カラー掌編#C1E4E9『千秋楽の塩』
堂那羽真禎は、ハンガリー出身の力士である。
194cm159kgという屈強な肉体と、東欧人特有の靭やかな筋肉を武器に、これまでとんとん拍子に番付を上げてきた。故郷の街ブダペストを流れるドナウ川と、本名マーテへの当て字が、彼の四股名の由縁である。
瞳と同じ、白藍色のまわしをまとい、堂那羽は花道の後方で汗を拭っていた。10日目の取組で痛めた右肘の靭帯が、サポーターの下で疼いている。
「堂那羽〜!!」
堂那羽がゆっくりと花道を進んでいくと、会場中に割れんばかりの歓声が巻き起こる。
13勝1敗の成績で並ぶ横綱が、最終日の相手である。前の取組が終わり、事実上の優勝決定戦である結びの一番を迎え、観客の熱気はさらにボルテージを上げた。
堂那羽は立ち上がり、静かに土俵に上がった。仕切り線にあわせて両手をつく。すると、何万回と噛みしめた砂の味が、堂那羽の口いっぱいに広がった。
常盤山部屋の稽古は苛烈そのものだった。起き上がる度に右へ左へ何度も投げ倒され、意識の淵で水を浴びせかけられる。泥になった砂が、喉の奥まで貼りついた。そのざらついた感触が、堂那羽の相撲人生全ての記憶だった。
堂那羽には、目の前で蹲う横綱が巨象のように見えた。四肢に閉ざされた彼の懐には、蟻一穴の隙間もない。脱力した筋肉を、究極にまで研ぎ澄まされた意識が支配し、無駄な動きの一切を削ぎ落している。堂那羽はそんな横綱の姿をぐっと見据えた。しかし、相手の視線が堂那羽を捉えることはない。まるでそこには誰も存在していないかのように、横綱は淡々と一連の動作を繰り返していた。
制限時間いっぱい。
堂那羽は塩の前に立った。会場は揺れていた。鳴り止まない拍手の中で、体を反り顔を天井に向けて、堂那羽は少しだけ瞳を閉じた。自らの鼓動の音にだけ耳を傾け、一度大きく息を吐いた。昂る気持ちはないことを確かめ、堂那羽は大きく両眼を見開いた。
右手で塩を握り、素早く土俵に向き直った時、その眼光は鋭さを増していた。




