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序章:0.1秒のチェスゲーム


 俺の世界は数字でできている。


 路面温度42.3度、湿度38%、タイヤ内圧21.8psi。その数字の羅列が俺にとってはどんな美しい風景画よりも雄弁に世界の真実を語っていた。データこそが全て。感情という名のノイズを排除した時、初めて物理法則の純粋な美しさが見えてくる。


 イタリア、モンツァ・サーキット。伝説のティフォシたちがフェラーリの赤に染まったスタンドを揺らす中、俺、橘蓮たちばなれんは、ピットガレージの奥深く、無数のモニターが明滅する「戦略ルーム」という名の聖域で、ヘッドセットを装着し目を閉じていた。


 轟音も熱狂もここには届かない。ここにあるのはマシンからリアルタイムで送られてくる膨大なテレメトリーデータと、AIシミュレーター『KRONOSクロノス』が弾き出す冷徹な確率論だけだ。


 F1はもはや選ばれた天才ドライバーの感性だけで戦う時代ではない。現代のF1は1台のマシンから毎秒約300万個のデータポイントが送信され、レース中には50GB以上の情報が収集される。それらのビッグデータをリアルタイムで解析し、気温1度、湿度1%の変化すら計算に入れて最適解を導き出すチェスゲームなのだ。


 そして俺の仕事は、そのゲームの最も重要な駒——タイヤ——を完璧に支配すること。


 タイヤの性能を物理的な限界である100%ではなく、あらゆる変数を計算し尽くした理論上の最適値「107%」で常に引き出すこと。人間の曖昧な感情や予測不能な直感という「バグ」を徹底的に排除し、物理法則と確率論だけでレースを支配する。


 それが名門「スクーデリア・アズーリ」の日本人タイヤエンジニアである俺のプライドであり、存在意義だった。


 しかし同時に、俺はその完璧さの中に奇妙な孤独感を感じていた。まるでガラスの箱の中に閉じ込められているような。数字は嘘をつかないが、数字だけでは説明できない「何か」があることを、俺は薄々感じ始めていたのだ。


「――レン、聞こえるか。タイヤ温度が予測より0.8度低い。AIの推奨はピットインを1周早めるだ。どうする?」


 インカムからチーフストラテジストのマルコの焦燥感が滲む声が聞こえる。俺は目を開けた。モニターには数万通りのシミュレーション結果がグラフとなって表示されている。だが俺はそれを見ずに答えた。


「……いや。ステイアウトだ。あと2周引っ張る」


「何!? AIの予測に逆らう気か!」


「AIは計算に入れていない……この路面に刻まれた過去のレースのタイヤ痕、ゴムの粒子がこの周回からグリップ力を0.2%上昇させるという変数を」


 それは俺が過去の膨大なデータを自らの手で解析し、導き出したAIのアルゴリズムにはまだ組み込まれていない最後の人間的な領域。タイヤのラバーレイダウン効果——走行を重ねるごとにタイヤから削り取られたゴムが路面に堆積し、グリップが向上する現象の予測だった。


 結果、俺の判断は正しかった。マシンは驚異的なペースでライバルを引き離し、チェッカーフラッグを受けた。


 ガレージが歓喜に沸く。だが俺はヘッドセットを外すと、誰とも目を合わせずに自分のラップトップを閉じた。勝利は当然の結果だ。俺の計算通りに事が運んだというだけの確認作業に過ぎない。


 それなのに、なぜだろう。胸の奥に空虚感がぽっかりと穴を開けていた。まるで重要な何かを見落としているような……。


 そんな俺のデジタルで完璧に完結した聖域に、ある日全く予測不能なノイズが混入することになった。そのノイズは一人の日本人女性の姿をしていた。


 九条凛くじょうりん。それが彼女の名前だった。


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