後日談 不本意な恋慕
リオがアニエスの呪いを書き換えてから、ひと月ほどが過ぎていた。
アニエスはリオに深く心を動かされ、以来、暇さえあれば彼のことを考え、名前を呼ばれれば胸を高鳴らせ、夜ごと見つめ合う…………という事は一切無かった。
少なくとも、アニエス本人はそのつもりだった。
アニエスは、あの時のリオの「愛している」という言葉を、封印し、頭から排除した。
そうしないと、絶えずそのことばかり考えてしまいそうだから。
そもそも彼女は日々忙しかった。
数百年ぶりに人間らしい身体を得たというのは、聞こえだけなら大変結構なことのように思えるが、実際には厄介事の連続だ。
朝になれば目が覚める。
昼になれば腹が減る。
夜になれば眠くなる。
熱いものに触れれば熱いし、冷たい床を歩けば冷たい。
雨が降れば頭や手足が妙に重く、ベッドで丸くなれば、今度は腰が痛い。
不老不死の魔女と恐れられた者としては、あまりにも情けない。
おまけに、その情けない様子を逐一リオに見られる。
これは由々しき問題だった。
「アニエス」
「何」
「朝食です」
「いらないわ」
「昨日の夕食も半分しか召し上がっていません」
「食べたくなったら食べる」
「食べたくなるまで待っていたら、また倒れます」
「倒れていないわ」
「昨日、廊下で座り込んでいました」
「あれは座っただけよ」
「床に?」
「床がそこにあったからよ」
リオは、こういう時にまったく笑わない。
笑えば、馬鹿にしたのかと責め、師を笑うとはいい度胸ね、と冷たく言える。
しかし彼は笑わない。
真面目な顔で、湯気の立っている器を差し出す。
「少しでいいので」
「あなた、最近ずいぶん命令口調ね」
「お願いです」
「同じよ」
「では、命令にします」
「誰に向かって」
「あなたにです」
アニエスは目を細めた。かつてなら、こんな生意気な口は一睨みで黙らせていた。
だが今や、アニエスはあらゆる意味でリオに敵わなくなってしまっていた。
拾った頃のリオは、骨と憎しみだけで出来たような子供だった。こちらを睨む目ばかりが強く、身体は細く、無理に剣を振ればすぐに倒れそうだった。
それがどうだ。
今は、背も伸びた。肩も広くなった。
魔力の扱いも、剣の腕も、もう並の者では相手にならない。
ましてや、普通の人間に戻り、魔力もほとんど失ったアニエスなど簡単に捻り潰されてしまいそうだ。
リオはただ立って、こちらを見下ろしている。
実に不愉快。
師を見下ろす弟子など、教育上よろしくない。
「アニエス」
「……何」
「冷めます」
「分かっているわ」
仕方なく匙を取る。
口に運ぶと、温かい。
細かくした野菜を入れて柔らかく煮込んだお粥だった。
胃に負担がないように作られている。味は薄いが、悪くない。むしろ、悔しいことに美味しく感じる。
「どうですか」
「普通」
「よかった」
「普通と言ったのよ」
「残さず食べられそうですね」
「あなた、本当に話を聞かないわね」
そう言いながら、アニエスはもう一口食べた。
リオが少しだけ目を和ませる。
その顔を見て、アニエスは不意に胸の奥が落ち着かなくなった。
馬鹿馬鹿しい。
粥を食べただけで何をそんなに嬉しそうな目をするのか。
こちとら数百年を生きた魔女なのに。
幼子じゃあるまいし、粥の一杯や二杯食べたからと褒められる筋合いはない。
そう思うのに。
リオが呪いを書き換えたことについて、アニエスはまだリオを許していなかった。
当然だ。
彼は約束を破った。
自分を殺すために育てられたくせに、いざその時が来たら殺せないと言い出した。
それどころか、師であるアニエスに、傲慢で、勝手で、独占欲のような術をかけた。
最悪だ。師への裏切りだ。
「あなた、私に恨まれても仕方ないことをした自覚はあるの?」
ある日、アニエスはそう尋ねた。
薬草を干すため、二人で屋敷の屋上にいた時のことだ。
リオは籠を持ったまま、静かに答えた。
「あります」
「なら、少しは悔いなさい」
「悔いています」
その返事は早かった。
アニエスは少し拍子抜けした。
「……そう」
「あなたの望みを奪ったことは、悔いています」
少し間をおいて、リオは言った。
「でも、あなたを生かしたことは後悔していません」
北風が吹いた。
干しかけの薬草がかさかさと揺れる。
アニエスはしばらく黙っていた。
何か言い返すべきだった。
最低よ、とか。傲慢だわ、とか。誰が頼んだというの、とか。
言える言葉はいくらでもあった。
けれど、そのどれもが喉の手前で止まった。
リオの顔が、あまりに真剣だったからだ。
アニエスはようやく声を出した。
「何百年も死にたがっていた女よ」
「知ってます」
「人を救おうとして神に呪われて、その後何もかも諦めていた魔女よ」
「知ってます」
「あなたを道具にした」
「ええ」
「あなたに、私を終わらせようとした」
「それも知ってます」
「なら、」
リオは籠を置いた。
そして、まっすぐにアニエスを見た。
「それでも、あなたに生きていてほしいと思ったんです」
本当に、この男は厄介だった。
こちらが踏み石として置いた言葉を、ことごとく踏み越えてくる。
師ならば、怒鳴って、突き放して、そんなことを言うなと命じるべきなのに。
しかし、アニエスは自分から目を逸らしてしまった。
これ以上追求すると、またリオが「あの」言葉を言いかねない、と思ったのだ。
それは、とても、まずい。
アニエスが無かったことにした「あの」言葉。
「……自分勝手よ」
「はい」
「肯定しないで」
「すみません」
「何でも謝ればいいと思っているでしょう」
「いいえ」
「では何」
「あなたが怒っていると、安心します」
「は?」
「元気そうなので」
アニエスは、思わず手にしていた薬草をリオの胸に投げつけた。
リオは避けなかった。
乾いた葉が彼の服に当たって、ぱらぱらと落ちる。
「避けなさいよ」
「言われていません」
「今言ったわ!」
「では次から」
「次があると思っているの?」
「あります」
その即答が、アニエスの胸に刺さった。
次がある。
数百年間、次などなかった。
終わらない時間。変わらない孤独。ただ過ぎていくものを眺めるだけの、永遠。
けれど、リオは次があると口にする。
アニエスは言葉を失い、少し泣きそうになった。
人間の身体になって最も困ったのは、眠りだった。
眠い。
これは実に不可解な現象だ。
つい先ほどまで本を読んでいたはずなのに、気付くと文字が滲む。
術式の計算をしていたはずなのに、同じ行を三度も読み返している。
気に入らないので目をこすれば、リオがすぐにやってくる。
「眠いのでは」
「違うわ」
「目を閉じかけていましたよ」
「考え事していたの」
「本を逆さに持っています」
「こういう読み方もあるのよ」
「ありません」
生意気だ。本当に生意気だ。
だが、リオはそれ以上言い争わず、アニエスの手から本を抜き取る。
「返しなさい」
「明日返します」
「今読みたいの」
「今は寝る時間です」
「誰が決めたの」
「身体です」
「私の身体はそんなこと決めていないわ」
「……」
黙って、リオは毛布を持ってきた。
勝手に。
アニエスはカウチの端に座ったまま、彼を睨んだ。
「あなた、自分が何をしているか分かっているの?」
「毛布を掛けようとしてます」
「そういうことではないわ」
「では?」
「私はあなたの師よ」
「ええ」
「その私に向かって、寝ろだの食べろだの、休めだの」
「言っていますね」
「立場を弁えなさい」
リオは少し考えた。
そして、真面目な顔で言った。
「今は、僕の方があなたの体調を把握できています」
「……」
「立場としては、看病する者とされる者です」
「……」
「ですので、寝てください」
アニエスは近くにあったクッションを投げつけた。
今度は、リオは避けた。
「避けたわね」
「避けろと言われたので」
「当てるつもりだったのよ!」
「では避けて正解でした」
「生意気ね!」
アニエスが怒鳴ると、リオの頬が少しだけ上がった。
リオは、そのまま毛布でアニエスを包み、そっと持ち上げた。
ベッドの上へ、丁寧に降ろされる。
「……眠ったら」
アニエスは小さく言った。
「目が覚めないかもしれない」
リオの表情が変わった。
先ほどまでの淡々とした顔ではない。
怖いほど真剣な顔だった。
「起こします」
「簡単に言わないで」
「簡単ではありません」
「眠ったまま、何も聞こえないかも」
「聞こえるまで呼びます」
「それでも駄目なら?」
リオは黙った。
アニエスは、少しだけ意地悪な気持ちになった。
答えられまい、と思ったのだ。
死にたいと言い続けた女が、眠ることを怖がっている。その矛盾に、彼も困ればいいと思った。
ところがリオは、静かにベッドの横に膝をついた。
そして、アニエスの手を取った。
「あなたが眠っている間、僕が見ています」
「……ずっと?」
「ずっと」
「退屈よ」
「慣れています」
「嘘」
「嘘ではありません」
その言葉は、あまりに愚かだ。
合理的ではない。
何の保証にもならない。
それなのに。
アニエスはリオの手を振り払えなかった。
「だから、眠ってください」
アニエスはしばらく彼を睨んでいたが、やがて負けたように目を閉じた。
リオは、無言でアニエスの手を少し強く握った。
温かい。
腹立たしいほど温かい。
その温かさに意識がほどけていく。
眠ってしまう。
まずい、と思った。
まだ、彼のしていることを許していない。のに。
「アニエス」
低い声で名前を呼ばれた。
「おやすみなさい」
その声を最後に、アニエスは眠った。
目が覚めた時には、朝になっていた。
最初に見えたのは、窓から差す淡い光だった。
次に、自分の手を握る大きな手。
最後に、ベッドの脇に座って、こちらを見ているリオの顔。
「……本当にいたの」
声が掠れた。
「はい」
「一晩中?」
「ええ」
「眠らなかったの?」
「あなたが眠っていたので」
「意味が分からないわ」
「見ていたかったんです」
「何を」
「あなたが、ちゃんと朝を迎えるところを」
アニエスは、返す言葉を失った。
リオは疲れた顔をしていた。目の下に薄い影がある。
でも、どこか安心したような表情をしている。
まるで、世界で一番大切な仕事を終えた後のように。
人間なら誰でもしていること。
朝になれば目を覚ます。
それだけのことだ。
それなのに、リオはそれを奇跡のように見ている。
そしてアニエスは、その目から逃げられなかった。
「……リオ」
「はい」
「手」
リオが、握っていた手を見下ろした。
「離しますか」
その問いに、アニエスは一瞬黙った。
離せ、と言えばいい。
昨日の夜は怖かったから仕方なく握らせていただけ。朝になったから用はない。そう言えばいい。
言えるはずだった。
「……まだいいわ」
言ってから、アニエスは自分で驚いた。
リオも少し目を見開いた。
その顔を見て、アニエスは慌てて続けた。
「手が冷えているのよ」
「僕の手が?」
「私の手よ」
「温めます」
「……そういうところが生意気なの!」
リオは少しだけ笑った。
リオに腹を立てたからだろう。アニエスの胸はうるさいほど高鳴っていた。
これは病かもしれない。
人間の身体に戻った弊害で、心臓の動きがおかしくなっているのかもしれない。
リオの声を聞くと胸が苦しくなる。手を握られると落ち着く。
彼が離れようとすると不愉快になる。
彼が笑うと、もっと不愉快になる。
特に最後が問題で、不愉快なはずなのに、むしろ、もう一度見たいと思ってしまう。
この病は重症だ。
それから、アニエスはリオを避けた。
理由は単純で、リオと顔を合わせたくなかったからだ。
リオの顔を見ると、朝のことを思い出す。
一晩中見つめられていたこと。
手を握られていたこと。
自分の言動がおかしくなっていたこと。
冷静になろうと魔術書を開いても、文字が頭に入らない。
薬草を刻んでも、同じ草を何度も刻んで無駄にする。
茶を淹れれば、茶葉を入れ忘れる。
これはかなりまずい。
天才魔女として名を馳せたアニエスが、たかがひとりの男のせいで茶もまともに淹れられないなど、あってはならないことだ。
「アニエス」
背後から声がした。
アニエスは肩を跳ねさせた。
「……何」
「探しました」
「私は逃げていないわ」
「隠れてはいました」
「黙りなさい」
「はい」
リオは素直に黙った。
それもまた腹立たしい。
「何の用」
「夕食です」
「いらない」
「朝も昼も少ししか食べていません」
「あなた、すぐ食べろ食べろとうるさいわ」
「必要なことを言っているだけです」
「余計なお世話よ」
リオは盆を持っていた。
温かいスープと、柔らかいパン。
その横に、蜂蜜を塗った焼き菓子がひとつ。
アニエスは横目でそれを見て、眉を寄せた。
「何これ」
「甘いものなら、少しは食べるかと」
「子供扱い?」
「いいえ」
「では何」
「あなたが好きそうだったので」
リオは本当に、こういうところがよくない。
こちらの小さな好みを覚えている。
蜂蜜が多めの紅茶。柔らかく煮た野菜。酸味の少ない果実。固すぎないパン。
何も言っていない。少なくとも、言った覚えはない。
それなのに、彼は知っている。
「……あなた、昔からそうだったわね」
「何がですか」
「人の顔色を見るのが上手かった」
「生きるために必要でした」
その答えに、アニエスは少しだけ黙った。
「リオ」
「はい」
「あなた、私を恨んでいないの?」
リオは少し驚いた顔をして、静かに言った。
「恨んでいました」
その言葉に、アニエスの胸が痛んだ。
「でも、今は違います」
「……どう違うの」
「あなたが僕をどう使うつもりだったとしても、僕はあなたに拾われて、生きることができました」
「それは、」
「あなたが治してくれた傷があります」
「……」
「あなたが教えてくれた術があります」
「……」
「あなたが僕の名前を呼んだ日があります」
アニエスは顔を上げた。
リオは、穏やかにこちらを見ていた。
「それを全部、なかったことにはできません」
胸が、更に締め付けられた。
「あなたは本当に」
「はい」
「本当に、残酷ね」
「そうかもしれません」
「私は、あなたに憎まれていた方が楽だった」
リオは黙った。
「恨まれて、罵られて、最後に殺される。それなら分かりやすかったのに」
「すみません」
「謝るの禁止」
「……はい」
「あなたが謝ると、私が悪者みたいでしょう」
少し間をおいて、
「…………違うんですか?」
と言って、リオはニヤッと笑った。
それを見て、アニエスも何だかおかしくなって、少し笑いながら言った。
「本当に生意気!」
「あなたが育てました」
「それを言うのも禁止」
「では、何と言えば」
「何も言わなくていいわ」
リオは持っていた盆を置いた。
そして、アニエスの前に焼き菓子を差し出した。
「食べてください」
「話を変えたわね」
「あなたは考えすぎると食べなくなるので」
「知ったような口を」
「知っています」
その声が、あまりに自然だった。
知っています。
そう言えるほど、長い間リオは私を見ていたのだ。
アニエスは焼き菓子を受け取った。
蜂蜜の香りがした。
一口かじる。
甘かった。
「……甘い」
「嫌いですか」
「嫌いとは言っていないわ」
「では、よかった」
リオは笑った。
アニエスは、もう避けられなかった。
リオの笑顔が胸に落ちてくる。
認めたくなかった。
こんなものは恋ではない。
ただ、長く一緒にいた相手に対する情だ。
拾った子供が大人になったことへの感慨だ。
自分を生かそうとする愚か者への、呆れと諦めだ。
そう思い込もうとしていたのに。
夜になった。
アニエスはベッドに入っていた。
リオは椅子を持ってきて、ベッドの横に座っている。
「毎晩そこに座るつもり?」
「必要なら」
「必要ないわ」
「では、あなたが眠るまで」
「それも必要ない」
「では、僕がここにいたいので」
アニエスは沈黙した。
最近、リオはこういう言い方を覚えた。
こちらのためです、と言えば拒まれると分かっている。
だから、自分がしたいだけです、と言う。
卑怯だ。実に卑怯だ。
「リオ」
「はい」
「あなた、昔より性格が悪くなったわ」
「あなたに育てられました」
「禁止と言ったでしょう」
「すみません」
「謝らない」
「はい」
同じ会話を何度繰り返しているのか分からない。
しかし、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、同じようなやり取りが続くことに、妙な安心を覚えている。
今日も同じ。明日もたぶん同じ。
リオが名前を呼び、アニエスが文句を言い、
彼が謝り、こちらが謝るなと言う。
それが続く。
続いてほしい。
そう思ってしまった瞬間、アニエスは固まった。
続いてほしい。
今、自分はそう思った。
終わりではなく。続きがほしいと。
アニエスは目を閉じた。
「アニエス」
「何」
「明日、庭に出ませんか」
「唐突ね」
「花が咲いていました」
「私は花を愛でる趣味などないわ」
「知っています」
「なら何故誘うの」
「あなたに、朝の庭を見てほしいと思ったので」
「勝手ね」
「はい」
「私は行くと言っていない」
「ええ」
「……天気が良ければね」
リオが少し笑った気配がした。
見なくても分かった。
アニエスは目を閉じたまま、眉を寄せる。
「嬉しそうにしないで」
「すみません」
「謝らない」
「はい」
眠気が来る。
怖い。
まだ少し怖い。
けれど、人間の体に戻った直後ほどではない。
リオが側にいるから。
「リオ」
「明日、起きたら」
「はい」
「最初に私の名前を呼びなさい」
リオはしばらく黙った。
それから、静かに答えた。
「必ず」
「あと」
「はい」
「庭に行くかどうかは、私が決める」
「もちろんです」
「あなたが勝手に嬉しそうにするのも禁止」
「それは難しいです」
「努力しなさい」
「はい」
アニエスは眠りに落ちる直前、思った。
本当に腹立たしい男だ。
でも、朝、目覚めた時、彼がいなかったら。
もう、それを想像するだけで胸が冷える。
ああ。
そうか。
アニエスは、眠りに沈みながらようやく認めた。
私は、この子が好きなのだ。
拾った子供としてではない。
弟子としてでもない。
私を殺すための道具としてでもない。
リオという、ひとりの男が。
腹立たしくて。
生意気で。
私を死なせてくれなかった、最低の男が。
どうしようもなく、好きなのだ。
翌朝。
アニエスは目を覚ました。
そして、目を開ける前に声を聞いた。
「アニエス」
低く、静かで、少しだけ安堵を含んだ声。
「朝です」
アニエスは目を開けた。
そこにリオがいた。
約束通り。
腹立たしいほど当然のように。
「……いたのね」
「はい」
「名前も呼んだ」
「はい」
「庭は?」
「晴れています」
「そう」
アニエスはしばらく黙った。
リオが待っている。
いつものように。
急かさず、答えを奪わず、ただ待っている。
まったく、どこまでも手強い。
この男は、こちらが負けを認めるまで何年でも待つつもりなのだろう。
そう思うと腹が立った。
腹が立ったが、少し笑ってしまう。
「リオ」
「はい」
「手を貸しなさい」
「はい」
リオが手を差し出す。
アニエスはその手を取った。
温かい。
「転ぶと困るからよ」
「はい」
「勘違いしないで」
「しません」
「嬉しそうにしない」
「難しいです」
「努力しなさいと言ったでしょう」
「しています」
「足りないわ」
そんなことを言いながら、アニエスは立ち上がった。
足元はまだ少し頼りない。
人間の身体は、本当に不便で厄介だ。
けれど、その不便さの先に朝がある。庭がある。リオがいる。
「アニエス」
「何」
「おはようございます」
アニエスは、顔を背けた。
「……おはよう」
それだけ言うのに、ひどく時間がかかった。
リオは何も言わなかった。
ただ、手を離さなかった。
それでよかった。
アニエスも、離さなかった。
今はまだ、好きだとは言わない。
愛しているなど、もっと言わない。
言えばきっと、この男は一生忘れないような顔をする。
それは癪だ。非常に癪だ。
だから、まだ言わない。
けれど。
庭へ向かう廊下を歩きながら、アニエスは小さく思った。
明日も、名前を呼ばれたい。
明後日も。
アニエスは、握った手にほんの少し力を込めた。
リオがそれに気づいて、こちらを見る。
「何」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「嬉しいなと」
「……もういいわ」
そう言って、アニエスは前を向いた。
頬が熱いのは、朝日が差しているせいだ。
心臓がうるさいのは、人間の身体に戻ったばかりだからだ。
手を離したくないのは、転ぶと困るからだ。
全部、理由はある。
だからこれは、そういうことにしておく。
少なくとも、今日のところは。




