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雨が降ったらまた会いましょう

作者: 犬候

 昇降口の前までやって来たところで、雨の匂いを感じた。

 靴に足を突っ込んで、一歩外に出たところで音を聞いた。

 校舎の屋根の上で、熱いアスファルトの上で、落下した水滴が大げさな音を立てるのを聞いた。

 初めは様子を見るように、そして後には畳みかけるように、音はあっという間にあたりを包み込む。眼前の光景は、ほんのひとときだけ黒ずんで、終いには白く霞んだ。

 夕立……ではないだろう。あまりに暑い日が続いたので、すっかり忘れていたのだが――梅雨は未だ、明けてはいなかったのだ。

「……」

 雨は嫌いではない。特にこのような豪雨ともなれば、年甲斐もなく心が躍るというものだ。

 一旦校舎内に取って返し、傘立ての中から、一本の安っぽいビニール傘を引き抜く。再度玄関に向き直ると、先程までとは打って変わって、涼しい――冷たいとすら感じられる風が吹き込んできた。

 ……さ、帰ろう。


 ねずみ色の空から、まるでそれが義務であるかのような平坦さで、雨粒が落ちる。

 雨足は強い。

 建物の上で、地面で、そこかしこで爆ぜた雨粒のせいで、辺り一面は白く煙り、まるで――

 まるで世界が、深い水の底に沈んでしまったかのように感じられる。

 ……遠くに、紫陽花の紫が見えた。


 校門をくぐったときには、すでに靴の中は床上浸水、上着もズボンも時間の問題という有様だった。これはこれで、開き直ってさえしまえば、別段不快ということはないのだが……しかし家に帰ってからのことを考えると、少しばかり面倒ではあった。

 珍しく車が一台も見当たらない通りの、信号のない横断歩道を横断する。あとは、この道に沿って歩くだけだ。晴天であれば何のこともない、短い直線道路が、雨のせいでなまじ遠くを見通せないせいで、酷く長いものであるように感じられた。

 主観時間で平時の数倍の時が経過した後、俺はバス停の待合所に辿り着いた。そのまま、軒下に逃げ込む。

 一息ついて、やれやれと思いながら傘を畳みかけたとき、俺は軒下の隅のほうに先客がいたことに気付いた。同年代くらいの、制服姿の少女。凛とした立ち姿が印象的だった。バスを待っているのか……或いは暫時の雨宿りだろうか。しかし屋根があるとはいってもこの雨だ、そんなところに立っていては濡れるだろうと思いはしたが、まあ余計な世話だろう。俺は黙って傘を畳むと、薄暗い待合所に潜り込んだ。

 

 この待合所というのは非常に古いもので、建て付けこそそう悪くはないものの、間口がかなり狭い。そのため中に入り込むには、背をかがめ、文字通り潜り込まなければならなかった。

 さて、敷居を跨ぎ越えると、信じられないことなのだが、中は土間のようになっていた。俺は土の匂いを嗅ぎながら小屋の奥に進み、壁際に設置された、これまた木製のベンチに腰掛けた。足元の地面、乾いた土の上には、いくつものアリジゴクの巣がある。数分くらいの間、俺はそれを眺めていた。


 それからどれくらい経ったか、バスの警笛の音が聞こえた。アリジゴクの巣を踏まないようにして小屋を出ると、少女は先刻と同じところに立っていた。

 やがて、バスが俺と少女の前に静かに――これは雨のせいだ――滑り込んでくる。空気の抜けるような音がして、バスの扉が開いた。小走りに乗り込み、ピンク色の筋が入った乗車券に触れたところで、俺は先刻の少女が後からついてきていないことに気付いた。

 ……ここは相当に深刻なローカル線である。一時間に一本来るか来ないかのバスを見送る客など見たことも聞いたこともないから、つまりあの少女は、単に雨宿りをしているだけなのだろう。……或いは、誰かの迎えを待っているのか。

「……」

 ま、良い。そんなのは多分、余計な世話だ。

「……運転手さん、三十秒待って」 

 まあ、多分。余計な世話なのだろうが。




 それから数日経った、放課後。

 今にも降り出しそうな空だと思いながら歩いていたら、本当に降り出した。

 俺は携えていたこうもり傘を開く。

 はじめは静かに、だんだんと激しく……結局、いつぞやのような激しい雨になった。学校を出た途端に降り出すとは、ついていないとはこのことだろうか。まあ、今更慌てても仕方がない。俺はゆっくりと、あのときのように待合所を目指した。


 別段何事もなく、バス停に到着する。傘を畳んで、待合所に一歩踏み込んだところで、俺はそこに先客がいたことに気付いた。

 あのときの、少女。

「あ」

 ……と声を出したのはどちらが先だったか。ま、同時といえば同時。

「……こんにちは」

 他に言う言葉も見付からず、俺はほとんど反射的にそう言った。

「こんにちは。この前は、ありがとうございました」

「いや何、困った時はお互い様だって、うちのばあちゃんが言ってたよ」

 少女は、少し笑った。 

「今日は傘、あるんだね」

「はい。今日は朝から降りそうでしたから……」

「あー……そうだね。あの日は急に降ってきたからなあ」

「夕立ちみたいでしたね」

「そうだね」

 今日にしたところで、降り方自体は夕立みたいだったが。

「……準備、良いんですね」

「ん。いやね、そんな良いものじゃあないんだよ。この前は運良く、学校に置き忘れた傘が残ってただけ」

「そうですか」

 そんなやりとりをして、俺たちはベンチに掛けた。


「文芸部なんだ」

「はい。……といっても、部員は私ひとりだけなんです」

「え、ひとり?」

「はい。去年まではもう一人いたんですけど……転校してしまって」

「ああ、なるほど」

「だからというわけではないんですけど、……決めたんです」

 そこで少女は、いたずらっぽく笑った。俺はそれが気になって、先を促す。

「決めた?」

「はい。雨の日は、サボタージュの日です」

「ああ」

 俺たちは、少しの間笑い合った。

 ……そうしてまた、遠くで警笛が鳴るのを聞いた。


 やがて、バスが俺と少女の前に静かに――これは雨のせいだ――滑り込んでくる。

 バスは、しばらくバス停の前で立ち止まり、そしてまた走り出した。




「今の、乗らなくて良かったの?」

 バス停の待合室の奥で、俺は傍らの少女に尋ねた。

「はい、私はバス通学ではないので。すぐそこなんですよ、私の家。……あなたは?」

「うん。俺もね、歩きだよ。歩いて……そうだなあ、ここから十五分くらいかな」

 少女が少し不思議そうにしていたので、俺は付け加える。

「この前はね、駅前の本屋に用があってさ」

「文新堂ですか?」

「そう、文新堂」

「じゃあ入れ違いでしたね。あのとき、私は文新堂に行ってきた帰りだったんですよ」

「ああ、そうなんだ」

 二人で笑う。

 ねずみ色の空から、まるでそれが義務であるかのような平坦さで、雨粒が落ちる。

 雨足は強い。

 建物の上で、地面で、そこかしこで爆ぜた雨粒のせいで、辺り一面は白く煙り、まるで――

 まるでこの小さな待合所が、深い水の底に沈んでしまったかのように感じられた。

「……今日は」 

 何となく、確信のようなものはあったのだが。

「会えるかなあと思ってさ」

「……会えました、ね」

「そうだね」

 道の向かい側で、紫陽花が咲いてた。

 雨は未だ、止まない。

「天気予報、見ましたか?」

「うん。またしばらく雨だってね」

「雨、降るといいですね」

「そうだね」


「さて」

 二本目のバスを見送ったところで、俺は立ち上がった。

「そろそろ暗くなってくる頃だし、帰ろうか」

「……そうですね」

 俺は先に立って、待合所を出た。外の様子は、来た時と何も変わらないように見えた。違っているところといえば、軒下に二人分の濡れた足跡があることくらいだろうか。

 俺は傘を開く。続いて、少女の傘も開く。

「じゃ、またね」

「はい。それではまた」





『雨が降ったら、また会いましょう』

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