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諸行無常

 ――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。


 教科書で紹介されている誰もが知っている平家物語の冒頭になります。平清盛の栄枯盛衰を「諸行無常」という世界観で表現しました。この無常観は、古来より日本人の精神性に強く影響を与えてきました。音の響きはどこか儚げで、悲哀に満ちています。この言葉は、仏法説話「雪山童子」で紹介されました。


 遠い昔、ひとりの童子が悟りを求めて雪山で修行をしていました。そんな童子の前に鬼が現れます。その鬼は不思議な詩を口ずさみました。


 諸行無常 是生滅法


 この鬼の言葉を聞いて童子は驚きました。求めていた悟りの言葉だったからです。鬼に歩み寄り、続きを教えてほしいと懇願しました。空腹だった鬼は、物欲しそうに童子を見つめます。そして言いました。


「お前を食べさせてくれるなら、残りを教えてやってもよい」


 童子は、自分の身を鬼に捧げることを約束します。気を良くした鬼は残りの詩を教えました。


 生滅滅已 寂滅為楽


 童子は詩を聞くなり、近くにあった木にそれらの言葉を刻みました。不思議に思った鬼は童子に問いかけます。


「そちは、何ゆえに詩を刻むのじゃ?」


「私の身は貴方に捧げます。でも、多くの人にこの悟りを知ってもらいたい。だからです」


 詩を刻み終えた童子は木に登りました。エィッとばかりに、鬼に向かって身を投げます。すると、たちまちに鬼の姿が帝釈天に変わりました。童子を受け止め、地面に下ろします。帝釈天は、童子を大いに讃嘆しました。この童子こそが、釈尊の過去世の姿であったというお話になります。さて、童子はこの詩から何を感じたのでしょうか。簡単に解説したいと思います。


 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽


 この世の万物は、変化していくものである。この世に生まれ、そして滅していく。この生滅の理に囚われている己の心を滅することで、悟りに至ることが出来る――意訳。


 諸行無常の意味は理解できます。至極当たり前なことを言っているだけ。この世に変化しないものなどありません。ところがよく考えてみると、僕たちはこの変化によって苦しんでいます。例えば、順調だった輸出がトランプ関税によって売上が下がったら、それは苦しい。トップモデルだったのに老いによって若々しさが失われたら、それは辛い。練習を積んできたのに試合前に病気で出場が出来なかったら、それは悔しい。愛しいわが子が不慮の事故で亡くなってしまったら、それは悲しすぎる。


 でも、そうした変化に対して人類は応戦してきました。秦の始皇帝は、不老不死の薬を徐福に探させます。弥生時代は、食料自給量を増やすために水田稲作が日本列島に広がっていきました。このように変化は避けることが出来ないけれど、抗うことは出来ます。そうした意味では、人類の歴史とは、変化を拒み続けた軌跡と考えても良い。この流れは現代も変わりません。経済的な拡大も、医療の発展も、インフラの構築も、将来的なリスクを回避するために抗ってきたのです。そうした抗ってきた軌跡が、学問や文明でした。


 ただ、変化に対して抵抗することは出来ますが、変化そのものを無くすことは出来ません。抵抗することによって一旦は退けた変化が、次は更なる変化となって襲い掛かってくることもあります。例えば、将来の為に財産を残したけれど、そのことによって子供たちの間で相続争いが起こったとか。画期的な治療薬を開発したのに、それによって副作用を引き起こしてしまったとか。産業が発達して暮らしは豊かになったけれど、それによって環境問題を引き起こしたとか。正義の戦いを起こしたのに、恨みの連鎖が積み重なってしまい戦争が終わらないとか。


 ――変化に対して、抵抗してはいけないのか?


 抵抗する行為自体は、人間の知恵の発露であり、そのことに善悪は無いと考えます。縄文人だって、石斧や黒曜石のナイフ、更には縄文土器を発明することで生活を豊かにしました。水田稲作を日本中に広げていった弥生人は尊敬すべき功労者になります。歴史に名を遺してきた賢人や偉人の偉業は、どれもが変化に抵抗した結果であり賞賛に値します。では、何がいけないのか。それは、程度の問題だと考えます。


 中国の老子の言葉に、「足るを知る」があります。腹八分目でも十分に満足ができるのに、それ以上の贅沢を求めがちなのが人間でした。特に資本主義をベースとした現代社会は、消費させることで経済を回しているので、どうしても物を作りすぎてしまい歯止めがきかない。昨今のSDGsは、そうした大量消費型社会から循環型社会に……と呼びかけていますが、なかなかに難しい。CO2削減の為に電気自動車を作っているのに、その電気自動車が一部では不良在庫として積み上がっているなんて、正に本末転倒です。どうしたら良いのでしょうか。


 僕たちは幸せを計ろうとします。年収、身長、年齢、力量、美醜、地位、最近ではフォロワー数といった尺度を用意して、その多い少ない、強い弱い、高い低いを比べます。そしてより多ければ、より強ければ、より高ければ、それが変化に対しての保険になるので、安心することが出来ました。それが幸せだと考えています。僕が若い頃は、女の子の結婚相手の条件として3高が求められました。高学歴、高身長、高収入になります。現代であっても多少の内容変更があったとしても、より高いものを求める風潮は同じではないでしょうか。世界を賑わしているトランプの関税にしても、貿易赤字を解消するために――出来るかどうかは別として――政策として行われています。トランプは、それがアメリカの延いては国民の幸せになると考えました。しかし、仏教はそれは幸せではないと考えます。


 「生滅滅已」とは、この変化に執着している考え方そのものを滅しなさい、という意味になります。僕たちが幸せと感じていることの多くは、実は相対的な変化量に過ぎない。それは湖面に写る月を見るようなもの。本体である月を見ずに、湖面の月が波に揺れる様子を見て動揺していたのです。では、月とは何か? それは自分の心になります。


 例えば、人から1万円を貰ったとします。この1万円で今夜は飲みに行けると喜ぶ人もいれば、こんな1万円では借金の形にもならないと愚痴る人もいます。この1万円は誰が見ても同じ価値を有していますが、その価値に対して何を感じるのかは、人によって千差万別。仏教は幸福になるために、1万円を更に増やすのではなく、心を育てようとしました。このように「心」について、深く掘り下げた思想が仏教になります。


 諸行無常は、仏教の導入部分の考え方であり、ここを理解しないと仏と神を混同してしまいます。仏は、人格神的な神様ではありません。目指すべき心の境涯を「仏」と表現しました。成仏とは、「仏に成る」なのです。このような思想的な違いを仏教では「内外相対」と表現しました。心の外側の変化で幸福を計るのを「外道」、心の変化で幸福を計るのを「内道」と言います。弥生人が信奉する神は、神の奇跡や功徳を求めるので、仏教的には外道と考えます。


 ただ、お釈迦さんは論理的には「仏」の必要性を説きましたが、この「仏」を求めて様々な仏教が生まれ、分裂していきます。六万法蔵ともいわれる法典の誕生や、上座部仏教から大乗仏教への分裂、また大乗仏教も思想的な違いから様々に分裂していきました。そうした仏教の歴史も面白いのですが、今回のテーマではないので割愛します。というか、僕なんかでは説明できません。


 縄文の思想と言いつつ、最後は仏教のお話になってしまいました。ただ、今回は頭の中が整理できて、個人的にはとても良かったです。次回は、これまでの話を振り返って、今後の展望でも語ってみたいです。

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