アサヒヲ、セニウケテ
◆アサヒヲ、セニウケテ. 斎藤和眞
アレが自室に自分で取り付けた内鍵をかけちゃったんだ。開かねえ。
部屋のドアを叩いた。終いには自分でも惨めな気持ちになるくらい
勢い誤って叩き壊してぇ…もう壊す気になって…叩いて訴えました。
「晴ちゃん、頼む。扉を開けてくれないか? アッちゃんの荷物を
まとめて配送局に届けてもらう手続きがしたい。少しでいいから…」
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
期待を裏切らない。閑却。どこまでもアマテラス気取りの…。
もうすぐ、この心的外傷要員と決別できるのが有難くもある。
寝てると思わない。少し前に洗面所近くで顔を見たんだから。
ゴロ寝はしてるかもな。それとも作文の記述に没頭中なのか。
幾度となく、こいつに殺されてきた。無視とも呼べる、黙殺!
もし、扉の向こうにいるアレと差し向かい合えたのなら
百花繚乱。思いの丈、渾身の力を込めて、何度も何度も
繰り返して、刺し残した箇所なんて見つからないくらい
小刀でも槍でも兎に角、突殺。ハイ、危険な妄想展開中。
ヤらかしたいけど、ヤりません。自制心は逃げてません。
心に居てくれないと罪を犯す、御法度の手綱を握る重鎮。
卒業式の翌日です。天気は薄曇り。まだ朝早い時間であります。
二月に入ってから自室の荷物を少しずつ故郷に送り続けてきました。
明日の午前中、学校の二組級長だった斎藤さんも寄宿舎を離れます。
長期休暇の際、肩に背負うバッグ1つにまで荷物を減らしたんです。
でも、気懸りというか…。一応、無視はできない。元副級長の私物。
アッちゃんの実家、誰も引き取りに来てくれないんです。不思議ィ。
いや、まだ遺されたご家族も動けない心境なのかもしれませんよね。
兄弟の話を聞いた覚えないし、斎藤さんと同じ一人っ子だったかも。
でも、私物…遺品なんだから大事じゃない訳ない…。家族なんだし。
自分がアッちゃんの兄弟や親戚なら、多少の交通費くらい負担しても
勿体無いとは思わない。きっちり受取りに行く。それがケジメの筈だ。
二組は担任自体がアレですから、全員の面倒くらい見ます。意地でも。
寮母の高橋さんが何通か葉書や手紙を出してました。斎藤さんだって
下手なりに弔意を込めた手紙を送りました。現在も思うと…悲しい…。
この十年間、斎藤さんの家族や親類に不幸がなかったのは良かったけど
学校の二組で…尊い命が失われる。姿を消す…学習させてもらいました。
事故だの病気で、いつかどうしても望まなくても死ぬのかよ。キツイな。
遺される側の気持ち…痛いくらい心身に堪えて…思い知ったつもりです。
喉と胸が潰れるような感じ。喉が詰まって、痰が絡む。本当に胸が痛む。
懲役終了。御役御免。無意味な紙切れを頂戴したんだ。無視しても
一向に構わない。そんな気もする。放棄したい。戦争と同じくらい。
だけど、意地でも『斎藤さん』を演じる。帰郷の列車に乗るまでは。
「頼むよ。しつこいと思うけど、少しだけでもドアを開けてほしい」
…………………………。
…………………………。
…………………………。
一旦、諦めます。朝食前だし、食堂へ向かうことにしました。
晴ちゃんは、甘やかし寮母殿にでも運んでもらう気です。
推理しなくても導き出せる次の一手だ。馬鹿らしい。
同室のキヨは…昨日の夕方、迎えの車に乗って…そのまま別れました。
家族というよりも同性の夫婦並みに、お互い知りすぎて嫌になるほど
なのに、居ないと…。また逢える範囲の別離でも…空白感がひでぇ…。
こっちは、一生しつこく手紙を出し続けるつもりだけど
あっちは…竜崎の寧さんとの文通…ずっと続けるのかな?
燃やす、仇討ちと騒いだ雪降る日の出来事、子どもっぽく思い返せる。
下衆な行為か…。向こうにしてみりゃ呆れ果てて当然だ。悪かったよ。
今後は過ちを繰り返しません。二度と他人様の私信を勝手に見ません。
反省を重ねて猛省したんだから、文句を言い続けるのは止めてほしい。
サックラバーが「モンクちゃん」呼びを続ける気持ち、理解できたし。
キヨがカズのこと、どれだけ内心では嫌っていようが…切りたくない縁。
蜘蛛の糸並みに見えづらくて細くて切れやすくても…繋がっていたい友。
入学の日。懲役生活の始まりの日。もう遠い日の思い出かもしれない。
詳細を覗き込むのを頭が拒絶し始めてきた。いい記憶じゃないから…。
どう見ても女性な…最後まで謎だった…男性教師との出会いと衝撃的な握手。
八年生の初夏には…担任教師の御息女とも握手したっけ…。
バケモノじゃなかった。見たまま、そのままの感触だった。
事務的行為というか、儀式みたいなものだったんですから
意識する必要なんか全く以てないと断言しても、困惑した。
自分が身内なら、置いとかない。それが通常の感覚の筈だ。
男が殆どの寄宿舎に女子がいるって、普通に異常事態です。
受け入れるべきじゃねーって問題。不可思議な存在がいる。
気になる。心配になる。危険だって…。斎藤さんの存在が。
如何わしい行為する訳ありませんけどねぇ…というよりも
アッちゃん、その他、以前から知ってて関わってた生徒が
数名いた方に驚いてました。仲間外れだったのが気分悪い。
気になる存在となってしまった。好悪じゃなく、気になる。
気になって当然だ。彼女が求めるもの、普通じゃないから。
キヨには誤解されたけど、誤解された方がマシだと思える。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
言葉じゃない形で浸透した『思い』
受け取ってしまったのだと思います。
深く考えず、触れたのが原因でした。
正確に表現するのは…至難な…思い。
感知しても実行したら、次々に崩壊。
九年生冬、キヨの発言で思い知った。
あれも、こっちに向けられた暗示唆。
ホラーだ。オカルトを超えた恐怖だ。
失う。多くを失う行為だから、無理!
叶えません。彼女の望みなど、絶対!
…………………………。
…………………………。
…………………………。
斎藤さんの隠すしかない苦闘、約二年を無難に卒業できた。
…?!…
あ、まだいた。部屋の片付け大変そうだもんな。手伝うか?
…無視…
素知らぬ振りして通り過ぎる選択が最善。単なる通過点だ。
今後も関わる見込みはない。これ以上、彼女の情報は不要。
近くに寄れば近寄るだけ…確実に…斎藤和眞が狂わされる。
彼女が求めているものを与えてしまったら、何もかも失う!
…反側…
取引。交渉。契約。邪魔なアレは昨日のうちに寄宿舎を去っている。
玉砕。散華。討死覚悟で、行動してみるのも悪くないかもしれない。
…花火…
最高に上手く進攻できれば、二人連れで帰郷というのも有り得るかもな。
彼より上手く親交できれば、共存共栄。生存目的で協力し合う契約の楔。
…忘却…
これが斎藤さんの最終決定です。
お互いの首に掛け合う悪魔の鎖。
美しいとは思えない。見苦しい。
荒涼すぎる自分の世界に巻き込めない。この思いは御終い。
彼女を呼ぶのに使ってた愛称も、この場に置いていきます。
元から忘れる予定の存在。向こうからも忘れ去られる存在。
うちの元担任と暮らすのも危険だ。どうなる?
十年間、二組の教室で空気から感知した情報。
池田先生が距離を置く理由も読み取れました。
彼女と比較したら自分は幸せと云える立場だ。
この先、彼女の未来が幸せでありますように。
幸せなら、あの思いも消え失せていく。消えるべきもの。
雲から降り落ちる雨や雪、地面に浸み込んで消えるもの。
彼女の容姿なら十二分に満たされる。思いは消失可能だ。
寄宿舎階段の上り下りも、もうすぐ思い出に変わるのか。
いちいち感傷に耽ってても仕方ないか。川が流れていく。
本当ありふれた喩えだけど、塞き止められないんだろう。
留まった水は、いずれ濁る。延々と流れ続けた方がマシ。
きっと、不貞腐れたような表情になって歩いてると思う。
アレの所為でーす。アレが最後まで迷惑かけるから悪い。
実家へ帰ると、挨拶みたいに親から注意された自分の顔。
笑っているつもりでも笑ってないらしいよ。眼が駄目…。
他人の目に映る自分の瞳が全く笑ってない印象に見える。
そういった訳で「真心からの笑顔」が無理難題な課題だ。
いちいち鏡見て練習しろって? 何のプロを目指せって?
苦手、駄目、無理。斎藤さんのレヴェルじゃ無理でーす。
要はサービス系の職業に向いてない造作の顔なんですね。
もちろん、造作を理由に逃げてるのは承知だ。違うよな。
うちの陽ちゃん、彼の顔から十分なだけ学習できるから。
でも、頭が熟考するのを避けたがる。向き合いたくねぇ。
知ってる…。何度も耳にした言葉。斎藤さんは、気持ち悪りぃんだって。
既に自覚してる受難。それでも…実家の稼業を継ぐ…。斎藤和眞の人生。
そういう予定で作られたみたいですが、親の見事な設計ミス。
何とかなると希望的観測を持ってしまった時点で、負け試合。
子どもは…後先と自分の姿を鏡で確認してから考えるべき…。
幸せを運んでくれるとか考えたらダメだ。こっちは何だろう?
親に頭を下げさせるのが生まれてくる前に決めた人生設計か?
今後の日常が憂鬱だなんて、我儘を口に出すほど偉くもない。
自分がハズレ籤であるのに気づいてしまった。諦める。謝る。
こっちの生活が寒くて凍りついた何かがあるのかも。そう思い込んどく。
向こうでの生活に慣れたら…これまでと違う変化がある…。ワケねぇっ!
向こうの人間関係も最悪。長期休暇で帰郷の度、散々滅茶苦茶ヤらかした。
御陰様を持ちまして、碌な展開が想像できそうにありません。自業自得だ。
…前途遼遠…
目標を達成すること、最初から諦めてちゃダメだとは思うけど
斎藤和眞の明るい未来。希望は希薄。どちらかと申しますとォ
…絶望…
荒涼とした心象風景のまま、食堂の引き戸を開閉しました。…いる…。
未だに何の罰ゲームが続けられてるのか、夏休み明けから剃髪した頭。
小まめに毎朝きれいに剃ってるのか何なのか、疑問をぶつけてみたい。
生きて動く学校七不思議、その一つと化した元三組の夏目翼が朝食中。
こっちの存在、完全に無視。静かな所作で緑茶を飲んでいらっしゃる。
修行僧。お新香も音を立てずに食べる。そんな存在にイメチェンした。
三組所属の生徒、基本的ジョブが「僧侶」ってのが多かったと思える。
坊主の筆頭は「沈黙の憤怒」エムジェイだけど、髪形は兎も角として
容赦なく暴力を揮えるよう得物を手にした聖職者。それが三組の感触。
即死魔法を詠唱できない代わりなのか「魅了」の特技持ちが数名いた。
俺は受け付けない特質を持っていたようだが胸中は色々複雑でしたね。
従弟の姿が見えない。一足早く自室を片付けに戻ったのかもしれない。
でも、よかった。この人とは堅苦しい挨拶や雑談する必要のない関係。
現在の気分は、誰の責任でもない。自分が勝手に最悪な方向に運んだ。
方向転換。誰にも頼らず、黙って向きを直す。簡単なようで難しい技。
食欲ゼロ。何しに下りたんだ。真似して茶でも飲むか。時間を潰そう。
…紅茶…
特に好んで飲むものじゃないけど、今朝の気分だ。
紅茶の香りを吸込めば、凹んだ心も元通りになる。
雪片付けの後、ご褒美に四人で好きなもの飲んだ。
今後は味わうことがないであろう冬場の勤労奉仕。
駄目だな。止まらない。次々に思いが湧いてくる。
頭より体を動かさなきゃ思いがより重くなる兆候。
自分である限り、思い続けるのか?
思いがあるから、自分であるのか?
右手の調理場へ移動して、ティーバッグを探そう。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
見つからない。ほうじ茶と緑茶ならあるのに、切らしてるのか?
ここの食材も残してある物はどうするんだろう? 余計な疑問?
塩味の袋麺。サックラ…桜庭潤の買い置きが食材用の棚にある。
あの人は村内に自宅があるんだし、キヨのことを可愛がってる。
斎ト…俺よりもキヨにとっては有益な友達でいてくれるだろう。
俺が帰郷したら、再会するにしても日帰りは難しい遠距離関係。
昨日は慌ただしくて…ゆっくり名残を惜しむ時間がなかった…。
卒業式。もうとっくに思い出したくない記憶へ変貌を遂げてる。
遺影。ああいう物は、もう出来る限り持ちたくない。
谷地敦彦、俺とタッグ組んでくれてた二組の副級長。
昨日の卒業式、彼の遺影を抱いて時間を経過させた。
既に式の細かい部分を思い返すことを拒否してる俺。
アッちゃんは幸運を引き当てるのが得意な人だった。
そんな出来事を多く記憶している。頭の中か胸の奥。
六年生の冬期休暇、積雪が原因で途中の駅で足止め。
暇潰し目的で入った駅ビルのショッピングセンター。
二人が幾つか購入した品物、もらった数枚の福引券。
俺とアッちゃんのを合わせたら、ちょうど一回きり
抽選機を回せることになったんで、彼にお願いした。
そしたら、引き当てた。特賞。ペアの宿泊付旅行券。
賑やかに当たり鐘が鳴り響き、周囲から注目された。
でも、そこ、うちの実家がある地域だったんでーす!
個人的には有難味なし。これから帰るところですし。
アッちゃんも実家へ帰ると病院通いするそうだから
結局、辞退することに…。代わりに、駅弁を二人分
もらったんです。俺には充分なほどラッキーだった。
他にもアッちゃんの手は、多くの幸運を引き当てた。
ラジオで好きなパーソナリティから葉書を読まれて
逆に応援メッセージをもらえたって喜んでたっけな。
懸賞も当ててた。現金や金券、お菓子の詰め合わせ。
彼女の存在も大き…。あ、身長差は抜きの話でーす。
アッちゃんは勝利者。学校や寄宿舎内での優越感は
俺の予想を遥かに超えるものだったかもしれません。
陰で妬み、羨望を懐く連中が潜んでたのは確実です。
二月、オレンジピール入りビターなガトーショコラ。
寄宿舎の全員が頂戴しても、彼だけの特別なギフト。
ところが、俺の眼には「恋仲」と認識できなかった。
アッちゃんは、寄宿舎ではアレと同室なんですもの。
逃げ込める場所を欲してたんじゃないかと窺えます。
避難所を提供してくれる友人と親しく過ごしてたら
男女であるだけに…先入観や偏見は避けられなく…。
元々頭の良い人です。上手く利用することに決めた。
「トロフィー何とか」自分は勝ち組と誇示するため
いつしか彼女を友人以上の位置へ据えようとして…。
ほんの些細な希求、彼女の眼にはどう映ったものか?
低学年の頃からクラスの枠組みを超えた仲良し同士。
お二人さん双子かよ…というか、どっちかが片方の
真似しまくってたんだと思う。持ち物が殆ど同じで
申し訳ないが、ほのぼの通り越して異様に見えてた。
たぶんアッちゃんだろうな、真似っこしてたのは…。
単に二人の好みの傾向が近すぎただけかもしれない。
でもなぁ、彼女が纏う空気から察するところじゃ…。
孤立を避ける目的で組んだコンビ。俺とキヨも近い。
兎に角、二人の裏事情を推測するなんて醜悪の極致。
鏡を覗いたら、間違いなくバケモノが映り込みます。
闇の衣を纏う魔道士の正体は、愉快な道化師でした。
バス遠足。うみねこだらけの観光地が大爆笑の渦へ。
いつ鳥の●が降ってくるか知れない上空も油断大敵、
自分には「クレイジー」としか喩えようがなかった
彼方此方に笑いの爆薬、地雷など仕込みまくられた
危険地帯へ快進撃した思い出という形で胸に残った。
結局、俺にとって担任含む二組全員が変わり者だと
再確認した元二組副級長の空気を大変身させる魔法。
七年生九月の学校行事、絶対に忘れない軽妙な記憶。
アッちゃんは良い人。よく笑って、周囲も笑わせた。
何より運の良い人だと思ってた。羨ましいほどに…。
それが…。てっちゃん、しいちゃんと同じく、俺は
遺体の顔さえ見てないのに突き付けられた『死亡』
アッちゃんの場合、葬儀にも参列してないんだから
何か騙されたような…。いや、悪い冗談すぎるよな。
不運、引いちゃったのか? 特賞を引き当てる手で。
「おはよっ、斎藤。何こんなとこで固まってんだ?」
…?!…
「ああ、おはよーっす。軽く寝惚けてました。高橋さんも居ないし」
食堂の引き戸、開け閉めの音が殆どしないから気づき難いんだよな。
桜庭潤も大柄なのに気配消すのが得意だから、また背後盗られてた。
うちの相馬タッちゃんと同等、いや、それ以上か…。振り向いたら
いつもの赤ジャージ姿で冷蔵庫を開け、手早く食材を取り出してる。
「高橋さんなら買い物に出たよ。ケーキ焼いてくれるってさ。
えぇと、フルーツロール。苺だとか買うんじゃねーのかなァ」
俺の向けた視線を察知して、動きながら自然に会話を進めていきます。
冷蔵庫からマーガリン、チーズ、食パンだのを調理スペースに並べて
「それで、そっちは何か食ったのか? これからなら一緒に
チーズトーストでも食わね? コーヒーも俺が淹れてやるー。
薬缶に水入れて、火ィ点けといてもらえると助かるんだけど」
そう言いながら、もう2枚の食パンにマーガリン塗り付けてました。
この人は、相手に考える隙なんて与えない。世話焼きエキスパート。
返答をせず、蛇口を開いて蓋を取った薬缶に水を半分くらい入れて
瓦斯焜炉の上に置いて点火することにしました。青い炎。好きな色。
…無心…
静かに眺めてるだけで落ち着く。心惹かれる色だと思う。瓦斯の炎。
「ラジカル」不安定物質が光のエネルギーに大変身、吐き出される。
学校へ入学する以前の頃、実家の母親や祖母が調理するときなんか
邪魔扱いされながらも…この青色…静かな色が見たくて傍らに居た。
母親の話では、手を伸ばして触れようとしたことがあるらしいです。
馬鹿としか言いようないですね、傍から見れば。我ながら馬鹿すぎ。
燃焼している。冷たく視えて熱い。花火を眺めるのに似た感覚かも。
…?!…
空間に響き渡った悲鳴。茶碗の割れた音。
…連鎖…
乾いた木片が折れる音。耳が拾い届けた。
「あー、待てって! 素手で拾うな。手伝うから、そのままで」
下拵えしたものを入れたオーブンレンジ、素早く操作完了させた
桜庭潤は調理場隅の箒と塵取りを持ち出し、ゴム手袋を嵌めて…。
こっちに背を向け、立ち尽くしてる夏目翼の側に駆け寄っていた。
世話焼きエキスパート、本領発揮の場だ。判断力と行動力に優れている人。
こういった人なら、どんな場所でも自動的に光射す位置へ進んで行きそう。
いてくれて助かる存在。暁。太陽。日光…。彼好みの色調なんだ思います。
彼の普段着、赤やオレンジばかりだったし、赤いスカーフの一組が似合う。
キラキラ王子。容姿じゃなく彼の美点を竜崎順に読み取られたのでしょう。
竜崎順は、間違いなく…俺を…。ダメだ。より一層、落ち込むだけなのに。
些細な小競り合い、喧嘩、そういうの一切なし。二人で笑い合えた…敵…。
竜崎順は常に絶対回避能力全開で対峙してた。薄い皮膜で覆われた本心は
早いうちに感知してた。気づいてても、突けない、触れられない、御法度。
桜庭潤が暁の使徒なら、俺は公暁。源実朝暗殺犯役が似合っているかも。
九年生秋の学習発表会、太宰治「右大臣実朝」を三組の演劇で観たっけ。
夏目翼が鎌倉幕府三代将軍、源実朝を演じたんだ。公暁は森魚脩だった。
蟹を食べるシーンが笑えたんだよな。森魚の弟君、美形なのにアレレで。
真面目な劇にドクズを出すのは反則。一気にコント化、演芸場のライブ。
太宰治といえば、一押し作品は「春の枯葉」一幕三場の戯曲。印象深い。
『全人類を代表してお前に言う。お前は、悪魔だ!』節子へ向けた言葉。
男は女に勝てません。人間は女性の胎内で過ごして生まれるんですから。
太宰作品は三組が独占してた。外道の皮を被らされた文学少年達の集い。
馬場数馬を嫌悪できない斎藤和眞は太宰治の隠れファンかもしれません。
キヨは宮沢賢治がバイブル。グスコーブドリの生涯に憧れて已まない少年。
学習発表会での一組演劇「貝の火」兎のおとうさん役になれなかった無念、
思い出す度に文句の嵐…。聞かされる方は「しつこい」としか思えません。
実朝役、夏目翼の右手が掴んでいるのは、さっきまで食事するのに
使用してた自分の箸に違いありません。自分の暈けた視界でも
そこは確認可能です。でも、何なんだ? 何のつもりだ?
茶碗を割って、箸を折った。帰郷後に使う気なし?
故意に割る茶碗。確か葬儀の出棺時、茶碗を割る風習があると思ったけど。
出棺の際、霊柩車の長いクラクションが鳴らされるのと同時に、故人様が
使ってた茶碗を音立てて割る。死者の魂が此の世へ戻って来ないように…。
決別の儀式。夏目翼なりに着けた学校との別れ、落とし前みたいな儀式か。
何となく、そう読み取れる空気を肌で感じてしまった。
いや、単に、こっちへ…洗い場まで近づくのが面倒だった。
実家での新しい生活に不要な品物だから、壊してやっただけか。
元三組外道共のサブリーダーだったし、それくらい当たり前かもな。
桜庭潤が何も問い質さずに割れた茶碗を拾ったり、箒で掻き集めていた。
夏目翼が折った箸も、取り上げるようにゴム手袋の手で受け取っていた。
動けねぇ。普通に関わりたくない。傍観者を決め込んでて恥ずかしいけど
全く向こう側に介入したいとは思いません。昔から感じていた。空気の壁。
ヤらかした人間が二組所属の寄宿舎生なら兎も角、二匹の夏目は駄目無理。
自分のと桜庭潤のマグカップを用意して、陶器のドリッパーに二端折った
紙フィルターをセット、サーバーの上に乗せ、缶から中細挽き珈琲粉を…。
ただ黙って、コーヒーを淹れるための支度を続けていた。現実はそれだけ。
夏目翼へ「後のことは任せろ」と食堂から退出するよう和やかな言葉で
慰めてあげていました。内幕は邪魔くさいから追い出したって寸法です。
彼だって夏目の従兄弟二人は好きじゃない。空気を入れ替えたくなる筈。
キヨが避けたし、俺も当然。緩衝材的役割を持つ存在が数名いてくれて
ようやく娯楽室に同室できるのも耐えられるかなって連中でしたから…。
俺とキヨが外道連中から…どれだけ嫌がらせや虐められて…きたものか。
忘れられねえ。終いにはキッチリと実力を見せつけてやって差し上げた。
辛い過去、数々胸に湧き上がってきて困る。最後の一暴れしてやりたい。
予想よりずっと楽に勝てる烏合だった。あの中じゃ森魚兄者が意外と…。
駄目ダメ、忘れ去る。腹立つ記憶を消失させる。祓い清める。塩を撒く。
沸騰を示す湯気を噴いた薬缶。火を止め、少し間を置くのがいいらしい。
コーヒー淹れるのにちょうどいい温度は、90℃くらいと聞きましたが
味やコク等に拘ると細かくなってくるから、一概には言えない話になる。
とりあえず間を置いて薬缶内の温度を落ち着かせる。煮え立った状態で
薬缶を傾けると…熱湯が噴き出す場合もあるから…危ないっていう理由。
飲み物を淹れる手順は、キヨから学んだようなもの。同い年の先生です。
本当なら喫茶店で使用する類の注ぎ口の細いポットが、ゆっくりと湯を
落とせて便利みたいですが、そこまで拘る余裕もない。少量の湯で豆を
ふやかすように蒸らして…あ、どれくらいだったっけ?…蒸らし時間…。
「あ、やらして悪かった。適当な席に座って休んでな。残りは俺がやるー。
ていうか、今朝の斎藤、疲れてるって顔色だよ。座ってた方が見てて安心」
また桜庭潤に背後を盗られてた。寄宿舎生の最強王者は、間違いなく彼だ。
割られた茶碗や床もキレイに片付けを済ませてたようでした。仕事早すぎ。
この人とキヨは、本当に偉いと思う。面倒な清掃を黙々と成し遂げてきた。
掃いて拭いて、清める…。汚れが取り払われると同時に
周囲の空気も清浄化するような感触を覚える。不思議ィ。
学校と寄宿舎の特掃隊長で鬼軍曹さんと別れたのは、まだ昨日だってのに
胸に開いた穴。空虚。覗き込んで開いてないと解ってても、確実に開いた。
陽ちゃんの好きなSeraniの曲じゃないけど…公園の土で塞がるものなら…。
千年以上、待ち続けても公園に「悲しみの男」が訪れるとは信じられない。
期待は裏切られる。「過去の歴史」として区切り、何とか気を取り直して
再び歩き出すには時間だけじゃない。他にも必要だよな。それが何かは…。
十年間、寄宿舎付学校で為してきたんだ。整理、処分、支援、修正、解決。
竜崎順や二匹の夏目が散らかした後始末は腹も立ったし、面倒くさかった。
俺は自主的にというより、指示された力仕事を手伝うのに近かったと思う。
他の人間からはどう見えてたのか知らないけど、俺は単に手伝ってただけ。
美しくない心。それが俺の本当の心だ。認めるしかないよ。美しくはない。
掃除。ベッドメイク。今後やり続けること。自分の生活の糧。仕事として。
美から程遠い人間が淡々とやる。ルームメイキングは、即ち時間との闘争。
容姿は除外。作業を熟せる身体があれば充分。接客とは全く別方向の労働。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「六枚切りのパン1枚じゃ駄目だな。足りねぇ。そっちも追加する?」
首を左右に振りました。言われたとおり疲れてる。
喋る気しない。声を出すのも倦怠を伴う状態です。
チーズトースト1枚も食べ切るまで時間を要した。
実年齢的には朝食の必要量として足りないかもな。
「少し上で横になるとかしたら? 熱はなさそうだけど、青い感じだ。
俺は卵かけご飯でも作って食うことにしよう。卵2個使って特盛でェ。
皿洗いもやっとくから、そのままにしといて。みんな疲れてるんだよ。
翼キュンも十年間の疲労を床にぶつけたかったんだろう。気にすんな。
あいつらは午後の便で飛び立つらしいから、昼前には出て行くってさ」
みんな…ということは、この人も含まれてんだろうに隠すの上手いよな。
目と耳が安心する和やかな表情と言葉をかけてくれる。救われた気持ち。
キラキラ王子、俺とは違う本物の美しい心を持ってるんだ。頭が下がる。
「スンマセン、お言葉に甘えさせてもらいます」
少しばかり椅子を引き摺る音させて立ち上がりました。音も疲労してる。
娯楽室のソファ、誰もいなかったら横になって休む。素直に従うとする。
アレのこと、考えるのもヤダ。アッちゃんが遺した寄宿舎の私物の件は
寮母の高橋さんに一任するのが無難な解決法だろうな。口惜しいけど…。
長考するだけ時間が勿体無い。結局、今の自分が一番大事。要は自己中。
心で弓を引く。天空に向かって、皆死ね矢を放ってやる。アローレイン!
傷一つない麗らかな春空に撃ち込んだ返礼だ。幾千の雨矢が降ってくる。
落鳳破、蜀の鳳雛師を射殺。回避不能、瞬速の矢。スターライトアロー!
満天の星空にも撃ち込んでやる。北極星に彗星、宵の明星、全て堕ちろ。
麗人にこそ相応しい小剣、イロリナの星。突いて突きまくって百花繚乱!
ちっとも美しくない俺が手にして実行すれば本物の悪夢。血の海で狂乱。
要はムカついた、イラついた、アレを跡形もなく滅殺したい。それだけ。
幾度となく黙殺され続けた被害者は俺だ。脳内で復讐したって許される。
俺が出入口の引き戸に手をかけようとしたら…。
引き戸の窓に丁度ピタッと人の顔が映り込んだ。
「シンちゃん、どうした? こんな朝早くに…」
引き戸を開けながら、声をかけました。なるべく落ち着き払った調子で。
鯨井のシンちゃん、目の周りを赤く染め…今にも泣き出しそうな表情…。
トレードマークとなった蒼天のジャージを着てるのに、泣いたら台無し。
曇天ジャージ男なら元三組にいたんだ。兎に角、シンちゃんは泣くな…。
「なぁ、サイトーさん、先生、うちのマエダ先生、寄宿舎に来てない?」
発言と同時にシンちゃんの左眼から一筋の涙が零れて落ちた。…見た…。
「ううん、斎藤さんは見てな…」
「おっはよー! マコちん、朝メシ前か? まだなら何か食ってけ!
食えなきゃインスタントのスープ、豚汁とかコーヒーでも何でもっ!
腹ン中ちょっと温めた方がいい。食べた方が落ち着く。さっ、入れ!」
叩き込むような勢いで俺の右脇に並んで立っていた暁ジャージ王子が
シンちゃんの左肩に手を置いて、食堂へ招き入れようとしていました。
最強の世話焼きエキスパートが同空間にいた時点で手出しは無用です。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
インスタントのポタージュにとろけるチーズを1枚投入して混ぜ合わせた
簡単チーズポタージュ、猫舌シンちゃんは少々時間をかけて空にしました。
元二組級長の斎藤さんは空気です。格上の元一組副級長さんに委任します。
「ありがと。御馳走様…でした」
目を伏せた状態で喋るシンちゃん、こっちの両眼に痛々しく突き刺さる姿。
「礼は要らねぇよ。腹が落ち着くと気分も落ち着く場合があるって
親父の受け売りだけどさ。こっちのベーコンエッグサンドも食いな」
蒼天ジャージ君が座る左脇に起立して侍するは、暁ジャージ王太子殿下。
俺は向かい合う側の席に着いてるものの、役立たずの空気に変わりなし。
雨が近いのかもしれません。頭が重苦しく、眼の奥が鈍く痛む。寝てたい。
「今はちょっと…。ごめんなさい」
学校の生徒たちが一年生の冬期休暇中に起こった出来事ですが、或る事件で
家族を亡くして以来、ずっとシンちゃんが世話になってる村の診療所に
務めておいでのマエダ先生が今朝から姿を消しているのだそうです。
…失踪…
そんな二文字で表してはいけない。置手紙等の手がかりなしの行方知れず。
「包んどいてやるぅ。腹減ったときにでも食え。我ながら美味いと思うし」
世話焼き大将の特製ホットサンド。何度か食べてるから知ってる。美味い。
2枚のトーストにベーコンエッグを挟んだだけのシンプルな軽食なのに
味付けの粉チーズにバジルとケチャップ、絶妙な比率で食べ応えある。
あー、現在は食べ物なんかに心を向けてちゃいけない事態でしたね。
桜庭潤が皿を持って調理場へ向かった。僅かな間が空くのも心痛。
「あの、さ…、急病…。急患さんの家族が朝早く診療所を訪ねてきて
マエダ先生が往診に出かけてるだけなのかもしれないよ。シンちゃん」
愚直。誰にでも思いつきそうな考えを発言するくらいしかできません。
「そういった場合、オレを無視する訳ないんだ。これまで、ずーっと。
寝てるの起こしてでも同行させたり、兎に角…連絡なしは…なかった」
シンちゃんの伏せた眼は彼の頭に広がる今朝の診療所の光景を覗いてる。
状況を確認するかのように瞬いて、細かく動いてるんだって思いました。
「偶々今回は可及的速やかに駆けつけなきゃならない事態だったんだよ。
きっと大丈夫だって。もう少し待てば…いや、もう帰ってきてるかも…」
完全に偏頭痛だ。でも、向こうの心が俺より痛んでるよな。
こっちの言葉がシンちゃんの薬になって効いたらいいけど。
「あ…ああ、そうかもしれないな。サイトーさん!
慌てて留守にしたから、帰ってきてる先生に叱られる。
留守にする場合は、いつも出入口に連絡先を貼ってるし
連絡先貼るの忘れて飛び出して来ちゃったから絶対ダメだ」
シンちゃんが今にも食堂を飛び出して行きそうな勢いで立ち上がりました。
それを制するような形で、白いレジ袋を手にした桜庭潤が背後に立ちます。
「斎藤も付いてってやりな。出発すんのは明日なんだろう?
今はマコちんのため幾らか時間を割いてやるべきだ。頼むよ」
頭が痛い。代わりに行ってほしい。二人へ向ける言葉が喉に詰まりました。
発声させられず、黙って桜庭潤の言葉に従います。ナサケネェナァ…。
木偶人形。操られ人形。斎藤和眞の人生なんて、こんなもんかよ。
立った瞬間、ズキッと頭に痛みが突き刺さった。頭痛が痛ぇ。
巫山戯た言葉で脳内を麻痺させてぇ気分と察してほしい。
不貞腐れ顔、全開状態かも。人間関係全壊の凶器だ。
嘘じゃない具合の悪さ。横になって休みたい。
「斎藤ォ、この袋、持ってやってくれる?」
和やかな表情で、ささっと近づいてきた。猫科大型肉食獣並みに素早い人。
廻り込むんだ。低レベルの勇者じゃ簡単には逃走不能なモンスター。魔獣。
「なんかヤな予感する。昼間は出前でも取って二人で食え。
斎藤がマコちんの味方で大将なんだよ。代わりがいねえ!
一人にしない方がいいと思うし、側にいてやるだけでイイ。
俺も後で行くから、今は全力でマコちんに尽くしてやろう。
診療所になら鎮痛剤くらいある筈だし、そっちで薬飲みな」
彼から袋を受け取る際、沸かした薬缶の湯みたく囁きが耳に注がれた。
自分がシンちゃんの味方で大将。全力で尽くせ…。青天の霹靂でーす。
最終決戦の前線へ送られる役立たずの将軍だ。そんな気がしてくるぅ。
くるくる、くるぅ。桜庭用語の使いどころだ。軽い眩暈。でも、同行する。
この決戦、打首確定!…というか…頭を取りたい。早めに鎮痛剤を貰おう。
眼鏡を壊されてからだ。視覚…焦点を合わせるのに眼球の奥…かな?
負担が掛かってるんじゃないかと思う。それが原因だと勝手な判断。
新しいのを誂るのが面倒。金銭よりも違う方面の関わりが超絶面倒。
フレーム探し、レンズ合わせ、現在の俺には相当な心的負担となる。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
貰って飲んだ鎮痛剤が上手く効いてくれたみたいで頭痛は治まりました。
昼近くから降り出した雨は、まだ止む気配はありません。ザーザー降り。
偏頭痛は止み、診療所でシンちゃんと一緒に落ち着いて過ごしたけれど
マエダ先生から診療所に何の連絡もないまま、日が暮れてしまいました。
…籠城戦…
実際は留守番だっていうのに、そんな言葉が頭を過って仕方ありません。
寄せ手は幾重にも城を包囲してませんが、援軍は未だに現れる気配なし。
歴史上、籠城戦で籠城側が完全勝利した事例、どれだけあったんだろう?
陥落させられず、撤退させられたら、勝利と記録されるものでしょうか?
やめとこう。余計な思考だ。折角、抑え込んだ頭痛の種が再び発芽する。
外へ出て、ご近所さんに尋ねてまわったら、有益な情報を得られるかも。
そう思いながら、黙って待ち続けるだけ。シンちゃんを一人に出来ない。
鯨井信は既に家族を失い、独りきりの絶望を味わってしまった人だから。
木偶の坊な操られ人形だけど、側に居てやる程度の仕事なら務められる。
診療所の待合室、黒い長椅子に腰かけて無言の無音を紛らわせる目的で
流し続ける浅尾栞パーソナリティのラジオ番組。リクエスト。悩み相談。
イラつく。集中できねぇ。自制心消失危機。克服不可能。癒されねーよ!
人気ラジオ番組でも耳が受け付けない。アッちゃんが大ファンだったな。
眼鏡をかけた上品な長身の女性。聴き取り易く、優しさを窺わせる喋り。
元アイドル。所属グループを離れ、ラジオの世界に腰を落ち着けた女性。
間違いなく深窓の佳人なのに何故だか女装した男性っぽく見える不思議。
故人の悪口になっちゃうのかもしれませんが、アッちゃんは自分よりも
明らかに長身の女性であっても臆さずに好意を寄せられた神経がスゲェ。
俺なら臆する。自分より長身の女性となりゃ単純にヤヴァい。デカすぎ。
落ち着かない様子のシンちゃんは立ち上がって奥の台所へ向かいました。
シンちゃん、大好物のポップコーンを作って食べたい気分なんでしょう。
黒胡椒を盛大に振りかけたヤツ、彼ならバケツ特盛でも食べ尽くしそう。
昼間もシンちゃんが炒飯を作ってくれたんですけど…黒胡椒の味しか…。
桜庭潤が持たせてくれたベーコンエッグサンドを半分もらって、口直し。
シンちゃんは学校の昼食時でも大概のメニューに黒胡椒をかけてました。
そういえば、商店で購入した肉まんも半分に割って振りかけてたの見た。
ポケットの中に専用黒胡椒を入れている時点で、もうアレって気がする。
胡椒に中毒を引き起こす成分はないそうですけど、刺激を求めてんのか?
辛さは味蕾じゃなく痛点で感じるんです。要は少々アレレな人ってこと。
アレレで当然か。俺には帰る家、迎える家族がいる。シンちゃんには…。
駄目だな。二組級長の肩書が外れた途端、本来の自己中気質が蔓延して
紳士じゃなく下衆くて、美しさとは程遠い自分が露わになってきている。
シンちゃんが頼りとするマエダ先生が留守の状態。俺を頼りにしてる筈。
今は何より彼自身の心を堅牢に守るのが務め。微力ながら援護しないと。
視線は診療所の玄関ホール、硝子扉の向こう。闇に包まれた小さな通り。
電柱に備え付けられた灯りが切れたまま、ずっと放置し続けている状態。
村では重要な施設なんだし、ソーラー式の電灯でも設置すりゃいいのに。
暁の使徒、桜庭潤が何もしてない訳がない。それが未だに姿を現さない。
電話があったなら寄宿舎か村にある自宅にかけて問い合わせられるけど
こんな北の端の山間の村じゃ無理な話ですね。夢や希望は空想するだけ。
…?!…
暁じゃねぇ。俺にとっては…大ハズレ…。曇天ジャージ男の来襲だった。
イヤでも自然と互いの視線が合った。
俺の眼力と念波で視界から吹っ飛べ!
いや、無理なのは百も承知です。でもさぁ、大切に使い続けてきた雨傘を
訳分かんないうちに奪い取られ圧し折られた本当にあった不可解な出来事、
十年生四月…雨の夕方…。あの後、食べた大判焼きは涙交じりの味でした。
ウソだけど、普通に美味かったし。とはいえ、心の中は唖然呆然複雑怪奇。
三組の外道連中とは色々あって、全員シねってレヴェルでも堪えてあげて
オトナな心構えで猫間の依頼を引き受けてやったんですよ。それなのにィ。
あの傘、安くなかったんだけどな。自分の金銭感覚では…。未だに腹立つ。
翌朝、自分の机の中に高額紙幣が三枚ほど入ってた。慰謝料のつもりかな?
三組の教室まで訊きに行く気にもなれず、いつの間にか無くなってました。
気づかないうちに使い果たしてたみたいです。用途ォ?…そんなの知るか!
次の傘はワンコインのビニール製にした。二度と雨傘に大金は出しません。
俺が黙っているのをいいことに猫間が玄関へ入ってきて
傘立てに自分の畳んだ白い雨傘を挿し、靴まで脱いでる。
こっちは…猫間に侵入拒否その他…大量の嫌悪拒絶魔光線を発してまーす!
最早、顔面凶器と断言可能なレヴェルの不貞腐れ全開な表情で睨んでます!
それが何故なのォ? 猫間は空気読めないレヴェルの感応能力低いヤツか?
三組の外道な輩の中でも奇妙な緊張感を覚える。何故か背筋に悪寒が走る。
背後に立たれたくない。プロフェッショナルな狙撃手にでもなった気分だ。
玄関の簀子で茶色いスリッパ履いて、開きっぱなしの引き戸から侵入した。
「よかった、カズマがマコトの側にいてくれてたんだ。…で、マコトは?」
何こいつ、マイペースすぎ。穏やかな笑みまで浮かべてやがってますしィ。
「奥に入ってった。たぶん台所で何か作ってる最中じゃないかと思うけど」
天から光のシャワーが降り注いだって感じ。不可視の情景に包まれた喜び。
そういった気配を肌で感じた。シンちゃんと猫間との関係、俺は知らない。
「ポップコーン作ってるの? あ、バターの匂いがする。俺も側で見たい」
喋りながら、既に足は台所方面へ向かっていた。本当、俺は何なんだろう?
「あなたは一体、何しにここへ来たのだろう」ダス・ゲマイネの台詞。
後に継げられる言葉「風に吹かれて…」その後の展開は、美しくない。
「走れ、電車」「水は器にしたがうもの」「人は誰でもみんな死ぬさ」
誰もが死ぬという誰もが否定不可な現実。でも、轢死は多くの意味を
重ねた上で絶対に回避したい。自分に殺されないよう無難に生きたい。
猫間のヤツ、現れたかと思ったら消えた。ポップコーン好き同士なのか?
浅尾栞の声、本日締め括りとなる言葉を蜘蛛の糸みたいに吐き出してる。
エンディング曲が流れ出した。いい加減にラジオを消して構わないよな。
廊下脇に置かれた小さな黒いラジオの電源オフ。それでも気が済まずに
挿し込まれてる黒い電源プラグも引き抜いてやったけど、まだ足りねぇ。
イラつく。落ち着かない心。黙っていても焦燥感が募るばかりだ。
明日の天気予報は晴れ。といっても、現在の空模様では疑わしい。
診療所にはタクシー呼んだりする時とかに使う無線機があるけど
村の全世帯に完備されてる機器じゃないし、直接訪ねた方が早い。
雨の晩、猫間が電灯を持たずに徒歩で診療所まで訪ねてきたんだ。
しばらく歩いたら両眼も宵闇に慣れ、それなりに見えてくるよな。
シンちゃんのことを猫間に任せて、周辺住民へ聞き込みにでも出かけるか。
傘は猫間のを借りていいよな。ついでに傘を叩き壊したって構わねーよな!
使用後の傘を全力で圧し折る。大決定事項です。復讐を兼ねた鬱憤晴らし。
鯨井信と斎藤和眞が二人でいたところに猫間智翔が現れました。除け者は?
二人は通学生。この村の住人さん。俺みたいな遠くから来た余所者と違う。
利用する時間帯が違うから、シンちゃんと共同浴場で顔を合わせることが
滅多になかったもん。猫間とは色々な場所で会って親交を重ねてるのかも。
ポップコーンの匂いが漂ってきてるし、二人して貪り食ってる最中かもな。
長袖シャツの袖を振りずらし、腕時計を確認してみました。十八時過ぎか。
夕餉にポップコーンは口にしたくありません。他の何か買いに出かけよう。
単独で外出する理由づけとなる。甘くない、舌に刺激の少ない飲食物希望。
頭の中に村の商店の商品棚が映る。手作り弁当、おむすび、軽食類、惣菜。
どれにも手を伸ばしたいと思わない自分。狼狽えるように立ち尽くしてる。
カップ麺の棚も…なんかダメ。ラーメンを食べたくない。醤油、味噌、塩、
豚骨、カレー、駄目無理。自分で選ぶのは難しい。行動の選択を拒んでる。
自分が動いて何かするのがイヤなんだ。自分のために何かしてもらいたい。
上体を起こしている現状を受け付けないことに、ようやく気づきました。
診療所に入ってからずっと長椅子に座りっぱなしといって構わない状態。
おとなしく腰かけるのも意外と体に負担がかかる。我が身に堪えました。
全身が休息を要してる。ふかふかの寝具に体を滑り込ませ、横たわりたい。
しばらく経てば、誰かが盆に載った生姜入りの玉子粥の土鍋を運んでくる。
面倒そうに上体を起こし、一人用の土鍋の蓋を開けてもらう。上がる湯気。
大きく口を開けなくていい平たい木製レンゲを持たされる。さすがに直接、
口に運んでもらうのは遠慮。そこまで重篤じゃない。甘えすぎと判断する。
以前、望月漲が風邪を引いた。当の本人から聞いた話。生姜入り玉子粥を
食べた後、吹き飛ぶように体調は回復。美味しかったと教えてくれた笑顔。
何気ない雑談で耳にした話を忘れられない。彼が羨ましい。本気で思った。
癒し。恩賞。これまでの苦闘が報われたような歓喜を得たい願望の妄想化。
報われるほど働いてもねぇのに
十年間務めた役立たずの空気だ。
空気の休憩、長椅子に横たわる。
十年間、大きく体調を崩さず勉学に勤しみました。休んでもいいですよね?
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…?!…
電子音? アラームが鳴ったのか?
「7度2分ある。微熱だァ…」
「今朝から少し顔色が悪かったんだよ。斎藤に無理させたのは、俺の所為」
額に掌が当たった感覚。本当に心配してくれてる者の思いが伝わってくる。
ずっと黙って目を閉じたまま…再び意識が遠のいてしまっていいのに…。
そう思っていられない自分がいる。無事であることを眼を開けて示す。
「あー、気ィ付いたか。さっき来たばっかなんだけど
シんだって感じで仰向けになってて、本気で心配した」
俺の額に右の掌を当て、膝立ち状態の桜庭潤。非常に顔が近いんですけど
ヘタすると額をくっ付けてきそうで、軽く焦る。気持ち悪い場面が浮かぶ。
「具合悪かったのに、俺が巻き込んじゃって…。ごめんな、サイトーさん」
天頂から覗き込むように見下ろし、影をまとったシンちゃんが言いました。
彼の右手、瞬時に計測可能な非接触式検温計を持っている姿が確認できた。
パタパタとスリッパが鳴らす音に続いて、猫間の声も耳に届いてきました。
「病室の空調も少し暖かめにした。ベッドも直しといたから。
カズマ、一人で階段上れる? 二階へ行くよ。肩貸そうか?」
猫間に触れる、身を預けるなんて、全力で拒否しなければならない事案。
でも、この体調で学校まで戻る余裕などありません。ベッドを借りよう。
「すまない、シンちゃん。迷惑かけるけど、休ませてもらう。
ちょっと横になって休んで回復したら、寄宿舎へ戻るから…」
いちいち言葉で意思表示しなくても、桜庭潤は素早く俺から離れてて
それでいて何かあれば、即座に対応出来そうな位置へ控えているんだ。
心配そうな表情した三人を安心させられる表情を作れない、動く木偶人形。
現在どんな表情なのかは確認したくない。鏡も奥の世界も全てを壊したい。
情けないけど求めてやまない休息。心象天候は外と同じ雨。見えない明日。
明日にはこの村から出て行く予定でした。指定席のキャンセルも面倒だし。
シンちゃんの先導で初めて上がる診療所の二階、入院用個室へ入りました。
やや濃いめの落ち着いた木目調の壁、天井は音楽室っぽい穴の開いた合板。
診療所内と同じ大理石調の床。汚れてもモップ掛けや拭き掃除しやすそう。
如何にも病室備付じゃない作りのベッド。ソファ、文机、ハンガーラック、
ユニットバス付の化粧室、冷蔵庫も置いてる。折れ戸のクローゼット完備。
こっちの工夫次第で、もっと過ごし易く、快適な環境に整らえられそうだ。
床にコルクのマットを敷きつめ、ゴロ寝できるキルトを置いて、窓には…。
引っ越して下宿しようか。十年間の懲役生活明けだ。気が済むまでの期間
暢気に遊んで暮らしたって両親や周囲から文句言われる筋合いねえ程度は
経済的援助を与えてきた筈です。だからこそ遠距離から学校まで来たんだ。
十年前、実家に届いた手紙。それで奇妙な寄宿舎付学校との縁が結ばれた。
一人きりで気ままに過ごせる自由な時間がほしい。息抜きの期間がほしい。
それは我儘となる。親の予定じゃ実家で稼業の習得、世間付き合いの勉強。
帰郷してからは、この村の学校じゃ出来なかった
生きるために必要な本当の学習期間が始まるんだ。
十年間の懲役を務めあげたら、新たな場での懲役。
今度の期間は「死ぬまで」だ。自分には多少の利用価値があるんだと
思い込んで務めあげるしかない。受け入れよう。斎藤和眞の人生を…。
病室内に足を踏み入れ、色々な思いが押し寄せてはきたものの
シンちゃんと会話した記憶も曖昧となり、眠ってしまいました。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
雨音が止んでない。カーテンの向こうから室内に響いてくる。三月の雨。
土砂降り。帰りたくても強すぎる雨だ。窓に打ちつける雨粒たちの悲鳴。
元二組級長が向けた視線を彼の天頂部で感じ取ったのかもしれません…。
ベッドの右脇、病人を監視し易い位置にあるダークブラウンのソファに
俯いて腰かけていたシンちゃんが小さく口を開いて、近づいてきました。
「お腹、空いてない? 梅がゆ、レトルトだけど食べるなら持ってくる」
何かしたい気持ちが満杯だって伝わってくる瞳に気づいたら断れません。
しばらくしたら、橙色のグラタン皿に入った梅がゆが運ばれてきました。
隅にあったベッドテーブルを適切な位置まで動かされ、盆が載せられた。
自分が妄想してたのと委細が異なるけど、添えられた銀の小匙を使って
レンジの加熱斑、掬う場所によって熱さが違うと思いながら食べました。
「おっ、食欲あったみたいで良かった。食欲あるなら、他にも出そうか?」
暁の魔獣が気付かない間に、ベッドの足元へ控えてました。猫科すぎる人。
「いや、もし、食べれるならで無理強いじゃないんだけどさ、よかったら
斎藤も一緒に食べてもらえたら俺としても有難味が増す。ほら、今朝早く
高橋さんが商店まで買い物に出かけただろう。フルーツロール作るって…」
そう言いながらスリッパの音も立てず、こっちの枕元へ近づいてきました。
「実は、本日、ササキマサキ、俺の別名なんだけンどもォ、そいつの
誕生日なんだってさ。という訳で、フルーツロールは俺のバースデー
ケーキだったんだよォ。1本もらってきたから四人で分けて食べよ!」
ササキマサキ、漢字表記では「佐々木雅生」となる
猫科大型肉食獣で暁ジャージなキラキラ王子の別名。
耳に挟んだことはありましたが、桜庭潤の誕生日は八月の雨の日…。
そう本人が話していましたし、夏期休暇中なので、これまで一度も
祝ったことなどありませんでした。俺だって、ケーキを寮母さんに
頼んだりした憶えは一切なかったんです。基本的に寄宿舎生たちは
個人的な祝い事で、周囲まで巻き込むのを遠慮していたと思います。
それでも、寮母さんに遠慮なく甘えられる一部の生徒…アッちゃんや
晴ちゃんなんかは…ケーキに太巻き、唐揚げとか作ってもらってたな。
自分は手間暇かけさせたくなかったから、黙って過ごしてましたけど。
大体、普段から朝昼夕の食事を作って頂いてたんです。我儘できねぇ。
その代わり俺は実家に帰ったときの反動が大きかったかもしれません。
無言から何かを察したようで、含羞んだような微笑みに変わった暁の魔獣。
「いやさァ、ストーブの給油の手伝いしてたら、ちょっとした話の流れで
そういった方向に進んじゃっただけなんだよ。俺から頼んだんじゃねーの。
今回、ササキマサキの初めての誕生日みてぇなもん。1歳になったお祝い、
一緒にケーキ食うだけでも付き合ってくれ。それに明日にゃ斎藤…だから
おまえと一緒に食いてぇんだよッ。内緒のパーティーってことで、なぁ!」
彼の隣りに黙って立つシンちゃんの表情を確認して、首を縦に振りました。
ベッドテーブルを隅に追いやられ、空の器が載った盆が下げられました。
誕生日の主役が率先して動きまくって、俺は黙って見守るのに近い様子。
しばらく一人で待った後、スリッパの音を大きく立てて歩く猫間を先頭に
ケーキ皿を載せた盆を持って出入口の引き戸が開いたままになった病室へ
入り込んできて、後ろに湯気を立てたティーカップが載った盆を運ぶ魔獣、
殿がシンちゃんでした。紅茶の香りは今朝の俺が探した親友の好きな香り。
「ナイフの切れ味が悪くて、ちょっと潰れた感じになった。
だけど、店に売ってるヤツみたいで、ホント美味そうだよ」
学校時代、ずっと碌な係わりを持たなかった曇天男の穏やかな笑顔。
どうして、こいつ…猫間は…普通に俺たちと馴染んでいるんだろう?
頭に疑問が生じてしまうけれど、俺を除いた三人は同じ村の住人だ。
低学年の頃から、ご近所さんとして付き合いがあるのかもしれない。
空気の壁みたいな…俺が勝手に築き上げてきた他者との隔たりなど
元々この三人には全然なくて…清浄で透明な輪で繋がっているんだ。
今に始まったことじゃない疎外感。除け者。どうしたって頭から消せない。
そういえば、俺だけジャージ着用してません。曇天、暁、蒼天に囲まれた
自分はボーダーシャツにデニムのブルゾン羽織って、煉瓦色のチノパンツ。
紺色の上着ってことで、夕闇かな。自分には似合ってるのかもしれません。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
蝋燭を灯して吹き消す慣例もない。黙々とケーキを食するだけの誕生会。
迷信。誕生ケーキに齢の数だけ蝋燭を立てて
願い事をして、一息で吹き消すと願いが叶う。
月の女神様が由来らしい「風習」「運試し」
俺からすれば、物凄く不要な一幕。気恥しい。
招待客が歌うとか最悪。巻き込むなって思う。
そういう面倒を回避したくて、初めて自分の
誕生日を祝う流れとなったササキマサキ君は
寮母さんに飾りっ気のないフルーツロールを
所望したのかもしれません。そう窺えました。
フルーツロール、寮母さんの心遣いが窺える眼に鮮やかで柔らかな美味。
紅茶の香りを吸込んだ胸、凹んでいた心に温かな空気が注入された感じ。
宵の小宴、男子四人のティーパーティー。
俯瞰したなら、きっしょきもい光景です。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
肝心のマエダ先生の行方に関してですが、俺の知らないところで村人たちに
連絡を入れて訊ねてまわっていた協力者が複数名いた模様でした。
しかし、現在のところ行方知れず。手がかりは無し。
元二組級長の空気な木偶人形、最後の任務は
襲い掛かる不安で今夜は一人にはできない
シンちゃんの側に控えようと思います。
病室で一晩過ごすことになりました。
寄宿舎自室で…独りきりより…。
我が人生に於いて、二度と再現不可能だと思われる一晩限りのQuartette.
鯨井信、斎藤和眞、桜庭潤、猫間智翔、以上四名の一種異様な組み合わせ。
九時過ぎ、普通の病院なら消灯の頃…。シンちゃんは病室の照明を
青白い昼光色からオレンジ色したナツメ球の常夜灯へと変えました。
玄関ホールの廊下に置いてたラジオをシンちゃんが持って上がって
コンセントに電源プラグを差し込み、再びラジオを流し始めました。
リスナーのリクエストした楽曲を流し続ける単調な番組。
会話は殆ど無し。世話焼きエキスパートさんだって
本物の魔獣である訳じゃなく、普通の人間ですし
深夜に差し掛かる時刻を過ぎれば眠くもなるよ。
端から四人で共有可能な話題なんて見つかりませーん。
思い出づくりを兼ねて、猫間とプロレスでもしたら
シンちゃんの深い部分に沈み込んでしまった心を
少しは浮上させてあげられるかもしれません。
ハイ、危ない妄想へ思考が至る始末でした。
賑やかな空気を作り出してあげられたら…。
あー、そうだ。あの人だったら、そういった空気を生み出してくれる筈!
俺も一緒に見てたんだ。憶えてる。教室の窓から眺めた爆笑光景。
徐々に秋色へ染まりつつある桜の樹に縛り付けられた森魚の弟君。
俺や桜庭潤、猫間なんかじゃ何の役にも立たねーよ。
同じ元三組生徒でもシンちゃんが心底から慕ってる
大きな屋敷住まいの彰太君がいりゃ良かったのにィ。
彼だったら、シンちゃんの真の味方で頼れる大将に
なってくれるよな。俺にも楽勝で推理可能な真実だ。
森魚弟君専属御目付役を務めていた彼も、世話焼き
エキスパート特性を持っている。ああ、でもなぁ…。
彰太君は現在ここにいる世話焼きエキスパート暁の魔獣との相性『最悪』
暁の魔獣の前で彼の名を出せば、表情が変わるかも。
それくらい面倒な仲らしい。噂として存じてました。
キラキラ王子の化けの皮、剥がれ落ちるでしょうか?
敢えて、二人をご対面させてみたい気もしてくるぅ。
火花を散らすのか、ゴングが鳴るのか、見届けたい!
外道。そう陰口される三組構成員の副指令官的存在。
それでも何故なのか彰太君に強い嫌悪感を示せない。
自分と似てる。自分を偽って繕って生きてると思う。
アレらしいのを知ってる。耳にしてるっていうのに
俺が村から縁を切る形で忘れ去る。有耶無耶で終了。
退屈な自分好みじゃない楽曲が耳に入るから、馬鹿な思考に突入中なんだ。
周波数を変えるか、電源を切ってしまいたい気分ですけど、沈黙も苦痛だ。
断言すれば、この場に控える四名が馴染まない。少なくとも俺は三人を…。
明言は避けるしかない。三人は揃ってシンちゃんを心配している仲間です。
本当おかしいよな。診療所のマエダ先生、何処いっちゃったんでしょうね?
だが、イラつく。馴染めねぇ。他の三人とも美しい心。醜悪な心は俺だけ。
猫間が持ってきた白い傘の石突で百花繚乱してぇ!
思う存分、気が済むまで溜めに溜め込んでた鬱憤
突けるだけ突いてやる覚悟は完了。ヤらかしてぇ!
諸悪の根源、空気な木偶人形が自制心を失って、ご乱心の妄想してやがる。
白い傘が流血で真っ赤に染まる。猟奇的すぎる自分の狂いっぷり、笑える。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
俺が立膝で頬杖ついて寛いでる病室のベッド
その足元に腰かけている猫間が口を開いた…。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
刃物がすぐ掴める位置にあったなら本気でヤヴァい展開へ突入したかもね。
深夜の病室で、猫間が体験した本当にあった怖かった出来事を聞かされた。
ある夜、自宅で過ごしていた猫間が一人で観てたテレビが壊れたって内容。
一体どういう神経してんだ。時と場所の配慮に欠けすぎ。俺より壊れてる。
しかし、説明のつく事象です。全く以て心霊現象とは考えられません。
海外製の粗悪なテレビが派手にぶっ壊れただけ。それだけの出来事だ。
幽霊と呼ばれるモノ信じられません。絶対いねえ!
死んだ状態になっても訴えたい心情があるのかよ?
一体どこから活動熱量を得てるというのでしょう?
怨んだり、脅かしたり、恐怖を表す演出するのも
御苦労様としか申せません。愛情に似た強い執着。
ある意味、情熱的だと尊敬する気さえしてくるぅ。
映画に出てくる不死身の殺人モンスターさんって
元々はイジメで殺された少年なのに、気づいたら
体格のいい男性に変身しちゃってるのが謎だよな。
彼の名で想像する姿、ほぼ一致してしまう不思議。
一作目を観れば、死んだ息子を想う母親の悲嘆の
物語だって理解できる。哀傷から生まれた惨劇だ。
祟り神やオバケが生み出されるのは、裏に潜んだ
儲けたい輩の策略ってのが真相。本物のバケモノ。
祀られてる祠、ぶっ壊して差し上げる凶行も可能。
天罰はないと信じてる。怨恨を鎮魂で慰める人々。
その方々の心中を察すれば、自制すべき行為だと
分かるから実行しない。心の拠り所は必要ですし。
仏壇に墓石も無意味じゃない。俺は不要派だけど。
死んだら終わり。それで結構。自然の摂理なのに
彼の世、死の先があるなんて強欲の極みだと思う。
死んでからも身内とか上下左右みたいな厄介事に
囚われるのは御免だ。「思い」から解放されたい。
恐怖。そういった感情に支配されるのは理解可能。
安心するための行動を開始する布石となるものだ。
怖い怖い。騒いで構ってもらいたいんじゃねーの?
霊能者や占い師、ぼろ儲けできる素晴らしい商売。
人間は胸に溜め込んだ気持ちを聞いてほしいんだ。
まずは傾聴。そこから信頼に似た結びつきを持つ。
そして、実際は得体の知れない者の提言に従って
悩みごとを解決した心境を得たいってだけなんだ。
晃ちゃんが目指してる職業。探偵。或いは詐欺師。
だからって俺たちを巻き込むんじゃねーよ!
恐怖という感情を遥かに凌駕する、苛立ち。
一発ぶん殴ってやるか。儚く揺らぐ自制心。
妄想に於いては既に何度かコロしてまーす!
ソファに腰かけ、傾聴していたシンちゃんは困惑した表情。
その隣りに並んで座ってた暁の魔獣は、完全に寝てる模様。
「ごめん。ヘンな話して…。誰かに聞いてほしかった。それだけだよ。
たった一人で家にいるの怖くなって…他の誰にも言えなかったから…」
他の誰にもって、トリオ組んでるエムジェイや森魚兄者の存在は何なんだ?
友達とは呼べない関係なんでしょうか? 猫間たちについて考慮するのも
時間及び脳内消費熱量の無駄遣いでしか有り得ませんけど、僅かに気懸り。
まあ、俺も同様です。二組に俺の友と呼べる人物は一人もいませんでした。
十年間かけても取扱注意、精巧な硝子細工としか喩えられない微妙な関係。
強く結び付けなかった。心を預けていいと思える仲間は現れませんでした。
シンちゃんも、二組で相手にしてくれる相手が級長の俺くらいでしたから。
皆それぞれ向いてる方角が違う。誰とも馴染めない孤立集団が二組の実態。
悠ちゃんが休み時間、ふと口遊む胸の奥を狂わせる歌声。
「you」「風になれ -みどりのために-」「24時間の神話」
二組は奇異な壊れたクラスでした。そんなクラスの級長を務めていました。
修復不可能な欠けた箇所の目立つ造形物。荒れ果てた古戦場に靡く白旗…。
三組も異常な集まりだとしか思えませんでした。だって、色々と…アレだ。
可哀想だった。外道全員が被害者みたいに思える。そういった集団でした。
猫間もヤりたくてヤってた訳じゃないのは知ってる。けど、普通に腹立つ。
一組は担任も尊敬できる良いクラスでした。アレレな生徒を除けば最上級。
いや、彼だって何も悪くない。学校生活を面白くするため狂喜乱舞してた。
舞台袖の暗部、観客には見せられやしない部分、みんなの鬱積する重圧を
何とか笑いで和ませたくて、全員を癒したくて、努力奮闘したのが竜崎順。
その美周郎の側に従って、世話ヤいてた暁の魔獣も凄まじい人物だと思う。
俺なら断る。何の罰ゲームだって話。引き立て役。美形と並んで歩く猛者。
駄目馬鹿。もう済んだ十年間の話。現状では振り返りたくない夕闇の時間。
視えない何か、物事に振り回される時間は、もう今日を限りにしてほしい。
どうか少しでも早く、今の時間が『過去の出来事』へと姿を変えてほしい。
「ネコマ、家がすぐ側なのに帰らないで診療所にいる理由が分かった!
そんなに怖い思いしたなら不安だよなァ。オレだって、そうなると思う。
これからは遠慮しないで、寂しいときは、いつでも診療所へ来ていいよ。
ポップコーン、お鍋で弾けらかして出来立てのヤツ、一緒に食べよっ!」
オレンジの常夜灯越しでも窺える思いやりを湛えた眼差し。輝いた瞳。
控えめでも周りに生命力を分け与える力強い声は、本物の勇者の証明。
どんな逆境にも挫けず、自分の居場所を作り出す、真の強さの持ち主。
今のシンちゃんは思いきり嘆きたい筈だ。不安で堪らない状態なのに
空気を読めねぇ馬鹿のため優しさを向けられる懐のでかい漢なんです。
親愛の籠ったシンちゃんの発言を耳にした猫間、俺にも瞬速で伝わった。
ヤツを囲む空気が色づくよう大変化を遂げた。心が言葉で救われた奇跡。
「ありがとう。マコトにそう言ってもらえて、本当にうれしい。
俺一人が邪魔者なの分かってたけど、勇気出して本当良かった。
カズマ、ごめん。イヤなの分かってる。我慢させて本当ごめん」
猫間は、そこまで話したと同時に小さく欠伸をしやがりました。
声を出す気にもなれず、沈黙のまま…猫間と居場所を交換…。
居心地の悪さを共有してる者同士。これくらい当然のこと。
「ごめん。ありがとう。少しだけ寝かせて…」
沈黙の後、そう経たないうちに呼吸が寝息へ変わりました。
とどめは刺さないから安心していい。ここで朝まで寝てな。
何だか我慢比べでもしてる気分。寝たら負けというルールなどないのに
しばらくシンちゃんと二人、流れる楽曲に耳を傾けて過ごしていました。
「オレも限界っぽいよぅ…。誰かから連絡きたら出なきゃダメだ。
洗面所の冷たい水で顔でも洗ってこようかな。眠くてダメだァ…」
微かに顔を歪めてるシンちゃん、明らかに疲労を堪えているのが分かる姿。
診療所へ連絡が来たら斎藤さんが聞くから安心して休むように伝えました。
優しくはない。百花繚乱のドクズ星。
空気を感触で読み取れるだけの馬鹿。
情けなさを痛感させられるばかり…。
動ける木偶の坊。操られ人形。空気。
北の果ての村、最後の一夜でも思い知らされました。
どう頑張っても、俺は地に根を伸ばせない根なし草。
故郷に帰ったところで…風に吹かれて転がるだけ…?
根なし草といえば、エアープランツ。チランジア・イオナンタ。
以前、街で見かけて購入してみたけど意外と育てるのが面倒で
放置してたら、気づいた時にはミイラ化させてしまった大失敗。
日当たり、置き場所、ミスティング、ソーキング…。
知識不足で配慮に欠けてたんです。命を粗末にした。
そこら辺に生えてる草一本も、一つの生命体。
草取り、虫一匹潰す行為にも罪悪感を覚える。
菜食だって、要は命を奪って摂り込む行為だ。
無原罪の存在を信じられない。人間には無理。
生きる。生き続ける。楽じゃない。一人じゃ難しい。
どれだけイヤでも、何かと繋がって、関わらないと
生存状態を継続させることは不可能なんでしょうね。
現在の自分が衣服を纏って、空腹も満たされている。
村の診療所の病室。ベッドの隅に腰かけて寛いでる。
それだけで多種多様のモノに関わっていると気づく。
一人きりじゃ生きられない。心身に沁みて理解可能。
自分には欠落している親愛の情…。
己の利益でしか他者と関われない。
必死になれば、誤魔化せるかもしれないが
完治不能な生まれついての持病だと思える。
斎藤和眞の率直な心情を吐露いたしますと
これからの時間、明日が不安で堪りません。
明日から始まる不安に襲われ、寝つけねぇ。
親が取り出した缶入りドロップの色は…白…だった。
がっかり残念、そのまま缶に戻せば良かったのにィ。
茶色、チョコ味が自分にとっての当たり。
今すぐにでも、チョコちゃんになりてぇ。
願いが叶うなら、幾千兆でも言葉を放つ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
ベージュのカーテンが窓から差し込む朝の光を明るく映し出しています。
少し経ったら流したままのラジオも番組が切り替わり、アナウンサーが
ニュースの原稿を読んでいます。昨晩の天気予報で聞いたとおり、晴れ?
俺も少し寝てたと思う。気持ちは一睡もしてないけど
幾らか記憶が抜けてる。その間に雨音が止んでました。
自分を除いた三人は寝息を立てています。
エアコンの空調で寒くはないでしょうが
ソファに座ったままの状態で眠った二人、
目を覚ましたら…逆に疲れを感じそう…。
現在、ベッドで安眠爆睡中なのが猫間智翔。
そんな曇天ジャージに布団をかけ直したり
ソファに身を預けてる二人に大判タオルを
かけてやってる自分、何なんでしょうねぇ?
アンタは忍者かよって調子で、物音を立てないよう気ィ遣ってまーす。
そぅっと、ゆっくり静かにカーテンを開いてみました。
両眼に突き刺さる黄色い暁光。通りの路面も乾いてる。
…!!…
焦げ茶。キジトラの猫が通りを歩くところを見つけました。
短い尻尾をピコピコ振りながら移動してる。可愛いなぁ。
確か鍵尻尾。長毛だからフサフサだ。浦島太郎さんを
竜宮城まで連れて行く大きな亀の尻尾にも似てる。
正確には尾じゃなく、甲羅に付着した藻ですが。
それでも浦島さんに幸福な時間を与えてくれた不思議な尻尾に間違いない。
帰りたいと思えるような時間や場所、今後の自分に必要だ。心から欲する。
あーあ、キジトラ長毛ふわとろにゃんこ
ここから通りを挟んで斜め向かいの家に
入ってしまった。そこ、玄関の引き戸を
少し開け放してある。もうちょっとだけ
可愛らしい姿を眺めさせてほしかった…。
ふわとろにゃんこ、近くで姿を眺めたい。
近づいて逃げなかったら、撫でてみたい。
事と次第に拠っちゃ連れて帰る。猫泥棒。
いいなぁ、猫…。実家へ帰ったら、俺も飼いてぇ!
猫と過ごす時間、留守を待つ猫のために帰宅する。
身近に友達いねぇ現実を紛らわすことが出来そう。
明日を生きる心の支え、拠り所となってくれる筈。
猫との生活は大変だとも思うが、神経質で面倒な
キヨと十年間ほど暮らした実績がある。飼育可能!
この件は真面目に考える。実家へ帰って真剣にッ!
窓に背を向ける。両眼に留めたいと思う景色、この村には無いと断言する。
俺の背が朝日を遮り、奇妙と称せる一夜を過ごした三人に陰を与えている。
三月の薄い陽射しが温かく伝わる。それだけで充分。俺の恩賞と成り得る。
村の寄宿舎付学校で過ごした十年間、良い出来事ばかりじゃなかったけど
友、仲間と称せる人たちと笑い合えた時間もありました。それは真実です。
本日を以て…俺は村を出て行く…。十年間の学校生活は終了したのだから。
不安だ。心霊現象の方がマシに思えるくらいの恐怖…。朝日を背に受ける。
親孝行。その一心で我慢し続けてきた年月だった。今後も継続させるだけ。
背中で受け取る声なき応援。太陽の光。心の支えとして見守ってもらおう。
いつまで木偶人形が人間の振りしていられるか自分なりに頑張ってみよう!
「暗い! 邪魔だよォ、斎藤。そこにいると、くっらぁーい!」
右隣で軽く鼾をかいてるシンちゃん越しに、暁の魔獣が目を合わせてきた。
暁の使徒だもんな。朝の陽光を十分に浴びなきゃ活力が得られないのです。
一歩分だけ身体を右へ移動させたら、桜庭潤が勢いよく立ち上がった。
キラキラ王子の光合成活動開始。中途半端に開いてるカーテンを全開。
室内の明度が一気に増した感じです。病室の向きがいいんでしょうね。
窓にサンキャッチャーを吊るしたら部屋中に虹が散らばって綺麗かも。
キヨが寄宿舎の俺たちの自室で吊るしてたっけ。部屋の向きの所為で
小さい虹の群れが見られるのは昼過ぎてからの僅かな時間でしたけど。
俺の左側で朝日を全身に浴びてる桜庭潤。この人も、あと少し経てば
もしかしたら、二度と姿を見ることが出来なくなるのかもしれません。
そう思うと少し寂しいけど、彼は本当に濁りのない清浄な仲間でした。
「斎藤、具合はどう? 少しは回復した?
顔色は昨日より良くなった気がするけどな」
こっちを向いての質問でしたから、黙って頷きました。快調ではないけど。
「だったら、これから四人揃って共同浴場へ行こっ。
出発する前に昨日の疲れ取る時間くらいあるだろ?」
暁の魔獣は数多の称号を持つ男でありますが、最後に一つ思い出しました。
「いえ、流石に風呂には付き合えません。しずかちゃんマンさん。
そういったことは寄宿舎に帰ってから済ませようと思いますんで」
彼と共同浴場で会ったが最後、名セリフ「きゃあ、○○さんのエッチ!」
湯の入った風呂桶を投げつけられるか、彼が浴槽に浸かっている場合は
湯をバシャバシャかけられる定番ネタが敢行される。こっちは大迷惑…。
そういうのもあって、共同浴場へ通う時間帯を意図的にずらしてました。
スミマセーン、あまり具体的な想像すべき内容の挿話じゃありませんね。
食欲もない。出発の準備を終えたら、静かに北の外れの村から旅立とう。
「なんかさァ、くるっと変わっちまったな。元二組級長の斎藤さーん。
前は一緒にシャワー浴びますか?とか言ったりしてた奴だったのにィ」
そんな風に言ったら、そっちが退くと考えた上での発言です。
誰が一緒にシャワー浴びるかよ!ってぇ話になっちゃいます。
「シンちゃんたち起こしたら可哀想だし、もう行きます。それじゃあ」
この村には、もう一人として名残を惜しむ必要のある人物はいやしねぇ。
一昨日の夕刻…その人物とは呆気ない別れを済ませていたのですから…。
両耳に注ぎ込まれ続けるラジオの音声にも耐え切れなくなっていましたし
ささやかな夢が見れました。一人暮らしの部屋に友を招き一夜を明かす夢。
「俺たちに黙って甘えてくれりゃ、朝メシも用意してやるのにィ。
ま、いいや。俺も見送りに行くから、後で駅のホームで会おう!」
逆光の中で見る和やかな笑顔。優しき魔獣さんと目礼を交わしての退室。
見送りなんて必要ないと言ったら、また長々と難儀な話になりそうです。
本日は、全てに於いて相手の気持ちを尊重しといたらいいと思いました。
貰えるものなら何でも頂戴しときます。要らなきゃ黙って後で廃棄処分。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「麗らか」としか喩える言葉が見つからない春空の下。
頭端式一面二線の駅。一番線の乗り場に立っています。
どうせなら美しい言葉だけを紡ぎたい。空に薄く広がる雲。
こっちは桜が咲くのはまだ先の話。地面にも黒く煤けた残雪。
空気は冷涼。最初から最後まで変わらず心を凍てつかせた北国。
まだ美しいと呼ぶには時期尚早かもな。却って俺に相応しい気がする。
帰郷する斎藤和眞を見送るため、来てくれた連中がいるのは有難いと思う。
貴重な時間を割かせたことに恐縮するけど、来たくて来たってヤツいるの?
「花束贈呈も考えたんだけど、長旅の邪魔になると思って自粛した。
その代わり、コレ。うちの家政婦さんが作ってくれたお弁当だけど
途中で食べてもらえたら、うれしいな。紙の箱に詰めたから丸ごと
捨てても大丈夫。気持ちだけでも受け取ってほしいんだ。どうぞ…」
陽ちゃんが数名並ぶ前に立って、直方体の紙包みを差し出してきました。
本来、彼が二組の級長になるべき人物でした。真心からと伝わる優しさ。
学校の生徒総代になっても文句なし。陽ちゃま。周りから愛される人物。
無性に謝りたい気持ちが湧き上がる。眩い輝きを放つ者を抑えつけた罪。
口角を上げ、頭を下げ、受け取りました。
食べるかどうかは未定。美味いのは確実。
さっきから気になって仕方ない。涙ぼろぼろ。泣き崩れそうに立ってる。
俺が原因なの? 元二組の吟遊詩人の涙腺が完全崩壊、大洪水の慟哭中。
どうしたって、誰だって、俺が視線を向ける方に気づいて当然だと思う。
「ああ、悠のヤツ…。なんかもう昨日から、あんな調子で見てらんない。
分かってくれるでしょ。我らが君主は自分で思い込んでるよりずーっと
二組の生徒にとって、大きい存在だった証拠だよ。その眼に焼き付けて」
だからと言って、胸に刻みたくない光景。
これ以上、苦しい情景を増やしたくねえ!
諦め切った、悟り切った清らかな微笑み。
杜陽春は、俺よりも遥かに大人びている。
だからこそ、この人の側にいるのは辛い。
俺が規格外の欠陥品だと思い知らされる。
本物の善人と知ってしまってから、彼に
髪を触れられるのが怖くなってしまった。
過敏。他人との触れ合い、じゃれ合い…。苦手、駄目、無理と変わった。
だったら、殺し合いの方を選択。どっちか死ぬなら、気持ちも楽になる。
俺の向かいに立つ男の方が本来の器が大きい。それくらい知ってまーす。
どこかにそういう真実が映り込んでるかもしれない。晒し台に載った首。
「サイトーさん、リンバラ君とソーマ君、やっぱり間に合わないっぽいな。
出がけにリンバラ君の積み荷が大崩壊しちゃったんだってさ。ソーマ君が
早く片付いたら来るって話してたんだけど、来れないのかも。ザンネン…」
シンちゃんの空色ジャージ姿は忘れません。胸の中、そっと大事にします。
そして、こういった状況下での晃ちゃんのトラブル発生は通常運転でーす。
最後まで期待を裏切らず、笑わせてくれやがる。マスコット的存在でした。
タッちゃん、あの人が一年生春に放った問題発言。たぶん生涯の心的外傷。
長老様、いつまでも御達者でと思う。寡黙でも人気があった。好かれてた。
アレ…。晴ちゃんが来る訳ありません。抜け出せなかった仇敵に近い関係。
俺たちの何が受け付けなかったのか、解けそうにない謎。悔い。百花繚乱。
それより、俺にはハシムとオヤギの二人が来てくれたことが微かな歓びだ。
暁の魔獣に見守られながら、ベンチに広げたノートに何か書き込んでます。
なんか知らないけど、猫間まで来てます。元三組代表ということにしとく。
…時計…
間もなく乗り込まないと。そういう時間になりました。お別れの瞬間。
出棺。違うってのに奇妙な連想を懐いてしまう。縁起でもなさすぎる。
髪からシャンプーの匂いをさせてるシンちゃんが目の前に立ちました。
昨日の朝と全く同じ展開。お互いの視線を合わせたら…涙を零した…。
悲しい。物凄く悲しい。それなのに、涙は出ない。出せない。
両目の欠陥。構造上の問題だと思い込む。ナサケネェナァ…。
両手を握られた。こんなことして気持ち悪いと思わないんでしょうか?
サイトーさんと手を握り合うなんて物凄く気持ち悪りぃんじゃねーの?
…………………………。
…………………………。
…………………………。
本当の友達。俺を兄のように慕ってくれている。絶対の信頼。純粋な好意。
そんな価値のない人間であることを心得てはいる。けど、期待に添いたい。
思いを受け取った。シンちゃんの望みを俺の全力で叶えてあげたいと思う。
「また逢いたい。サイトーさんの住んでる島、いつか遊びに行く。絶対!」
涙を流しながら精一杯の笑顔を向けてくれた。強くて優しい本物の癒し手。
二組では、シンちゃんだけは友達だった。そう思い込むことに決めました。
いつかきっと、シンちゃんと笑顔で再会できる日が訪れると信じてみます。
マエダ先生の行方が気懸りですが、近いうち必ず戻られると信じ込みます。
…………………………。
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恥と痛みの夕暮れが遠ざかるほど、近づいてくる夜明けの不安と戸惑い。
…………………………。
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…………………………。
…………………………。
実家で迎える朝。本日で三日目の朝。
未だに落ち着かない。それでも自室。
一人で過ごして構わない空間にいる。
元二組の生き残りたち、元一組では暁の魔獣とハシムにオヤギ
ついでに猫間まで書き込んでやがる…元二組級長、斎藤和眞へ
寄せるメッセージが綴られた一冊のノートを眺めているところ。
気になる。悠ちゃんが書いた数頁に亘る長い文章。
俺に対して猛烈な罪悪感を懐いてると窺える内容。
前世?なんか不思議ィ。スピリチュアルな物語を
読まされてる気がしてなりません。狼狽。戸惑う。
悠ちゃんが人生の選択を間違えた所為で、俺を巻き込んだ?
とんでもない迷惑をかけ、苦しめる結果となってしまった?
それも一度じゃないんだそうです。意味不明にも程がある。
二年生の初夏の頃から悠ちゃんの心に奇妙な記憶が映り込むようになった。
それが他クラスの某生徒へ向ける憎悪となった。復讐で虐めてたんだって。
虐められた生徒が虐めの仕返し。悠ちゃんの復讐を復讐で返してきた結末。
高橋虎鉄と新山紫峻。三年生の夏期休暇中に消息を絶って
六年生の夏期休暇、二人は山中で他殺体となり発見された。
本来なら自分も犠牲となる筈が、家族旅行で留守にしてて
難を逃れることができた。…という風に綴られていました。
…犯人…
キヨが九年生の雪降る日の午後、口にした通学生の筈だ。
二組の二生徒を殺害した罪を償って、吊るされるべき者?
個人的には嫌いじゃない人。面倒見のいい人だと思った。
子どもが子どもを殺した事件。どう始末をつけるべきだ?
寄宿舎生である俺は通学生の細かい事情を知らない。興味ねえ。
罪人を縛り上げたところで、もう帰ってきてくれない二人の命。
その事実を静寂な気持ちで受け入れる。それしかないでしょう。
黙認された犯行。意外と大勢が真実を知ってるのかも…。
七年生七月初めの日曜、小雨から土砂降りとなった午後。
悠ちゃんの自室、繰り返し流される二人を偲ぶ曲「you」
それを止めて、悠ちゃん自身が歌い出した。
憶えてる。忘れるかよ…。悠ちゃんの歌声。
信じてる。愛してるとは程遠い揺さ振り…。
思い出したら…胸の奥…何処かが発狂する。
現在でも回復までに幾らかの時間を要する。
自分には「魔の曲」「禁忌」となった一曲。
悠ちゃんの自室に二組の五名が揃った不思議な時間がありました。
あの日、悠ちゃんが頼んで招待した人物が一人いたのだそうです。
振り返れば導き出せる…あの人に助けを求めたのが…松浦悠一郎。
今後、何らかの問題で困ったときは、あの人に連絡を取ることを
俺に勧めたい。そのような趣旨の文章で締め括られたメッセージ。
あの人からのメッセージは簡潔なものでした。一言と連絡先のみ。
トラブってた最中だから同室の晃ちゃんと同じく走り書きに近い。
申し訳なくも思うけど、好んで連絡を取りたいとは思わない人物。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
駄目無理。頭の中に悠ちゃん…あのときの歌声が響いてきた…。壊れる。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
ノートを本棚の奥へ仕舞うことに決めました。それが一時凌ぎの解決法。
過去を向いて得られるものは、恥と痛みだけ。
今を生きるには、今を何より大切にしないと。
昨日、言われました。今日から客扱いを止めて従業員と同じく扱うってさ。
大女将である祖母からは離れの客室専用の鍵を預けられました。桔梗の間。
インビジブルを有難がってる不思議な旅館です。ぜひ一度お越しください。
◆本当の気持ち. 鯨井信
マエダ先生、一人して何処へ行っちゃったんだよぅ?
診療所に置き手紙一枚も残さないなんて、ひどいや。
なして、いきなり、何も言わないで、いなくなっちゃったんだよ?!
朝、オレが起きてきたら、先生はいつだって、とっくに起きててさァ
ごはんとか、洗濯とか、外の掃除も、色々な支度してたじゃないか…。
つい忘れちゃうから、ちゃんと顔拭けって首の後ろや耳とか拭いてくれた。
男なのにお母さんみたいに細かく世話してくれてさ、本当に大好きだった!
先生は、オレのもう一人のお父さんだと思ってたから親孝行したかったよ!
早く街の歯医者へ行けって、いつも言うのに歯医者が怖くて行かないから
だから、怒っちゃった? ひょっとして、いなくなったのオレのせいなの?
でも、昨日の学校の卒業式だって、ちゃんと一緒に出席してくれて
喜んで見ててくれたよな。こっそり泣いてたのは内緒にしとくから。
それなのに、なんでだよ?
また、オレ、ひと…り…?
ごめんなさい。これから勇気だして街の歯医者にも通う。約束するよぅ!
だけど、風邪ひいた子どもとか、ヒザとか腰とか痛くて診療所へ来る村の人
ほったらかすなんて変だよ。先生、そんなのほっとくような人じゃないのに。
まさか、オレのぃ… いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだー!!
オレ、またマエダ先生が帰ってきてくれるのを待ってるからさ!
村の診療所で、お留守番して、毎日しっかり勉強して待ってる!
包帯の巻き方とか、もっとしっかり出来るよう練習も続けるよ!
マエダ先生、だから早く帰ってきてーッ!!
オレはバカだから、学校のみんなよりも一生懸命に勉強してさ
いつかきっとミコちゃんの両方の目をまた見えさせるような
魔法使いみたいなお医者さんになろうと思ってるんだよ。
村で暮らす人たちのためにも、先生みたいに頑張ってみせるんだ!
通知表ないから本当はわかんないけど、オレが授業を見た中で
たぶん二組で一番に勉強できた人は、ソーマ君だったと思うよ。
物知りで器用でさ、木彫りでいろんな物を作ってくれたもんな。
落語もすごい上手だ。勉強になって笑えるって最高だと思った。
昼にテニスしてる中で一番格好良い王子様だった。ビシッなの!
きっと、オレはソーマ君が学校で一番でかかったからだと思う。
物静かな学校で一番懐でかいオトナの男。憧れの「麗しの星の王子様」だ。
それでね、二番目が二組級長のサイトーさんだな。
「ジェントルメンズ」「美しい」って言葉を使う
二組を頑張って明るく面白くしようと努力した人。
「美しい」って言葉は…美しい…。オレも見習う。
学校で、オレの居場所をくれた救い主。神様。天使。だから、大好きな人!
サイトーさんが変身したの、タカハシとニイヤマの二人がいなくなってから。
最初は無口でさァ、もっと静かな人だった。あの人の出身、中央より南西…。
オレの知らない小さな離島。きっと、竜宮城みたいな島から来たんだと思う。
オレたちが本気で喋っていること聞き取れなかったりしてたみたいだった。
オレも生まれたのは中央の方らしいんだけど、ちっとも記憶にないしなァ。
ずっと遠くの竜宮城みたいな島の実家へ帰って宿泊関係の仕事するんだよ。
サイトーさんらしく美しい心で紳士的に仕事を頑張っていくんだと思うな。
俺も遊びに行きたい。一緒に海を眺めてさ「大層美しい!」って叫ぶんだ!
オレに最後まで優しくしてくれた。味方でいてくれた。本当にありがとう。
具合悪くても側に居てくれたこと忘れない。いつか恩返しできたらと思う。
手紙を出す。返事もらえなくてもサイトーさんとの縁は切りたくないよぅ。
学校二組の我らが君主、オレの拠り所だ。オレのお兄ちゃんでいてほしい。
んーと、そうだなー?
クラスの成績は、やっぱり背の順番か?
ああ、二組で一番小さいヤッチが三番目だった。
それなのに、し、ぅ、ううん。…違う…。いる。
ヤッチはねぇ、いつも矢鱈と笑う人になって良かった!
以前は、あんまし、そうじゃなかったから、本当に良かった!
「ラクしてススムくん」になったんだってさ、笑ってたんだよー!
一人でイジけて泣いてるより、みんな仲良く笑って楽しく歩んでいこう!
オレにも教えてくれた二組の軍師さんだよ。君主は、サイトーさんだからな。
大丈夫。オレの心、晴れた空の下に…いる…。いつも、いつでも笑ってる!
冷たくて悲しい目を前髪で隠す必要ないんだ。額出した方が明るく笑える。
身体も全部元通り。左手も隠すことない。何だって不自由なくできるんだ。
幸運の特賞籤を引く手だ。オレも肖りたい。ファンだったラジオも聴くよ。
モリ君、お母さんが二人いるんだって。ちょっと羨ましく思う。
寄宿舎の人たちは、寮母の高橋さんのお世話になってたからか
他のクラスの生徒たちだって、モリ君には優しく接してたなー。
陽ちゃま、だもん。王子名のない王子様かもだと思ってたよぅ。
タカハシとは、従兄弟だったんだって。フクザツな家庭みたい。
兎も角、神隠しになっても、すぐ見つかって良かった。一安心!
モリ君は、相当オシャレさんで、鋏をシャキンって、格好良いよなァ!
モリ君の家に行ったら首だけのマネキンが何個もあるんだもん。
髪いじりの練習用の…。先生も最初ちょっとビビってたでしょ?
物凄く親切な人で、ほったらかしにされてた新山緋美佳の妹さんを
髪とか結ってあげたり、こまめに世話やいてあげてた。偉いと思うよ。
いつか碧依ちゃんのこと迎えに行くんじゃないかな。これ絶対だと思う!
マツーラ君も元気になった。なんか前より太ったよなー?
家でゲームばっかしてるからかなァ。よし、次はダイエットだ。
オレも付き合って、いつでも一緒に走るよぅ。ガンバレーッてさぁ!
マツーラ君のこと見てると、タカハシやニイヤマがいた頃を思い出すんだ。
何だか心の引き出しみたいだな。いいな。そういうのって、すごくいいよなァ。
歌が最強。圧倒的歌唱力でさ、聴いてると涙が出て仕方なくなる反則技だよ。
マツーラ君のテノール、アカペラ「風になれ-みどりのために」必殺技なの。
耳にしたら、泣くよ。自然と涙が零れ落ちてくるよ。胸の奥が転げ嘆き狂う。
聴きたくても、聴いたら、泣いちゃうもん。あの人、二組の秘密兵器なんだ。
音楽の授業、好きな曲を歌唱する課題でさ、先生も揃って全員が泣いた時間。
澄み切った透明な風みたいに吹き抜けていく緑色した歌声だよ。大層美しい。
「きみが壊れた」は、サイトーさんを泣かせちゃった最恐の一曲なんだって。
両目から流れ続けて止まらない涙で、みんなを行動不能にしちゃう吟遊詩人。
タカハシやニイヤマとも、もっと仲良く遊びたかった。だから、夢で遊ぶよ!
侍ニシヤンは、いつも机で何か書いてる一番の無口無双だったよ。
だから、みんな弱っちゃう。なんでなんだろうな? 病気の所為?
オレたち、イジメとかしてない。本気だすと激烈に強いんだから
他のクラスのヤツらだって、怖がってケンカ売る人いなかったし。
二組の不思議だったのは、担任の池田先生より、この人だと思う。
周りのみんな、毎日ニシヤンに殺されてたんだ。黙殺。痛かった。
いつだって、寮母さんと緋美佳ちゃんに甘えてた我儘な王子様だ。
校長先生の養子さんだからかなァ。口聞かないから分かんないや。
もう四月になって、他は誰もいない寄宿舎に一人居残ってる。
いつまで高橋さんと緋美佳ちゃんに面倒見てもらうんだろう?
リンバラ君は、絵がとんでもなくヘタクソなんだ。びっくりしちゃうよぅ。
なんかさァ、面白いの。見てると笑っちゃう。物にぶつかるのが得意技だ。
勉強も…オレよりずっとアレだから…。ごめん。助かってたかもしれない。
しゃべるのも上手じゃない。ずっと遠いところから来た人みたいだもん。
不思議な感じで、三組のいつも帽子かぶった人と仲良く遊びに行ったり
夏目たちや他の外道にイジメられたりしてた。当然みんなで助けてたよ。
赤い髪や灰色の目とかの何が悪いのか、オレには全然わかんないなァ…。
他と違ってちゃダメなのか? オレ、そのままで全然いいって思うよぅ。
リンバラ君はさァ、誰かの失くしものを見つける仕事がしたいんだって。
お金をたくさん貯めて、孤児院みたいなところを作るのが夢なんだってさ!
オレもリンバラ君の夢が叶うように応援するつもりだよ。ガンバレーって!
三組の外道たち、オレにも歯欠けとかって言ってきた。本当のことだけどさ。
きっと誰かを貶めることで、気持ちを楽にしたくて仕方なかったんだと思う。
前にオレが自分一人で伸びた前髪を切ったとき…すごいゲラゲラ笑われた…。
それでも夏目二匹がおとなしくなっちゃって学校の意地悪おしまいになった。
彰太君もさァ、三組の仲間といるときは…。
いるときだけ…意地悪…になってたんだよ。
級友だからかなァ? いつもと変わるの…。
でも、本当はとっても心の優しい人なの知ってるから
いつも我慢して聞いてた。べつにいいんだ、オレは…。
オレ、決めた。お兄ちゃんになってもらう。彰太君と本当の家族になる!
弟になったら、もし弟だったら今頃…。お兄ちゃんを困らせちゃダメだ。
しっかりした良い弟にならなきゃいけない。これから弟の修行を頑張る。
何を言われても叩かれても負けないのが本当に強い人間だって学習した。
彰太君とつるんでるドクズや三組のオヤブン、アネサンから
「ブサイク」「接近禁止!」とか結構きつい言葉を使われても
二組は、ちーっとも気にしない。クラス全員そう決めてたんだよ。
ひどいこと言われたら、早く忘れる。それが「美しい解決法」だってさ!
言い返してたら、また繰り返しちゃうだけだもんな。
それがどんどん繋がって鎖みたいになっちゃって
自分も周りも苦しむだけだ。それは駄目だよぅ。
サイトーさんも自分のところで止めてたの。意地悪はここでおしまいってさ。
それで、またみんなで楽しく笑えるようになる。すごい不思議な魔法だよな。
みんな素晴らしい人だからさ、二組は学校で一番いいクラスだったと思うよ。
オレ、まだまだバカだから医師になる自信はないけど、勉強を頑張ってみる。
ここで、マエダ先生に約束するよ!
オレ、ゆっくりでも自分で勉強を続ける!
自己管理指導担当、相談相手になるため頑張る!
今は、姿が見えてなくても
いつもオレの心の中にいてくれる
マエダ先生に、絶対の約束をするよっ!
本当の気持ち、真っ正直に伝えたからな。みんな…!
◆或る母の心を持つ者の独白.
どうしても、どうしても、どうしても、どうしても、どうしても
あの子の哀れな運命を変えることは出来ないのでしょうか?
何をしても、それは…不可能…なのでしょうか?
私が一人の子に託したものは…
強く交わした約束を果たすことが救いとなり
いずれの日にか、それが新たな命を運ぶこととなり
ささやかな幸福へと導く、ともしびになると信じています。
一人の子は、強靭な心の持ち主ですから、何の心配もありません。
慈母に愛された幸運なる者は、一切の大罪を犯すことはないでしょう。
ただ…あの子は…。
だから、私は、悪魔と契約してでも、恋を叶えてあげたい。そう決めました。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
どれだけ謝っても赦されない酷い約束を彼女へ与えます。
私は…あの子たちのために…犠牲者を…出します…。
二人の子を助けてあげられなかったことは…激しい心残りとなります…。
悔やんでも悔やみきれませんが、何もできませんでした。ごめんなさい。
◆或る卒業生の独白.
僕は、ムーンストーンの…。
どうでもいい呼称は必要ない。ただ早く帰りたいだけだった。
普通の生活を続けるから、この呼称も序列も返してやりたい。
自分の夢を叶えるために旅立って、また此処へ戻る。
僕は欲張りだから、手放したくないものだらけだし。
誰よりも欲しい、あの子が…。
ピノコだって恋を叶えていい筈だ。
あの子は、 じゃないけど。
いいでしょ。僕はトクベツ。神様だって言うこと聞くレベル。
あいつとはイヤだけど、もう一人とは以前以上に親しくする。
これは、世界の秘密を知った
本物の王子の末弟の独り言だ。
笑って聞き流せよ…。かしこ。
◆居残り勉強. 西谷晴一
閉校後、村の学校は校長の養子である西谷晴一の名義で管理される。
最初から決められていたが他人事だ。こんな村、もう居る必要ない。
寮母を務めてくれた高橋さんに書類を譲渡した。好きにして構わない。
恩給代わりといったところだ。二束三文にもならない財産だろうが…。
固辞されても無理やり押し付ける形で預かってもらった。
親に売られた俺が大嫌いな学校と縁を切るための儀式だ。
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五月、前庭の桜が散った頃、俺に宛てた書簡が届いたんだ。
一人きり学校に居残る必要がなくなった有難い吉報だった。
やっと荷物をまとめて出て行く足掛かりを掴むことができた。
この好機を逃す手はない。中央へ出て、部屋を借りて暮らす。
「良かったね。手当たり次第、遠い地方の新聞社にも作品を送った
甲斐があったじゃない。おめでとう。本が出版されたら必ず読むよ。
私も早く働ける場所を見つけて、この村から出て行ってやるんだ!」
七年生から俺の世話を焼いてきたニイヤマの妹、緋美佳が自室に
夕食を持ってきたついでに祝福の言葉を残して立ち去ろうとした。
「仕事を探してるなら、中央の方が割の良い職場が見つかるかもしれない」
扉の前で振り返った緋美佳の顔、驚きを隠せないって表現そのものだった。
「どういう意味ィ? まさか一緒に行こうって誘ってる訳じゃないよね?」
「そっちが受け取ったままの意味だ。俺が生活に必要な家具や道具を買う。
二人で部屋をシェアして使えば、お互いに助かる部分もある。共存しよう」
「ああ、分かった。私に部屋の掃除や食事の用意とか頼みたいってことか」
「俺の持病もあるし、やっぱり一人きりじゃ面倒なこともあると思うから
お互いに利用できる部分を利用し合おう。こっちは経済的な援助ができる」
「いきなり言われてもなぁ…。もう少し考えさせてよ。じゃあ、おやすみ」
苦笑いして扉を閉められた。おやすみには早い時間だけどな。
現在、寄宿舎にいるのは俺の他に高橋さんと緋美佳の三人だ。
うるさくて仕方なかった他の連中が立てる物音、もう聞こえない。
静まり返って不気味に感じる。俺は菓子箱に残された湿気た最中。
緋美佳に頼んで買ってもらって付けた扉の内鍵も意味をなさない。
馬鹿らしい十年間を過ごしてしまったと思うが、今更もう戻せない歳月だ。
谷地敦彦
中央へ出たら最初に訪ねようと考えている元級友の自宅。
残されたままの私物を同室者だった俺が手渡すつもりだ。
逢おうにも逢えない場所へ往った人間を慕い続けても時間の無駄遣い。
手を合わせる場所へ出向けるのなら、胸の内で謝罪の言葉を伝えたい。
「大人数の食事を作らなくていいし、手間暇かかるメニュー作らせて」
今朝も高橋さんは俺に気を遣ってくれたが、適当で構わないと濁した。
春になると出されるネマガリタケの料理…村を出たら食えないのか…。
高橋さんが俺の分まで食事を作る手間、もうじき卒業させられるのが
良かったようでいて、やっぱりどこか寂しくもある。甘えすぎていた。
実の息子である杜陽春は、本格的に美容師の資格を得たいらしくて
四月、一人で中央近辺にある都市に旅立っている。親切な頑張り屋。
俺の髪も切ってくれてたんだ。一番世話になった級友だと思ってる。
母親に似た笑顔で、余計な会話しないで済む気遣いをしてくれてた。
遠慮せずに親しくするべき相手だったと思う。後悔しても遅いか…。
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村の商店、墓参り用の花も売ってたり、色々な品物が揃ってるんだな。
偶に文具を買いに行く程度で他の棚を見てまわることもなかったから
俺の眼には新鮮な刺激となった。村に残る学校の元生徒が少ないから
余計な気を遣う必要もなくて、のんびり穏やかな気分で買い物できた。
明日は街のショッピングセンターへ行く。当面の衣類など買うつもり。
狭くて長い坂道を登った先にある村内の墓地。六年生の夏休み明け
タカハシとニイヤマの葬儀以来だ。独特の空気が胸をざわつかせる。
卒業しても未だに学校の制服を着て歩いてる馬鹿は俺だけだろうな。
それでもタカハシとニイヤマに会うのに一番相応しい格好だと思う。
俺を見て笑うヤツはいない筈だし、まだ自分の喪服を誂る気もない。
「墓参りに付き合ってくれて、ありがとう。二人も喜んでると思う」
双子だけあって緋美佳は兄の紫峻と似てるんだ。
それで最初は馴染めなかった。嫌いだったから。
兄貴のニイヤマとタカハシは最悪な二人だった。
教室で起きた出来事、忘れたい記憶ばっかり…。
そういったのを置いてくための墓場なんだろう。
「転ばないよう気をつけてね。縁起が悪いし、怪我したら大変だよ」
耳に入ってくる不快な雑音は心に穴を開け、眼に視えない血を流してた。
誰かの言葉を聞いて話さないと何も伝わらないのが面倒だけど
何かを伝えなければ生きていけない。生きる手段だ。
遅いスタートだけど、ゴールを目指してみる気になった。
どこに行きつくかは分からなくても、いつまでも学校で
居残り勉強してる訳にはいかないもんな。俺も旅立つよ。
「なんで、そんなに笑ってるの? いつもと違って薄気味悪いんだけど」
理由はある。今朝見つけたんだ。引き出しの中、雪が融けてた。笑うさ。
村の高台にある墓地、黙って空を見上げた。
気持ち良く晴れている。俺に相応しい天気。
◆カルサイトの羊の独白.
この物語を幸せな形で終らせたいなら、これ以上は読まないでください。
私は『ペリドットの蛇』の正体なんて、どうでもいいことだと思います。
磨き上げたような瞳を輝かせ、生命力に満ちた声で笑っていた鯨井信も
ごく普通に成長していって、ごく普通の成人男性に…変身…するのです。
当然のことが…悲劇を呼ぶのです…心の美しいジェントルメンズたちは
少年のままにしておくべき。そう私は願うので、ご忠告申し上げました。