第二章:107%の壁
父の物語を知ってから俺の世界は静かに、だが確実に軋み始めていた。俺はスランプに陥っていた。
AI『KRONOS』が弾き出す完璧なはずのシミュレーションと現実のレース結果の間に、僅かな、しかし致命的な「ズレ」が生じ始めていたのだ。特にウェットコンディションでのタイヤ摩耗が予測よりも常に数パーセント速い。その僅かな誤差がレース終盤の戦略の全てを狂わせる。
現代のF1タイヤは、ピレリ社が供給する3種類のドライタイヤ(ハード、ミディアム、ソフト)と、2種類のウェットタイヤ(インターミディエイト、フルウェット)で構成されている。それぞれのコンパウンドは路面温度、気温、湿度によって全く異なる性能特性を示す。
俺のAIはそれらの変数を完璧に計算できるはずだった。だが何かが欠けている。
俺は寝る間も惜しんでデータを見直した。だが原因がわからない。俺のロジックの中に答えはなかった。焦りと苛立ち。俺はピットガレージで一人モニターを睨みつけていた。
そんな俺の元に凛が一杯の熱いエスプレッソを持ってきてくれた。彼女はルカのバルでエスプレッソの淹れ方を教わったのだという。
「……少し休んではいかがですか? どんな精密な機械でもオーバーヒートしてしまっては性能を発揮できません」
彼女の穏やかな声が張り詰めていた俺の神経を少しだけ緩ませる。しかし俺のプライドがその優しさを素直に受け入れることを拒んだ。
「……君には関係ない」
俺は素直になれずにそう言い放った。だが凛は俺の拒絶に傷ついた様子を見せることなく、静かに、しかしきっぱりと言った。
「いいえ、関係あります」
その時の彼女の表情には今まで見たことのない強さがあった。
「……ルカさんから聞きました。あなたのお父様が最後に開発していたあのレインタイヤのこと……彼はただ速いタイヤを作ろうとしていたのではないと。どんなに過酷な雨の中でもドライバーの命を絶対に守り抜くという哲学を持っていたと」
彼女は一枚の古いテストレポートのコピーを俺の前に置いた。そこにはタイヤのグリップ力や摩耗率といった物理的なデータと並んで、全く異質な項目が手書きで記録されていた。
『ドライバーの心拍数』
『精神的負荷レベル(自己申告)』
『マシンとの一体感(シンクロ率)』
俺ははっとした。俺が今までノイズとして排除してきたもの。ドライバーの「感覚」や「信頼」といった数値化できない人間的な揺らぎ。父はその揺らぎこそがマシンの真のパフォーマンスを引き出す鍵だと気づいていたのだ。
「……データは何が起きたかを教えてくれます」
凛は続けた。
「でもなぜそうなったのか、という理由の部分はこういう言葉や物語の中にしか書かれていないんです」
そうだ。俺はずっとHowとWhat(何を)ばかりを追い求めてきた。だが一番大事なWhyを見失っていた。
俺のAIは計算できない。ドライバーの恐怖を。そして勇気を。マシンへの絶対的な信頼を。コーナーを攻める時の一瞬の迷いを。
現代のF1では、ドライバーの生体情報をリアルタイムで監視することは技術的に可能だが、FIAの規定により戦略目的での使用は制限されている。だが1970年代の父は既にその重要性に気づいていた。
俺が超えられずにいた107%の壁の正体。それは俺自身が作り出していた人間性を拒絶する心の壁だったのかもしれない。
俺は初めて凛に頭を下げた。
「……九条さん……教えてほしい。俺の父親の……その物語の続きを」
凛は初めて俺に柔らかく微笑んだ。その笑顔には勝利の喜びではなく、純粋な安堵の感情が込められていた。まるで長い間行方不明だった人を見つけた時のような。
その日から俺と凛の奇妙な共同作業が始まった。彼女は歴史学者として父の物語を掘り起こし、俺はエンジニアとしてその物語の中に隠された技術的なヒントを探し出す。
過去と現在。アナログとデジタル。二つの異なる世界が一つの目的に向かってゆっくりと融合していく。
凛はルカへのインタビューを重ねる中で、衝撃的な事実にたどり着いた。父の事故の原因はタイヤの構造的欠陥などではなかった。ライバルチームによる妨害工作の可能性が極めて高いというのだ。
当時のF1界は現在ほど厳格な監視体制が整っておらず、技術的スパイ活動やサボタージュが暗黙の了解として存在していた。父の革新的なタイヤ技術を脅威と感じたライバルチームが、テスト走行前夜にタイヤに細工を施した可能性があった。
だが当時、経営難だったチームは、そのスキャンダルを隠蔽するために父一人の責任として全てを闇に葬った。
「……許せない」
俺の身体が怒りで震えた。40年以上前の出来事とはいえ、父の名誉を貶めた者たちへの憤りが込み上げてくる。
だが凛は俺の手をそっと握った。その手は驚くほど温かく、そして強かった。
「……橘さん、あなたが今すべきことは復讐ではありません……お父様のその哲学を……彼の物語を現代のサーキットで証明してみせること……それこそが最高の弔いになるのではありませんか?」
彼女のその温かい手の感触が俺の荒れ狂う感情を静かに鎮めてくれた。俺は決意した。次のレースで全てを賭けよう、と。父の哲学と俺の科学を融合させた全く新しい戦略で。
その夜、俺たちは遅くまでルカのバルで父の資料を調べ続けた。ルカは時折、当時の思い出を語ってくれる。
「アキラはな……技術者である前に人間だった。彼はいつも言っていたんだ。『タイヤは単なるゴムの塊じゃない。ドライバーの命を預かる生き物なんだ』って」
その言葉が俺の心に深く刻まれた。俺は今まで何を追い求めていたのだろう。完璧な数字か、それとも人間の安全と幸福か。