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縄文的、弥生的、仏教的

 ――聖徳太子の物語を書いてみたい。


 そのように思い立って、3年と半年が経過しました。仏教が日本にやってきたころって、黒船以上のカルチャーショックがあったんだろうなって、漠然と考えていました。聖徳太子を調べることで、その激動の時代を感じることが出来るかもしれない。そんな期待がありました。


 ただ、聖徳太子を調べると言っても、歴史教科書で紹介されているような情報では、何も分かりません。仏教的な世界観と神道的な世界観を比較する必要があると考えました。それなら、古事記と日本書紀の知識も必要です。また、神道的な世界観といっても、キリスト教や仏教のように聖書や経典がありません。かろうじて口伝は残されていますが、歴史的な確証がないので、どこまで信じて良いのか疑問が残ります。


 ていうかそもそもの話、僕の中に歴史観がありませんでした。中学高校では真面目に歴史を勉強していません。日本史や世界史をもう一度勉強しなおす必要がありました。また、そうした史実の知識だけでなく、衣食住といった人間生活に関わる文化的な変遷も知りたかった。手当たり次第に探り始めます。


 そうした勉強の中で、聖徳太子の物語の中で柱にしたい人物に出会います。それが捕鳥部万ととりべのよろずでした。彼は狩人になります。物部守屋の配下として活躍する人物になります。物部守屋は神道的な世界観を守ろうとした人物ですが、よろずは狩人なので思想的な違いがあるのではと思いました。奈良県の大峯山は山岳信仰と仏教が混ざり合い修験道発祥の地になるのですが、今度はこの山岳信仰に興味を持つようになりました。よろずは山岳信仰を体現していたはずだ……と、なかば思い込みで信じるようになりました。


 ――山岳信仰ってなに?


 あまり研究されていない分野なのか文献が少ない。気になるので、昨年から山に登るようになりました。登ったからといって山岳信仰が分かるわけではないのですが、山登りの体験は小説を書く上でネタになるはず……くらいな軽い気持ちでした。


 ――人はなぜ山に登るのだろう?


 そんな疑問を抱えたまま、僕も山に登ります。登りながら、神道的な世界観と山岳信仰的な世界観には大きな違いがあると考えるようになりました。狩人の源流は狩猟採取の縄文人かもしれない。そのように考え始めると、弥生時代の世界観と縄文時代の世界観の違いについて考えるようになりました。その違いについて、これまで述べさせていただきました。この考えが正確かどうかは分かりません。ただ物語を書くにあたって、飛鳥時代の世界観をイメージする必要がありました。現在のところは、三つの思想が混在していると考えています。その思想的な違いについて、縄文的、弥生的、仏教的と分けてみました。


 思想的な違いは、登場人物の行動に影響を与えます。思想的なバックボーンからキャラクターづくりを行いたい。ただ、聖徳太子の物語を書くとなると、多くの登場人物を用意する必要があります。その一人一人に魂を埋め込んでいく作業は、非常に困難な作業になるだろうな~と、今から怯えています。


 この間、スーパーカブに乗って大阪府太子町に行きました。天気が良かったし、桜は咲いていたし、絶好のツーリング日和でした。この辺りは王陵の谷と呼ばれています。何故なら、古墳時代や飛鳥時代に活躍した人物の墓が集まっているからです。訪問した墓を順番にご紹介します。


・高屋築山古墳ー安閑天皇

・軽里大塚古墳ー日本武尊

・誉田御廟山古墳ー応神天皇

・塚穴古墳ー来目皇子

・太子西山古墳ー敏達天皇

・春日向山古墳ー用明天皇

・叡福寺北古墳ー聖徳太子、穴穂部間人皇女、膳部菩岐々美郎女

・山田高塚古墳ー推古天皇、竹田皇子

・二子塚古墳 ー推古天皇、竹田皇子

・小野妹子墓


 僕にとっては、スーパー戦隊大集合って感じです。一日で十のお墓を訪問したわけですが、スーパーカブなので小回りが利きます。また駐車場にも困らない。民家が密集している中、日常に溶け込むようにして古墳があるわけですが、応神天皇の陵墓は、墓というよりも山でした。遠くから良く見えるんですよ。


 そうした古墳ツアーで気付いたことがありました。大和王権の陵墓は、一般的には前方後円墳になります。ただ、塚穴古墳、春日向山古墳、山田高塚古墳、二子塚古墳、叡福寺北古墳は、方墳もしくは双方墳なのです。つまり、蘇我一族の子供たちは前方後円墳ではなかった。勉強はこれからですが、このことに関する考察は、たぶん多いと思います。僕なりにもザックリとはイメージしています。これは蘇我一族の出自を決定づける大きな証拠ではないでしょうか。そんなことを考えるのが楽しい。


 最後は脱線しましたが、今回で縄文の思想を考察する回は終了になります。色々と回り道をしてきましたが、また聖徳太子に関係する勉強を始めたいと思います。

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