魔物ノ受精卵
『異形児』
既存の生物種とは明らかにかけ離れた形質が、外見に於いて如実に表れている個体の総称。
奇形児と混同されるが、奇形児が遺伝情報の上では非奇形児とほぼ大差無いのに対し、異形児は大幅に異なる点が幾つも見られるのが特徴。
原因として有力視される説は多々あるが、何れも「先天的な遺伝子変異」が原因であるという点では共通している。
異形児は古くから神性等の先祖返りと伝えられる事もあったが、その多くは奇形児以上に差別の対象となりやすい。
その為異形児は産まれ次第隔離され、家族以外の者との関わりが一切無い状態で育成される場合が殆どである。
但しこれはあくまで科学主導の文化圏に於いてのみであり、一昔前の魔術主導文化圏では、奇形児・異形児の親は迫害の対象とされ、特に異形児は殺せば神罰や呪縛、祟りなどの可能性があるとして殺すこともままならず、それ故に両親は処刑されるのが常であった。
法制度が整えられた近代ではそういった風習は無くなり、奇形児・異形児だからと差別・迫害するような風潮も無いに等しい状態となっている。
しかし、狂信的な魔術至上主義者は今もこういった根も葉もない迷信を盲信していると言う事を忘れてはならない。
―30年前・ある学者の日記より―
今日、親友が死んだ。
死因は急激な魔力消耗と体温低下による衰弱死で、発見されたときにはもう死んでいたそうだ。
生前の彼は、誰に対しても思いやりを以て接する心優しい人格者だった。
天才的な素質を持つ魔法使いで、修復や治療の魔法を得意としていた。まさに彼らしい魔法だった。
一方の僕に魔法の才能はなく、専ら科学分野で活躍していた。
昔から魔法と科学の対立は酷いもので、こう言うのも何だけれど、大体の原因は大御所の魔法関係者が科学関係者に言い掛かりを付けては喧嘩を売ってくる事にあった。
その所為で、本来共にあるべき二大技術は真っ向から対立していた。
お陰で僕も魔法関係者からはあまり良い扱いを受けた事が無かったのだけれど、彼だけは違った。
彼はとても寛容な心の持ち主で、自分以外の何かを否定する事は滅多にない。
かと言って主体性が無いわけではなく、言う時にはちゃんと言ってくれる。そんな人物だった。
そんな彼が、痩せこけ、窶れ、萎びて衰弱死するに至った原因と言ったら、もう一つしか考えられない。
エリザ・ブラヴァッキ
北大陸アルコノストはサルディニアの名門ブラヴァッキ家の一人娘にして跡継ぎであり、魔術至上主義者を率いる極悪毒婦だ。
あの女の全ては我欲と偽善で出来ていると言っても過言ではない。
他人相手に使われる言葉は全て偽りの善意から来るもので、頭の中では何時も他人を利用してのし上がってやろうとしか考えていない。
教皇や各国首脳とも太い繋がりを持ち、親戚一同を従えて根底から貢がせている女だ。法的機関にも媚びているから、何をしても裁かれることはない。
その他にも(恐らくは魔術で形作られたであろう)その美貌と色気で多くの人々を従え、紙幣の葉と硬貨の種をつける大樹を独占し酒池肉林の生活を営んでいる。
両親夫妻は既に故人で、死因は事故死とされているが、事故を仕込んだのもこの女ではと専らの噂だ。
親友は半年前『エリザ・ブラヴァッキにに交渉を申し込む』と言って北へ向かったが、それから半年が過ぎた今日、僕が知り合いから聞かされたのは、北大陸の漁港で彼と思しき餓死体が見付かったという悲報だった。
悲しかった。
只ひたすら、悲しかった。
そして僕は今日此処に誓うとしよう。
エリザ・ブラヴァッキを倒すと。
別に彼の仇を取ろうなんて言うんじゃない。そんなのはナンセンスだ。
彼が生きていようと死んでしまおうと、エリザ・ブラヴァッキが危険である事に変わりはない。
ならば奴を根本から破滅させ、その玉座から引きずり下ろしてやる。
だがしかし僕は科学者だ。
科学者は、発展性・生産性が無く、効率が悪く、つまらない事は極力やりたくないものだ。
だから作戦も、只単に毒ガスや生体兵器やB兵器で殺したりするんじゃあ駄目なんだ。
それは確かに発展性・生産性こそあるし製造段階では面白いかも知れないが、奴を直接殺してしまっているからね。
だから僕は、奴を徹底的に苦しめ、尚かつ生かしたまま玉座から引きずり下ろし、そして生産性のある、面白いことをする。
何をするかは、今のところ考え中だがね。
ただどのみち、今研究中の題材に沿ってやる事に違いは無いさ。
―翌日・シュヴァルトライテ首都圏―
照り付ける陽光と乾いた空気に包まれ、今日も今日とてシュヴァルトライテは賑わっていた。
空を小型飛行艇が飛び交い、車道を最新式の乗用車が走り往く。
そんなシュヴァルトライテ首都圏の歩道を、一人の男が歩いていた。
黄金色の長髪を棚引かせ高級そうなスーツに身を包んだ長身痩躯の美形エルフ族。名をカサノヴァと言う。
如何にも優秀そうに見える彼だったが、その実態は実におぞましいものである。
言ってみれば彼は、『究極の紐』なのである。
どういう事かと言えば、その美貌と甘いマスクで女性を惑わし虜にした所で散々に利用し貢がせ生活費を稼ぐのが病的に上手いのである。
現に彼が身に付けている者は全て女からの貢ぎ物であり、スーツは東で大御所貴族の人妻に買わせたものだ。
「…今日は誰と会おうかなぁ…」
カサノヴァがそんな事を呟いていた、その時。
「やあ、君」
何処から戸もなく、彼の眼前にいきなり現れた者が居た。
あの学者である。
「!?」
「いやぁ、驚かせてすまないね。
初めまして、僕は古藤。しがないマッドサイエンティストさ」
「あ……あぁ…初めまして。私はカサノヴァ。この耳の通りエルフ族だ」
「エルフ族か。どうりで美しく知的な筈だ」
「有り難う。
……ところで、そんなしがないマッドサイエンティストが私に何の用だ?」
「よくぞ聞いてくれたね。
いや、実は僕が今実行に移そうとしている計画には、どうしても君のような男前が必要でね」
「計画?」
「そう。重大な計画なんだ。まぁ、立ち話も何だし、詳しくは僕の家でどうだい?」
「良いだろう。案内してくれ」
―古藤の自宅―
古藤は計画の概要を詳しく説明した。
「成る程。つまり私は、あのエリザ・ブラヴァッキを魅了し親密な関係になれば言いという事だな?」
「そういう事になる。強制はしないさ。君にだって自分の生活があるだろう?」
「いや、そうでもない。それに、相手はあのエリザ・ブラヴァッキだろ?
彼女とは一度会ってみたいと思っていた所だ。丁度良い、これを期に一山当ててみるか」
「その意気だよカサノヴァ。それじゃあ早速、計画を始めようか。
奴は世界の最底辺に属するようなゲスだが上級魔術師でもある。君がそのまま安易に挑むのは、些か危険すぎる」
「それもそうだな」
古藤は早速計画を実行に移した。
古藤はまず、カサノヴァの臓器に改造を施す。
今回の計画に於いて最も重要なものがこれであり、エリザに与える悪夢の根元を司るのもこれである。
続いて、骨格。
臓器程ではないが、此方も重要な研究対象である。抜かりが無いようにしなくてはならない。
こうして粗方の改造手術を済ませた古藤は、カサノヴァに作戦の大まかな計画を説明。
北まで往く為の船や現地の宿を確保。更に莫大な金を持たせ、カサノヴァを北へ送り出した。
―二ヶ月後・玄白の日誌―
今日、カサノヴァから手紙が来た。
報告によれば、難攻不落と思われていたエリザと予想以上に親密な関係を築き、ついにセフレとして関係を成立させる事に成功したとの事だった。
曰く「今までの経験からして今月上旬にはセックスに漕ぎ着けるだろう」との事だった。
―更に七日後・玄白の日記―
カサノヴァから報告があった。
遂にエリザとの性行為を達成したようだ。
しかもきっちり『中』に出したという。僕の要望通り、完璧に作戦をこなしてくれたらしい。
―それから後―
カサノヴァはエリザの元から姿を消し、エリザもまた、自分に尽くす何人もの男達で遊び尽くす内に、彼との一夜の事など忘れ去っていた。
玄白とカサノヴァはひとまずの計画完了を祝し再会したが、それ以降互いに干渉し合う事は無かった。
―二年後―
数多くの男を乗り換えていたエリザ・ブラヴァッキだったが、そんな彼女も遂に一人の男を婿養子として迎える事となった。
その名はジェラルド・メイザース。西大陸出身の元軍人である。
ブラヴァッキ家に次ぐ魔術至上主義者の名家メイザース家の一人息子であり、北大陸魔術界の貴公子と呼ばれるほどの天才肌であった。
結婚式は由緒正しき聖堂で盛大な予算の元豪勢に執り行われ、二人はそこで永遠の愛を誓い合う。
そして挙式から数ヶ月後。
エリザはジェラルドとの間に子供を授かった。
更にそれから266日後。
遂に待望の新生児―ブラヴァッキ家の跡継ぎが誕生するのである。
―出産当日・手術室内―
産まれた子供は大変健康な男児であった。
その健康さたるや、産道を自力で這い出る程であり、更に元気に泣き叫びながら両目の瞼まで開いていた。
即ち、常識的に考えれば明らかに異常な子供だったのである。
これが南大陸ならばまだ話は違っていたであろうが、魔術主義が主流の北大陸、それも大国サルディニアの医療機関は未だに神話や伝承に頼る部分が大きかった。
その為、その場に居合わせた関係者達は『きっとエギルエンパイア様の神託を受けた神の子に違いない』と思い込む。
医療機関の長や夫ジェラルド、産んだエリザ自身もその事を歓喜した。
―エリザ・ブラヴァッキ退院後―
「素晴らしい!素晴らしいわ!」
「まさにエギルエンパイア様の神託を受けた神の子だ!私達は選ばれたんだ!」
子を抱き歓喜するブラヴァッキ夫妻。
二人はこの子供が高い魔力的才能を持ち、ブラヴァッキ家を希望と栄光に導くだろうと察していた。
が、その時。
とっくのとうに泣き止んだ筈の子供の口が動き、あろう事か低い男の声でこう言った。
「お前達は間抜けだ」
「「!?」」
「私は所詮、悪夢を運ぶ者の容器に過ぎん」
その瞬間、赤子はその年齢に見合わぬ動きでエリザの手元から抜け出し、アクロバティックに着地。
黒い手長猿のような姿に変貌し、言った。
「エリザ・ブラヴァッキ……お前は今まで罪を犯し過ぎた……」
「罪?一体何の話!?」
「惚けるか……まぁ良い……どのみちお前が、異形児を産んだという事実に変わりはない……」
「異形……児…?」
「そうだ!お前は異形児を産んだのだ!聞けゑ、家の者よ!
此処に居るエリザ・ブラヴァッキが異形児を産んだぞ!
毛むくじゃらで素早く、生まれたての癖に低い男の声で饒舌に喋る異形児だ!
精々その罪に苦しむが良い、エリザ・ブラヴァッキ!」
手長猿のような異形児はそのまま豪邸の窓硝子を突き破って外に飛び出すと、高笑いしながら飛び跳ねていった。
それから、エリザが産んだ子供が異形児であったという噂は瞬く間にアルコノスト全土へと広がった。
これによりブラヴァッキ家の評判は大暴落。ジェラルドとは離婚し、結婚後も影ながら貢がせていた男達にも悉く逃げられてしまった。
更にブラヴァッキ家そのものが組織ぐるみでエリザ追放に向かい始め、結果としてエリザは楽園のような生活から一変、底辺まで零落してしまったのである。
その後のエリザの行方を知るものは無いが、死亡したという説が最も有力である。
余談だがこの時『異形児の母を出した家系』であるブラヴァッキ家もまた迫害の対象となり壊滅している。
一方手長猿に似た異形児も警察機関によって駆逐されたが、死に際その腹を突き破って平べったい節足動物のような生物が飛び出し、逃げ出したという。
―一月後・南大陸マーサレスはシュヴァルトライテ―
「さて…今日は誰に会いに行こうか」
白昼、カフェテラスでそんな事を言いながら紅茶を嗜むは、エルフのカサノヴァ。
古藤と別れて後、今日も今日とて獲物を探す。
ふと背中に違和感を感じるが、そんな事など関係ない。
「よしそうだ。決めたぞ。今日は彼女にしよう」
思い立っては直ぐ動く。カサノヴァは今日も歩み出す。
四大陸の方々に、住まう恋人のその一人。その家目指し、歩み出す。
そして、会計を済ませ店の外に出たカサノヴァが、店の前からちょうど百歩歩いた時。
ブシュゴッ!
不快な音と共に、シャツとスーツに血が滲む。
「……?」
立ち止まるとまた音がして、今度は腹から血が吹き出る。
しかし痛みなどというものは一切無い。
只、息苦しさだけがカサノヴァを遅う。
言葉も出せないまま、カサノヴァは腹の中で暴れる何かに抗うことも許されない。
そして、次の瞬間。
ボァバッ!
カサノヴァの腹が盛大に破裂し、ミンチになった血肉が噴き出した。
それと同時に白い膜に包まれた丸い何かが飛び出したが、そんな事になど気付く者など誰も居はしない。
民衆達の視線は飛び散る血肉のスプラッターに釘付けで、誰もが冷静さを失いパニックに陥っていた。
逃げ出す者も居れば、救急車を呼ぼうと医療機関に連絡を取る者、治癒魔法の支度をする者等様々である。
皆がカサノヴァの死体に夢中になる中、路面に放り出された白い塊を静かに拾い上げて瓶に入れ持ち去るのは、白いフードを被った素顔の知れない人物。
その動向は明らかに怪しかったが、道行く人々は皆誰しも死体に夢中でそれに気付く事さえない。
フードの人物は、騒ぎ立てる衆人を一瞥してからそそくさと逃げるように立ち去った。
―十五分後・古藤の自宅―
コンコン
戸を叩く音を聞いた古藤は、音もなく玄関口へ向かい客を出迎える。
扉の向こう側に居たのは、あのフードの人物。
顔こそ隠れていて見えないが、古藤は人物に対し親しげに声をかける。
「やぁ、案外早かったね楠木さん。往復で30分程しか経ってないよ。
まぁ、中に入ってくれ。何かご馳走しよう」
古藤の言葉に、フードの人物・楠木は中に入りつつ言い返す。
「そりゃそうですよ。幾ら古藤さんの設計図が優れてたって、この子はまだ生まれたてですからね。
それもこの大きさ、比率からしてまるでカンガルーじゃないですか。
乾燥しきった夏場のマーサレスの、それも路面に放置なんて考えられませんよ」
腰掛けてフードを取ったその素顔は、藍色のポニーテールを棚引かせた赤渕眼鏡の女。
古藤の知人・楠木雅子である。
楠木は無色透明なゲルで満たされた瓶―その中央には件の白い物体が入っている―を古藤に手渡し、テーブルに出されたインスタント麺を啜る。
「その意気だよ楠木さん。命あるものへの適度な愛は、生物学者が必ず持ち合わせておかなくてはならないものの一つだからね。
愛が薄いのは以ての外だが、過度な愛は暴走を産み混乱と不幸の種となる。
薄い愛は家畜の衝動買いや飼育放棄を招き、過度な愛もまたエコテロリズムを引き起こす。
何事もバランス良く程々にとは言うけれど、まさにその通りというわけだ」
古藤はゴム手袋をはめた手で瓶の中の白い物体を掬い取って特殊な保育器に移し、そこへ新鮮な大気を送り込む。
程なくして物体が蠢きだし、その膜を突き破って白い小動物が現れた。
その動物は人間のような骨格をしていたが、全身灰白色の鱗に覆われ、腰の辺りからは細い尾まで生えている。
「結構挑戦的なデザインですねー。
今回の実験って、異形児発生と潜伏精子システムに関する理論検証についてでしたよね?」
「そう。巷でしばしば噂になる異形児の発生と、何年も前に入り込んだ精子を女性の体内に長時間潜伏させておいて、意図した時期になったら受精を遂行させる『潜伏精子システム』について考えた理論の実証実験。
それが今回のメインであった事は確かだ。
しかし、今回の計画は他にも色々な実験を兼ねて居るんだ。
例えば今回産まれてきたこの子は、より自然な遺伝子合成の実験体。
その他にも、『自走式生体保育器』や『脳組織への命令プログラム』等の実験もこれを期にやってみたんだ」
「ごっちゃにしてますねぇ」
「ごっちゃにしてるよ。その上、今回の計画はあの悪名高きエリザ・ブラヴァッキの抹殺とブラヴァッキ家の断絶、そしてカサノヴァの始末も兼ねてるからね」
「カサノヴァの始末?あいつ、偶然出会って仲間にしたんじゃないんですか?」
「おいおい、幾ら僕だってあんなのとそう偶然出会う事なんて出来やしないよ。
実を言うと依頼があってね。カサノヴァを殺せってのがざっと200件。
そんな事殺し屋に頼めばいいのに、何故か僕の所にやって来るんだ。表向きは只の開業医なのにね。
依頼主も色々で、恋人を奪われたとか、奴の所為で破産したとか、娘の敵を取ってくれとか。
まぁどの道、僕も奴の悪行三昧は聞いていたし、これを期に相打ちさせてやろうって思ったのさ」
「まぁ、カサノヴァ抹殺は結構なことですけど、ブラヴァッキ家が崩壊したとなれば、北の魔術師情勢は酷いことになるでしょうね。
また百年前みたいに順位争いが白熱化していって、血生臭い魔術戦争が始まるんでしょうか…」
不安がる楠木だったが、古藤はそんな彼女に明るく語りかける。
「そう暗い顔をする事はないさ。連中だって賢くなったんだ。
今の情勢からして、最高位はやっぱりメイザース家が継ぐ事になるんだと思う。
メイザースの連中は寛容で気前が良くて、他宗教や科学理論に関してもそれ程否定的じゃないんだよ。
寧ろ面白がって態々寄ってくるような奴が多くてね、何人か友達も居る。
現当主ジェラルドも少し気が強い所はあるけど、教養があって紳士的で誰とでも仲良くしようと努力する奴なんだ。
多分、あともう六十年は北の魔術師情勢も安泰じゃないかな」
「そうですね…」
「それより不安なのは西のアルハルト皇国だよ。
ここ何年もグロバリナ帝国から執拗に攻撃されてるからねぇ。
……ま、そんな事は僕が案じるまでもないのかも知れないがね。
それよりこの子だが…凄いな、もう二本脚で歩き回ってる。
しかも見てごらんよ。保育器の壁面を引っ掻いて、目に映る部屋の景色を模写してる。
線の使い方は粗いけれど、物の形は的確に捉えてあるよ。凄いねー」
「うわ、本当。しかもこの子、何か言ってますよ?」
「何だって?……本当だ…言葉らしいものを口にしてる……この口の形、舌の動かし方……」
古藤と楠木は子供の口元に目を凝らし、熟考の末ある結論に至る。
「……まさか…そんな……古藤さん…この子もしかして…」
「あぁ…恐らくそうだろう……この子、よりによって……英語を喋ってる」
「何て言ってるのか解ります?私、ぼんやりとしか解らないんですけど」
「あぁ。解るとも。こう見えても読めるのは学術書ばかりじゃない。
この子は言っている……。
《Where is here?》…『此処は何処だ?』
《What is this?》…『これは何だ?』
《Who am I?》…『私は何者だ?』
《Why am I here?》…『私は何故此処に居る?』
信じがたい事だが、疑問に思っているんだよ。自分の現状について」
「そんな……凄すぎるじゃないですか……」
「だろう?ちなみに解りづらいかも知れないが性別は雄だ。
生まれたてにして既に生殖器の格納口が見えてる…あとで赤外線スキャニングにかけてみよう」
「もし人間タイプの性器が二本あったらまさに夢実現ですね!」
「その通りだよ楠木さん。ところでその発現、今この場に手塚が居たら不味かったんじゃないかな?」
「確かに飛び蹴り喰らってたでしょね。っていうか古藤さん」
「何だい?」
「この子、私が引き取っちゃ駄目ですかね?」
「別に構わないよ。というかその話、此方から切り出そうと思ってたんだ」
「そうなんですか?」
「そりゃそうさ。僕に育児なんて無理だし、変わった生き物を育てるのは得意だろう?」
「古藤さんだって常識外れに変わった生き物育ててたじゃありませんか。
それに、あの部隊は自分の子供じゃありませんでしたっけ?」
「アレは愛の強さをそう例えただけだよ。そもそも、子育てにはやはり女性だろう?」
「まぁそれもそうですね。私としてもこの子育ててみたいですし。そうと決まれば名前ですね」
「僕は君の配偶者でも家族でも無いから口は出さないよ。君が好きに決めると良い」
「解りました。それじゃ、この保育器ごと引き取って良いですか?」
「構わないとも。何かあったらまた連絡してくれ。此方も何かあったら連絡するから」
楠木は保育器ごと子供を引き取った。
子供は後に楠木によって愛情深く育てられ、凄まじい速度で急成長。
その間に数多の知識を身に付け、何と15歳にして大学院卒業レベルの知識と学力を身に付ける。
18になった頃、彼は外出時の衣装を盛大に買い換える。
その鱗に覆われた肌を隠すために、砂漠地帯での活動を目的として作られた作業着を購入。
独自の体型に合わせるため自ら様々な改造を施し、伸び縮みする尻尾の鞘も作り上げる。
更にその異形面を隠すために、顔面をすっぽりと覆い隠す漆黒の防毒面を購入。
素顔を覚られないよう目の位置にある樹脂を赤い偏光プラスチックに組み替え、装着したままでも食餌に困らないよう特殊な細工を施した。
そして、21の春。
突如莫大な遺産と四大陸各地の別荘を残し失踪した母・楠木雅子の置き手紙を読んだ彼は、世界各地をマタに駆ける運送屋として活動を開始する。
彼は後に、その黒尽くめの服装と人を逸したシルエット、常軌を逸した言動や怪しげな動きから、『砂漠の魔物』として人々から気持ち悪がられる事となる。
その子供の名は、スキンク。
トカゲの遺伝子を持つが故に、楠木雅子が名付けた名前。
それは、砂漠で生き残りひっそり栄える者の名。
勝てる相手に挑み、勝てない相手は勝てるようにする。
それか、最初から戦わずして切り抜けようとする。
虎のように何時も猛々しい訳でもなければ、象のように勇猛果敢なわけでもない。
ましてや鰐のような獰猛さや、猛禽のような気高さを持っているわけでもない。
だからと言って、鮫のように冷徹な訳でもない。
そんなトカゲの名を持つ男。
それが、スキンクなのだ。
―現在―
アストライア艦長ノイウェル・フォン・アルハルトに拾われたスキンクは、書庫を管理する司書として雇われる。
心身共に異形であった彼だったが、アストライアが元々奇人変人の集まりであったことからさして差別される訳でも無く、寧ろ打ち解けていった。
異形児スキンク。
悪魔のような目的のために産み出された彼であるがしかし、その生きる先は、すこぶる明るい。
まるでトカゲが毎朝日光浴を欠かさないが如く、彼の視線は、常に彼なりの光を向いているのである。