終章:君と越える、フィニッシュライン
一年後。
俺はスクーデリア・アズーリのチーフストラテジストに昇格していた。俺の戦略ルームには最新のAIシミュレーターと並んで、凛が見つけ出してくれた古い手書きのノートが大切に置かれている。
俺の戦略はデータと人間の物語を融合させた新しいスタイルとして、F1界に静かな革命を起こしていた。他チームも俺たちの手法を真似しようとしているが、単純にデータを集めるだけでは本質は掴めない。重要なのは数字の向こうにある人間の心を理解することだった。
もう俺は107%という数字にはこだわらない。俺たちが目指すのはその数字の向こう側にある、まだ誰も見たことのない景色だ。
凛はFUJIYAMAモータースの社史編纂室を退職した。そして今はフリーのスポーツヒストリアンとして、世界中のサーキットを俺と共に旅している。
彼女がチームのウェブサイトで連載しているコラム『ピットレーンの時間旅行』は、データだけでは語られないレースの人間ドラマを描き出し、多くのファンの心を掴んでいた。
F1の技術は日々進歩している。現在のマシンは1000馬力を超えるパワーを持ち、最高速度は時速350kmに達する。だが技術がいくら進歩しても、それを扱う人間の心は変わらない。恐怖も勇気も、40年前と同じだ。
あるオフシーズンの冬の午後、俺たちはマラネッロのあのルカのバルで穏やかな時間を過ごしていた。暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。
「ねえ蓮さん」
凛が俺の淹れたエスプレッソを飲みながら言った。
「次のシーズンが終わったら、少し休みを取って二人で日本の古いサーキットでも巡ってみませんか? あなたのお父さんが最初に走った場所とか」
「……悪くないな」
俺は微笑んだ。
「……俺たちの新しいラップタイムをそこに刻みに行くか」
俺たちの時間はもうコンマ1秒では測れない。それは父から俺へ、そしてまだ見ぬ未来へと続いていく、どこまでも豊かで温かい時間の流れの中にあった。
二人で越えるべきフィニッシュラインはまだずっと先にある。そしてその旅路はきっと最高にエキサイティングなものになるだろう。
窓の向こうではイタリアの夕日が静かに沈んでいく。俺たちの物語はまだ始まったばかりだ。
(了)