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黒龍に呼ばれたのは、選ばれなかった妹でした

作者: 桜塚あお華

読んでいただきありがとうございます。

このお話は別サイト、ノベマで2025年6月25日にあやかしファンタジーのランキングで1位になったお話です。

よろしくお願いいたします。


 この国には龍がいる――空を翔け、大地を揺らし、神々にさえ頭を垂れさせる存在だという。

 けれど、火見(ひのみ)家の次女として生まれた久遠(くおん)にとって、龍とは物語の中でしか出会えぬ、遠い夢のようなものだった。


   ▽

 


 姉の千早(ちはや)は、霊の気に満ちた空気をまとう少女だった。

 幼い頃から龍の気配を感じ、祝詞を口ずさめば、風が舞い、鳥が鳴く。

 人々は口を揃えて『巫女に選ばれるのは、あの子しかいない』と毎日のようにささやいた。


 久遠もまた、火見家に生まれたが――けれど、誰も彼女に龍の血を見出さなかった。

 礼儀を教えられることも、舞を学ぶ機会もなく、姉の陰で静かに息を潜めて育った。

 その『静けさ』こそが、彼女に許された存在意義のようにさえ感じられていた。


 ある日の夕暮れ、久遠は屋敷の廊下に膝をつき、柱の陰に身を隠していた。

 姉が通ると知らされていたからだ。


「久遠様、頭をお下げください」


 付き添いの侍女が声をかけ、そっと背を押す。

 床板に額をつける瞬間、久遠の胸の内に、小さな痛みが走った。

 けれど、それを表に出すことはできない。

 火見家の娘である以上、その感情すらも余計なものとされるから。

 足音が近づき、そして通り過ぎる。

 白足袋の先、金糸の裾、結い上げられた髪。

 姉は今日も美しく、完璧だった。


「……また掃除、忘れたの?」


 廊下の向こうから、淡く響く声が聞こえる。

 久遠が顔を上げると、千早が振り返っていた。表情には笑みが浮かんでいる。

 けれど、その目の奥には冷たい硝子のような光があった。


「申し訳ありません。今日中に終わらせるつもりでした」


 久遠が丁寧に頭を下げると、千早はわずかに眉を上げた。


「龍の加護を持たぬ者は、せめて勤めだけは果たさないと」


 声音は柔らかいのに、その言葉は鋭く、突き刺さるようだった。


 久遠はうなずき、声を返すことなく頭を下げ直す。

 反論する理由も、立場もなかった。

 火見家では、千早が『陽』で、久遠は『影』だった。

 それは、当たり前のように染みついた役割。だれもが、それを疑わなかったのである。


 その夜、久遠はひとりで裏山へと足を運んでいた。

 神域――龍の魂が眠るとされる封印の地へ。

 本来ならば、火見家の者すら無断では入ることを禁じられた場所だった。

 けれど、風の流れが、空の匂いが、胸の奥で揺れる何かが、彼女を静かに誘っていた。

 月は細く、空は澄んでいた。

 木々の間を縫うように歩き、祠の前へと立つ。

 そこには誰もいないはずだった。

 それでも、久遠には『何か』が確かにそこにいると感じられた。


 ――目覚めよ。


「え……」


 声とも思念ともつかぬ響きが、風の音に重なる。

 祠の扉が、わずかにきしんだ。

 その音に久遠の肩が震える。けれど、逃げ出す足は動かなかった。


 ――影に生きし者よ。拒まれし者よ。それでもなお、応じし者よ。

 ――我が契りを望むか?

 

 胸の奥が熱い。

 焼けるような痛み――けれどそれは、なぜか懐かしさを帯びているように感じた久遠は小さく、かすかに首を縦に振った。


「……あなたの声が……わかる」


 次の瞬間、光が弾け、闇の中に、一条の黒い輝きが奔り、風が逆巻いた。

 木々が揺れ、大地が微かに震える。

 久遠の体を、何か大きなものが貫いたような気がした。


 その時、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。


「久遠――!」


 鋭い声が響き、駆けてきたのは、千早だった。

 祠の前に立つ妹の姿を見た姉の目が、大きく見開かれる。


「なにを……呪いを受けたの!?龍に触れるなんて……っ」


 久遠の姿には、微かな霊紋の光が滲んでいた。

 それを見た千早の顔が、怒りと恐怖とでゆがむ。


「姉さま……あなたには、聞こえなかったの?」


 久遠が静かに問いかけると、千早の顔から色が消える。


「黙りなさい……呪われた娘が、巫女の真似事を……っ」


 けれど、久遠は何も言い返さない。

 祠の奥に漂う気配は、まだ静かに彼女の背を押していた。

 ここにいてはいけない。

 影のままでは、きっとこの声すらも奪われてしまう。

 久遠はそっと目を伏せ、くるりと背を向けた。


「もう戻らないわ。……わたしは、わたしのために歩く」


 その言葉だけを残して、久遠は闇の山道へと消えていく。

 月が、雲の切れ間から彼女の背中を照らしていた。



   ▽



 夜の山道は、想像よりも険しく、久遠は燃えるような胸の痛みを抱えたまま、細い足取りで、冷たい地を踏みしめていた。

 背中で何かが脈打っている。祠で交わした『契り』が、彼女の身体の奥で、静かに目を覚ましつつあるのだ。

 けれど、痛みよりも強かったのは、言葉にできぬ不思議な温かさだった。

 ――自分は今、確かに選ばれたのだ。

 生まれて初めてそう感じた。


 しかし、その確信も長くは保てなかった。


 数十歩も歩かぬうちに、足元が崩れた。小石を踏み外し、転げ落ちるように斜面を滑り、久遠は下草の茂みに倒れ込んだ。

 肩に痛みが走り、意識が遠のいていく中で、月が空で滲み、風の音が静かに聞こえる。


「――久遠」


 誰かが、彼女の名を呼んだ気がした。


 

    ▽

 


 目を覚ましたとき、久遠は藁の香りに包まれていた。

 薄暗い木造の小屋の中。簡素だが清潔な布団の上に寝かされており、右の肩には、薬草の湿布が当てられていた。


「起きたか」


 扉の向こうから、男の声がした。


 ゆっくりと首を向けると、青年が一人、戸口に立っていた。

 漆黒の装束に身を包み、顔立ちは鋭いが、どこか儚げな静けさを纏っている――そして、彼の手には、まだ湯気の立つ茶椀があった。


「……あなたが……?」


 久遠がか細く声を出すと、青年は一歩、彼女のそばへと近づいた。


「お前が神域から落ちたと聞いて、迎えに行った。お前の身体には……奇妙な霊気が残っていた」


 彼はそう言って、茶椀をそっと久遠の枕元に置く。

 久遠はその視線の鋭さに、身をこわばらせた。

 だが、青年はすぐに視線を外し、静かに息を吐いた。


「……名を朔真(さくま)という。火見家には属していないが、龍を護る一族の末裔だ」


 彼の言葉には、わずかな警戒と――それ以上に、困惑が滲んでいた。


 

「黒龍に、呼ばれたのか?」


 

 その問いに、久遠は胸に手を当て、小さくうなずいた。


「声が……聞こえたんです。あの祠で。確かに……わたしを、選ぶと」

「黒龍が、選んだ?」


 朔真の眉がわずかに動く。


 龍神の加護を得る者は、選ばれた者。

 だがそれは、本来、火見家の正統たる者――つまり姉・千早であるはずなのに、黒龍が久遠を選んだという事実は、この国の巫女制度に揺らぎをもたらしかねない。


「どうして……私なんかを、龍は……」


 思わず漏らした問いに、朔真はしばらく答えなかった。

 ただ、火を見つめるように、久遠の目をじっと見返していた。


「お前の気は……静かすぎるほど、澄んでいた」

「……え?」

「それは、満たされぬ静寂。龍はその奥にある想いを感じ取ったのだろう」


 それは、久遠自身すら気づかぬほどに、長く深く沈んでいたモノで――久遠はずっと、姉の『影』として生きてきた。

 しかしその中で、何も諦めてはおらず、ただ、自分の場を、声を、まだ見つけられずにいただけだった。


「……じゃあ……わたし……巫女に……なれるの……?」


 つぶやくような声に、朔真はわずかに笑った。


「なれるかではない。もう、選ばれたのだ……ただし、その力を制御できねば、いずれ自身を壊す」


 久遠は目を伏せ、小さく息を吐いた。

 身体の中に、黒龍の気配がまだ確かにある。

 それは、熱でも冷たさでもない。言葉にできない、『大きな存在』だった。


「……教えてくれますか? わたしが、何をすればいいか」

「……ああ。お前が望むのなら、力の扱いを教えよう」


 朔真の声は、どこまでも静かだった。

 その静けさが、久遠にはなにより安心だった。

 火の揺らぎが、二人の間を照らす。

 久遠は目を閉じ、小さく拳を握った。

 もう、誰かの影にいるだけではいられない――この力は、確かに自分の中にある。

 黒龍が、そう告げてくれたのだから。


 夜は深まっていた。

 けれど、久遠の胸の奥には、かすかな光が灯っていた。


   ▽




 その日、都は朝から清めの霧に包まれていた。

 春の大祭『霊祀(れいし)』が執り行われる日。王城の内庭には幾重もの白布が張られ、選ばれし巫女が、龍へと五穀の実りと民の安寧を祈る――

 それは、火見家が代々担ってきた最も重要な儀式のひとつであった。


 今、その舞台の中心に立つのは、長女・千早(ちはや)

 金糸で縫われた神衣が風に揺れ、白粉の肌が日差しに淡く照らされ、彼女の一挙手一投足は、誰の目にも優雅で、完璧に見えた。


 けれど、舞が始まった瞬間。

 

 白砂を敷き詰めた神域の中心――その足元に、細く深い亀裂が走った。


 風が止み、鳥の声が遠ざかる。

 空を覆う雲が、音もなく垂れこめていく。

 千早は、舞の型を保ちながらもわずかに膝を緊張させた。

 装束の袖がひとつ、乱れ、整えたはずの微笑は、気づかぬうちに消えていた。

 舞の終わりを告げる鈴の音が鳴った時、空気はどこか、乾いたように冷えていた。

 誰もが、確かに感じている。


 ――何かが、ほんの少し、噛み合っていない。


 「……巫女様の霊脈が、鈍いのでは?」

 「あれでは、龍が応じぬ。まるで、どこか別の……」

 「火見家も、もう終わりかしら?」


 声を潜めたささやきが、観客席の奥から漏れ、それが波紋のように広がり、辺りの空気をざらつかせる。

 千早の耳にも、その言葉は届いていた。

 髪飾りを外す手がふと止まり、鏡越しに映る自分の瞳を、じっと見つめる。


 あれほど修練を積み、完璧を保ち続けてきたのに、なぜ――龍は自分に応えてくれないのか。


 記憶の底で、妹の久遠(くおん)の顔が浮かぶ。

 久遠――母の違うあの娘。

 力のない、影のような存在だったはずの妹。

 けれど、噂がある。

 黒龍が封じられた神域で、彼女が何かを『得た』という噂。

 久遠が黒龍と契りを交わしたなどという、まさか――千早は思わず身震いする。


「……久遠……」


 声に出した瞬間、千早の指先がかすかに震えた。

 焦りが、胸をきつく締めつける。


 

   ▽



 そのころ、山奥の小屋では、久遠が朔真の導きで霊力の基本を学んでいた。


「霊力とは、力そのものではない」


 朔真はそう言って、掌をひらりと開く。


「それは、世界との響きだ。心の静けさがなければ、龍はお前に応えない」


 その掌から、黒く細い光がふわりと立ち上がった。

 風の気配に似たやわらかな揺らぎ、久遠は目を凝らしながら、それを見つめた。


「怒りや恐れで無理に扱えば、龍は暴れる。……そして、扱う者自身を蝕む」

「……姉さまは、ずっと堂々と力を使っていました」

「彼女は元々、『与えられた力』を借りているにすぎない」


 朔真の声は淡々としていたが、その奥には確かな違和感と批判があった。


「だが、お前は……『呼ばれた』んだ。龍とお前の間に、確かな契りがある」

「それは、ただ与えられる力とは違う。お前自身が、望まれている」


 久遠は、静かに視線を落とす。

 胸の奥にいつもある黒龍の気配は、確かにここにあり――それは熱くも冷たくもなく、ただ静かで深い。

 まるで、底の知れない湖、自分の中にそんな場所があるとは、想像したこともなかった。


「……怖いです」


 ぽつりと漏らした言葉に、朔真はふと顔を向けた。


「でも、それ以上に……確かなんです……『黒龍』が、私の声を聴いてくれている気がするんです。姉さまの声よりも、ずっと……」


 沈黙が落ちる。

 朔真はその言葉を否定も肯定もせず、ただ湯を注ぎ、その穏やかな所作に、久遠はふと肩の力を抜いた。


   

    ▽


 

 一方、王城では、千早が火見家の長老たちと向かい合っていた。


「霊祭の失敗は看過できぬ」

「巫女としての在り方を、改めて問い直さねばならぬ」

「このままでは、火見家の名も危うい」


 厳しい言葉の応酬に、千早は頭を下げて答える。

 けれどその心は静まり返るどころか、かき乱されていた。

 なぜ、こんなにも危うくなってしまったのか?

 あれほど完璧であったはずの舞も、姿勢も、声も、何ひとつ乱してはいないはずだった。

 それなのに――千早の頭に、再度妹の久遠の顔が浮かぶ。


「まさか、久遠が……」


 その囁きを誰かが洩らす。


 千早は、その言葉に立ち上がりかけた自分の膝を必死に押さえつけた。

 自室へ戻ると、鏡を見つめたまま、低く吐き捨てる。


「……影の妹が、龍と契りを? そんなもの、誰が信じるものですか」


 けれど、その誰も信じない事が、次第に揺らぎはじめている。


    

    ▽

 


 夜の山の稽古場――久遠は一人、黒龍の気配と向き合っていた。

 両の掌を膝に置き、静かに目を閉じる。

 心の奥へと意識を沈めていく。

 呼吸と、思念と、鼓動が、深くひとつに溶け合う瞬間、ふいに、内から声が響く。


 ――……我が声に、耳を澄ませよ、久遠


 久遠はゆっくりと息を吸い、吐いた。

 龍の気配が、確かにそこにあった。


「姉さまが、わたしを『影』の中に閉じ込めていたのだとしても――わたしは、自分の光を見つけます……」


 その呟きは、誰にも届かなかった。

 けれど、山を吹き抜ける風が、わずかに優しくなったように感じた。

 龍はきっと、孤独に沈んだ声を、誰よりもよく聴いている。

 久遠の歩みは、まだ細く、頼りなかった。

 けれど、それは確かに、真の巫女への道を踏み出した証だった。



    ▽



 都に、異変が起きたのは、黄昏が空を染め始めた。

 王城の東の空に、重く垂れこめた黒雲が湧き上がり、風が巻くようにして一帯を包みはじめる。

 季節外れの冷たい空気が城下を吹き抜け、街の人々は口々に『龍が荒れている』と囁く者が多くなってきている。


 白磁のように冷えた空。

 誰もが何かを察していた――龍が、動いている。

 やがて、龍封の神域に近い村で、霊障が発生した。

 田畑の作物が萎れ、井戸の水が濁る。

 原因は不明、ただ、龍の気が乱れているのは確かだった。


「『龍の巫女』を呼べ!」


 宮中からの急報が火見家に届くと、千早はすぐに神衣をまとい、使い慣れた扇を手に向かった。

 その姿は、誰が見ても立派だった。

 けれど、心の奥では焦りが渦巻いていた。

 何度も祈り、何度も舞ってきた。

 だが、あの黒雲が、自分に応じている気配は、どこにもなかった。

 神域の入り口に立ったとき、千早は空を見上げて、思わず足を止めた。


 龍の気配――それが、自分ではない誰かを求めているように思えたのだ。


    ▽

 


 久遠は、ゆっくりと歩いていた。

 山を下り、村を抜け、城下へと向かうその道は、これまで何度も夢に見た光景だった。

 けれど、今の彼女の足取りに迷いはなく、彼女の近くでは『黒龍』の気配が背中に寄り添っている。

 それは、言葉にはならない力――それでも確かに、久遠の中にあった。


 彼女の姿を見た村人たちは、最初は誰だかわからなかった。

 袖のほころびた旅装束、控えめな立ち居振る舞い、そしてその静かな瞳。

 だが、久遠が手をかざして風の乱れを鎮め、萎れた作物に微かな霊の息を吹き込むのを見たとき、誰かが小さくつぶやいた。


「……巫女?」


 その言葉が、ゆっくりと広がっていく。


    

     ▽

 


 王城の前庭――霊障の中心にある広場に、千早が降り立ったとき、彼女は明らかに動揺していた。


 草木が黒く変色し、空気には不吉な音が混じっていた。

 扇を広げ、祝詞を唱えても、風は逆らうばかりだった。


「……応じなさい。私は、火見家の巫女……あなたたちの主です……!」


 声が震えた。額に汗が滲む。


 その時――周囲の風が、まるで呼吸を止めるかのように静まり返り、そして、城門の奥から、ひとりの少女が姿を現した。

 薄灰の衣に身を包み、長い黒髪を風にたなびかせる少女――久遠だった。


「……久遠……?」


 千早の声が、風にかき消された。

 久遠は何も言わなかった。

 ただ、両の手を前に差し出し、そっと目を閉じる。

 次の瞬間、黒い風が彼女の周囲に舞い、まるで龍がその身に巻きつくようにして光を放った。

 空が震え、木々がざわめき、その場にいた誰もが、息を呑んだ。


「龍が……応えている……!」


 誰かの叫びが広場に響いた。


 千早の視線が、久遠の姿に釘付けになる。

 嘘、ありえない、そんなはずはない――心の中で否定の声が渦を巻く。

 けれど、現実は冷たく正確で――龍は、久遠に応えている。

 巫女としてではなく、『龍に選ばれた者』として。


 

   ▽


 

 その夜、王城では異例の会議が開かれた。

 火見家の巫女としての正当性、そして黒龍と契りを交わした『少女』の正体について、重臣たちの間で議論が飛び交う。


「……龍が応えたのは事実。我らは、もはや目を逸らすことはできぬ」

「だが、あれは……『影』と呼ばれた久遠ではなかったか?」


 重苦しい沈黙――その中で、ひとりの老臣がぽつりと呟いた。


「ならばこそ、龍が選んだのだろう」


 

    ▽


 

 久遠はその夜、城の一室に通された。

 そこには朔真の姿があった。


「よく来たな」


 彼は、そう言ってただ一度、深く頭を下げた。


「黒龍の力は暴れてなどいなかった。ただ、導く者を待っていただけだ」

「……私が、その導き手になれたのなら、嬉しいです」


 久遠の声は震えていたが、芯があった。


「……もう、あの時のように、戻れませんね」

「あの時、お前は決めた時から戻る場所は、最初からなかった……だが、これからは、進む場所ならある」


 朔真の言葉に、久遠はふと微笑んだ。

 その笑みは、小さく、控えめで、それでいて確かな強さをたたえていた。


 ――このとき、彼女の名はまだ正式には呼ばれていなかった。


 『巫女』とも、『契約者』とも。


 けれど、人々の記憶には、あの黒い風と共に舞い降りた姿が、深く刻まれていた。


 影ではない。

 選ばれた者、久遠としての物語が、いまようやく始まったのだ。


   ▽



 翌朝、王城の正殿にて緊急の評議が開かれた。

 夜明けの陽は鈍く、広間の障子越しに射し込む光も、どこか冷たさを帯びている。

 霊障事件――そして、火見久遠(ひのみくおん)による龍の鎮魂。

 この一件はもはや噂の域を超え、宮廷の重職たちの耳にまで届いていた。


 その結果、かつてなき異例の場が設けられることとなった。

 

 『二人の巫女』が並び立つ、真贋を問う裁きの席である。


 白張りの間に、鈴の音が響く。

 端然と並んだ文官と祭官たちが、静かに目を閉じ、裁定の時を待っていた。


 中央に進み出たのは、火見家の長女・千早(ちはや)


 純白の神衣に身を包み、真珠をあしらった髪飾りが、彼女の凛然たる美貌を際立たせていた。

 誰が見ても『理想の巫女』そのもの――ただし、表面だけを見ればの話だ。


 そのすぐ後ろに、ひとりの少女が歩み出る――妹・久遠だった。


 彼女の衣は、粗末とはいかぬまでも、千早に比べれば質素だった。

 けれど、背筋は真っすぐに伸び、指先まで緊張のない所作で整っていた。

 それは、与えられたものではない、自身で得た立ちの『姿』だった。


  

     ▽



「火見千早殿、あなたが王家の巫女としてこれまで多くの儀式を司ってきたことは、記録に明らかである」

「だが、昨夜の霊障において、龍の加護が応じたのは、あなたではなかった」


 年配の官僚の声が、室内に静かに響いた。

 千早は微笑を崩さず、深く一礼する。


「……確かに、霊障は私の祈祷中に治まりました。ですが、それが私でない誰かによるものとは、判断しかねます」


 言葉遣いは丁寧で、声にも迷いはなかった。

 だが、それは事実を認めたくないと言う考えだと、聞く者には映っていた。


「では、龍が応じたというこの者――火見久遠の存在について、どうお考えですか」

「……あの者は、かつて霊力を示すことなく、正統な巫女候補から外された者です……そのような者が、龍と契りを交わすなど……いささか信じ難い話かと」


 ざわ、と静かな波紋が広がった。

 誰もが思っていたことを、あえて口にした――だが、今はそれが『言ってはならないこと』になりつつある空気があった。

 久遠は何も言わない。

 ただ、静かに立ち尽くし、視線を落としたまま木札を取り出した。


 それは、黒龍の霊紋が淡く輝く、契約の証。


 祭官のひとりが、木札を受け取り、慎重に霊視を行った。

 沈黙し、そして――震える声が、告げた。


「これは……確かに、黒龍の直霊による加護……火見久遠殿は、龍と正しく契りを交わしておられます」


 その場にいた全員が、わずかに息を呑んだ。


「……そんな……っ」


 千早の声が、微かに掠れた。

 その顔から血の気が引き、目元に見えないひびが入っていく。


「久遠は……何もできなかったはず……!封じられていたはずなのに……っ」


 その言葉に、会場がざわつく。

 重ねるように、老臣の一人が口を開いた。


「封じられていた……とな?」


 沈黙――千早の唇が動きかけ、言葉が出ない。

 久遠のまなざしが、姉を見つめていた。何の怒りも、軽蔑もなかった。

 ただ、まっすぐに――そのまなざしに千早は耐えられなかった。

 その眼差しは、姉として自分が決して与えようとしなかった『瞳』だったから。



     ▽

 


 調査の結果、かつて火見家内で久遠に対し、不当な処置――霊脈封じの施術が無断で行われていた記録が確認された。

 それは、正統な巫女候補から遠ざけるための手段であり、そして、その命令を出したのが、他ならぬ千早だったことも明るみに出る。


「火見千早。そなたの行為は、巫女の名に泥を塗るもの」

「もはや、王家の龍を託すには相応しくない」


 静かに、そして確かに。

 裁定が下される。


 火見千早、巫女の資格剥奪。火見宗家、しばらくの間、祭職を停止。

 一方――火見久遠、黒龍との契約者として、新たに『暁巫女(ぎょうふじょ)』の位を授与。



     ▽

 



 久遠が暁巫女として王城に迎えられた日、都の空には薄く霞がかかっていた。春の兆しは確かにあったが、風はまだ肌寒く、冬の名残を引きずっていた。

 それでも、都の人々は広場へと集まった。

 誰もが『選ばれし巫女』の姿を一目見ようと、静かに息をひそめていた。

 緋の装束を纏った久遠が、舞台の中央に進み出たとき、場にいた誰もが息をのむ。

 彼女の動きは派手ではなかった。

 それでも、風と音と大地が、彼女に呼応するようにゆっくりと満ちていくのが感じられた。

 その胸元には、黒龍の契りの証が静かに輝いていた。


 鈴の音が一つ。

 そのとき、空を滑るように黒龍の影が現れた。


 雄大で、しかし威圧することなく。

 風が広場をめぐり、花の香りを運び、すべてが静かに祝福へと移っていった。


 誰もが理解した。

 龍が応えたのは、この少女の声だったのだと。


 そして、囁きがひとつ、またひとつと伝わっていく。


 「黒龍が選んだのは、火見家の長女ではない」

 「名も呼ばれなかった『影』の妹だったのだ」と。


  

     ▽



 式が終わり、人の波が引いていったあと、城の裏庭にただひとり立つ久遠の姿があった。

 春を待つ桜の枝はまだ裸木で、けれどその枝先には小さく膨らんだ蕾が見えた。


「……ここまで、来たんですね」


 久遠の声は静かだった。

 けれど、胸の奥には重く澱のように沈んでいたものが、少しずつほどけていく感覚があった。


 ずっと、自分は何者でもなかった。


 霊力がないと言われ、名も立場も与えられず、姉の影として扱われて、誰かの役に立つことでしか、ここにいてよい理由を見出せなかった。

 けれど、黒龍は応えてくれた。

 

 『おまえの声を聞いている』と、確かに言ってくれた。


 その声が、久遠をここまで連れてきたのだ。


「……お前が歩いてきたからだ」


 背後から響いた声に、久遠ははっと振り返る。

 朔真が、そこに立っていた。

 以前と変わらない黒の衣に身を包み、無表情に近い顔で、けれど目だけはまっすぐに彼女を見ていた。


「式を見ていましたか?」

「……見てた」

「どう、でしたか?」


 久遠は、冗談めかした口調で問うた。

 けれどその声はほんの少し、震えていた。

 朔真は答えず、しばらく風に耳を澄ませていた。


「巫女の姿でも、あの山で木を折って転んでたときのままだな」


 思わず久遠は吹き出す。

 それは、緊張が少しだけほどけた証だった。


「朔真さんって、たまにひどいこと言いますね」

「事実だ」


 どちらからともなく笑みが浮かんだ。

 けれど、沈黙のあとの風が通り抜けたとき、久遠はふと声を落とした。


「……怖かったんです」


 そのひと言に、朔真が静かに目を向ける。


「今も、時々思ってしまうんです。私はまだ、『影』のままなんじゃないかって……名前を呼ばれなかった日々が、心に刻まれすぎていて……」


 朔真は答えなかった。

 久遠もそれ以上、何も言わずに、ただ空を仰いだ。


 ふたりの間を、風が一筋通り過ぎた。


 それから、久遠はほんの少しだけ勇気を振り絞って、言った。


「……私、あなたに会いたかったんです……この式が終わったら、真っ先に、朔真さんのところへ行こうって、そう思ってました」


 朔真の目が、ほんのわずかに驚きを見せた。

 けれどその奥には、やわらかなものが灯っていた。


「俺も、お前の声をずっと聞いてた……言葉にしなくても、そばにいるだけで伝わる気がした。でも……それじゃ、足りない気もしていた」


 朔真がゆっくりと近づいてくる。

 久遠の視線が、彼の目を真っ直ぐに捉えた。


「私は……もう、『選ばれる』のを待ちたくない……私から、選びたい。あなたを、選びたいんです」


 その言葉に、朔真の手がそっと久遠の指に触れた。

 その手は温かく、けれど震えていた。

 きっと彼も、同じように迷い、恐れていたのだと、久遠は思った。


「……俺も、そう思っていた」


 ふたりの手が静かに絡む。


 月が、空の高みから光を注いでいた。

 その光の中、黒龍の影がゆっくりと空を巡っていく。


  ――影に咲いた花は、やがて暁を導く


 久遠は、黒龍の声を胸の奥に感じた。

 

(ああ、そうか――私は、もうひとりじゃないんだ)


 『影』として歩んできた日々は、私を消すためのものじゃなかった。

 そこにこそ、私自身があったのだ。


 そして今、その隣に朔真がいる。


「……これからも、そばにいてくれますか?私が影だったことを、忘れずにいてくれますか?」

「忘れない。影だったお前が、俺にとっては最初の“光”だったから」


 ふたりの手は、離れなかった。


 

     ▽

 


 春の風が吹いている。

 桜の枝先には、小さな蕾が、確かに春を待っていた。

 そして夜空には、黒龍の影が静かに輪を描き、月のまわりをひとめぐりする。

 それはまるで、ふたりの未来を祝福するように、やさしく、永く続いていた。

読んでいただきまして、本当にありがとうございます。

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