Innuendo
◆Innuendo. 相馬達哉
十年生十月、山の紅葉が眼を愉しませてくれる頃。
学校生活最後の学習発表会が間もなく控えている。
俺も二組の演目で古典落語を話して茶を濁す予定。
喋らないヤツが流暢に語るところを見せ付ける場。
舞台に上がるのも最後だと思えば、多少なりとも
感傷と呼べるもんが湧いてくるようだ。ガキだし。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
日曜、今朝の夢見は悪かった。食事は抜きだ。あんな夢、食欲を失くす。
『草の時代』
俺自身、頭が混乱しないよう区別つけるために名付けた
以前に通っていた学校での嫌な不始末が夢に出やがった。
俺は『過去の出来事』と記憶しているが、大概のヤツには話しても
理解や賛同は得られやしない。元から『なかったこと』なんだ。
俺にしてみりゃ恥だから、きれいさっぱり忘れちまった方が
都合いい。気持ちも楽だ。記録に残っている訳でもない。
しかし、頭に詰め込まれた嫌な出来事って迷惑の種は
今の時代、学校で勉強してる俺を未だに苦しめる。
過去を『なかったこと』として受け入れられない俺に問題があるのか?
窓から見える景色は秋晴れ。気晴らしと見舞いを兼ねて
自転車を漕いで、タカシの家まで行くことにした。
日曜だから同室者は大爆睡中。起こさない。
こいつも相当な大変身しちまったな。
腹を割った話は控えてるが…。
黙って身支度を整えて、誰とも会話しないで校門を出た。
他の連中は、殆ど食堂に集まってたと思うよ。声してた。
洗面所で顔を合わせたのがいたけど、いつもどおり無視。
大昔から変化なしの大量黙殺者。逆に挨拶されたら吃驚。
大変身を遂げたヤツは結構いるが、変われなかった男を
あの強い姫君が救ってくれる将来を心で強く祈っている。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
タカシの家へ向かう途中、山が切り崩されてる場所がある。
進路は風任せ。道を横切り、防護柵の脇に片足立ちで停車。
地層という堆積した世界の記憶、絶好の観察地点で眺めた。
眼で確認できる過去は間違いなく『ある』と立証するもの。
今朝の俺を憂鬱にさせた夢の現場、ちょうど其処なんだよ。
草の時代は「古戦場」と呼ばれてた荒寥とした高台だった。
戦が行われたという記録も残ってないのに
古くから、遠い昔に境界線争いが起きた土地と
誰もが信じ込まされてきた不思議な荒れ野原だった。
見晴らしも陽当たりも良好なのに、何故か「忌地」と避けられてきた。
夜行くと戦死者の亡霊が現れるとか噂された場所で
真夏の夜、それぞれ松明を手にした数人組が肝試し。
「黒い人たちを視た」と大騒ぎして逃げ帰ってきた。
通学生には「大きな白い布が舞い飛ぶのを視た」と
話すヤツもいた。見るからに落ち着かない印象の…。
日曜だから作業は休み。重機類も放置されて休憩中らしい。
なぞってるようで食い違ってる。歪んで拗けた世界の証拠。
二度と新たに駒を動かせないと思い知った者が抱える絶望は計り知れない。
だから、必死に目を逸らす。笑いや何かで憂さ晴らし。幸福感を共有して
いつかは良かったと振り返れる時間を残そうって優しさの現れだと察する。
引っ繰り返って泣き喚いても事態は収拾不可能。覚悟を決めて墜ちたんだ。
迎えることになる運命を静かな気持ちで受け入れるしかない。俺も見習う。
地面には石が転がり、草木が茂り、野花が咲き、羽虫が飛び、動物が歩く。
人間の姿形と変わらない。地表を掘り起こした地の底に控えるのが本質だ。
眼にした者の感性で異なる美醜。真実とかいう夢現も受け手に拠って変化。
埋められた塵芥、遺骸、ある日の出来事と共にある地中の記憶。喜怒哀楽。
文句も言わずに全ての事情を受け止めてくれ、新たな生命を生み出す大地。
過去は確かにある。頭の中に記録され続けてんだから。そうは言っても…。
過去の恥や過ち、重機で地中を掘り返すように穿り返して虐める気はない。
俺自身が相当数の失態を繰り返してきた。他の連中が仕出かした罪も見た。
殺した。殺されもした。学校内の裏人間関係を覗いたら、苦笑いするだけ。
愚かなことに一年生だった俺は、草の時代も今の時代も同じ間違いをした。
「あ…あのっ、おはようございます」
独特の落ち着かない声が左脇から聞こえてきた。顔を向けると三人いた。
タカシが昔から特別に庇護してやってる三組の三人組。外道らの突撃兵。
俺に挨拶したのは休日でも帽子に制服、後の二人は通常時のジャージ姿。
気持ちは分かるよ。俺も出来るだけ制服は着たくない。似合わねえもん。
制服姿のヤツは痩せた長身、学校の制服を一番上手く着こなしてる生徒。
「何か変わったもんでも見つけた? この辺、狸や雉が結構よく出るし」
三人それぞれ自転車を押しながら、ゆっくり近づいてきた。
発言したのは薄グレーのジャージに耳飾り着けたヤツ。
学校の外に出りゃ自然な笑顔を向けられるらしい。
人懐っこいけど、生粋の野良猫を思わせる瞳。
黒ジャージは無表情に無言を貫く気だな。
「いや、べつに。あんなとこ切り拓いて、どうするんだろうかと思って」
以前から持ってた疑問をぶつけた。草の時代は手付かずの忌地だったし。
「知らなかったんですか。そこは街にある寺院が買い取って霊園として
分譲するんだそうですよ。み…見晴らしとか陽当たり悪くなくって
住宅地から離れてて、安心して眠りに就けるんじゃないかって。
あ、うち…そのお寺の檀家だから。すみません。偉そうに…」
俺と目を合わさない制服姿が下げなくていい頭を下げた。
古戦場が霊園か。誰もが最終的に往きつく場となるのは
悪いことじゃない。今朝の悪夢も忘却の彼方へ旅立てる。
キャンプ場じゃないなら過去に仕出かした失敗も葬れる。
ひでぇことした。苦笑いで振り返れる思い出に変貌する。
「タカシに逢ってきた帰りなんだろ。あいつの調子は?」
二人のジャージ姿が俺の言動に苛立った表情を覗かせた。
制服姿が漂い出した不穏な空気を肌で感じて狼狽えてる。
向かって立つ三人にとっちゃタカシは教祖様に近い存在。
名前の呼び捨て、あいつ呼ばわりが気に食わないってさ。
おまえらとは立場が違うことを理解させるのも面倒だし。
「あれ? 三人でサイクリングと散歩してただけか?
嵩ちゃん師匠の自宅側から現れたんで寄ったのかと…」
笑顔で三人に不戦勝を贈った。
抜きかけたもんを黙って鞘に納める形。
通りの奥から美穂が自転車に乗って現れたんだ。
ここは二組のジェントルメンズの一員らしく振る舞うよ。
三人相手の大立ち回り、俺も一遍ぶっ飛ばしてみたかったのに。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
退屈凌ぎ。机の上に広げた新聞紙に削りカスが増えていく作業。
現実逃避に没頭できる時間。退屈と思える平和な日常が有難い。
見舞いと冠して出たってのに土産なし。暇潰しの道具だけ持参。
翌春に別れる数人の学友へ贈る目的、なるべく長持ちしそうな
実用に耐え得る品を幾つか作り始めたところ。卒業まで続ける。
現在の俺が取り掛かってるのは、木製レターオープナーの製作。
刃物じゃなく紙と同じ素材で開封するって悪くないよな。
歪んで拗けた世界じゃ一番活発な通信手段は手紙や葉書。
電話はあっても、未だに中央の一部区域でしか使用不可。
いずれ北の外れの田舎でも普通に使われ出すんだろうが
料理店から出前を頼むときは無線機を使う。タクシーも。
簡単に繋がり合うようになりゃ便利なのは当然だろうが
あらゆる危険も潜んでる筈だよ。昔から楽ありゃ苦あり。
やっぱり、あの三人組と乱闘でも繰り広げりゃ面白かったかも。
現在の胸三寸を真っ正直に吐き出してみた。現時刻は正午過ぎ。
古めかしいネジ巻き式柱時計。午前零時には日付も変わる仕様。
タカシは昼食を摂りに母屋へ出てるところだ。俺は朝に続いて
昼食も抜きって形になるが、どうしても受け付けないメニュー。
午前中の遭遇は偶然だが、あのとき一人で自転車に乗って登場した美穂は
「今日の昼食は私が作るの!」村の商店まで食材を買いに行く途中だった。
にこにこ笑顔を向けて「美味しいの作るから、楽しみにしててね!」って
擦れ違ったまでは良かった。初の手料理が食べられると純粋に喜んでいた。
しかし、そうはいきませんでした。よく考えりゃ人生初の調理実習だし…。
小山内家の離れ、タカシの部屋…土蔵を改装した…まるで座敷牢って造り。
台所に近いから匂いで気づいてしまった。今朝の夢とリンクするメニュー。
学校だろうが、実家だろうが、最高の料理人が作ったのでも、絶対に無理!
あの匂いだけで過去の悪夢が思い起こされる。全校生徒の呆れ顔と共に…。
…………………………。
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…………………………。
草の時代、キャンプで作ったカレーライス。思い出す度、切腹したくなる。
大抵の人間が好物に挙げるメニューのカレーライス。俺には最悪な食べ物。
学校の食堂でも低学年時から寮母さんの献立計画を上手く誘導操作し
何とか月に一度くらいに控えてもらってきた。どうしても食いたきゃ
村や街の飲食店へ出向くか、鍋でレトルト湯煎して食いなって目論見。
時々自室に隠れてカップ麺で食ってるヤツもいる。ニオイで知ってる。
小さい頃、実家で出されて食べたのに中ってから受け付けなくなった。
親には心苦しい逃げ口上だが、カレーの食卓に着くのだけは断固拒否。
俺にも大嫌いな物がある。本日は彼女に知ってもらう良い機会だった。
支障なく食べられるようになるまでの時間。あの失態を忘れ去る時間。
地層が形成されるような気の長さで、時間の経過を待つのも煩わしい。
思いを手放そう。誰からも責められない
遠い過去の不手際に苛まされる必要ない。
俺の恥辱や失敗を小鳥に変え、籠に入れて愛でてるのに近いもんな。
…観想…
出窓を開けよう。白いレースのカーテンが吹き込んでくる向かい風に
操られるまま、膨らんだり萎んだり繰り返してる。窓景は青空と白雲。
窓辺に鳥籠を置いてやろう。その扉を開けたら小鳥は空の向こうへ…。
…??…
俺の頭に広がる光景では、籠の扉を全開してるのに
黄色いカナリヤ、窓の外へ飛び出そうって気がない。
天辺から下げた丸いブランコに乗って、可愛らしい
囀り声まで上げてやがる。こんな世間知らずの小鳥、
危険な外に追い立てるなんて出来ねえよ。虐待行為。
「ねこたん!やっぱい、やっぱいみた!ねこたん!」
自分が白髪で眼鏡の老婦人になった気がしてくるぅ。
急いで手を伸ばして、籠の扉と窓の硝子戸を閉じた。
汚名や失態も俺を構成する細胞や組織と同様らしい。
アンインストールできない無用なファイルに似てる。
村にいる四匹の猫。黄色いカナリヤに何かしたとき
平常心を保っていられる自信がない。絶対ヤり返す。
既に仕出かしたニ匹。そのうち仕出かす二匹。
草の時代から見聞きした経緯に顔を背けてる。
ここが逃亡不可の牢獄世界と熟知してるから。
『仲間たちを死の運命から救う目的での反側』
本日も孤独に闘う正義のヒーローを信じてる。
奇跡は起こった。目撃したんだから信じるよ。
…………………………。
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…………………………。
タカシの部屋は天井が高い。梁もない。明かり窓の位置も高くて小さい。
朝起きて直ぐに点けられる電球色の灯り、昼光色や白昼色じゃないのが
却って落ち着く。自然が生み出した灯の色だからじゃないかと思ってる。
蝋燭の灯り。燃える炎が周囲に広げる光。心身を温め、闇から護る灯火。
出入口の戸車が動いた音だ。振り返って戸口を見ると美穂の姿があった。
広げた両手で盆の端をしっかり掴んでる。足を使って開けたんだろうな。
三和土でサンダルを脱ぎ散らかし、俺が座るテーブルまで近づいてきた。
面倒な遣り取りを避けたいのもあって、早急に作業中の物は片付け完了。
彼女の手でテーブル上に載せられた長方形の盆には商店の売り物よりも
でかい握り飯が二つ、胡瓜の浅漬けにひと目で即席と分かる若布スープ。
竹の割り箸、透明な袋に収められた不織布のおしぼりも添えられている。
「ごま塩の中身は昆布、海苔を巻いてる方はツナマヨ。
食べられないものはないよね? もしあったら残して」
そう説明する左手中指の第一関節には絆創膏が巻き付けられていた。
野菜を切るとき押さえた左手、勢いに任せて切っちまったんだろう。
絆創膏の傷口から血が滲んで広がってる。痛々しい。早く交換しろ。
俺の向ける視線に気づいたと見える美穂は照れ笑いを浮かべた。
「玉葱が苦手だから薄切りにしようと思って頑張ったんだけど
涙堪えて切るのに必死で、気づいたら指まで切っちゃってて…。
お母さんが作るカレー、よく玉葱の芯が生煮えで嫌だったから
茶色くなるまで炒めてみたんだ。みんな喜んで食べてくれたよ」
そんなに頑張って作ったカレーを食わない俺、本当に最低だな。
不味い訳ない。昔は好物だった。あの店では俺の一番好きな…。
「戻るね。片付けあるし。おむすび予想外に大きくなったけど
炊き立てで熱いの我慢して握ったんだよ。心の中でいいから…。
ああ、うちの兄ちゃん、もう少しすれば戻ってくる。食べてて」
元から俺の返事や会話を期待してないってのが分かった。
転がったサンダルを揃え直して履くと、木戸を開けた。
出入口は母屋の陰になるが薄暗くても我が家だから
足元に注意する素振りも見せず、軽快に出てった。
美穂が耳に入れたい言葉を都合良く出してやらない自分が原因だ。
心の中でいいから褒めてくれってさ。色々あって、今じゃ喋るの
得意じゃないヤツのカテゴリに入れられちまったし…今更もう…。
入学当時の俺を取っ捕まえて、おかしなこと言うなって諭したい。
過去を知ってるなら、失敗を繰り返さないため避けるべき話題を
級友たちに嬉々として教えてまわったんだ。救いようのない馬鹿。
まだ幼くて自意識が希薄だった。そこに原因があると思ってるが。
蜘蛛の子を散らす形で離れていった二組の級友たち。
今のところ、軽く雑談できるのはコウジとノブだけ。
他は事務的用件のみって関係。全て自分が蒔いた種。
昼休みのテニス、寄宿舎にいる理解者との関わりで
辛くも我が身を持ち堪えられてんのかもしれねぇな。
軟式庭球は面白い。ダブルスで対戦ってのがいいんだ。前衛後衛。
コウジを誘って良かった。馬鹿げた罰ゲーム受けるのも悪くない。
雨が降らなきゃコウジを護れる。あいつは罰を望んでるようだが。
草の時代に比べりゃ体格のいい連中が増えたと思うが、あいつ…。
そういや、学校最強だった暴威も別枠だもんな。誰の意図なんだ?
…………………………。
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四人掛けのテーブル、俺から見て左斜め向かいにタカシは腰かけてる。
隣りの椅子には必需品となったブロンズ色した杖が立て掛けられてる。
「今朝、キャンプ場の夢を見ちまった上に美穂がカレー作ったんで
御蔭様で気分は最悪に近い。駄目なんだ。未だに立ち直れなくて…」
嵩ちゃん師匠に甘ったれた愚痴を吐いてみた。
神様、天使と崇める信者は三人以上いる筈だ。
「あれは悪いけど笑うしかない。でも、僕だけは真実を知ってる。
本当の話、あのときタツヤは最善の行動を選択してたんだよ。
カレーの鍋を引っ繰り返しちゃったことで、僕ら全員を
集団食中毒から救ったんだ。汚名を着せられた英雄」
いや、そいつは流石に無理のある話だよな。事実の改変にも程がある。
「以前は色々あったよね。それでもタツヤは良い方に変化したと思う。
ほら、食べ物運の悪さってヤツ。僕の見る限りでは見事に克服してる」
タカシが目を閉じて俯いた静けさを感じさせる表情で話しかけてきた。
『食べ物運の悪い男』
草の時代にいた頃の俺を喩えれば、その言葉しか浮かんでこない惨状。
食べ物を粗末に扱う気なんて更々ないのに、何かと溢して落としてた。
またかよって表情。呆れ果てた表情。冷やかな眼差し。日常的な光景。
今だって即座に思い出せる。某駅構内にあった小さな売店での出来事。
売店のカウンター、業務用の四角い鍋の中、突き刺さってる串おでん。
四年生冬の日曜、二組の七人が列車に乗って遠出した。小さな大冒険。
夕刻、みんなは復路の列車に揺られる。遊び疲れて無言で着いた座席。
車窓から黄昏の光を横目で見てた。線路脇の田圃は雪に埋もれて橙色。
街の駅へ近付く毎に橙色の空は暗い雲が広がっていき、雪空へ転じた。
で、該当する事件は乗り換え駅のホームで起きた。
夕飯前で腹が減った。雪も降り出して冷えてきた。
売店で温かい物を買って飲み食いしようって話に。
買い出しを担当したのは俺と級長の二人。他のは
トイレに寄ったり、寒いからって乗り換え車両に
移動を済ませ、注文の品が運ばれるのを待ってた。
紙コップ入りのココアを両手に持ち、両肘にレジ袋を提げた二組の級長。
たくさん串おでんが入ってる持ち帰り用の使い捨て容器を受け取った俺。
落とさないよう細心の注意を払って、跨線橋の階段を下りきって躓いた。
出汁がよく染み込んでそうな飴色の大根、じゃが芋、べちゃっと砕けた。
なんでいつもこうなるんだよ! 叫びたい気持ちを必死に抑えて堪えた。
発車時刻を告げるベルが鳴り、串を拾って片付けようとする余裕もなく
列車の扉が閉められて、乗降口の近くに立ってたコウジが爆笑する顔や
車窓から唖然とした表情を覗かせてた連中が徐々に遠ざかっていくのを
無言のまま見送ってしまった。振り向きたくない。後ろには級長がいる。
「皇帝陛下は、床や地面に毒見させないと食べられない御方だもんな」
背中から心臓を撃ち抜く言葉の矢が放たれた。
草の時代、恒常化していた氷のように冷たい
級長が言い放つ台詞、俺に向けてくる眼差し。
そうなった原因は過去の俺の発言にあるんだ。
入学してすぐの失言…取り消せるものなら…。
遥か遠い昔、こいつの指令を受けた弓兵が放った矢に撃ち抜かれ俺は…。
…………………………。
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遠い昔に比べりゃ本当に見事な大変身を遂げられたよ、現在の級長さん。
目の届かない所じゃ何してるか知らないが、学校で一番の正義を貫く漢。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
大アルカナ、六番目のカードは「恋人」
タカシが使うタロットカードの絵柄だと
男は女を見ている。しかし、女の方は…。
視線の合わない二人。これが現実で未来。
断言可能な訳じゃない。確定事項じゃない。
既に以前と異なる現実と奇跡を見てるんだ。
このまま気を逸らし続け、非情な現実を受け入れなきゃいけないのか?
…否…
手を動かすのを止める。俺の意思で作業を止めた。未来に変化を望んでる。
教科書を開いたタカシは、蛍光ペンでラインを引いてる。苦痛を隠してる。
「妹さんもいらっしゃるんだし、俺より女性の気持ちに詳しいと思って
質問させてもらうけど、どうしてタカシの妹さんは学校の昼休み
大勢が見てる中、俺に手紙を手渡してみせたんだろう?」
草の時代、俺は美穂から手紙をもらったことなかった。最後まで一度も…。
タカシは姿勢を崩さず、ライン引きの作業を続けたまま。無視する気かよ。
歴史の教科書の記述に変化はなかった。ここは昔も今も歪んで拗けた世界。
「そんな愚問で二年以上も頭を悩ませてたんなら笑うしかないね。
美穂以外にもタツヤへ手紙を渡したがってた女の子がいたんだよ。
妹はその子に釘を刺してやりたかったんだろう。ああいう性格だ。
一旦思い込んだら猪突猛進してしまう。たぶん、あれは直らない」
「あれが直らないってことは、変わらないってことになるのか?」
幾らか怒気を含んだ声になってたかもな。ずっと抑え続けてきた。
過去と違う現在を知ってる。信じられないような奇跡も目にした。
大変身を遂げて現れた学友たち…。それなら俺だって未来に変化を!
「この牢獄世界じゃ僕らは掌から零れ落ちる滴と同じ。
均等に分配された幸福は難しい。今を最高だと信じて
良かったと笑って振り返れる思い出に繋げていこうよ」
俺に目を合わせて喋ったら、再び視線を教科書に戻して作業を再開した。
受け入れ難い未来の訪れを迎える覚悟は出来てるって姿勢、俺に示した。
そんな連中、今回は何人も確認できている。具体的な名前の公表は自粛。
「ああ、美穂から言伝を頼まれてたんだっけ。
来月の誕生日にはガトーショコラを焼くから
今から胃袋空けて楽しみに待っててくれって。
僕たち家族は試作品の試食に追われて大変だ」
菓子なんて、分量と手順を守ればいいだけ。出来て当然だと思うが。
「僕らが失ったり手放すものから幸福を得られる者がいると思えば
少しばかりは今を生きる苦痛も楽になるよ。他の誰かが笑える未来」
「そんなこと言っても、嵩ちゃん師匠は残酷なルシファーだしなぁ」
「歪んで拗けた現世だけど、あいつが大事なアレを手放した御蔭で
私は僅かな救いと笑いを得られました。生き地獄を受け入れられる」
…………………………。
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…………………………。
タカシの部屋は天井が高い。梁もない。明かり窓の位置も高くて小さい。
その明かり窓から橙色の光が射している。テーブルの天板を電球色より
濃く照らしてる。自然が生み出した人の心に諦念と自省を促す黄昏の光。
良かったと笑って振り返れる過去を作り出そう。
引っ繰り返って泣き喚いても事態は収拾不可能。
恥と失敗を静かな気持ちで受け入れるとしよう。
寝返りした小鳥の行く末を眺めるのも悪くない。死なせないための反側。
◆空回りな暴走. 浅井彰太
夏目の二人の従兄弟…翼と宙…。
なんかすっかり…変わっちまった…と思った。
親戚の俺でも、ひと目見て分かるほどだった。
夏期休暇明け、それを見た脩がハラワタぶちまけそーなほど
もう堪えきれるワケねぇーって調子で大笑いしちまったのは
……翼の頭だ……
だって、ドクズは葬式にも参列できないような精神構造の持ち主だし
そいつを自分で熟知してるからこそ自粛するってレベルのヤツなんだ。
イメチェンしすぎも甚だしい。休暇中に出家でもしたのかよ?
でも、訊けないでいた。無理だよ、ゼッタイ駄目!
クラスの誰も触れようとしない…疑問ってヤツ…?
突然どーしちゃったんだろう、この人は?
内心じゃ他のクラスのヤツとかなら
脩と一緒に大声で笑っちまったかもな。
これでも失礼だという気持ちは持ってる。
それでもなァ、駄目だ。笑えるー!
身内だから表に出さない。出せない。遠慮してる。今までずっと今後も。
三組の教室では、二列目の廊下側からの二席に座っている翼と宙…。
何故そんなに二人で仲良く神妙にしてるんだ?
ここ、腐れ外道の集まりじゃなかったのかよ?
頭ン中には疑問符しか湧いてこないけれど
表向きは、ごく普通に接するよう心掛けた。
翼を笑った見せしめとしてドクズを前庭の桜の樹に縛り付けてやった。
他の連中も見世物みたいに眺めてたから、軽く良い気分にさえなった。
マコも窓から指差し、あの元気いっぱいな声で笑ったの聞こえてきた。
でも、今までじゃ一番喜んで、こっちへ声をかけてたような二人が…無視…。
俺たちを完全無視して昼休みも読書か自習を続けてるんだ。気持ち悪りぃよ。
きっしょきもいよぅ…。みなさ~ん?
壱君センセは、通常通りのマイペース。本日も先生として職務を頑張ってた。
本当に…いきなり真面目になってしまって…なんか俺だけ、馬鹿みてぇだ…。
いや、好きにすりゃいいと思うよ。俺も…そうしたいもん…本当は…。
三年生の夏、ケンカっぽい感じになって…離れてった一組の…サッ…。
それにしても、本当にどーしたんだろう?
壱琉も理由を知ってんのか知らないのか、二人を普通に無視してた感じ。
ある意味「ワラッテハイケナイ」ような状況に三組は突入してしまった。
それって、謂わば一組の名物だったよな。主犯は学校の美周郎、竜崎順。
あの虐めの唆し屋だったタコ宙さえ、ただの物静かな女性的容貌の生徒。
それでも仲の良い竜崎とは、表向き愉しそうに会話してみせてる様子だ。
何なんだろう? ここ、スゲェ静かな良い学校に変わった気がしてるよ。
タカシたち四人は、どう思ってるのかな? 話を聞きたい。あの場所で。
脩も居心地悪そうな様子だった。でも、こいつも根は真面目。
街にいるカノジョとの遣り取りを見てたんだから、知ってる。
死んだら地獄行き確定は「浅井彰太」一人で十分なんだよ。
喫煙でボヤ騒ぎ起こしたハシムなんて、単なる灰かぶりだ。
自身や周りの優しさで掃い落とせる程度の過ちにすぎねえ。
他のクラスの連中は空気が清浄されたかのよう感じてるかもしれねぇな。
後もう少しで村を離れることになる連中もいる。風通しいい方が良いよ。
学校は勉強する場所。それに戻っただけ。
どの生徒の表情も以前より明るく映った。
ただ僅かに気懸りでもある件だが二組の谷地が中央の充分な設備の病院へ
入院したんだそうで…。夏以降、姿を見せなくなったってだけ。またかよ。
どうして二組ばかり大きな受難に遭う形となるんだろう? 見てらんねえ。
俺は…斎藤の…あの瞬間…あの声が…耳に残って…忘れられずに…いる…。
…………………………。
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…………………………。
…………………………。
秋が訪れた。十年生十月。
今秋は…あの山の…紅葉が矢鱈と目立つ。眼に突き刺さる。
とうとう、学校生活最後の「学習発表会」が近づいてきた。
出し物は、もう手抜きだ。面倒くせぇ。適当に墨で書いたもんで済ませた。
壱君センセも文句なしに受け取ってくれたし、そっちの任務は余裕で完了!
この春は歌の方で少々頑張ってみたから、手抜きしたって罰は当たらねえ。
俺だって、少しは「気持ちを逸らす」「煮え立つ腹を堪える」ってことを
学習できてきたような気がしてる。長いこと耐えてきた。後もう少し辛抱。
いや、おそらく俺が俺である限り訪れるであろう苦難を抑え続ける。抑圧。
放課後になったんで、本日もドクズとつるんで街まで暇潰しへ行く場面だ。
全く変わらねぇ。誰も直す気ない。所々穴ぼこだらけの道を走らせていく。
もう少しで街って辺りの廃墟になって並んでる空き店舗を通り抜けてった。
いつも脩がニヤける元外食店の罅割れた窓硝子に映る俺たちって、笑える。
ワレワレ学校の制服が似合ってねーんだもん。なんつーか晒首に近けぇよ。
なら、ジャージに着替えりゃいいんだけど、本日そういう授業ナシだった。
どこの園児のコスプレなんだよ?って、いつも着る度に思ってたんだが…。
この現実を耐えるのも残り少なくなってきたんだからヤケだよ、もうヤケ!
鏡の向こうは窓の外と同様、他人事だと思えばいい。その方が楽になれる。
そうとも思い込めねぇでいる俺、まだまだ修行が足りないと感じてるケド。
???
この辺りで…いつもクソヤローがニヤけた面を見せる筈なのに…?
以前しょっちゅう耳障りな鼻声で喋り続けられてたと思ってんだが
さすがに飽きたのか、脩はだんまりだ。そいつは俺もだもんな…。
どこかで新装開店とかしやがれって変化を求めても無駄だってのが
分かってきた気もする。覚めない夢を全員で見続けてるような…。
自分以外はゲームのNPCと割り切ればいい。嫌な現実は淡々と切り離す。
美琴も…他にある世界じゃ妹のこと傷つけてない俺と…いや、誰でもいい。
鮮やかに燃えるような紅葉を共に眺めて愉しんでるに違いない。信じてる。
最近そういった景色を心の中で眺めるのが俺の身を保つ方法になっていた。
マコだって裏にリンゴ畑がある屋敷、その居間に一家が揃って団欒中なんだ。
右前歯が少し欠けた面でポップコーンを鷲掴みで食って元気な声で笑ってる。
素焼きアーモンドが大好物なんだから、どう転がったってマコは歯欠け決定。
あ、そうだ。マコにもケーキかなんか食わせてーな。
本日の土産として、あそこの店のを買って帰ろう。
風邪気味の妹の様子を見に来てくれてる筈だし
二人が仲睦まじく食べてるとこ見てーもん!
脩のヤツにそう告げ、追い抜いた俺はスクーターのスピードをもっと出した。
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…………………………。
常連となった洋菓子店二階の喫茶室、いつものボックス席に陣取っていた。
ケーキを食ってココアを一口飲むと、いつもの調子で脩が切り出してきた。
「実はね、彰太君。ちょこっと発表会で頼みてェことがあるんでーッス!」
やっぱりなァ、いつもと調子が違うと思ってたんだ。またサプラーイズか。
変化に飢えてたオオカミの俺は、リテン君の語りを素直に聞くことにした。
「その彰太君の活かした捕縛能力をっスねぇ…」
そう言いながらも、まだヤツの視線は、窓の外にばかり向けてる。
視線の先を辿ってみると…。ああ、そうか。花屋だ…。なるほどー!
確か…このドクズのカノジョの自宅兼店舗になるんだったっけなァ…。
俺だって自然と見てしまうのかもしれないな。そういうもんなんだろう…。
いや、実際にはわかんねーけど、想像ってので脳内補完しただけ。知らねぇ。
なんか二組のあいつら…。あ、ここで思考停止しねぇと。もう忘れろ。終了ッ!!
自分の心が…脇道に逸れてちゃ…この折角の暴走計画を聞き逃すことになる。
それで…段々と…膨れ上がってきてる気持ちを…少しでも…他に逸らせる…。
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だいぶ話が違うと思う。
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脩の歌いたかった曲が終わったよ。俺の活躍シーンは皆無というか
講堂ステージの舞台袖にいて、焦ってる壱君センセの肩に手を置き
一緒になって、ただ黙って、脩の弾き語りを聴いていた。それだけ。
脩自身は、何かを…伝えたくて…歌ってたんだろうか?
その想いは、そいつ…そいつらに伝わったんだろうか?
単に曲が好きなだけって理由なら、カラオケで十分だと思うから
ここで聴いてる誰かに伝えたい気持ちがあったんだと考えられる。
伝わらなくても…自己満足…できりゃいいんじゃねーのって感じ。
脩が弾き語りした曲は『火の川』だった。
あの強欲リテン君が、よくぞ竜崎が弾き語りした
「恋は××××」の後で、笑わずに弾けたもんだ。
それだけで、もう森魚脩の『覚悟完了』してたと
俺にも感じた。見事にやり遂げた。本当スゲェよ。
海にもキラワレル覚悟を決める。
嫌悪。拒絶。侮蔑。嘲笑。黙殺。
その譬えようない現実を受け入れること。独りで耐える。
出来なきゃ、この先どうやって生きていけばいいんだよ?
こんな北の果ての田舎まで勉強しにやって来た寄宿舎生の内情、
知らなくていい裏事情を耳にした。一組の望月漲は一番高く…。
一時期、俺の心の逃避場みたいな存在だったけど
裏書きを目にしたら、もう寄り掛かれそうにねえ。
真っ赤に煮え滾って流れる川、月の光は映らない。
海にも辿り着けない。往きつく先は見当たらない。
そのまま地の奥底まで浸み込んで楽になれたら…。
あったことをなかったことにする最悪の逃げ道、利用したヤツがいる。
俺ができる罪滅ぼしは、誰かの心の支え、拠り所になること。
そういった考えを持つようになった。それも一種の逃避だが。
生きてゆく。虫のいい話だけど、生きて何かの役に立つことで
元通りにできない過去の罪を償うつもりだ。それしか道がない。
たぶん…俺の罪も知られてる…。隠蔽されてるんだと気づいた。
見えないところで助けられている。犠牲になってくれている人がいる。
その気持ちを粗末にしちゃいけないと思う。目を逸らさず受け止める。
あいつが安心して寄り掛かれる人間になりたい。努力してみるつもり。
…………………………。
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それに…しても…いつに…なったら、あのヵ…?
あぁ、いいや。そこには…触れねぇでおこぅ…。
さっきから…いつもの…あの妙な…感覚が…強く…なってきて…いた…。
◆或る生徒の独白.
どうしてなのか分かりませんが、秋の紅葉の季節は
心がざわめいて落ち着かなくなってしまいます。
この村の山にも目を向けたくはありません。
私が幼少の頃から、そうだったのです。
理由は…私にさえ…見当がつきません。
喉が詰まって苦しい。それだけでした。
現実逃避が得意技と言えそうな我が友の一人は
意外と私の心情に理解を示してくれるというか
いつも救ってもらっているように感じています。
笑うことはストレス解消になるといいますし…。
それでも、現在は僅かずつでしょうが
克服できているような気がしています。
不快な記憶は、少しでも早くきれいに忘れ去り
兄でもある友と共に困難を乗り越えていくだけ。
今の時期になると、同じ夢を繰り返し見てしまいます。
街外れの空き地に建てられたサーカスのテント。
数人で連れだって見物に行って歓声を上げる夢。
朝になって思い返すと、喉に引っ掛かるような
違和感を覚えるけれど懐かしくて鮮やかな色彩。
みんなの前で「自分もサーカス団の一員になる!」と宣言しています。
その瞬間、眩いスポットライトを浴びて綱渡りしてる自分がいました。
少しも恐怖を感じず前へ進んでいるのです。苦笑するしかありません。
若くして病死した私は、村の診療所に献体し、人体模型となりました。
死んだ後まで見世物になりたい程の目立ちたがり屋じゃない筈なのに。
単なる夢。目覚めたら忘れたらいいだけの意味をなさない無用な記憶。
将来の夢。まだ漠然としたものですが…小さな喫茶店でも開けたら…。
◆アオイカビのメッセージ. 三上操
十年生十月下旬日曜の午前中。寄宿舎二階の娯楽室です。
この日は殆どの男子たちが街へ出て留守にしていました。
部屋に引き籠った状態なのは…西谷君…通常運転中です。
望月君も自室で一人きり羽を伸ばして過ごしている様子。
劉遼君のお世話は斎藤さん達に任せれば安心でしょうし。
プリンス・リトゥル遼君を含めた他の寄宿舎生徒たち揃って
街にある老舗百貨店へ繰り出しました。桜庭君のお父様が
八木橋君の家からレンタルした小型バスを運転なさって
日帰りの旅行みたいな感覚でしょうね。羨ましいです。
買い物や映画鑑賞するから、帰るのは晩になるだろうと
朝食後、桜庭君が高橋さんに話していたのを聞きました。
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寮母の高橋さんからお願いされた私と緋美佳さんとの二人は
娯楽室のテレビの脇に設置されてる冷蔵庫の中身をチェック、
期限切れ等で不要な食品を廃棄する作業に取り掛かりました。
「ひどいにゃん!」テニスやゲームの対戦に敗けた後の相馬君なら
そんな台詞を呟くしかなさそう。そういった惨状になっていました。
緋美佳さんが先に冷凍室の引き出しを開けました。
アイスクリームに消費期限はないという知識はあります。けれども…。
誰が購入したのか知りません。いちいち訊ねるだけ時間の無駄なので
情け容赦無用で霜の付いたチューペットなどを半透明水色のゴミ袋に
ポイポイ音はさせませんが、ガサガサ袋の音を立てて投げ入れました。
この先、食べたくなるタイプのアイスはシャーベット等の氷菓子より
濃厚な深みのある味わいの『アイスクリーム』と表記可能な商品の筈。
緋美佳さんとは、もう三年くらい近く関わりを持って一緒に家事手伝いする
仲ではあるけれど…基本的には用がない限り…無言。打ち解けられる話題が
未だに見つけられないままです。お互い何が好きで、嫌いなのか、それさえ
よく分からないって、そういう関係の人を「友達」とは呼べない気がします。
緋美佳さんが好きで傍に居たいのは、西谷君ということ程度しか知りません。
私の寂しい寄宿舎生活に於いて、気軽に雑談できた谷地君の姿もないのです。
帰ってきてほしいと切望するのも、他の誰かを求めるのも、虚しくなるだけ。
緋美佳さんは掃除道具も持ち出して、テレビ裏の埃取りの作業を始めたので
気づいてみると、私一人が冷蔵庫内の片付けを担当する形となっていました。
扉の内側の棚とトレイのジュースを溢したと思われるベタついた汚れを
アルコール除菌スプレーで拭き取っていきました。貼り付いた髪の毛も
普段は気づかないのに見れば目に付くものですね。色や細さが違います。
私自身は滅多に冷蔵庫を使用しないようにしてました。
常温保存可能な飲み物や菓子類だけ購入していたので
寄宿舎で十年近く目にしてきたシルバーの冷蔵庫にも
感傷を覚えたりしませんが、同い年の学友たちと共に
過ごしてくれた仲間のようにも思えてきて不思議です。
それは兎も角として、魚肉ソーセージにカニカマ、チーズの類が多いなぁ。
大きめのプラスチック容器に入ったパルメザンチーズは食堂に置いた方が
パスタ類を食べるとき便利なんじゃないかと思うのですが、もしかしたら
そのまま食べてるんでしょうか? 好みや食べ方は人それぞれでしょうが
確か粉チーズは冷蔵保存しないで常温保存した方がいいと雑誌で見ました。
でも、勝手に冷蔵庫から出したら怒られるかもしれません。黙っています。
…?!…
冷蔵庫の下段、野菜室の引き出しに細長い形をした白い箱を見つけました。
中からカサカサした物音と重みを感じるので、空箱ではなさそうです。
食品のパッケージなら商品名とか色々プリントされてると思いますし
輸入食品でも箱の一面に原材料等の説明書きのシールが貼ってある筈。
どの面を調べても真っ白。製造年月日のスタンプも押されていません。
食べ物じゃないんでしょうか? それなら、どうして冷蔵庫なんかに?
開けていいものか戸惑います。無視した方が無難な気もしてきました。
もし今ここで迷っているのが私じゃなければ
一体どういった行動を選択するでしょう?
外の画面から眺めている誰かがいて
実は全てを誰かが決めてたら…。
私を傍観する誰かは、私の幸福と不幸のどちらを望んでいるでしょう?
「掃除もう終わったんでしょ? 開けっぱなしじゃ入れた物が傷むよ」
そう言いながら、私の肩越しに緋美佳さんの手が冷蔵庫を閉めました。
「すぐまた汚されるんだし、適当で大丈夫だってば。
じゃあ、お昼に何食べたいか聞きに行ってくるから」
掃除道具を持ったまま、西谷君の自室を訪ねようと考えてるみたいです。
謎の白い箱を持って座り込んだまま、私だけ娯楽室に取り残されました。
強い衝撃を与えないよう微かに白い箱を揺さ振ってみました。
おそらく中身はクリスタルパックで梱包された品物だと推定。
箱にテープ等の封はされていません。開けようと思えば開け閉めは簡単。
賽子やコインに頼らず、周囲に誰もいないので
少しばかり大胆な行動を選択してしまいました。
箱の開け口を親指の爪を引っ掛けて開封しました。
左の掌に滑り落ちてきたのは透明なフィルムで梱包された
細長い二等辺三角形のゴルゴンゾーラチーズと折り畳まれた紙片。
罫線のある紙片に青いインクが滲んでいます。
ノートを破って書き込んだに違いありません。
殆どの生徒が出払って留守にしてる寄宿舎内。
一人は平気で慣れてるのに…今日は何だか…。
春が来たら、私はどこへ行けばいいんだろう?
最近ずっと頭を悩ませ苦しめる問題を後回しにしたくて
適当に四つ折りされた紙片を広げてみることにしました。
心当たりのない文字です。少なくとも三組の生徒じゃなさそう。
七年生の春、自由帳に書き残されたインビジブルの筆跡でもありません。
『この箱を見つけて開けた貴方には、どんな願いも叶えられるチャンスが
与えられました。同封されたチーズを食べるとき、貴方の願いが叶って
喜んでる姿を思い浮かべるのです。幸福な未来を心から信じてください』
寄宿舎生の誰が書いたものか気づいたので、紙片を折り畳んで
元通り白い箱に入れて…冷蔵庫の元あった位置に戻しました…。
…幸福な未来…
その時の私には、ごく普通の未来を想うことさえ至難の業でしたから。
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午後三時、自室の扉を三度ノックされて開けたら望月君がいました。
「百貨店へ行った連中には内緒のお茶会みたいなことしようって
寮母さんと一緒に用意したんだ。操氏も付き合ってくれるよね?」
望月君の後ろに続いて食堂へ下りると、緋美佳さんと西谷君もいて
寮母さんが炊飯器を使って作ったチーズスフレに重曹とクエン酸と
蜂蜜など混ぜ合わせ作った望月君特製レモンスカッシュを留守番の
五人だけで愉しみました。忘れたくない素敵な時間となったお茶会。
◆続・ダレニモイエナイ. 桜庭潤
十年生十月最終日曜の朝食後…。
寄宿舎二階奥の望月漲と劉遼の自室前に立つ俺とザジ。
既にプリンス・リトゥル遼は外出着に着替えて校門前の小型バスに
乗り込んでる。モンクちゃんと斎藤が遼の面倒を見てやってる筈だ。
「ザジ、どうしても反則氏と一緒に行かなきゃダメ?」
「うん。もっちーセンセと一緒の思い出が欲しいもん」
ゆっくり、しっかり、心を込めて、ザジが扉を三回叩いたのを見た。
「りゅーりょー、何か忘れ物でもした?」
二段ベッドの上が反則氏の寝床。遼を送り出す仕事を終えて
二度寝に就いてたところを俺たちが起こしたって感じになる。
部屋着と寝巻を兼ねたTシャツにジャージ姿は反則氏の定番。
眼鏡のレンズ越しに両目蓋が腫れてるのが分かった。寝過ぎ。
「遼は忘れてないけど、僕らが忘れてたから引き取りに来た」
交渉役を務めるのはザジ。俺は遣り取りを後ろで見守るだけ。
「何だろう? 他に何か持たせなきゃいけないモノあった?」
眼鏡をズラして左目を擦りながら面倒そうに応対する反則氏。
「うん、実はもっちーセンセを持ってくのを忘れてたんだよ。
そのままの格好にジャケットか何か羽織ったら問題ないから
嫌がらないで一緒に出かけよう。絶対イイ思い出になるって」
さり気なくザジが反則氏の左手首を掴んだ。拉致する気満々。
「いや、そういった外出は私に必要ない。気遣い無用だから
好きなだけ愉しんできてくれ。私は日頃の寝不足を解消する」
言葉にしないが、掴まれた手首を軽く振って放すよう促した。
「ダメェ、絶対に連れてくぅ。これ、本日の決定事項だから
センセに拒否する権利ありませーん。さぁさ、行こ行こっ!」
ザジの右手は反則氏を小型バスに連れ込む瞬間まで放さない覚悟。
「ちょっとォ、もっちーセンセの上着を代わりに出したげてー!」
首を捻じ曲げて上目遣いで俺に頼み込んできた。メンドクセェ…。
つーか、反則氏のジャケットやコート羽織った姿を思い出せない。
箪笥を開けりゃ何か入ってるだろうが、勝手な真似したくないし。
「出発まで後もう少し時間あるから、ちょっと着替えられない?
俺たちは廊下で待たせてもらうからさ。折角だし一緒に行こうよ」
ザジの背後から反則氏に阿るような声かけて援護してやったんだ。
「うん…。とりあえず、この手を離して。痛いし、逃げないから」
再び手首を小刻みに揺り動かし、ささやかな抵抗を見せる反則氏。
「そう言ってんだから素直に放してやれよ。ガキじゃねーんだし」
寄宿舎内で追い駆けっこするのは十分すぎるほど繰り返してきた。
目的地に着く前から体力を消費したくない。ここでは温存を選択。
それに後々何かあって俺が追い駆ける顛末になると予想するのは
目の前に背を向けて立つ男子。今から碌な展開が思い浮かばねえ。
「今後の生活について考えると、ちょっとした外出着とかも
必要になると思うし、買い揃えておく良い機会かもしれない。
あそこの展望レストランにも行ってみたいと思っていたんだ。
とろけるチーズが中に入ったハンバーグ、美味いんだってね」
俺の予想に反して、反則氏は同行する意思に傾いてるようだ。
「うん、みんなでレストランでランチすんの素晴らしいね!
それじゃあ、さっさと着替えてェ。お望みなら僕が持ってる」
「ラメラメのドレスや真っ赤なミニタイトのスーツは着ない。
化粧させられるのも困る。本当にそういった趣味はないから」
「でもさァ、センセがドレスに毛皮のコート羽織って歩けば
他の買い物客の注目の的になるのは間違いない筈だよ。絶対」
「お断りだ。竜崎のオモチャにされて曳きまわされるなんて。
ドアを開けっぱなしじゃ冷え込むし、二人とも部屋に入って」
芳香剤でも置きゃいいのに…と思ってしまうのが反則氏と遼の自室。
二段ベッドの敷板にも遼のオネショが浸み込んでるに違いない。
そういったニオイが籠ってるから、あまり長居したくない。
室内は片付いてる。立派な慈父がよく働いてる証拠だ。
それなのに落ち着かない。窓を全開にしたくなる。
我儘な俺の気持ちが先走って、気づけば窓際に立っていた。
尿臭が気にならないのか二段ベッドの下に腰かけてるザジ。
「あっ、肝心な事柄を忘れてた。今日は何日だったっけ?」
自分の箪笥を開けて背を向けたままで反則氏が訊いてきた。
ちょうど俺の左脇にカレンダーがかけてあったけど
わざわざ確認するまでもなく日付を答えた。
「あー、駄目だ。日が悪かった。やっぱり本日は自重する」
パタンと箪笥の扉を閉め、俺たちの方に向き直すと頭を下げた。
「何だよ、日が悪いって…?」
たぶん寮母の高橋さんがくれたもんだと思うけど
村の商店が年末に配るカレンダーを見直してみた。
…赤口…
先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口。
六曜の六番目に位置する最も不吉となる凶日だ。
あらゆる物事に対して不吉とされる。正午に限って吉。
「赤」の字が示す、刃物や火の元には特に要注意との事だが
そんなもん気にしちゃ何もできないよな。いつかどこかで誰かが
痛い目に遭うよう仕組まれてるのが、この歪んで拗けた世の中だもん。
「すまない。同行できないが、代わりに適当な外出着を何着か
見繕ってくれ。予算分の金は渡しておく。足りなきゃ後で出す。
洋服のサイズは…竜崎と殆ど同じだと思うから…二人に任せる」
「買い物代行かァ。それも悪くないね。最高に似合うの揃えるよォ!」
同行しなきゃ駄々を捏ねると思ってたザジが素直に言う事を聞いてる。
「二人に任せる」って発言は、俺にしっかりザジを見張れって意味だ。
「僕は…ちょこっとセンセと打ち合わせしとくから…先に行ってて!」
金の受け渡しする場面を眺めてても仕方ねぇし、ザジの言葉に従った。
あ、そうだ。もう一回厠へ寄っていくか。自分の直感にも従っとこう。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
この年の初雪はまだだけど、自転車で行き来するのは寒いから
定員…確か十人以上の小型バスをチアキの家からレンタルして
俺の親父が運転手を務めてくれ、希望者で出かける事になった。
ちなみに息子だからって助手席には乗れない。車酔い常習者の
イッチ君の定位置になってる。酔い止めの薬を飲んだらしいが
助手席の硝子越しでも既に酔ってます…って顔色と表情してる。
運動神経だけじゃなく三半規管も上手く働かない体質なんだな。
こんな人がよく自転車に乗れるようになったと思う。不思議ィ。
頭ン中は靄ついてても俺の手は黙って助手席ドアの右隣にある
スライドドアを開ける動作をした。目の前にはモンクちゃんと
その窓際に女児みてぇな可愛らしい格好してるリトゥル遼様が
並んで座っている。モンクちゃんは目を合わせるくらいで無視。
口が動いたかもしれないが、マスクしてるんで俺には見えない。
ザジの我儘で出発を少し遅らせたんだ。予定がずれるのを嫌う
鬼軍曹様がヘソを曲げても仕方ないと思う。マイペースな遼が
仏蘭西語の曲を気持ち良さげに歌ってるけど、他の連中は無口。
ザジが姿を現さなきゃスイッチが入らない機械仕掛けの人形だ。
「あれ、リューザッジは? まさか、もっちーと一緒に来るの?
万が一の事態を想定して、後ろの座席を開けといたんだけどさ…。
あの人を出かける気にさせるって、一体どんな魔法を使ったの?」
モンクちゃんたちのすぐ後ろの二席、通路側でヘッドホンを着けて
音楽鑑賞中の斎藤が声をかけてきた。窓側にはリンバラが座ってる。
答える前に通路を挟んで斎藤の隣りの席に着いた。助手席側の一席。
「いや、ダメだった。日が悪りぃんだってさ。ザジもすぐ来るよ」
黙って座る他の連中の耳にも入る声で伝達するように言ってやった。
「あー、やっぱり無理かぁ…。もっちーが外出するなんて奇跡
もし起きたのなら、それこそ天変地異が起こりかねないもんな」
前に向き直した斎藤はヘッドホンの音量を調節して目を閉じた。
「実を言うと、全員一致で行かない方に賭けてたのだ。
そういった訳で昼食は竜崎と桜庭の支払いに決まった」
伊達眼鏡越しの両目が微笑んでるモンクちゃんが毒を吐いた。
ついでに嘘も吐いてるに違いねぇが、支払いはザジに任せる。
モンクちゃんの発言の後に続いてザジが乗り込んできた。
最後部の座席に並んでいるタコ宙たちが招き入れるよう
ザジに声をかけたんで、俺も親父に出発するよう頼んだ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
行き帰りの車中ではザジの面倒を見なくて済む。
本日の俺には息抜きと呼べる時間かもしれない。
一人で黙って冬に近づきつつある車窓の風景を
眺めて過ごすのも悪くない。眠くなってきた…。
…?!…
後ろから肩を叩かれ、目を開けたら
個包装の飴が載った右手が伸びてきた。
タッツンの心遣いだ。有難く受け取って
口に入れたら眠気が吹っ飛ぶ激辛唐辛子味。
振り向くと沈黙でニヤついてみせるタッツン。
赤口。吐き出したい気持ちを堪え、激辛飴を噛み砕いて飲み込んだ。
何か適当な飲み物を持ってくりゃよかった。口ん中がヒリヒリする。
今度は湯気を立てた紙コップが目の前に差し出された。
紅茶の香り。モンクちゃんが気を利かせて注いだもの。
外出時の定番、鼈甲縁の伊達眼鏡が薄っすら曇ってる。
「熱くないから、すぐ飲める。さっき僕もやられた。同じ被害者だ」
ちょうど赤信号で停車中だったのもある。
有難く受け取って辛味を喉の奥に流した。
「近頃の僕らは食べ物運が駄目らしい。一昨日も重曹味の
ホットケーキを口にする破目に陥ったばかりだというのに」
…重曹味…
一昨日、一組で調理実習をやった。五人ずつの二班に分かれて。
事前のクジ引きで決まった班のメンバーはモンクちゃん、ヒナ、
ケン坊、反則氏と俺…以上五名。珍しくザジと別行動になった。
班長は菓子作りも得意なモンクちゃん。五人が実習するメニューは
ホットケーキにミックスベリージャムと生クリーム添えに決まった。
美味いもん食えると楽しみにしてたんだが、ヤっちまった奴がいた。
レシピに従って材料の分量を守って作りゃ何の問題もなかったのに
反則氏にホットケーキの生地作りを任せたのがワレワレの大誤算…。
ふっくら美味しく出来上がるに違いねえと計量しないで
ベーキングパウダーをたっぷり混ぜ込んじゃったのら…。
ザジがいないのを良い事に余裕こいて、モンクちゃんと予定外の
かぼちゃドーナツ作りを始めた事も一因だったのかもしれねえな。
俺はレンジで蒸した南瓜をすり鉢でペースト状にする作業してた。
ヒナは泡立て器で生クリームをカシャカシャ頑張ってホイップ中、
ケン坊はフルーツと砂糖を煮込んでる鍋から目を離さないでいた。
そういった訳で、きれいに盛り付けたホットケーキを食べた
一組全員が悪夢を見ちまった。ジャムじゃ誤魔化せない苦さ。
その後の鬼軍曹様の苛立ち、叱責その他は想像に任せとくぅ。
小林先生の機転でホットケーキを除けて、厚切りの食パンに
ジャムとホイップクリームを載っけて食って何とか済ませた。
ちなみにザジたちの班は、チアキを主軸にグレープフルーツのゼリーと
豆乳バナナアイスを作った。どっちも冷えて固まりゃ完成するもんだが
慣れない台所作業が意外と力の要る仕事だって勉強になったとザジの談。
プロの料理人やパティシエに男性が多い理由が分かったって話してたな。
ザジと遼はグレープフルーツの皮むきだけでも十分な働きしたと思うよ。
かぼちゃドーナツは美味く出来た。
みんなからの評判も良かった一品。
本人の前じゃ言い難い話だけど、モンクちゃんは芋や南瓜に煮豆が好物。
忘れもしない一年生の夏休み、俺はモンクちゃんの実家に泊まりがけで
遊びに行った事がある。村から車で一時間ちょっとの温泉で有名な町だ。
モンクちゃん家は想像したより大きくて、庭には鯉が泳ぐ池まであった。
姉と弟に挟まれた長男さん。要は惣領息子。家業の管財会社を継ぐ予定。
母親の趣味が金魚の飼育だそうで、玄関の大きな水槽に様々な種類のが
ゆらゆら泳いでる様子を二人して眺めながら宿題の絵を描いたんだよな。
二日目の朝食になるんだけど、俺としては衝撃的な食い方が
花田家の常識と知ってしまった。炊き立てご飯に甘く煮付けた
南瓜を汁ごとかけて食い始めたんだから驚いた。花田家の全員で。
カレーだったら分かるよ。でも、色は近くても南瓜だ。しかも甘い。
俺にも同じ食い方を勧められるんじゃないかと思って焦った。無理だ。
当時の…今よりもっと純粋で無邪気だったモンクちゃんは…優しくて
自分と同じように大きな茶碗にも白いご飯と南瓜を盛り付けてくれた。
どーしてくれんのコレ?…とは言えず、無言になって腹に収めたっけ。
朝食を済ませて、心地好い風が入ってくる和室の座卓に向かい合って
漢字の書き取りを始めた。そこで、親しい友人だからこそのダメ出し。
「分かった。学校ではやらない。家に帰った時だけにする」
寄宿舎での食事でやったら面倒事になりかねないと思った
俺の忠告に肯いてくれた。数頁ほど書き取りを続けてたら
「夏休み終わらなきゃいいのに。もう学校に行きたくない」
涙を零したモンクちゃん、今も俺の頭から離れそうにない。
細けぇ話は綴らねえ。モンクちゃん、よく乗り越えた。修行の成果だ。
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…………………………。
…………………………。
目的地の百貨店は学校から自動車で三十分もありゃ到着する場所だ。
いつも行ってる郊外の三階建てのショッピングモールと違って
閉塞感ある古い建物。それでも人出が多い。賑わってる。
駐車場から一階ホールまで全員揃って移動した。そこは間違いない。
親父は一旦トイレに寄ったら昼まで車の中で寝てると話して別れた。
「いちご味のジュースが飲みたーい!」
こういうのには物凄く目敏い。一階ホールの近くに並ぶ軽食店舗の
生ジュースやソフトクリームなど販売するワゴンに突進していく遼。
「手を離すなと何度も約束したのに!」
四次元トートバッグを肩に下げたモンクちゃんが慌てて追っ駆けた。
「あー、えぇと、車の中で話し合った件だけど、再確認しとこう。
昼食は全員が揃って八階の展望レストランで食べる予定なんで
十一時五十分までに、ここ一階ホールに集まるって事にして
集合時刻に配慮した上で各自の行動を楽しんでください。
じゃあ、ここで解散…しても大丈夫かな。問題ない?」
ジェントルメンズの総大将らしく斎藤が連絡事項をまとめてくれた。
音量を絞って着けたヘッドホンはイヤーマフの代用品かもしれない。
日曜だけあって家族連れなどの買い物客が多くて耳障りな喧騒だし。
「僕たちは地下のシアターで映画を観るから。待ち合わせ時間には
余裕で間に合うと思う。時間が余ったらゲームコーナーにでも行く」
イッチ君が三組の三人組を代表して伝えて、階段へ向かっていった。
「斎藤さんたち二組の三名は、向かいにあるホムセンへ移動します。
そろそろ少しずつ荷物の整理して配送しなきゃいけないと思うんで
荷物を入れる段ボールやガムテープ、梱包用品を買い揃えときます。
買い物が済んだら、この辺の適当なテーブルに座って待ってるんで」
劉遼のために苺の生ジュースを購入しているモンクちゃんを後目に
斎藤、タッツン、リンバラの三人も正面出入口へ歩き出していった。
卒業まで残り半年だもんな。俺も時間を見て私物の整理しねぇと…。
「てな訳で、一階に残ってんのは一組の寄宿舎生ばっかになったね。
僕たちは最初にもっちーセンセからの買い物の依頼を達成しなきゃ」
タコ宙たちに手を振ってたザジが俺の方に向き直し話しかけてきた。
生ジュースが入ったカップのストローと蓋を外して直飲みしながら
モンクちゃんに手を掴まれたプリンス・リトゥル遼も近づいてきた。
「僕は、このフロアにあるゲームコーナーへ行って、遼を遊ばせる。
クレーンゲームでもやらせる。余裕あったら上の書店を見たいけど」
そう告げて、立ち止まる事なく目的の場所へ遼を連れて行くようだ。
「本日は時間との戦いだねェ。それじゃエスカレーターに乗ろっか」
ザジに促され、ホールの近くにある上りのエスカレーターに乗った。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「でさァ、なんで俺たち女性用下着売り場にいなきゃなんねーの?」
周囲を見回すのも憚られる。気づいたらザジと並んで立ってたんだ。
まさかとは思うが…反則氏にプレゼント…穿かせる気かもしれない。
でもまぁ、肝は座ってるよ。平然とした表情で下着を眺めてるザジ。
「ねぇ、黙って突っ立ってないで探すの手伝ってくんないかなァ。
前から話してんだから知ってるでしょ。ブルーとホワイトの
ボーダー柄のショーツ、この目で実物が見てみたくてさ」
漫画なんかで見かける色柄の女性用下着を探してんのか?
「おまえの趣味なら後にしろ。つーか、俺を巻き込むな。
どうしても見たいっていうなら、店員さんに訊いてみろ」
「うーん、実家のママに届く通販のカタログを開いても
販売されていない色柄だから、すごく気になるんだよね。
まさにマボロシ。マボロシなアレだから見てみたいんだ」
「気持ちは分かった。だが、これ以上は長居したくない。
さっさと反則氏から頼まれた買い物を済ませるとしよう」
本日は時間との戦いだと言った筈のアレレを別フロアに連れ出した。
「もっちーセンセ、少なく見積もっても十年は着続けると思うから
上質な素材でベーシックなデザインのアイテムを揃えとかなきゃね」
さすがに十年も着ないだろうが、普段の格好から察すると想像つく。
今朝見たグレーのTシャツだって、もう三年くらい着てる筈だもん。
こういったとき金持ちの家に生まれ育った奴の目が確かだと気づく。
真の上質素材に慣れ親しんできたザジだからこそ、値段に見合った
良い品を取捨選択できるようだ。季節毎に着回しする場合も考えて
丁度良い具合に上下を買ってくれてると思うよ。俺は後を追うだけ。
短時間で買い物代行を終えたザジ、スタイリストとして有能と見た。
「ついでに靴もプレゼントしてあげよう。売り場は一階だったよね」
んーと、下りのエスカレーターは?
どうやら階段を使った方が早いな。
ザジの奴を引っ張って下りてくと
案の定、踊り場でダンスを始めた。
馬鹿ザジと一緒に街へ出かけりゃ
どうしても周りから視線が集まる。
一階ホールの辺りから目を付けられてたんだよ、数人の女子たちに。
ずっと付かず離れずで追っかけてんのが…いる…。ストーカー気質?
十年目だけあって、気にしない振りを演じるのは慣れてるけンども
時々執着心の強ォ~い女子がいると困った展開になる。面倒くさい。
最初ザジが女性の下着売り場に入ったのは脱落者を出すためかも…。
くるくる回転するザジ。俺は踊り場に設置された縁台に座って観察。
追跡女子はワレワレと同年代に見える。容姿に大きな特徴のない娘。
服装も普通に外出用って感じの格好してる。一緒に出かける友達が
いねぇのかなァ? マイペース過ぎて周りが付いていけないタイプ?
遠巻きにザジを見てるが、まだ奴のアレレに気づかないんだろうか?
こっちは預かった紙袋で両手が塞がった状態なんだよな。
紅い唇の女子がどういったトラブルを起こすか予測不能。
兎に角、追跡女子が妙な行動を起こさないよう祈っとく。
踊り終えて気が済んだザジを追って一階の靴売り場へ…。
俺の背中にまで熱っぽい視線を感じるから落ち着かない。
一緒に商品棚を見てまわって、季節を問わず履けそうな
合わせやすいデザインの靴を選んで、ザジが会計をした。
俺の金銭感覚じゃ気軽に支払えないカジュアルシューズ。
皮革製だから小まめに手入れすれば長く履けそうな感じ。
ザジが反則氏に買い揃えた洋服と問題なく馴染むと思う。
「紙袋が邪魔だし、一旦ちょっと駐車場まで戻ろっか?」
「ああ、そうだな。荷物を預けといた方が動きやすいし」
ザジの後に女性用の履物を購入した追跡女子が駐車場まで付いてきたら
オレサマの出番って事にしよう。無駄口を控えて裏の出入口へ向かった。
小型バスが停めてある位置で後ろを振り返ってみたら…姿は見えない…。
心の中で安堵の溜め息を吐いて、スライドドアを開けて車内へ。
運転席のシートを倒して眠っている親父は小さく鼾をかいてた。
毎日毎日、村に来る私信や小包を届けてまわる仕事を頑張って
折角の休日もガキ共のお守りさせられるんだ。疲れるだろうな。
本人に訊かなきゃ性別と年齢不詳の不思議なエルフが俺の父親。
エルフに拾われた魔獣が恩返しするのは、いつの日になるやら。
「トビーちゃんがアルバイトしてる店へ顔出してみようよォ!」
座席に紙袋を置いて、飲み物でも欲しいなと思っていたら
ザジが次の移動場所を提案してきた。五階の天然石の店だ。
アクセサリー作りの腕前を買われたケン坊が今年の春過ぎから
土日にアルバイトしてると聞いてはいたが…。ザジを連れて
陣中見舞いに行きゃ迷惑かける事になりそうな予感がする。
ケン坊はザジを正直あまり好きじゃねぇのも知ってるし。
五階、玩具と趣味のフロアへ上がり込むのは吉か凶か。
「了解。でも、その前に水分の排出と供給を済ませてからな」
駐車場から店舗に戻って、トイレで小用を済ませた俺とザジは
遼がモンクちゃんに買ってもらったのと同じ苺の生ジュースを購入。
一階ホールの丸テーブルに腰を落ち着け、ちょっと一休みする事にした。
「生ジュースってお高いよねェ。Mサイズで普通のお弁当が
買えちゃう値段なんだもん。こんな日でもなきゃ飲めないよ」
実家が大金持ちのクセに庶民的な金銭感覚が身に付いてしまったザジは
毎月きっちり自分の小遣いを管理してる。馬鹿な真似さえしなけりゃ
もっと貯金できるんじゃねぇかと思うけど、オリジナルデザインの
Tシャツをオーダーするのは奴が死んでも止めないと断言できる。
「あ、ちょうどいいところに居てくれた。少しの時間、遼を頼む」
モンクちゃんが劉遼を置いてトイレの方向へ急ぎ足で去ってった。
トイレなら肩のバッグも置いてきゃいいのに信用してないのかな?
「いちご味のジュース、遼も飲みたーい。買ってちょうだーい!」
無邪気な王子様が無心したが飲み過ぎでオネショしちゃいけない。
無視して差し上げた方が良さそうだ。そう俺は考えてたんだけど
ザジの奴がまだ少ししか飲んでないジュースを差し出してやった。
ストローを使うのが焦れったいらしいプリンス・リトゥル遼様は
親切な級友に礼の一言もなく、ストローと蓋を外して直飲みした。
いつだってザジは小動物を愛でるかの如く、劉遼を甘やかしてる。
同い年とは思えない幼さを見せる校長の孫を慈しんでる優しい奴。
…!!…
どうしよう。…いる…。俺と向かい合って座るザジは気づかない。
視界の端、一人でテーブルに座ってる。ザジの背中を見つめてる。
口に出すべきか判断に困る。俺の勝手な思い込みかもしれねぇし。
俺が追跡女子と目星を付けた紅い唇が目立つ美少女は、偶々俺たちと
似た買い物ルートを辿ってるだけかも。俺が濡れ衣を着せてるのかも。
きっと今は後から来る約束の友達と待ち合わせしてる。そうだと思う。
ジュースを飲み終えた。遼が飲み干したのもゴミ箱に捨ててやろうか。
さり気なく立ち上がって、空のカップを両手に持って歩いた。
ゴミ箱はホールの隅、ちょうど追跡女子の背後に置かれてる。
俺が近づいたら、さっと身を躱す感じで彼女が立ち上がって
生ジュースなど販売するワゴンに近づいてった。買うみたい。
あまり意識しちゃダメだ。ザジに降りかかってくる火の粉を
払ってやらなきゃならない義理はねえ。単なる腐れ縁の級友。
他人の片恋、一目惚れ。邪魔する俺って馬に蹴られなきゃなんねえバカ?
空のカップを捨てて、俺たちのテーブルへ目を向けたら
モンクちゃんじゃなくて斎藤がいた。タッツンたちは…?
「斎藤、タッツンとリンバラはどうした? はぐれたのか?」
素早く移動して、奴の背後に立って訊いてみた。
振り返った斎藤は悲鳴を上げそうな表情。成功!
普段から何を見てんだか注意力散漫気味なんで
不覚を取るのは容易い。気配を消すのも楽しい。
学校じゃ俺に背後を盗られない猛者は二人だけ。
「ううん、梱包用品の買い物が済んだんだ。タッちゃんは
木彫りの道具を見たい感じだし、晃ちゃんもペット売り場の
ハムスターたちを飽きずに眺めてるんで、一足先に戻っただけ。
サックラバーの御父上よく寝てたから黙って車に荷物置いてきた」
一か月前の課外活動の日に何かあったらしい。眼鏡を失くした顔は
見慣れない訳じゃないが、斎藤自身が未だに落ち着かないみてぇで
最近は矢鱈と蟀谷を押さえる仕草を見せる。頭痛がするんだろうか?
「カズマが来てくれたし、ハナキョンもすぐ戻ってくるだろうから
遼は専任の二人に任せて、僕たちはトビーちゃんとこへ行こうよ!」
ザジが席を立って俺に近づいてきた。目が自動的に追跡女子を確認。
今のところ、一人おとなしくテーブルでジュースを飲んでいる模様。
「ああ、そうだな。折角だから顔出して売上げにも貢献してやろう」
高橋さんに御土産としてアクセサリーを買って帰る良い口実だもん。
そいつを活かさない手はないと思う。きれいな色した石の…何かは
ケン坊に見繕ってもらうとしよう。手頃な値段で趣味の良い品物を。
斎藤に一言頼んだら、俺が座ってた席を動かして遼の片手を握って
モンクちゃんを待つらしい。俺たちより遼の制御に手慣れてる奴だ。
再びザジと横並びになって近くの上りエスカレーターに乗り込んだ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
ケン坊は麻紐を組んで作るブレスレットの作製中だった。
カウンターの奥、作業場に腰かけて客に背を向けた状態。
普段着のシャツとボトムにデニムのエプロンを着けた姿。
わざわざ声かけるのは何だか気が退ける。ザジも同様に
仕事の邪魔しちゃダメだと思ったようだ。挨拶しないで
ショーケースに並んだ天然石で作られた置き物や飾りを
興味深そうに覗き込んでる。値札を見ると結構な品物だ。
さてと、どうしよう…。高橋さんへ御土産の品、何がいいかな?
ザジと離れて、アクセサリー類が吊るされたりしてる一角を眺めた。
食事の支度なんかで水仕事が多いからブレスレットじゃ邪魔になる。
指輪やネックレス、イヤリングも考えてみると照れくさい気がする。
それなりの年齢を重ねた女性に安っぽいアクセサリーは失礼だよな。
どういった装飾品なら気軽に手渡せて、身に着けてもらえるだろう?
…髪留め…
天然石で飾られたヘアゴムやヘアピンにバレッタその他を見つけた。
高橋さんは髪が長くて、普段はゴム一本で上手い具合にまとめてる。
この薔薇の花弁みてぇな色、さり気なく高橋さんの髪に映えそうだ。
手に取ってみた。値札…大丈夫だ。何種類か買ってやれそうな価格。
薔薇色の石が付いたバレッタをメインに他の色…高橋さんに似合う
きれいな色合いの石で飾られてるヘアゴムを三本ほど購入する事に。
「インカローズだね。誰かの御土産? 薔薇の色は一組カラーだし
情熱的な感じで悪くないと思う。もちろん僕もオススメするよォ!」
店員でもねえザジに薦められてもアレだが、素直にレジへ向かっ…。
…いる…!
ケン坊に天然石ブレスをオーダーしてたのは、あの追跡女子だった。
ちょうどカウンターでケン坊から商品の説明を受けている真っ最中。
気軽に近づけない。いや、俺が彼女に対して過度に意識してるだけ。
オーダー品を受け取りに来たって事は、しばらく前に来てる訳だし
彼女はザジの追っかけ目的じゃない。警戒するのは止めにしなきゃ。
俺たちに気づいたケン坊が目を合わせたけど、すぐ仕事に戻って
紅い唇の美少女から自作したブレスレットの代金を受け取ってる。
ケン坊の手で紙袋に入れられた天然石の色は白っぽかった。真珠?
会計を済ませた彼女は、出入口…右を向いて…そのまま店を出た。
こっちには見向きもしなかった。全ては俺一人の勘違いって事だ。
反則氏の自室に貼られてたカレンダーを見たのが原因だな。赤口。
レジを待つ間にザジが姿を消してたと思ったら
薄いグリーンのブレスレットを手にして現れた。
「僕もミサちゃんにオミヤゲ。彼女の好きな色」
俺のミサちゃんじゃなくて、三上のミサちゃん。
本翡翠のくりぬきバングルは俺の予算じゃ無理。
頑張って仕事してるケン坊と二言三言交わして俺たちも店を出た。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
昼食の集合時刻近くまでザジと五階をぶらついて過ごした。
書店や玩具売り場なんかがあるから暇潰しにちょうどいい。
書店を見たがってたモンクちゃん一行が現れると思ってたのに
上手い具合にすれ違ったらしく他の奴等と出会う事はなかった。
下りのエスカレーターを利用して、待ち合わせの一階ホールへ。
モンクちゃん、劉遼、斎藤、俺の親父が一つのテーブルに着いてて
隣りのテーブルにはタッツンとリンバラが座ってジュース飲んでた。
俺たちとほぼ同じ時間にゲームコーナー方面からイッチ君たち登場。
予定通りに集まった計十一名で八階の展望レストランを目指す事に。
「それじゃ全員でエレベーターに乗って行こう!」
「重量オーバーにならねぇかな? ま、いいけど」
ザジと俺が先導するような形でエレベーターホールへ歩いて行った。
古い百貨店で稼働するエレベーターは二基。運良く右側が空いてた。
ブザーが鳴るとかのトラブルもなく全員が乗り込んだんだけンども
ダメだ…。窓一面硝子張りの展望用エレベーター。思わず足が竦む。
ビクついた表情を隠すのが目的、さっさと操作パネルに引っ付いた。
普通のエレベーターより移動速度が遅い気がした。
ザジとタコ宙が外の景色をアレコレ言ってやがる。
いいな。もし落ちたら…窓が割れたら…とか考える頭のねぇ奴等は。
昼食時だけあって途中から乗り込む客たちも殆ど八階を目指してる。
終いにゃ満員すし詰め状態になって、ようやく八階に吐き出された。
八階は飲食店街。ハンバーガーに回転寿司や蕎麦屋などテナント多数だ。
朝に反則氏が話していたチーズ入りハンバーグを出す展望レストランは
老舗百貨店の開店当初からあるっていう和洋中なんでも食える広い店舗。
誰も余計な口を挟まず…展望レストランへ…。
ああ、やっぱり予想はしてた。窓が足元から天井まである見晴らし最恐。
大所帯だから二つのテーブルに分かれる事になった。
十一人だから五人と六人。自然とグループが形成されて
ザジを中心としたイッチ君、翼キュン、タコ宙、タッツンが
まだ新人って印象のウェイトレスに案内されて窓際のテーブル席。
残った六人は…俺の強ォ~い意向で壁際の座敷席に着いてもらった。
プリンス・リトゥル遼は窓の景色より、お子様セットのプリンと玩具を
楽しみにしてるんだ。窓が見たいとワガママ言い出したら、ザジに任せる。
「あっ、サイトーさんだ! 寄宿舎のみんなで遊びに来てるの?」
張りのある声が店内に響き渡った。二組の鯨井マコちんだ。
ウェイトレスに案内されてテーブルに着く途中で斎藤に気づいて
一緒に来てる診療所のマエダ先生と盲目の女子…パタの妹…を放って
俺たちの席へ上がり込んできやがった。サイトーさんの大ファンだもんな。
マコちん、いつもの寝癖頭も落ち着いて格好も心做しか洒落てる。
マエダ先生の監督付で村の浅井家のお姫様を連れ出してデートか。
美琴ちゃん、可愛いのに可哀想だよ。馬鹿パタが兄貴な所為で…。
「シンちゃん、ここで会うなんて奇遇だね。何も聞いてなかったし」
背後にべったり張りついたマコちん、振り向いて相手してやる斎藤。
他の連中はメニューを眺めて食べたいもん探してる。俺もその一人。
「うん、新聞のチラシ見た先生がここのハンバーグ食べたいってさ。
そんな訳で、オレとミコちゃんが付き合わされたって感じなんだ!」
目玉を取り外して水洗いでもしてるんじゃねえかな。純粋に輝く瞳。
「あー、なるほど。今日からハンバーグフェアやってるみたいだな。
このサイコロステーキと牡蠣フライが付いたCセット、美味しそう。
シンちゃん、注文まだなんでしょ? 早くテーブルへ行くといいよ」
マコちんを苦手とする斎藤の親友モンクちゃんを気遣っての発言だ。
さり気なく俺たちから早く離れるよう誘導する言葉を付け加えてる。
「うん、そうだよな。リンバラ君も何にするか迷ってるみたいだし
ミコちゃんと先生、待たせちゃいけない。それじゃ、また学校で!」
旋風が近づいて通り過ぎたって喩えたくなるマコちんの襲来だった。
診療所の先生だって、時にはハンバーグが食べたくなるってワケか。
混んでるし、手間暇かかるメニューは避けた方が無難かもしれない。
迷いに迷ってサラダ付のカツカレー。デザートはクリームあんみつ。
全員が決めたところでテーブルに置かれた呼び出しボタンを押した。
ウェイトレスが注文を聞きに来た時点でもリンバラが愚図ってたが
俺が口添えして、最初に言ってた和風ハンバーグ膳に決めてやった。
リンバラは味の好みより値段を気にしてるんだろう。
一階で飲んでたジュースもタッツンの奢りっぽいし
卒業後の生活を考えて日頃から質素倹約に努めてる。
法がない世の中なのに、金がないと生きていけない。
将来どう生きていくか考えたら…俺も眠れねぇや…。
リンバラのデザートは俺の小遣いから出してやる事に。
斎藤と同じガトーショコラプレートを注文してやった。
普段そんなに絡まないんで矢鱈と恐縮してるリンバラ。
モンクちゃんは豆腐ハンバーグ膳に俺と同じデザート。
親父はラーメンセット、デザートは遠慮しとくってさ。
正直に実年齢を言えば、お子様セットの注文が無理な
プリンス・リトゥル遼様には苺ソーダフロートを選択。
問題ない。厠へ行きたくなりゃ必ず誰かが連れて行く。
遼本人はザジたちのテーブルから外の景色を眺めてる。
お子様セットが運ばれる頃までには戻ってくるだろう。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
お子様セットに付いてきた男児向け玩具は水鉄砲だった。
遼は天真爛漫な笑顔で辺り構わず空撃ちしまくってるが
帰宅後、共同浴場へ連れて行ったとき問題を起こす予感。
モンクちゃんをはじめとする数名がトイレに行った現在、
遼が勝手に飛び出さねぇよう斎藤が右手で制御している。
八階レストラン街の出入口となるエレベーターホール前。
俺は同じくトイレに行かなかったツバとベンチに座ってる。
しかし、静かな二人に変わり果てたと思うよ。夏目の二匹。
まだタコ宙はザジと他愛ない会話で盛り上がる事もあるが
学校の図書室から持ち出したと窺える文庫版の小説を手に
読書しながら仲間たちを待ってる翼キュン。気持ち悪りぃ。
一度ごく自然な調子で聞いてみたんだ。本音は思い切って。
「今頃になって遅いと思うけど、勉強するのが楽しいから」
含羞んだ表情して娯楽室の冷蔵庫からカニカマを取り出し
邪魔にならないよう配慮した様子で立ち去っていったツバ。
ザジが強引に誘った形で渋々ショッピングに付き合ってる。
休暇中、都会の不良同士で喧嘩して頭を強打したのは確実。
さっきまでタッツンも俺の横に並んで座ってくれてたのに
今は窓際に立って、タッツンの自宅がある方角を眺めてる。
無理。窓には近づけない。落ち着かない。早く戻ってこい。
「みんな、お待たせェ! 午後の予定、どうするか決めよォ」
ザジが先頭で現れた。仲間のリーダーが似合う容姿だもんな。
声もデカいんで周囲の注目を浴びる破目になる。慣れたケド。
「まずは帰宅時間を決めなくちゃ。道が混むかもしれないし」
級長トリオを差し置いて、運転手を務める親父に訊ねるザジ。
五時半でいいんじゃないかって話になった。残り四時間ある。
…?!…
赤口。午前中見かけた追跡女子の紅い唇が頭ん中を過った。
自分が勝手に意識して加害者みてぇに疑ったのは反省すべきだ。
ショートブーツ買って、ケン坊に麻紐ブレスレット組んでもらって
おそらく期間限定「もぎたて新鮮りんごジュース」を飲んでいた美少女。
早いとこ記憶から追い出さねぇとな。もう気にする必要なくなったんだから。
集合場所は昼と同じ一階ホールって決めて、その場で自由行動となった。
当然って感じで俺の左に付いて歩き出すザジ。エスカレーターを目指す。
通常のだったら兎も角、展望用エレベーターは当分遠慮してぇ気分だし。
モンクちゃんたち他の連中とエレベーターで下りる親父は
再び駐車場の小型バスで眠りに就くという。本当よく寝る。
俺の眼には美味そうに見えなかったラーメンと炒飯を食って
夕方まで午睡して、明日からの気力体力を回復させるそうだ。
晩メシは高橋さんの厚意で親父も食ってけって話になってる。
親父といっても未婚の二十九歳男性だし、素直に助かります。
俺としちゃ卒業後も頼りたい。色々と母親代わりになって…。
ケン坊が働いてる店で買った髪留め、喜んでくれるといいな。
「いつも行ってるショッピングセンターだったら、
これからボウリング場で1ゲームすんのにねェ…。
一階のゲームコーナーでヒマ潰しでもしよっか?」
下りエスカレーターに乗ってる途中でザジが提案。
お互いに昼食後の腹休めしねぇ主義ってのが一致。
さっき水鉄砲の空撃ちしてた遼の姿を思い出して
ガンシューティングでもやるか!って話になった。
ゾンビって不思議だ。もう死んでるのに動きまわるって何なんだろ?
生と死。カードの表裏。陽射しの下にできる影同様、張り付いてる。
生きてる者を撃ち殺すのは躊躇いが生じる。でも、ゾンビとなりゃ
途端に話が違ってくるぅ。残虐行為と思われる倒し方だって平気だ。
ちょっと前まで仲間だった奴もゲームを進めるため、頭を撃ち抜く。
無限に補給される弾丸を目に映るゾンビに向かって撃ち放つ俺たち。
殺し合いって現実じゃ御免蒙る刺激、金を払って満たしてるのも…?
「ねぇ、またまた僕たち見られちゃってるよ。バジ、気づいてた?」
顔はゲーム画面を向いたまま、少し低く落とした声でザジが言った。
「あー、振り向かないで取り乱さないでェ。いいとこまで進んだし」
淡々とした表情で画面に銃を向けるザジ。こっちは背中が気になる。
「それってケン坊がバイトしてる店で手作りブレス買ってた女子?」
「そのとおりィ。やっぱりバジの警戒範囲に入っちゃってたんだね。
僕たちって良い見世物なんだろうね~。いつも周りが賑やかになる」
「それはザジが踊り場で踊ったり、ここでも無意味にターン決めて
撃ったりしてるからだろーが。つまり全部おまえが招く悪運って事」
「悪運って…注目されるのって…そんなに悪い事じゃないと思うよ。
通りすがりの人に笑ってもらうのも善徳を積む行為だし生きる意義」
「お笑い芸人じゃねーし。何故わざわざ休日に見知らぬ他人様たち
笑わせなきゃなんねぇんだよっ。ギャラもらえる訳でもねぇ…あ!」
会話してたら、つまんねぇ場所でミスった。コインを追加投入する。
そのついでに背後を確認してしまった。…いる…。追跡女子がいた。
女子を意識しちまった罰だ。息苦しいようなパニック感に襲われて
難ステージだったのもあるが、ザジの足を引っ張る形でゲーム終了。
コンティニューしようとしたザジを俺が止め、一人で厠へ逃走した。
外出する度、目立つのはイヤだよ。いい加減にしてくれ!
一人きりで手を洗って、気づいたら懸命に顔を洗ってた。
モンクちゃんみたく手持ちのバッグにタオルやなんかを
携帯してる訳じゃないもんで、ペーパータオルで拭いた。
胸にこびり付いた大敗を喫した気分、拭い捨てたかった。
負けたってのに何だか奇妙に高揚してる。落ち着かない。
十分近くトイレにいたから誤解されそうだな。まあ、いいけどさ…。
ゲームコーナーに戻ってザジの居場所を捜すのは容易い。人だかり。
幸運の持ち主でもあるザジはクレーンゲームで幾つも大物を獲って
周囲の子ども達にプレゼントして、親から礼の言葉を頂戴していた。
イッチ君の好きなアニメキャラクターの景品も見事にゲットしてる。
俺は黙って横に立ち、ザジから手渡された景品を袋詰めしてやった。
主役はザジ一人でいい。俺は脇役、荷物持ちで十分だよ!
背中に感じる熱。不思議と過敏になってる自分に腹立つ。
もう二度と見ない。感じ取らない。思うようにならない。
あの追跡女子、白い肌だから唇が紅く映えるんだろうな。
リンバラほどじゃないが、髪の色も黒じゃなく明るめ…。
あー、馬鹿馬鹿しい。どうだっていい事柄に囚われてる!
七年生の夏期休暇前、ザジと二人で街へ買い物に出たんだ。
本屋でトイレに行ったザジを手前の廊下で待ってたら
三人の女子に取り囲まれ…吊るし上げられた…。
俺がザジに変なTシャツ着るのを強要した
陰湿なイジメをしてやがるんだってさ。
そんな風に捉える奴等もいるんだ。
本人が中央にあるメーカーからオーダーした衣服だと説明しても
こっちが嘘吐き呼ばわり。ちょっと声が大きくなったら店長登場。
俺が女子たちを泣かせた犯人に仕立て上げられた。嘘泣き三人娘。
その年の夏期休暇中に一人で親父に頼まれた用事を済ませるため
自転車に乗って街へ出かけたら、女子に呼び止められてザジ宛の
分厚い手紙を渡された事もある。村の配送局員は親父だっつーの。
宛名がまた夢見る少女って感じで笑えた。あの女子の黒歴史だな。
「トモダチ、すごいですね! あんなに取る人、初めて見ました」
…?!…
赤口。右肩越しに話しかけられていた。何なんだよ。焦る。
あれから服とか色々買い込んだんだろうか。大きい紙袋を
両手に2袋ずつ提げていた。俺の肩より低い身長と気づく。
「ああ、無駄に悪運の強い奴なんだよ。遊びに運を使い果たして
いざって時は駄目なタイプ。後で帳尻合わせされるってワケだな」
特に相槌の発言しないで微笑みを浮かべて聞いてくれてる。
年齢を訊く気はないけど、同年代女子との会話はトラウマ。
約一年前、竜崎家の四番目の姉さんとの出会いを思い出す。
向こうは自分の事を嫌ってるという気持ちになってしまう。
おかしな表情になってそうで、それが重圧感として伝わる。
「一人で来たの? 荷物、重そうだなァ。持ってやりてぇケド」
軽くても嵩張る手土産で両手が塞がってる状態を身振りで示す。
「いつも街での買い物は一人なんです。家が山奥にあるから…。
バスの本数も少ないから、時間まで待たなくちゃいけませんし」
時間潰しも兼ねて、見世物同然のザジと俺を眺めてたんだろう。
「実は、何度か二人を見かけた事があって…。隣りの村にある
寄宿学校の生徒さん達ですよね? 普段はこの百貨店じゃなく
郊外にあるショッピングセンターに来る場合が多いんじゃ…?」
どうして俺たちの事情に詳しいのか疑問だが、そうだと頷いた。
「ボウリング、みんなで楽しそうにやってていいなぁと思って
眺めた事があるんです。さすがに一人で遊ぶ勇気ないですから。
私も男の子だったら、学校へ行ってトモダチ作れたのかなぁ…」
彼女が懐いてる寂しい気持ちを隠しもせず伝えてきた。戸惑う。
ザジの誘いを丁重に断って寄宿舎で留守番してるミサちゃんが
この場にいてくれたら良かったのに。きっと親しくなれた筈だ。
男子の俺じゃダメ、上手く付き合えない。ザジと同行で精一杯。
単に彼女は一緒に出かけたりできる同性の友達がほしいんだよ。
ミサちゃんに紹介するため連絡先を聞こうと思ったが
そいつも気恥ずかしい。おかしな誤解されたくないし。
余計なお節介でも村に近けりゃ親父に頼んで送ろうかと…。
でも、彼女が暮らす山奥は方角が違ってた。この街より南。
「まだ少し早いけどバスターミナルへ行く」と去ってった。
彼女の名前は知らないけど、紅い唇の目立つ顔は忘れない。
高橋さんの御土産に買った髪留め、彼女にも似合うと思う。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
こっちが何も知らない人間に知られてたって妙な気分だな。
何やらせても目立つ馬鹿の側に控えるのも楽じゃねえ。
来年の春が来たら卒業。それまでの仲だってのに
関わってると苦労が尽きない。世話が焼ける。
どれだけ景品を取りゃ気が済むんだよ…。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
ようやく飽きたらしくダンスゲームしてるザジを後目に
景品が入った袋を抱えて駐車場へ出た。外気が肌を刺す。
頭を冷やすのにちょうどいい。数日中に初雪が降りそう。
百貨店の並び、数分ほど歩いたらバスターミナルがある。
まだ待合室のベンチ…駄目だよ。しつこい。忘れなきゃ。
午前中と同じ小さな鼾が響く車内。そっと荷物を置いた。
百貨店のエントランスホール、テーブルと椅子が置かれてある集合場所。
その一卓に腰を下ろしてジュース飲んでるザジを見つけたんで近づいた。
「バスターミナルまで彼女を追っ駆けたんだと思ってたよ!
バジとお似合いだと思ったから応援してたのにィ。ザンネン」
そう口にした勢いで、音を立てて残りのジュースを吸込んだ。
テーブルの上には空のカップが3つ並んでる。三組の三人分?
「馬鹿が勝手に妄想しやがって。余計なバカ言わなくていい」
ザジが空にしたカップを手に取って、全部まとめてゴミ箱へ。
「絶対バジが片付けてくれると思ったから、イッチ君たちに
そのままにしといて大丈夫って話したんだよ。三人は揃って
イッチ君の自宅で休むってさ。歩いてすぐの場所にあるから」
エレベーターの中、ザジとタコ宙の会話は耳に入ってたんだ。
大きいね。すごく立派な家だねェ。ザジは媚びて話してたが
中央にある竜崎家の方が遥かに大きくて立派に違いねぇ筈だ。
一年生の頃、雑談してて家の部屋数の話になった事があって
リューザキ君の実家が巨大な宮殿だと知った。見てないケド。
「でさァ、彼女の名前は聞いたの? 連絡先の交換はした?」
ザジの向かいに座ったら…。彼女の事が気になってたんなら
話しかけりゃよかったんだ。ザジがゲームに没頭してたから
俺に声かける事態に陥っただけ。そいつを分かってない様子。
「名前は知らねえけど、住んでるとこは山奥の一軒家だとさ。
逢いてぇなら今度タクシー飛ばして行きな。土産も持ってけ」
「ううん、そうじゃなくって…。ま、いいよ。縁の結び目が
変わるんじゃないかって仄かな期待を寄せてたの。それだけ」
頬杖ついて目を伏せた。そんなの知るか。期待されても困る。
日曜の百貨店、午後になっても混雑してる。近隣の町村から
買い物客が詰めかけてるんだろう。人の流れを黙って眺めた。
村は自家発電が主な電力の供給源になる。街の商店街みたく
煌びやかな電飾といった贅沢な電気の使い方するのは難しい。
街の近辺じゃ電力会社から電気を購入する形で供給されてる。
夜間ほぼ停電状態となる寄宿舎の話をしたら笑われるだろう。
凸凹の補修が何年も手付かずな村の道路事情も田舎ならでは。
村と街でも田舎と都会の格差を感じてる俺には、中央の暮らしなんて
想像つかねえ。実家は巨大な宮殿のザジが不満を言わないのが不思議。
都会じゃ普通の電話って便利な道具も未だに使えねぇド田舎だもんな。
家庭の娯楽といえばラジオにDVDだ。テレビ放送もない未開の土地。
卒業後は村を出ると息巻いてる奴等、都会の色に染まる自信あんのか?
近くにある軽食店舗の壁に掛けられた時計に視線を向けた。
ちょうど午後三時半を指してる。残り二時間もあるんだな。
結構な時間遊んだ気がしてたけど、そうでもなかったのか。
タイミング良く観たい映画が始まる筈もないだろうし
五階へ上がって書店で立ち読みでもして過ごそうかな。
「ねぇ、これからカラオケ行こう! この大通りにお店があるもんね。
他のみんなも誘って、楽しく歌って過ごそっ! 素敵な時間にしよ!」
頭の上に電球を浮かべたザジが勢いよく立ち上がった。止めても無駄。
「で、どうやって他の奴等を誘うんだ? 店内放送で呼び出すのか?」
冷たいもんはイヤだな。コーヒーを飲みながらソファで寛ぎたい気分。
「迷子の仔猫ちゃん扱いしたら可哀想だよ。一匹ずつ丁寧に回収する」
一匹と数える時点でアレ。アナウンスしてもらった方が早いと思うが
隠れん坊の鬼になったつもりで捜索してまわるのも悪くない気がした。
『あー、見つけた!』
学校に入学した日、頭に白い包帯巻いたザジが
水に飛び込むような勢いで抱き着いてきてから
トモダチか何なのか俺にもハッキリしないまま
それが当たり前って感じで一緒に行動する二人。
こいつとのコンビも翌春には解消するんだな…。
「あ、僕のアンテナがキャッチした。まずはゲームコーナーへ行こう」
俺たちが遊んだゾンビを倒すガンシューティングゲームやってる二人。
タッツンとリンバラ、テニスでダブルス組む二人だけあって息が合う。
てか、殆どタッツン一人でゲームを進めてる。昼休みのテニスと同じ。
やっぱり遠目で見てもタッツンは格好良い。リンバラは見てらんねぇ。
観客を笑わせる気がないのに大爆笑を掻っさらうピン芸人がリンバラ。
自分だって他人の事をとやかく言えない。容姿をバカにする気はない。
でも、視界に入る度に笑える行動してりゃ我慢の限界。頬がニヤける。
それでいて愛読書は医学や解剖学の分厚い専門書。難解な専門用語を
辞書で調べながら真剣な表情で読んでやがるんだよ。そこは笑えねえ。
「二匹の仔猫ちゃんを発見したよォ。この調子で残りも回収しちゃお」
残り三人を見つけてくるまで遊んでてって話をつけて
上りのエスカレーターに乗った。ザジの勘に従っとく。
間違いなく三人一緒にいると思う。問題なく見つかる。
俺の予想じゃ五階の書店で遼の絵本を選んでそうだな。
少なくとも下着売り場にはいない。そうだと信じたい。
エスカレーターを降りたザジの足が五階フロアに入った。その後ろを追う。
「なんか微妙だけど、こっちからアレな空気が漂ってきてる。いるかな?」
玩具売り場に入っていくと、アニメのロボットが並ぶショーケースの前に
斎藤と遼がいた。リアルに彩色された商品とジオラマに見入ってるようだ。
ザジも心得てる。二人で気配を消して、奴の背後を盗って午前中と同じく
斎藤の驚いた表情をザジと一緒に楽しんでやった。悪りぃな、悪気はない。
「モンクちゃんはトイレに行ってんのか?」
そこしか思いつかないんで形式的に訊いた。
「知らない。ちょっとあって一人でどっか行っちゃった」
こっちに目を合わせねぇ面が喧嘩したと正直に語ってる。
詳細を聞く余裕はないが、モンクちゃんがキレたんだな。
斎藤は遼を普通の男児として扱いたい。モンクちゃんは
遼を着せ替え遊びの人形扱いしてると窺える部分が多い。
女子が好んで手に取る商品を遼に買い与えてるのが証拠。
その辺が喧嘩の火種になってんじゃないかって俺の予想。
「えー、それ本当? それじゃ質問。カズマにとって正義とは?」
「答えなくていいよ。素直に発言した奴の負け。『可愛い』とか
『面白い』とか口にした事柄に拘るバカっていう自己申告ゲーム」
「バラしちゃダメでしょ。本当の気持ち、聞けそうだったのにィ。
ま、いいや。二匹確保。最後の迷子の仔猫ちゃん、見つけよう!」
玩具売り場から一時撤退して、モンクちゃんの行方を捜しに出発。
「ハナキョンはファンシー、カズマはファンタジー。
近いようでいて構築される世界の色調が違ってんの。
要するに二人の性格の不一致が招いたイザコザだね。
同性の夫婦の離婚危機だと思うよ。子ども役は遼で
養育権をパパ役のカズマが奪っちゃったって感じだ。
ママ役のハナキョン、どこで不貞腐れてるかなァ?」
一年生の夏休み、風呂にも一緒に入った仲だ。母親役は紛れもなく男子。
一年生の頃は共同浴場へ行ってたのに、いつの間にか寄宿舎の浴室しか
使わなくなってた。朝から掃除、昼にも自主特掃、卒業まで修行の日々。
それはまぁいいとして、書店の棚を覗いてまわってみても姿が見えない。
ケン坊がバイトする店へ入って訊ねてみたんだけど、素っ気ない口調で
「来てない」と言われた。アクセサリー製作で忙しいのもあるんだろう。
そいつに加えて…ザジがケン坊の視界に映るのが気に入らないのかも…。
色々あって距離を置かれてるんだよ。俺まで巻き込まれてキラワレテル。
「五階には居ないと思う。そうだねェ、人目に付かず休憩できる場所。
どこか思いつくとこない? 僕のアンテナ、バジのより感度が低くて」
下りのエスカレーターに乗りながら目に付く周辺を確認してるんだが
人目に付かずに休憩って、まさかトイレの個室にでも籠ってるのかな?
「頭にアンテナ立ってねーけど、エレベーターホールや階段の踊り場と
念のためにトイレも見てまわろう。休んでるなら椅子かベンチだろうし」
そんな訳でモンクちゃんが肩のバッグ降ろして座ってそうな場所を
上から下まで走って見てまわったんだが、一階ホールにも姿はない。
「探しまわってるうちにカラオケする時間が無くなっちゃいそうだよォ。
アッレェ? カズマが遼と一緒に下りてきた。ハナキョンは…居ないね」
途中から視線を後ろのエスカレーターに移動させ、ぼやいてみせたザジ。
「斎藤、五階でプラモでも買って来たのか? 値札見て高いと思ったが」
こっちに二人で近付いてきた斎藤の手に少し前はなかった紙袋があった。
「バッグ買ったんだ。実家へ帰るときの荷物を詰めるのが古くなってて
丁度いい大きさの品が目に付いたんで。プラモデルは作るの面倒だから
眺めてるだけで十分。斎藤さんは出来上がったのを並べるのが趣味だし」
不機嫌なままの表情。モンクちゃんと何があったか聞きたい気もするが
不満を爆発させそうな予感が強い。放っといた方が無難かもしれねぇな。
「遼がママ役の追跡できたらなァ。水鉄砲の空撃ちに夢中だから無理か」
斎藤の右手で動きを制御されてるが、まだ飽きずに水鉄砲で遊んでる遼。
「ゆわぁっ、頭上にピコーン!と来た。電球、見えてない?」
馬鹿が自分の頭を指差して言ってる。見えてたら病院へ行く。
「寝てる。静かに眠る森のフレイム・プリンスが頭を過った。
意外な穴場だもんねェ。兎に角、バジも一緒に付いてきて!」
俺の頭にゃ視えない疑問符が点灯してるが、黙って追尾する。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
確かに隠れた穴場かもしれねぇな。百貨店の家具売り場は
高級品に絞ったラインナップだろうし、近くにはホムセン。
買い物客の姿は閑散とした売り場となってるように思える。
大胆不敵な鉄面皮でもある鬼軍曹様が売り物のダブルベッドに寝てる。
伊達眼鏡とマスクを着けっぱなしで仰向け。息苦しくなんねーのかな?
鼾はかいてねぇけど、寝息が狸寝入りじゃなく本当に寝てると分かる。
店員も見て見ぬ振りで放置してんのか? バッグ盗られたら大変だよ。
「バジ、近くを歩いてる女子を攫ってきてェ。キスさせてみる」
「馬鹿がバカな妄想を実行に移すな。犯罪行為に加担させるな」
モンクちゃんの寝姿、白状すれば物凄く苦手だ。胸がざわめく。
落ち着かなくなる。理由は知らないけど、不安に押し潰される。
一年生の夏休み、モンクちゃんの実家へ遊びに行った晩からだ。
隣りの布団で寝てる姿を見て、何故か必死になって起こしてた。
目蓋の奥の眼球が動いてるモンクちゃんの肩叩いて起こした。
夢の世界から強制退去させ、現実の世界に引き戻してやった。
…?!…
モンクちゃんが起きたと思ったら、ザジの姿が消えてる。どこだ?
…!!…
馬鹿ザジがキングサイズのウォーターベッドに寝転がってやがる。
バッグの中身を確認中のモンクちゃんを置いて、そっちへ向かう。
「これ、いいねェ。左右で温度設定できるから二人とも快適快眠。
思いきって買っちゃおっかな。布団の上げ下ろしから卒業だよ!」
この馬鹿が本気で言ってねえと信じたい。本気なら明日は診療所。
マエダ先生に頼んで然るべき保護施設へ送致するための紹介状を
書いてもらう。卒業後のザジが他人様に迷惑かけるのは避けたい。
キラワレテル。
良い所は沢山あるよ。
何年も見てるし知ってる。
でも、こんなアレレじゃ卒業後が心配だ。生き難いに決まってる。
ザジだけじゃない。モンクちゃんも含めて、俺は心配で仕方ない。
まあ、どっちも実家の会社を継ぐんだろうから無用な心配だけど
人間が人間として生きる以上、他者との関わりは避けられません。
どうしても俺は二人の未来が心配だよ。トラブルの絶えない日常。
常日頃の言動や態度に全ての情報が含まれている訳じゃない。
二人を理解するのには、ある程度の時間が必要だから
浅い関わりの人間から誤解される懼れがある。
偏見や嘲笑、そういうのから護りたい。
店員が様子を見に近づいてきたんで、二人を引っ張って逃走した。
三人がエスカレーターから下りると、一階ホールには四人がいた。
だけど、予想外に時間を食っちまった。時計の針は午後四時半…。
「カラオケは次の楽しみに取っとこ。隠れん坊、楽しかったね!」
俺の左脇に立つザジが微笑んだ顔で言った。右脇は無表情のまま。
で、斎藤だけ俺たちの方に顔を向けない。原因は右脇に…いる…。
斎藤たちが着くテーブルの隣りに三人で腰を落ち着ける事にした。
当然の事として、座る椅子は斎藤とモンクちゃんの現状を考えて
二人が向かい合わない位置の椅子にモンクちゃんを促してやった。
「いちご味のジュース、もっと飲みたーい!」
こっちにやって来た遼がベテラン世話係モンクちゃんにねだった。
賑わった百貨店の空間にいる所為か、いつもの口癖を聞いてない。
「夜中おトイレ行きたくなっちゃうよォ。ジュースはまた今度ね」
リトゥル遼様をザジが宥めて、俺が空いてる席に座らせてやると
モンクちゃんが四次元トートバッグからフルーツのど飴を出して
劉遼の口を開けて放り込んだ。一組の三人連携が淡々と決まった。
斎藤が黙って手を離したんで、一組と二組の生徒で分かれる形に。
残り一時間、どう凌げばいいやら。
店内を見てまわるのも飽きたし、
三組の三人がいりゃ帰るのに。
ザジと二人で迎えに行くか。
でも、モンクちゃんが…。
「しりとり、低学年の頃は行き帰りの車中じゃ
盛り上がったゲームだったよねェ。懐かしいや。
今回は、一組と二組の対抗戦で遊んで過ごそう。
それじゃあ僭越ながら僕が最初の言葉を出すよ。
え~っとね、どーしよォ。あ、そうだ。初雪!」
馬鹿、何考えてんだ。しりとり遊びする歳かよ。
「ハツユキ? こっちは晃ちゃんが答えるって」
斎藤がリンバラに振りやがった。どうなるんだ?
「えっ、そんな…。無茶振りしないでください」
「言わないと二組の負けだよ。頑張って答えて」
「分かりました。初雪ですね。えぇと、黄な粉」
俺には斎藤の考えが読めたけど、様子を見るか。
「粉雪」
ザジ一人に任せるのも何だし、俺も参戦しよう。
語尾を『き』に限定してリンバラを攻めてみる。
「き…キュウリ」
やっぱりなァ。ザジも軽くニヤけた表情してる。
「利益」
「き…き…あ、キウイ」
黙って聞いてるタッツン。口の端が上がってる。
「石垣」
「え、また?…き…キャベツ」
斎藤もタッツンも級友に加勢しない。見殺しだ。
「積み木」
「ツミキ?…そんなぁ…き…き、き…キムチ!」
赤い髪のリンバラが顔まで赤く染めて叫んだら
「晃ちゃん、食べ物の名前ばっかり言ってるよ。
折角だから地下食品売り場でも覗いてみようか。
村の商店より安く売ってるだろうし、こっちも
部屋に備蓄してあるカップ麺の補給しなきゃね」
さっきから俺たちに目を向けないままの斎藤が
立ち上がった。リンバラを同行させる気らしい。
要は居心地悪りぃ空間から逃げ出してぇだけか。
事前に限定するルールを決めた憶えがなくても
しりとり遊びすると頑なに食いもんの名前しか
考えようとしねぇのがリンバラのお約束だから
二組の級長、そいつを上手く利用したってワケ。
「また断りもなく僕の電気ケトルを使うのか?」
未だに胸の燻りが鎮火してないモンクちゃんが通り過ぎようとした斎藤に
言葉の矢を放っちまった。あ~あ、新たな火種を点けようとしてやがるよ。
「あー、知らないんだ。カップ麺は水からでも作れるんだけど」
斎藤の奴、目を合わせずモンクちゃんを睨んで口喧嘩に応えた。
「知ってるに決まってる。おまえに教えてやったのは僕なのに」
確か1時間近く待たなきゃ食えない非常時向けの知恵だった筈。
夏の盛りでもないのに冷たいカップ麺なんか食いたくねえよな。
斎藤も売り言葉に買い言葉で苦し紛れに言い返しただけだろう。
袋ラーメン派の俺は、食堂の調理場で湯を沸かせって言いたい。
「こっちの陣地に忍び込んでポテトフライの盗み食い常習犯が
人の行動に余計な口を挟まないでよ。晃ちゃん、早く行こう!」
オドオドした顔のリンバラがジェントルメンズの総大将を追い駆けると
「山積みで陳列された商品が崩れるかもしれない。念のために俺も行く」
昼休みのテニスでリンバラの尻拭いには慣れてるタッツンが席を立った。
かもしれない…じゃ済まないのがリンバラだもんな。タッツンも大変だ。
二組の三名が揃って地下一階食品売り場へ下りた。一組の四名が居残り。
「パパ、どうして盗み食いすんの? カズマのポテトフライ」
モンクちゃんとザジの父は同じ聖史。読み方が違うんだとさ。
そんな訳で何かにつけてザジはモンクちゃんをパパ呼ばわり。
「濡れ衣だ。自分で食べもしないポテトフライを買って帰るのはカズ。
僕は無駄にしないよう仕方なく片付けてやってるだけ。掃除と同じ事。
ここぞとばかりに僕を陥れて…。今夜は自室で眠らせてやるものか!」
モンクちゃんの瞳に復讐の炎が宿っている。恥辱を雪ごうとする悪寒。
「あのさァ、仲裁する気もないし仲良くケンカしなって感じだけど
あっちのセンセがパパに謝んないのが引っかかるんだ。どったの?」
そうだよな。いつもは斎藤が媚びてでも険悪になるのを回避してる。
「僕は同室の友として、あいつの金遣いの荒さを窘めてやったのだ。
常日頃から溜めに溜めて抑圧し続けてきたのだが、もう限界だった。
あいつは衣服に装飾品、埃の被るロボットに惜しげなく大枚を叩く。
要するに経済観念が欠如しているのだ。いざという時に困る事態が
訪れる前に忠告してやったというのに…。なのに、あいつは僕に…」
滅多に俺たちと目を合わせないモンクちゃんが雪崩のような勢いで
打ち明けてくれたと思ったら、右目を手で押さえて俯いてしまった。
モンクちゃん、斎藤の発言で手痛いダメージを喰らったんだろうか?
「おトイレ行きたーい!」
お喋り禁止アイテムの効果が切れた途端、遼が立ち上がって
あちこち向きを変えながらピョンピョン激しく跳ね回ってる。
そういや、遼は昼食後のトイレにも付いてかなかったもんな。
学校や寄宿舎なら遼一人でも大丈夫だろうが不慣れな場所だ。
向きを変えながら跳ねてるのはトイレを探してんだって思う。
「分かった。早く済ませよう」
ベテラン世話係らしく遼の手を取ったモンクちゃん。
「そっちじゃないよ。トイレは逆の方向」
ザジからツッコまれて僅かに焦った表情を見せたが
即座に通常の無表情、回れ右してトイレへ向かった。
確か午前中は普通に一人で行ってたと思うんだけど。
心が落ち着いてなきゃ右と左の区別も曖昧になる場合だってあるさ。
決して方向音痴じゃねえ。断じて違う。そうだと信じさせてくれ…。
「何を言われたか知らないけど、カズマがハナキョンに肯かないで
言い返しちゃったのが気に入らなかったんだろうね。それで寝逃げ」
モンクちゃんと遼の姿が消えてから、頬杖ついたザジが俺に言った。
一か月前の課外活動の日、モンクちゃんが斎藤の眼鏡に何かした筈。
斎藤の黒縁眼鏡消失事件の犯人、俺はモンクちゃんだと推理してる。
だからって、それを追及するつもりは一切ない。無意味だと思うし。
モンクちゃんと斎藤、二人の問題だ。俺が入り込む余地ありません。
ま、そのうち会話の流れを都合よく誘導して真相を聞き出すつもり。
時には不公平だと思ったり、不満が募るのも仕方ないと思うよ。
同じ部屋で寝起きする仲だし、お互いの良し悪しを知りすぎる。
俺の場合、村内に自宅があるから暇を見て息抜きもできるケド
滅多な事じゃ離れらんねぇお互いが鎖で繋がれた者同士の関係。
そういやクラス分けや寄宿舎の部屋割り…誰が決めたんだろ…?
『あー、見つけた!』
入学した日の晩、俺は自宅で寝たけどザジは生まれて初めての一人寝で
眠れなくて泣いたってさ。翌朝、登校したら嬉しそうな顔で抱き着いて
先生が来るまで離れなくて困ったっけ。気づいたら朝だったそうだから
普通に寝たんだと思うケド、その夜は二人で騒いで高橋さんに叱られた。
一年生が十年生。学校生活も最後の年だもんな。色々あって当然だよ。
こっちの感覚が麻痺してて、見ても何とも思わなくなってしまった
俺の向かいに座るザジ。通り過ぎる買い物客が堪えきれず噴き出す。
通りすがりの奴等がヒソヒソ喋って笑う。外出の度、見世物になる。
特注のパーカーに入った文字やイラストがアレすぎて完全にアウト。
ケン坊がバイトしてる店の主人から営業妨害だと愚痴られたかも…。
こんな奴と寝起きを共にする修行の日々、春まで耐え抜いてみせる。
その先が視えなくて怖いが、その気持ち抱えてるのは一人じゃない。
「イッチ君の自宅、訪ねてみないか?…なんか疲れたし」
「そうだね、二人で三人のお迎え行くのも悪くないねェ。
壱君センセのお宅にピンポンダッシュしてみたかったの。
どんな人が出てくるか気になるもんね。試してみよっ!」
「そいつは止めとこう。まだバッドエンド迎えたくねえ」
モンクちゃんと遼が無事にトイレから戻って来たんで
待っててもらうよう頼んで、ザジと俺は百貨店を出た。
モンクちゃんと斎藤の件は心配無用だ。いつだって氷解するのは早いから。
俺は二人が羨ましくもある。俺の凍りついた部分は未だ融ける兆しがない。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
考えた事なかったが、案外イッチ君も俺と近い位置に立ってんのかも。
広い客間に通されて短時間の滞在時間だったけど、色々と窺い知れた。
イッチ君の母親は父親の後妻で継母になるようだ。
二歳下の弟が威張り散らした感じで気に入らない。
わざわざ挨拶しに客間を覗いてきたのはいいけど
言葉の端から兄をバカにしてるのが伝わってきた。
運動音痴なのは事実でも、先生としちゃ立派だよ。
ザジの特注パーカーを見て、欲しがる時点でアレレな弟だと思った。
イッチ君は三組では壱君センセ。働き者だ。
あまり近づきたいとは思えない性格してるケド
性根が腐ってる訳じゃない。周囲の環境が悪くて
歪んじまったんだ。本人には言えないが可哀想な奴。
イッチ君といえば、相棒となるヤッチ君の病状が心配だけど
昨年も年明けに帰ってきてくれた。今回も問題ないと信じてる。
俺とザジが驚いたのはタコ宙だ。長髪をサッパリと短く刈ってた。
イッチ君の実家に入らず、近所の美容室へ行ってたらしい。
ツバとソラ、二人して何かに取り憑かれたみてぇで
こっちの調子が狂っちまうけど、ザジの奴は
イメチェン大成功!と褒めてやってた。
ザジとタコ宙は中央生まれの都会者同士だ。卒業後も仲良くやりゃいいさ。
帰りの車中で聞いた話だが、プリンス・リトゥル遼様が小用を済ませたら
水鉄砲の空撃ちに飽きたみてぇだ。一階ホールの催し物なんかに使われる
ステージ上へ駆けてって、学習発表会で歌った曲目をアカペラでリプレイ。
その場に居合わせた買い物客たちから拍手喝采だったって。見世物王子様。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
それから三日後、十年生になって初めての雪が降る朝。
自室の窓を開けて、また雪片付けに追われる日常がやって来たのを
冬の外気を肌で感じながら目で確認した。まだまだザジは夢の中…。
チラチラ舞い落ちてくる。羽毛に似てても地表で水へと変わるもの。
キングサイズのウォーターベッドなんか置いたら寝る以外
何も出来なくなる押し入れを開け、畳んだ布団を仕舞った。
洗面所へ近付くと既に水音がする。先客はモンクちゃんだ。
朝の自主清掃活動を始める支度にかかってる。無言で目礼。
俺が小用で厠へ入って、用を済ませて戻ると姿が消えてた。
十年間の学校生活。その後も続く生活。俺は何して生きるんだろう?
親父に甘えて暮らす訳にはいかない。拾い主様に恩返しをしなきゃ。
雨の日、道端に落ちてた赤ん坊を見つけ、育ててくれた親父のため
少しは役に立つ人間となってみたい。誰にも言えない本当の気持ち。
階段を下りて、食堂の引き戸を開けた。今朝は高橋さん一人らしい。
調理場の冷蔵庫を開けてるインカローズのバレッタで留められた髪、
何だか照れちまうが、まずは朝の挨拶しなきゃ表情が見れないよな。
自分から声を出した瞬間、初めて今日という時が進んで行くと思う。
ストーブの給油を頼まれた。喜んで引き受けるよ、役に立てるなら。
洗濯室の隅に灯油入りのポリタンクを並べてあるんで、そこで給油。
電池式ポンプは満タンになると自動的にストップするから便利だな。
息子である二組の陽ちゃまと一緒に暮らせない理由
高橋さんたちの寝床に禍々しい武器を置いてる理由
村で十五年も暮らせば、耳に入ってくる。
居合わせたら盾くらいの役には立ちたい。
生きてる人間が死者より恐ろしい事を考えて実行する。そいつが怖い。
表には出せない複雑な事情。可哀想な奴が多いと気づいてから
自己憐憫に浸る暇があったら手を動かして働く事にしようと決めた。
その方が時間を有意義に使える。傍を楽にすりゃ誰かの笑顔に結びつく。
自分もアレな裏事情を持ってるけど、辛うじて未だ潰れずに済んでる。
給油タンクが満たされりゃストーブが周りを暖められる。高橋さんが
笑顔で迎えてくれりゃ十分だ。こんな調子で時間を進めて行くつもり。
本日の天気は雪。水曜の授業を受けて過ごす。
あ、そろそろザジの奴を起こしに行かなきゃ。
レンジで顔を拭く蒸しタオル作って戻ろう…。
◆谷地君からの手紙. 三上操
この手紙を公開することは、彼からの許可を得た訳ではありません。
十年生十二月、彼からはもう何の言葉も伝えてもらえなくなりました。
谷地君と私は、学校や寄宿舎で…浮いた者同士…みたいな感じで
関わり合うようになったんじゃないかと振り返ることができます。
娯楽室のホワイトボードで遊んだ○×ゲーム、後攻の私が負けました。
長いこと語り合ったとか、そこまで親しかった間柄ではありませんが
ごく自然に何気ない雑談できるような存在になってもらっていました。
私の鈴の付いた暖簾の中にも、特に支障なく立ち入れる男子でした。
谷地君は鋭い洞察力の持ち主ですから私が女子であるということは
直に気付かれてしまいましたが、一人きりでいるのも辛かったので
だからこそ…「私の味方」…その一人であると、彼を称したのです。
おそらくですが谷地君の場合、一番お互いを理解しあえる相手は
寄宿舎の娯楽室でチェスや将棋といったゲームの対戦相手だった
壱琉ではないかと思います。私は単なる一友人にしか過ぎません。
そうだと思っています。気まぐれやイタズラは、誰にでもあることです。
『三上操様へ 拝啓とか時候の挨拶は必要ないと思うので省略しとく。
二人の思い出を綴ってみたところで意味ないというか、お互いの心の中に
残っていれば充分だ。僕の姿がミサの心にどう映ってるかは気になるけど
そろそろ投了しなければならない時間が訪れてしまったような気がするし
ミサと話したくて…手紙より言葉で伝えておくべきだったとは承知してる。
でも、ミサに避けられるようになったんで仕方なかった。こっちは二組。
三組は隣りのクラスなのに何故か近づくのは至難な遠く離れた場所だった。
八年生の五月の頃だね、ミサがああいった状態になった引鉄を引いたのは
僕の不意打ちに違いないと思うから文章の形でもきちんと謝罪したくて、
それだけは伝えておかなければ死んでも死にきれない心残りもあったので
心から謝ります。あのときは本当にごめんなさい。心の底から反省してます。
しかし、池田先生のアパートへミサを迎えに行った日の朝、あれはダメだ!
今も書いてて思い出しただけで笑ってしまった。斎藤の男前な場面を見事に
ぶち壊した竜崎、あいつの言動ヤバすぎだって!
というより僕まで勝手にメンバーに加えんな!って本気で笑ってしまった。
なんでヤツはああなんだ? あれだけの美形なのに無茶苦茶すぎるよ。
竜崎の仕業だと思うけど寄宿舎の貼り紙とか見てらんないって。
目にした瞬間、笑い死にしちまいそうなほど面白かったんだから。
竜崎と宙や翼がキレた桜庭にぶっ飛ばされるのも寄宿舎名物だった。
そうそう、花田はいつも後片付け担当で斎藤と特掃隊を組んでたっけ。
でも、あいつらくらいのバイタリティーがあったら僕も混ざりたかったよ。
竜崎たちの言動をさらっと受け流せるのは晴ちゃんとナギちゃんくらいだった。
晃司はあまり助けてやれなくて悪かったと思うから、あっちにも手紙書いとく。
それは兎も角、振り返ってみると結構愉快な寄宿学校生活だった。
ホント笑い死にしかねない日々だったもん。
寮母さんの生チョコロール、ミサから貰ったガトーショコラも最高だった!
ミサはどうだったか知らないけど、僕は学校で過ごす毎日が面白かった。
すごい美人なのに声がオッサンのヘンテコな教師にも出会えたし。
あ、ミサのお父さんのことを貶すつもりじゃないよ。
授業は脱線がひどかったけど。ある意味、人生の学習ができたと感謝してる。
幾らでも思い出し笑いできて、さっきから脇腹が痙攣して痛いくらいだ。
本当に素晴らしかった。そんな我が心の良い記憶となったと思う。
ミサ、みんな、どうもありがとう!
娯楽室のカラオケ大会も良かった。ミサのカウントダウンは、僕に向けてか?
ミサに撃たれて死ぬのなら悪くない。腹の底から思いきり笑って死んでやる!
ま、僕の人生って奴は史書に綴られた人物の表現としては「惨めな最期」と
評されるものになるかもしれないけど、それでも寄宿舎では誰よりもイッチ、
他に斎藤、花田、晴ちゃん…。
二組では悠ちゃん、陽ちゃま、ノブ(格好は完全にアウト!早く前歯治せ!と
ミサが代わりに伝言しといてくれ)、他の連中にも相当笑わせてもらったし
僕の人生は楽しかった!だから、仲間たちには「ありがとう」としか言えない。
利用したり、巻き込んだり、そういった行為は仲間がいなければ、実行不能だ。
言葉の暴力、裏で妬まれてたり、優越感を味わうことも周りに仲間がいてこそ。
孤立してちゃ笑えない。周りに誰かいて和気藹々と笑った方がいいと思うよ!
誰かのこと考えすぎて「胸が痛くなる」という状態も実際に経験できたし
もういいや。「陽の当たる大通りで」「さよならおひさま」これで終っても
悔いは、やっぱり全然ないとは思わない。覚悟を決めて現実を受け入れるよ。
けど、また学校に戻れたら…。希望くらい持たせてくれ。強く深く思い、祈る!
希望を持たせてほしいと思う。だから、その時が来たら…。
どうかまた以前のような友達になってください。お願いします!
欲をかいてはいけない。碌な結末を迎えない。知ってはいる。けれども
望みが叶うなら、死にたい場所があるんだ。再会したら、そのとき必ず話す。
もう少しだけ心を開けばいいと思います。
誰かに鍵を開けてもらうことを期待しているよりも
自ら内鍵を開けばいいだけです。それで楽園への扉は開く筈です。
長くなったので筆を置きます。それでは、また逢いましょう! 谷地敦彦より』
手紙を受け取った二日後、彼の訃報が学校に届きました。
ひっそりと近親者のみで、谷地君の葬儀が行われたらしいです。
知らせが届いた翌朝、学校の講堂に集まった生徒全員で黙祷しました。
◆或る生徒の独白.
嫌われ者、憎悪とも呼べる…。
あらゆる自分という存在を拒絶され
刃を向けられるような感情を向けられること
自分の大切なもの、全て踏み躙られてしまうこと
そういった類のものに、自らの感情を動かすのは止めます。
淡々と称すればいいのでしょうか、自分にできるのは、沈黙の下で
ただ素直な心持ちで、自分へ向けられた思いを、受け入れるだけです。
勉強、様々な書物に目を通すこと。
かつての自分が望んでいたことを望むままに行おうと思います。
付き合せるよう巻き込んでしまった形にしてしまった親友には
申し訳ない感情しか持てませんが、自分への真の友情であると
信じて構わないでしょうか。それが胸に沁みるだけです。御免。
◆或る生徒の独白.
自分の中にある「恐ろしい」としか表現できない行為を求める思い、激情は
母からの「愛」とも称せる名前に依って「封」じられていると信じています。
だから「憤怒」はしても「暴虐」へ移行する事までに至らず、済んでいます。
時々どうしても堪えきれず、発動させてしまう事があるのは否めませんが
学校にいる他の連中を見ていれば、それが非常に「愚劣な行為」であると
冷静に分析する事ができますから、却って感謝したいほどに思っています。
お母さん、本当は色々辛いだろうに…。いつも本当にありがとうございます。
自分は、一緒に、倹しく、正しく、生きていければ、それで十二分に満足です。
他の連中のように、友人、恋人、不要なものに心奪われるつもりはありません!
◆告白. 桜庭潤
あの馬鹿がまだ消えず薄汚く残ってる校庭隅の雪捨て山に
一抱えもある誰が見ても高価で綺麗な薔薇の花束を挿した。
つーかよォ、彼女に渡せって。それくらいできるだろうが…。
黙って逃亡する気か。最初から負け戦のつもりだったのかよ。
おまえなら…。いや、日頃の言動がなァ…。馬鹿すぎたよな、ザジ。
嫌われ、避けられ、苦笑いされるだけの存在に、自らなってたんだ。
完璧な負け戦だ。ザジが故意に破った。俺には何の責任もない筈だよな?
その容姿を元として好かれる要素は幾らでもあった。勝算は十分だった。
なのに、何故かザジはお馬鹿な言動を彼女の前で繰り返しちゃったのら。
俺が告白した方がまだ彼女に受け入れられそうなほど大破壊した片思い。
「いいのか。これで?」
後ろ姿のザジへ問いかけてみた。
「うん、もういいのォ。
最初っから決めてたんだよ。
遠い昔に負けた勝負だからね…」
振り返りもせず、答えた。なんか肩が震えてた。見れるかよ。
「敗走すんのだ。そういう選択するってのも格好良いでしょ?
だって、勝負である以上、誰かが必ず勝利し、必ず敗けるんだ。
僕は故郷で新たな出会い求めるから、さらば村の学校ってね!」
こっち向いたザジの顔、大馬鹿すぎた。泣くな。涙流すくらいだったら…。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
身体を軽く反らして見上げた、春先の薄い青空に
竜崎家の自家用ジェットがザジの故郷となる
中央の都会へ機首を向け、飛んで行く。
竜崎順、生まれついての雲上人。
こっちは、天の下。地面に生える草。
根付いて立つための地面。降り注ぐ日の光。
降り落ちる雨と雪。御陰様で何とか生きている。
降雨日、両脇が田んぼの道端。潤いを通り越して、湿ってふやけた赤ん坊。
通り掛りのエルフに拾われ、育てられた魔獣ケルベロス。←脳内設定っす。
道路脇、地面にしがみつく残雪。白く冷たいザラメ糖、戯れに握りしめた。
手を開く。指先から透明な水へ姿を変えて…滴り落ちる雫…。俺の正体だ。
…………………………。
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ミサちゃん、あいつのことを内心どう思ってたんだろう?
彼女は、どこの生まれだとか詳しい背景も知らなかったし
谷地敦彦のカノジョだと思ってたんだ。学校の生徒全員が。
絶対的優位に立つ、彼女から信頼される存在だった。
その裏では、絶望を感じてた奴もいたってだけの話。
まさかヤッチ君が…この世から姿を消すなんて…。
彼女が苦しんでた様子も見た。みんな知っている。
出来ないさ、告白なんて。ザジだって、そこまで身の程知らずじゃねぇし。
高所恐怖症、漢の意地で克服してみせるか。列車を乗り継ぐかしてでも
そのうち逢いに行ってやるよ。俺の一番の親友は、あいつ、馬鹿ザジだ。
この十年間、世話ヤキしすぎた。こうなったら最後まで面倒見る。決めた。
たぶん…水や衝撃に弱くて…脆い。知ってる。けど、防波堤になってやる!