッサは笑みをこぼしていた。
「お姉様、それより、はやく、こっちに来て! 見せたいものがあるのよ」
彼の恋情に気付かぬオーレリアは、無心に姉の手を引く。その無邪気なまなざしには、自らに恋慕する使用人のことなど、目に入っていない。愛しい妹。その笑顔の向け先は、クラリッサひとり。彼女は優越感に浸り、その手を握り返す。
しかし静かに退席する使用人とすれ違うとき、彼から、あまい、においがした。それは、オーレリアと同じ、蜜のようにあまい、花のかおり。何もしらぬ妹に、しのびよる、情欲のかおり。
クラリッサは咄嗟に振り向き、顔を歪めた。
すると、振り返ったその先で、あの少年が――口角を持ち上げ、笑みを浮かべていた。