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第三章:父のゴースト・ラップ

 運命の舞台はベルギーのスパ・フランコルシャン。全長7.004km、世界有数の超高速コースで、同時に「スパ・ウェザー」と呼ばれる予測不能な天候を持つ伝説のサーキット。


 アルデンヌの森に囲まれたこのサーキットは、標高差100mを超える起伏に富んだレイアウトで、コースの一部が雨でも別の部分は晴れているという現象が頻繁に起こる。そのため気象予測が極めて困難で、戦略が勝敗を分ける代表的なサーキットとして知られている。


 決勝レースの終盤、俺たちのマシンは2位を走行していた。トップとの差は僅か8秒。その時、空が泣き出した。予報にはなかった激しい雨。路面は見る見るうちにウェットコンディションへと変わっていく。


「全チーム、ピットイン! フルウェットタイヤに交換だ!」


 ピットが一斉に慌ただしくなる。AI『KRONOS』も当然のように同じ選択を推奨していた。だが俺は動かなかった。


 俺の目の前にはモニターのデータと、そして凛が見つけ出してくれた父の古い手書きのノートが開かれていた。そのノートの最後のページに父はこう書き遺していた。


『――我々の仕事はマシンを速くすることじゃない。ドライバーを信じさせることだ。彼がマシンを、タイヤを、そして我々ピットを100%信頼してくれた時、マシンは初めてその魂を見せる』


 俺はインカムのスイッチを入れた。俺の声は不思議なほど落ち着いていた。


「――マルコ。ドライバーに伝えろ……ピットインはしない。このままステイアウトだ」


「何だと!? 蓮、お前正気か! スリックタイヤでこの雨の中を走れるわけがないだろう! 自殺行為だ!」


「……いや。タイヤは交換する……だがフルウェットじゃない……インターミディエイト(小雨用)だ」


 ガレージが凍りついた。それはデータ上はあり得ない愚策中の愚策だった。溝の浅いインターミディエイトでは、この豪雨の路面を捉えきれるはずがない。


 フルウェットタイヤの溝の深さは約17mm、水はけ量は1秒間に85リットル。対してインターミディエイトは溝の深さ約10mm、水はけ量は約40リットル。この雨量の差は致命的だった。


 だが俺には確信があった。


 気象レーダーを詳細に分析した結果、この雨は約5分で弱まる。その時、他チームがオーバースペックのフルウェットで苦しんでいる間に、俺たちだけが最適なグリップを得られる。


「……凛さん……頼む」


 俺は隣に立つ凛に言った。


「……ドライバーに君の言葉で伝えてくれ……俺の父親の物語を」


 凛は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに全てを察して頷いた。彼女はインカムを手に取ると、ドライバーに静かに語り始めた。


 ある無名の日本人エンジニアがかつてこのチームにいたこと。彼がどんな哲学を持ってタイヤを作っていたか。そして、その息子が今、このピットで彼と同じ夢を見ていること。


 ドライバーは黙って聞いていた。そして彼は一言だけ答えた。


「……わかった……レンを信じる」


 ピットイン。メカニックたちが神業的な速さでインターミディエイトタイヤに交換する。わずか2.3秒。マシンがコースに復帰していく。それはチームの歴史の全てを賭けた大ギャンブルだった。


 そして奇跡は起きた。俺の予測通り雨がほんの少しだけ弱まったのだ。他のチームがフルウェットタイヤにパフォーマンスを食われている間に、俺たちのマシンだけがまるで水面を滑るように驚異的なペースでライバルたちを次々と抜き去っていく。


 最終ラップ。俺はモニターのラップタイムを見て息を呑んだ。そのタイムは俺のAIが予測していた理論上の最適値「107%」をさらに上回っていた。


 1分43秒422。


 あり得ない数値。それはまるで死んだはずの父が息子のマシンを後ろからそっと押してくれているような。父の魂が時を超えて刻んだ幻のゴースト・ラップ。


 チェッカーフラッグ。大逆転優勝。ガレージが今まで聞いたこともないような歓喜と興奮に包まれた。


 だが俺はその輪の中に入っていかなかった。俺は凛を探していた。彼女はピットの一番隅で一人静かに涙を流していた。その涙はあまりにも美しかった。


「……九条さん」


「……橘さん……おめでとうございます……あなた……いえ、あなたたち親子の勝利です」


「……あなたのおかげだ。あなたが俺に教えてくれた……俺たちはコンマ1秒の世界に生きているんじゃない……もっとずっと長い時間の流れの、その最先端に立っているだけなんだって」


 俺は初めて彼女の名前を呼んだ。


「……凛さん……俺のこの107%の不器用な人生に……あなたのその百年の物語を……加えてはくれませんか?」


 それは完璧主義者の俺が初めて口にした、完璧とはほど遠いノイズだらけの告白だった。凛は涙で濡れた顔のまま最高の笑顔で、そして深く頷いた。


 シャンパンの甘い香りが俺たち二人を優しく包み込んでいた。



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