第一章:アーカイブの亡霊
彼女は、チームのメインスポンサーである日本の自動車メーカー「FUJIYAMAモータース」の社史編纂室から派遣されてきた歴史学者だという。俺がレース後のデブリーフィングを行っている戦略ルームに、彼女は何のアポイントもなく現れた。
「橘蓮さんですね。私、九条と申します。チームの輝かしい歴史についてお話をお伺いしたいと思いまして」
彼女は穏やかで知的な佇まいだった。肩にかかる黒髪、知性的な眼鏡の奥の澄んだ瞳。だが俺にとってそれはレースの神聖な時間を邪魔するただの侵入者でしかなかった。
「見ての通り忙しい。それに俺はエンジニアだ。歴史家じゃない」
俺は彼女に視線も合わせずに冷たく言い放った。心の中で俺は思っていた——また一人、レースを美化された物語として消費したがる部外者が現れた、と。
「ええ、存じております。ですが橘さん、あなたはこのチームの未来を作っている方です。未来を語るためには、まず過去を知る必要があると私は考えています」
彼女の声には不思議な説得力があった。それは単なる好奇心ではなく、もっと深い信念に基づいている響きだった。
「過去のデータに意味はない。コンディションは常に変化する。F1は常に今、この瞬間が全てだ……お引き取りを」
俺たちの最初の会話はそこで終わった。彼女という非合理で非効率なノイズを俺は完全にシャットアウトしたはずだった。
だがその時の彼女の少し寂しそうな、しかし決して諦めてはいない強い瞳が、なぜか俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。まるで俺の内側にある何かを見透かしているような、そんな眼差しだった。
九条凛というノイズは俺の警告を完全に無視した。彼女は翌日から、まるでガレージの古い備品の一部であるかのように、ごく自然にそこに存在し始めた。
俺たちの邪魔にならないよう隅の方で、静かに、しかし鋭い観察者の目でピット作業の全てを見つめている。時には小さなノートに何かを熱心に書き留めながら。
その視線が俺を苛立たせた。俺たちの仕事は見世物ではない。コンマ1秒を削り出すための科学と技術の結晶だ。それを感傷的な物語に仕立て上げようとする彼女の存在そのものが俺には我慢ならなかった。
しかし俺が気づかないところで、凛は興味深い行動を取っていた。彼女は単なる見学者ではなかった。
彼女はメカニックたちと流暢なイタリア語で会話を交わし、時には彼らの作業を手伝うことすらあった。古いタイヤを運んだり、工具を整理したり。そんな彼女の姿を見てメカニックたちは次第に心を開いていく。
「あの日本の女の子、なかなかやるじゃないか」
「ああ、昨日なんかルカの昔話に3時間も付き合ってくれたよ」
「真面目で礼儀正しいし、悪くないな」
俺の知らないところで、凛はチームの人間関係の中に静かに溶け込んでいたのだ。
だが凛は俺にまとわりつくのを諦めると、別のアプローチを開始した。彼女が次に向かったのは、ファクトリーの地下にある埃をかぶった古い記録庫だった。
そこはAI『KRONOS』のデータベースにまだ取り込まれていないアナログな情報の墓場だ。手書きのレースレポート、青焼きの設計図、色褪せた写真のネガフィルム。俺たちエンジニアにとってはもはや何の価値もない過去の遺物。
しかし凛はその墓場で、まるでトレジャーハンターのように目を輝かせていた。彼女は白い手袋をはめ、一枚一枚丁寧に資料をめくっていく。
その姿は俺の理解の範疇を完全に超えていた。なぜこの女はこんな非効率な作業に時間を費やすことができるのだろう。答えはデータの中に全てあるというのに。
しかし俺が知らなかったのは、凛がオーラルヒストリー——人々の記憶の中に眠る物語を聞き出す専門家でもあったということだ。彼女にとって過去は単なる情報の集合ではなく、生きた人間たちの感情と思いが織りなすタペストリーだった。
そんなある日、凛が俺の元に一枚の黄ばんだ設計図のコピーを持ってきた。
「橘さん、少しだけお時間をいただけますか? これについて何かご存知ないかと思いまして」
それは1970年代の古いレインタイヤの設計図だった。
「……知らないな。こんな古い時代のものには興味がない」
俺は一瞥しただけで突き返そうとした。だが凛の次の言葉が俺の動きを止めた。
「ですが……このサインに見覚えはありませんか?」
凛が指差した設計図の右下の署名欄。そこには流麗な筆記体で『Akira. T』と記されていた。
橘、アキラ。俺の父親の名前だった。
俺の心臓が大きく跳ねた。まるで冷たい水の中に突然放り込まれたような衝撃が全身を駆け抜ける。俺の父親は俺が物心つく前に、自動車のテスト走行中の事故で亡くなった。母からはただ「車が好きでイタリアに渡った夢追い人だった」としか聞かされていなかった。
彼がかつてこのスクーデリア・アズーリに所属していた無名の日本人エンジニアだったとは全く知らなかった。
「……どうしてこれを」
俺の声は掠れていた。長年封印してきた感情の扉が軋みながら開こうとしている。
「……チームの古い人事記録の中にお父様の名前を見つけました。そして彼がこの幻のレインタイヤの開発に関わっていたことも」
幻のレインタイヤ?
凛は語り始めた。彼女がこの数週間でアーカイブの亡霊となって掘り起こした一つの物語を。
1970年代、チームは深刻な経営難に陥っていた。当時のF1界はまだ現在ほど商業化されておらず、多くのチームが資金不足に苦しんでいた。そんな中、当時チーフメカニックだった若き日のルカ・ベリーニと、チームにテストドライバー兼見習いエンジニアとして所属していた俺の父・橘アキラが、たった二人で秘密裏に新しいレインタイヤの開発を進めていたのだという。
それは当時の常識を覆す革新的な技術だった。タイヤのコンパウンド(ゴムの配合)に特殊な親水性ポリマーを練り込むことで排水性を極限まで高める。現代のウェットタイヤの基礎となるサイプ(細い溝)の概念を40年以上も前に実用化しようとしていたのだ。
「ですが、そのタイヤは一度もレースで使われることなく歴史の闇に葬り去られていました」
凛の声が少し震えた。
「なぜなら最後のテスト走行で悲劇が起きたからです。あなたのお父様が自らステアリングを握り、雨のイモラ・サーキットを走っていた……そして彼は帰ってこなかった」
事故の原因はタイヤの構造的欠陥とされた。プロジェクトは中止。そして彼の存在そのものがチームの歴史から静かに抹消された。
俺は言葉を失っていた。胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。俺の父親はただの夢追い人などではなかった。彼はこの場所で俺と同じようにコンマ1秒の世界で戦っていたのだ。そしてその夢の途中で翼が折れた。
俺が今まで避け続けてきた「なぜ俺はF1エンジニアになったのか」という問いの答えが、ゆっくりと姿を現し始めていた。
その夜俺は眠れなかった。頭の中で凛の言葉が何度も反響する。俺は初めて自分のルーツと向き合っていた。そして同時に強い疑問が湧き上がっていた。
凛はどうやってここまで詳細な情報を掘り起こしたのだろう。古い資料だけでは不可能なはずだ。そこには記録されていない生々しい物語があった。
翌日俺は凛を探した。彼女はガレージの近くにある一軒の小さなバルにいた。カウンターの中には白髪の好々爺然とした老人がエスプレッソを淹れている。そして凛はその老人とまるで旧知の友人のように親しげに語り合っていた。
「……ルカさん、あの時のアキラさんの最後の言葉……もう一度聞かせてもらえませんか?」
ルカ。その名前を俺は知っていた。ルカ・ベリーニ。あの伝説の元チーフメカニック。そして俺の父親の唯一のパートナーだった男。
ルカは俺の存在に気づくと少しだけ驚いた顔をして、そして全てを悟ったように優しく微笑んだ。
「……やあ蓮……大きくなったな……君のその目はアキラにそっくりだ」
凛はただ静かに俺を見つめていた。彼女は俺がノイズとして切り捨ててきた人間の感情の奥深くにあるアーカイブにアクセスしていたのだ。
俺の完璧なデジタルの世界が、彼女という人間的な温かみを持った存在によって少しずつ侵食されていくのを、俺はどうすることもできずにいた。