BLOSSOMS
◆BLOSSOMS. 桜庭潤
二人の着いてたテーブルを片付けていた年齢性別不詳のマスターが
派手な音立てて茶碗を割った。後ろを向いて様子を見るのは止した。
お互い抑え込んだ感情が一気に爆発する。俺でも容易く予想できた。
卒業式翌日の朝、一人きり朝食を摂った後の夏目翼も自分の使った
茶碗を割って箸を折った。激しい気性を持つ一族の悪い癖と窺える。
片付けを手伝うのも遠慮しとく。余計な一言が撃鉄を引きかねない。
背景を読み取れるバケモノとなった現在、古い出来事も混ざり合い
いちいち反応すんのも馬鹿馬鹿しいと思える。単に手を滑らせて…。
しばらく前にヤッチ君も店を出た。居残った俺以外の三人は沈黙の
修行中だとでも思うしかない。色々あったもんな。そんな空気だし。
遠くの学校で教壇に立つ虎の先生との再会は忘れた頃で構わないよ。
店内はマスターも含めて五人いる。窓からの景色は美しい夕焼け空。
夕食まで店の世話になるつもりはない。かといって上位の先輩方に
思う存分甘えられる立場じゃない末端の切れ端だ。もういいよな…。
『中井美空』 四歳、幼稚園児、住所、電話番号、メールアドレス。
村の淵を背景に不思議な楽器を優雅な佇まいで弾いてる女児の写真。
カウンターの座席、テーブルに置かれた紙片を黙って眺めて数十分。
俺の答えは疾うに出した。重い腰を上げ、旅立とう。二人を見習う。
広い砂漠で煌く宝玉も手に取った人間にとって無価値な物だったら
即座に放り捨てられる。記憶の記録は自己満足が報酬の空しい作業。
目にした全ての者から綴った者の気持ちが汲まれる訳じゃないんだ。
嫌悪、拒絶、侮蔑、嘲笑、容赦なく向けられてくる刃と雨同様の矢。
同調されても困るが、思いを否定される事に耐えきれる自信はない。
アルバムなら記憶の中に残ってる。誰にも公開するつもりなんて…。
遠い昔から長く続けてきた事を生きてる限り、俺は続けていくだけ。
塵を掃い地を清めよう。これも自己満足の空しい作業と知ってるが
あいつら二人と旅して歩いた思い出、十分すぎるほど満たされてる。
空しさに襲われたらザジの奏でた音色が耳に蘇って癒してくれる筈。
紙片と写真はカウンターに残した。ヤッチ君が「兎から特別に」と
俺に手渡してくれたものだが少しも依存したくない。斎藤の話じゃ
ミクとかいう女児から兎の記憶は抜け落ちて、憑き物が落とされた
状態に戻ったそうだ。見知らぬ女児と面談する趣味は持ってません。
俺の親友は生きてる限り、心の奥底に居続ける。そいつは文句ねえ。
…?!…
茶碗を割ったマスターはザジの『心の友』だ。以前の学校の時から。
ちょっと心が塞ぎ込んだときの行き場所が寄宿舎のお互いの寝床…。
以前の学校じゃ俺は村の自宅に戻って普通に通学する場合もあった。
現世より幻世の方が結びつきの強い二人だったのかもしれねぇけど
学校時代は俺が留守の際、御守役として十二分に優秀だったタコ宙。
…!!…
振り向いてボックス席を見たら、マスターが指先から血を流してる。
カチャカチャ食器の鳴る音も聞こえなくなってた。これじゃ流石の
ザジも厭きれてモノが言えねぇよな。入口脇に置かれたおしぼりを
一本もらった。まずは余計な言葉を挟まず、傷口を押さえてやろう。
斎藤が低血糖の発作を起こしたとき、俺は斎藤に何してやったんだ?
ぼんやりしてた奴へテーブルに備付けられたグラニュー糖を与えた。
斎藤に向けられた思いをマスターへ向けないのは奇妙な話だと思う。
「ありがとう。学校時代は酷い事ばかりしてきたんだ。無視されて
当然だって分かってる。惨めな気持ちを味わう事が私の生きる理由」
ソラの両目から涙が幾筋も零れ落ちた。知らん振りしてやらなきゃ。
「ソラは全員のメシ作るんで疲れちまったんだろう。本当お疲れ様。
言い訳じみてて失礼を承知で言うが、悩み疲れて動けなかったんだ。
全員同じだと思うけど本気で疲れてた。全員揃って百歳越えてるし
反応とか鈍ってても仕方ないと思って許してほしい。悪かったよ…」
カウンターの隅からティッシュボックスを持って来て置いてやった。
マスターが左手で引き出して拭う。見ねえで音と気配を感じ取った。
文章を記述する作業に忙しいモンクちゃんには文句言う気もないし
よく見りゃタッツンとイッチ君は耳に深くイヤホンを挿し込んでて
二人それぞれ携帯音楽プレイヤーを使って、それに聴き入っている。
茶碗の割れる音に気づけなかったのも仕方ない。食事してる最中の
会話を思い起こしたら空爆と蹂躙が起きる前はラジオで寄席からの
中継を聴くのが愉しみだった。今の新しくなった世の中じゃ滅多に
聴けなくなっちまったと如何にも長老様らしい台詞で嘆いてたっけ。
記録媒体も多様化したと思う。繋げば巨大な海の中に放り出される
錯覚を味わう。分かったのは俺の必要なモノは自分で思ってたより
遥かに少ないって事くらいだった。取捨選択する作業に手間を食う。
砂漠の中で一粒のダイヤを見つけるのに近い。九割以上砂粒の世界。
眩いばかりに燦々煌く宝玉は心の奥底に仕舞っとけば、それで十分。
博物館に寄贈して共有財産とするのも惜しい。俺だけの宝玉だから
偶に心の奥底を覗き込んで…ある…と確認できりゃ満ち足りる幸福。
「押さえても血が止まんねぇな。自宅か何処かに救急箱はないの?」
タコ宙の手、タッツンに頼んで医者に診せた方がいいかもしれない。
「大丈夫、直に止まる。頼んで申し訳ないけどテーブルの片付け…」
「ああ、それくらい任せてくれ。皿洗いなら幼少の頃から慣れっコ。
茶碗が割れた破片もきれいにしとかなきゃな。こっちも俺に任せて」
掃除用具を仕舞ってる場所を教えてもらい、外に出て空き地の隅に
茶碗の破片を埋めてやった。こんな僻地まで来るゴミ収集車はない。
燃やせるゴミは自前の焼却炉で処理してるようだ。灰は地面に返す。
教科書で見た貝塚みてぇに地中深く埋めてやるのが陶磁器の供養か。
薄い水色のカップが所どころ血に染まってて薄気味悪くもある破片。
人の血のニオイを嗅ぎつけて来るケモノなどいないと信じて捨てた。
バケモノがケモノを恐れるのも妙な話だ。百歳越えた爺ちゃん達を
群れで襲っても不死の呪いにかけられた血肉が妙薬になるワケねえ。
店に戻ると水音が響いてる。店のマスターがゴム手袋を嵌めた手で
黙々と皿洗いしてた。べつに図太てぇ野郎で構わねぇ。タコ宙から
仕事を奪うよう手伝ってやろう。ヘタに手を動かさねぇ方がいいよ。
「ソラ、ちょっと休んでな。偶には楽したって罰は当たりゃしない」
カウンターの隅に置かれた座席に着かせた。ザジなら選択する行動。
たいした洗い物の量じゃないし、すぐに終わらせた。俯いてるソラ。
「飲み物でも作ろうか? 怪我してるし、もう少し休んだ方がいい」
「診療所に献体して、学校に寄贈された人体模型の話を知ってる?」
丸椅子に近づいて一声かけたら『人体模型』か…。あ、視えてきた。
現世じゃ知らねぇけど以前の診療所にいたマコちんはメスを握って
標本が作れたみてぇだ。気持ち悪りぃ…遺体が保存されてく過程…。
夏目宙も死なせないための一手で生き延びたらしい。生きてるから
今は喫茶店を営業してるんだな。ザジやリンバラと旅してた時期に
逢いに来たら仲間の心に巣食う靄も少しは晴れたかもしれなかった。
「私は夏目姓を名乗ってても本当はマガイモノ、生まれてきたのが
そもそも間違いだった人間なんだ。その現実は以前の学校と同じ…。
打ち明けなくても察して、笑顔で励ましてくれたのがアンタの親友」
やっぱり…。事前に最後まで読み終えた上での行動の選択だったか。
あいつと向かい合って一緒に酒を飲んだときもチラッと想像してた。
羊…猫と白文鳥とは距離を置いて観察してたが合格したってワケか。
鹿であるソラとは親しい付き合いはなかったが同じ死ねない仲間だ。
気の済むまで話に耳を傾けてやるとしよう。それが俺の務めだよな。
「以前の世界じゃ卒業後サーカスの一座に加わった。全国あちこち
興行して廻ってさ、私なりに愉しく充実してた時期も経験したけど
二組の級長と同じく二十歳を過ぎて病に倒れた…。それで仕方なく
北にある村の診療所に身を寄せることに決めた。実家や兄の翼には
死んだと思ってほしいと啖呵を切って飛び出した以上…頼れない…。
揶揄って笑い者にしていた信の世話になるのも情けなかったけれど
あいつ、嘘みたいに居心地好く接してくれたんだ。いい奴だったよ」
斎藤の見舞いに行った日のことを思い出す。一階のエントランスで
不器用な持ち方で二階の病室へテーブルを運び込もうとしてたっけ。
反則氏にとっては誰よりトクベツな一人でもあったのがマコちんだ。
「死んでも安心して眠れる墓のない立場だから標本にしてほしいと
事切れる前に信と口約束した。そして、死後…約束は果たされた…」
ベッド脇のマコちんが涙を流して戸惑いながらも約束を交わす場面。
それから診療所の手術室で黙々と作業されていく…。切り刻まれた。
何故か視界が標本と同じ硝子戸棚から見た光景となるのが不思議だ。
内臓の瓶詰。頭部の断面図。人目を惹く美形だったのに哀しく映る。
普段はカーテンを下ろされ、昼間でも薄暗い中に保存されてる標本。
こんな標本が学校に必要あると思えねぇが、夏目宙の選択した結末。
床板に座り込んで聞いてた。俺はソラについて何一つ語れないほど
何の事情も知らなかった事実を思い知らされた。外見や一片だけの
情報から全て知ったような表情で語るのは恥ずかしいと胸に沁みた。
学校の生徒たちの肝試しに利用されたり、周りから丁重に扱われた
情報が読み取れないけど…戸棚の中で安堵して眠る夏目宙がいた…。
知らなかった一編の物語を読んだ気分だ。以前の学校じゃ十年生の
秋になってから俺は暗くて深い位置に沈み込んだ時期があったっけ。
俺だけじゃなく問題を抱えながら生きて、自分なりの答えを出した
夏目宙という名の元学友がいた事を理解できて良かったんだと思う。
可成り苦しんでる。辺鄙な場所に建てられた白い喫茶店のマスター。
「太陽の下、地面を踏み締めて歩き続ければ辿り着ける答えもある」
…?!…
カウンターの客席側から覗き込むようにしていたのはモンクちゃん。
椅子から膝立ちで身を乗り出して観察されてた。一体いつからだよ?
「小魚泥棒じゃなくても仲間を見守って助言を与える事は造作ない。
サクはソラを連れて旅立つべき。明日にでも清掃奉仕の旅に発て!」
同行に疲れた俺は誰とも組まずマイペースで歩きたかったんだけど。
「この店の留守なら僕一人で十分。閑日月に好きなだけ文字を打つ」
俺のタブレットを完全に自分専用と認識してしまったモンクちゃん。
怪我した右手を押さえていたマスターは沈黙して何か考えてる様子。
「もし許されるなら南に行ってみたいんだ。翼の職場を訪ねたくて」
最高に美しい紅玉である鹿が心を動かし始めた。行った事ねぇ地方。
俺たちとも視線を合わせて喋るようになったソラ。流れが変わった?
「おまえら固まって何やってんだ? 寝起きする部屋、決めてきた。
運転できる花田と桜庭には、車を1台ずつ預けとくから好きに使え。
わざわざ俺が付いて行く必要ないよな。住所のメモ、渡しとくから」
ヤッチ君が現れて大声で捲し立てた。亡くなった筈なのに生きてて
しかも何故か女装してるのに違和感を覚える。まあ、読み取れるよ。
俺が以前の学校じゃチビだったのと同様、設定の変更みたいなもん。
本来は女性として生まれるのが正解だった。ミサちゃんとの友情は
男女じゃなく女の子同士で結びついていたなら何一つ問題なかった。
バケモノが性別にこだわるのも奇妙な話だ。好きな格好すりゃいい。
実は鹿の母だった狼も仕事内容で性別を使い分けた極めて優秀な駒。
世間からの視線に触れるのを極力避けてた麗しい女の姿を知ってる。
その素肌に触れたい。喜ぶ表情が見たいって願望を懐くよ普通なら。
去ってゆく現実に嘆きの秋風が吹く堪らない寂しさだって覚えてる。
…?!…
俺じゃない記憶が紛れ込んで、混沌とした情報が氾濫して混乱する。
遠い昔、狼が本気で恋をした相手は白文鳥。耐え切れずクルった奴。
現世では親孝行するため二組級長になって必死で頑張った学校生活。
現在でも完治しない病気を発症し、それでも負けずに生き続けてる。
バケモノと知って鏡を見たとき、遠い昔の自分を見つけたんだろう。
蛇の父になれても狼の夫には絶対なれない。奴の先輩は女じゃない。
以前は夕闇の下、学校の屋上でギター弾いて下手な歌を聴かせてた。
親友を死なせないため苦闘していた姿だった。涙を堪えて騒いでた。
氷りついた心を融かさず、次の言い訳を考えてる小鳥。永遠の氷塊。
それぞれ複雑な裏事情を抱えても平然とした素振りで誤魔化してる。
仲間内で集まる機会があると挙手して話す癖がついてた。俺は熊猫。
「俺には車と寝床は必要ない。これから鹿と一緒に南まで発つから」
場合に拠っちゃ列車やバスも使うが基本は徒歩。マイペースな行程。
「おまえら何でも勝手に決めて、無断で姿を消すし…。まぁいいや。
ガキじゃねえんだし、保護されて暮らすのも窮屈だよな。それじゃ
定期的に連絡くれ。花田と桜庭の携帯端末。大方の設定は済んでる」
所謂スマホってのをカウンターの上に二台置いた。保護カバー付き。
俺のは普通なら女性が喜んで手に取りそうな色だけど、まぁいいか。
情報は望まなくても頭の中に氾濫してる。答え合わせに必要な品だ。
「イッチのセンセ、とりあえず春まで休んでて。新しい部屋へ…?
あ、イヤホンで耳栓してやがる。全員揃って、どうしようもねぇな」
イッチ君のボックス席へ近付いてった。謎の美女が台無しの言動だ。
「俺の必要はなくなったようだし、この辺で帰る。明日は秋晴れか」
落語に聴き入ってたタッツンが立ち上がって、喫茶店を出て行った。
聞こえてない振りするのも得意な長老様、明日の天気を告げて退場。
「じゃあ、俺はイッチを連れてくから後は自由に。俺も忙しいから
来週は来れないと思う。緊急の用件は端末に送るから必ず読めよな」
すっかり無口になったオヤブンさんを引っ立てるよう店を出た二人。
それでもドアを開ける間際に振り返り、軽く頭を下げて手を振った
壱君センセとの追い駆けっこも終わった。当分、会う必要なさそう。
マスターは声をかけなかった。学校時代みてぇに浅井家の当主様と
媚び諂う必要ねぇし、遠い昔も関わりが薄かったんだから当然かな。
シーン。とでも表現したくなる静寂の中、三人が店内に居残ってる。
子どもみてぇな表情で最新機種と思われる端末を弄ってる
遠い昔の女児がいた。現世じゃ見違えるほど器が変わった。
色々ありすぎて複雑だけど、もう迷子の心配する必要ない。
誰かに宛てた長い手紙を書き綴りながら注文に応じて茶菓子を出す。
そういう穏やかな生活が似合ってると思うよ。少なくとも俺は安心。
「晩メシ、適当に用意して何でもいいから食おう。俺が支度するから
マスターが食材のある場所とか指示してくれ。荷造りも手伝うつもり」
へたり込むように腰を下ろしてた床板から立ち上がった。働かなきゃ
周りが楽にならない。学校時代、初雪の降る朝も強く感じた気がする。
「私の賄い用の冷凍ピラフでいいなら、それで簡単に済ませようか?」
休憩用の丸椅子から立ったソラ。これから一歩ずつ友達に近づく仲間。
「いや、食事の支度なら僕がしよう。調理場の使い勝手も確かめたい。
明日は調理道具などを買い出しに行く必要があるな。二人とも手伝え」
モンクちゃんがカウンター内に入り込んできた。狭い場所だってのに。
追われて逃げて遠方へ瞬間移動までした悪い夢みてぇな一日も終わる。
窓の外は宵闇に包まれてる。今って本当に儚い。俺の宝玉は記憶だけ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
『あー、見つけた!』
あいつの声、ついさっきの出来事と思えるのに
どんなに手を伸ばしても届かない過去となった。
生き物は『今』という位置にしか立てないから
懐かしく振り返りもするが決して戻れはしない。
こっちの独断で先回りする事だって許されない。
今以外の後先や優劣を決めてるのは何処の誰だ?
これから先は追憶でしか辿れない時間が増えてくだけなのが寂しい。
頭に白い包帯巻いて一足跳びで抱き着いてきた…あいつは消えた…。
街へ出て一緒に歩いてるだけで見世物になって恥ずかしかったザジ。
数年に亘った海外渡航から戻っての再会。結婚式みてぇな白スーツ。
黄昏の中、大事そうに再び手にした愛用の楽器を膝に置いてたっけ。
三人一緒に清掃奉仕の旅をして過ごした時間は俺への計らいだった。
リンバラを仲間に入れようと有難い提案してくれたのもザジだった。
生まれ変わった姿と名前に何の感慨も持てない。親友は消え去った。
壊れて直せない。そう割り切らなきゃ耐えられない現実。
現在の世界で生きる多くの人間が体験してしまった恐怖。
帰る場所、家族を一夜にして失っても過去には戻れない。
未来を目指して、前を向いて現在を生き続けるしかない。
俺と同じく思い出だけを頼りに生きていく者も多い筈だ。
一人息子が俺たち夫婦の拠り所だった。生まれてきてくれた奇跡に
心の奥底から感謝してる。スミレは二人目を欲しがっていたけど
俺がバケモノだった記憶を取り戻した所為で叶えてやれなくて
後悔したよ。行かなかったら平凡な日常を繰り返して爆撃で
命を落として人生終了だったのかもな。それで良かった。
どう生きても多少に関わらず悔いが残る仕様なんだし。
店内にブルーシートを敷いて、薄い敷布団の上に横たわってる二人。
これから先も雨風が凌げれば上等な旅を俺は続ける。消え去るまで。
誰にも知られない通りすがりの旅人。誰にも頼らない孤独な漂泊者。
そんな調子で歩いて行こう。いつか何もかも消え去る静寂が訪れる。
俺の五感に触れた記憶が心の中に残る宝玉として永遠に輝き続ける。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
当然の事ながらタッツンの稲刈りを手伝った。コンバインが無理な
箇所を鎌で手刈り。最初にタッツンから刈り方を教えてもらったが
鎌を扱うのは思ってたより骨の折れる作業だった。刈り取った後に
鷺の群れがやって来て綺麗だと思ったが虫を食いに来たんだとの事。
生き物は食って食われてが掟みてぇなもんだし、これが自然なんだ。
俺たち死ねないバケモノは自然の理から外れちまったけど腹が減る。
メシを食わなきゃ困るんだから自然の理に従って生き続けていこう。
それから数日、モンクちゃんの新装開店準備に付き合わされた二人。
早朝から綺麗な青空が覗いてる十月最初の日曜、漸く喫茶店を発つ。
これから先も上手くは運ばない筈。暴風、土砂降り、土砂崩れ
何が起きても自然の事だと受け止めよう。道が崩れてたら
迂回すりゃいいし、喧嘩したら仲直りに時間を割く。
本日が千里の道も一歩からの始まりってだけ。
…?!…
喫茶店建物の奥、私的玄関から姿を現したのは明らかに女性だった。
「さっき覚悟を決めた。遠い昔の記憶を思い出して、性別を変えた」
格好自体は昨日までと何一つ変化のない地味でスポーティーな装い。
元々中性的な容貌してたけど、顔や体付きが男から女に転じている。
「幾星霜を経て、やっと虎からの求婚を承諾し嫁入りか。目出度し」
いつもの装備に箒を手にしたモンクちゃんが薄っすらと微笑んでる。
「あ、うん。途中で気が変わるかもしれないけど身体を慣らしたい」
まだ背負ったバックパックの重さに慣れない足取りで近づいてきた。
目出度し? 新店主が頬を抓める手合なら俺が言う。従兄の先生と
逢う朝でも良かったんじゃねーの? まだ先は長いってのに早過ぎ。
場合に拠っちゃ同性に戻ってもらうからな。発想即行動したいけど
言葉に出せない。現時点じゃ発想だけ。続く言葉を抑え込まねぇと。
良い門出。旅立ちの日だよ。色々な諸事情には目を瞑っとかなきゃ!
劉遼の叔父の先生に師事して文字の読み書きから学問を究めた
虎さんは市井で見かける結婚生活、ごく普通の暮らしに憧れて
以前は俺たちが卒業した後の学校で夜間講座を開いてたらしい。
そこで、俺の拾い主様の未亡人となった二人の子持ち女性に
仄かな想いを寄せてしまって、最終的には結婚したと聞いた。
妻子に愛情を注ぎ守り抜く憧れの生活を実現させたんだろう。
豪快に笑う盾を務めた男が知的な印象の先生へ変わった物語。
現世じゃ親父は早世せず、狸さんと温かい家庭を守り抜いた。
「サクは花嫁の父代理を務めるのだ。丁重に扱って無理をさせるな」
もし遠い昔、家族が平穏に暮らせてたら俺はモン…気持ち悪りぃ…。
器が違う。時が流れて、年月を重ねて、向ける思いも異なっていく。
雪国にあった村の学校じゃ一組の級長と副級長のコンビだった二人。
遠い昔、血の繋がらない父娘の関係だった時期もあるんで胸中複雑。
リアルじゃ学年で最年少の俺が同い年の元学友の介添えすんのかよ。
まあ、無理せず一歩ずつ理解していこう。のんびりゆっくり歩こう。
「引き継ぎは滞りなく済んだし、店のことは僕に任せて旅を愉しめ」
背筋を伸ばした姿勢で見送る堂々とした新店主が鷹揚に声をかけた。
刈り取りを済ませた田圃が両脇に広がる道を駅へ向けて歩き始める。
ソラは俺の三歩後ろを付き従うようにしてる。照れくさい気持ちを
慣らしていかなきゃ落ち着かない。背後を窺う無粋な真似は止そう。
死ねない故に色々あった仲間たち。虎が鹿に求婚した物語もあった。
長い年月をかけて、鹿の心が虎に傾いて受け入れた。それだけの話。
ゆっくり前へ向かって歩みを進める。同行者の靴擦れが目先の心配。
男女が同室って無理だし、俺が背負ってるテントで寝るのも一工夫
必要になる。同い年の娘を連れて歩く父親役も課題が多くて大変だ。
身体の運び方も実際に歩きながら、ゆっくり身に付けていけばいい。
空き地では薄の白い花穂が太陽の下で煌きながら揺れている。
遠景では徐々に紅葉が目に付くようになるんだろう。
ソラの心を極力刺激せず南の地で花嫁を待つ
彼女の兄まで送り届けてやらなきゃ。
『あー、見つけた!』
追憶の中に光輝く宝玉を愛でながら
太陽の下、地面を踏み締めて歩こう。
俺は俺のまま一切変わる事なく地面を掃い清めて歩く。
無限に紡がれる夢幻を思い描きながら一歩ずつ歩こう。
今を大切に、前を向いて、まだ俺は強かに生きてゆく。
◆最終話…目覚め…. 斎藤和眞
「サイトーさぁんっ! 秋から新しい学校が始まったんだってさ。
また二組の君主になってくれるよなァ? さぁ早く教室行こッ!」
寄宿舎の自室扉を叩く音とシンちゃんの大声で目を覚ましました。
気づくと布団は畳んで部屋の隅に寄せられ、既に同室者は起きて
毎朝恒例の自主清掃活動に入っているようです。カーテン越しに
朝の白い光が射し込んできて目に眩しい。制服にも着替えてます。
扉の脇に設置してる姿見で白いスカーフを整える名無しの一生徒。
俺の知ってる斎藤和眞や斎藤千馬の顔じゃありません。設定変更?
何となく顔が寂しいと思ったら眼鏡かけるの忘れちゃってました。
いつもの位置に手を伸ばし、黒縁眼鏡を装着する生徒は今何年生?
シンちゃんの声から判断すると十年生を過ぎた気もしますけど…。
「サイトーさん、朝早いから起きてないのかな。声が聞こえない」
「あー、忘れてました。シンちゃん、グンモーニン。只今準備中」
扉に向け一声。同時にハンカチとポケットティッシュの確認完了。
軽く尿意がありますけど教室に着いてからでも行けるし大丈夫か。
いつ歯磨きと洗顔を済ませたか思い出せなくても扉を開けなきゃ。
…?!…
ドアノブを捻って押し開けようとしたのにドアノブが固定されて
回せなくなっています。迎えに来たシンちゃんの悪戯でしょうか?
「シンちゃん、そっちからドアを押さえ込んだりしてないよね?」
「そんなことしない。開かないの?もしかして開けたくないの?」
心にもないことを訊ねられるのは些か遺憾です。出られないだけ。
「いや、開けようとしたのに開かないんだよ。壊れたのかなぁ?」
ガチガチ音を立てて扉を開けようと必死に試みても駄目無理状態。
施錠できない造りのドアなんですけどねぇ。何が起きてるのやら。
「こっちから開けてみる。ん、アッレェ?…ドアノブが回んない。
下の食堂にいる寮母さん呼んでくるよ。ちょこっと待っててね!」
シンちゃんの大声と同時に走り去る物音が扉越しに伝わりました。
他に誰もいないのか廊下側に人の気配を感じ取れません。
シンちゃんの元気いっぱいの声が聞こえなくなるだけで
俺が奇妙な世界に囚われたような寂寥感に襲われてくる。
乱暴な動作でドアを壊したら周りからの心証が失墜です。
焦燥感を抑え込んで冷静になって誰かの登場を待ちます。
「カズ、起きたのか? 僕は何の不自由なく扉を開けて出られた。
見たところ室内側に問題があると思われる。異常が無いか調べろ」
今度はキヨの声。ドアノブを回そうとするのですが固定されてる。
自室にある工具を使って何とかならないものかと観察してみても
螺子穴や自室にある工具を受け付けそうな箇所が見当たりません。
「ダメ、ドアノブが回んない。部屋からじゃどうにもなんねーよ。
タッちゃんを呼んできてくれないかな?…おそらく長老様なら…」
二組で一番器用な生徒を召喚すりゃ何とかなると思うんですけど。
「彼なら既に二組の教室にいる。僕が呼びに行ってくるとしよう」
扉の向こうにいたキヨの気配が消えたと思う間もなく誰かが到着。
「なんか朝からオカシイね。オレが迎えに来たの良くなかった?」
少し拗ねたようなシンちゃんの声色。同級生でも心は発展途上中。
入学時から弟のように慕ってくれるのはいいんですけど頼りない。
でもでもでもね、新婚旅行で俺の暮らす島まで訪ねてきてくれて
診療所で居候生活したときも色々お世話になった。強くて優しい。
「シンちゃん、自分のこと卑下しちゃダメだ。俺はシンちゃんに
お礼の言葉を言い尽くせないほど感謝してる。本当ありがとう!」
向こうに見えなくても扉に深く一礼しました。有難う御座います。
「こっちこそ思い出したら涙が出ることばっかりだよ。大好きだ。
何を言われても叩かれても、負けないのが本当に強い人間だって
二十年間かけて勉強できた。『ひどいことされたら、早く忘れる』
それが『美しい解決法』なんだよな。良いことだから忘れないよ。
言い返してたら、同じこと繰り返しちゃう輪っかになる。それが
どんどん繋がってって鎖みたくなっちゃって自分も周りも苦しむ。
そんなのダメだもんな。どんな意地悪も自分のところで止めるよ。
意地悪はここでおしまい! それで、またみんなで楽しく笑える。
サイトーさん、すっごい不思議な魔法を教えてくれてアリガト…」
シンちゃんの笑顔、自分で前髪を切った失敗ヘアの頭を掻いてる。
扉越しで見えない筈なのにシンちゃんの笑顔が透けて見えました。
郷里の離島へ帰る日、駅のホームで俺の両手を握り締めてくれた。
気持ち悪く思わず純粋な親愛の情を贈ってくれた俺の大切な友達。
間違いなく学校時代も大人になってからも俺を支える友達でした。
闇を纏うことも出来たのに、それをしなかった。空を見上げてた。
シンちゃんのイメージは澄みきった朝の空。光で浄化された空気。
「斎藤ォ、昨夜から娯楽室のテーブルに雑記帳が置きっぱなしィ。
親睦会で書き込みして忘れちまったんだろ? 後で持ってけよな」
俺だけの渾名、暁の魔獣さんが和やかな声を聞かせてくれました。
「うん。アニメ映画がつまんなくて、つい忘れてた。回収しとく。
ところで、リューザッジは? まだ目が覚めてないんじゃない?」
弾ける強炭酸って喩えたくなる声が堪らなく懐かしくもあります。
「あいつを起こしに来たんだよ。顔拭く蒸しタオルも作ってきた」
世話焼きエキスパートが朝から頑張ってるようでした。いいなぁ。
「俺も熱いタオルで顔が拭きたい。さっぱりして気持ち良さそう。
あ、よかったらドア開けてみてくれない? ちょっと壊れててさ」
「バカだな、斎藤。瞬間移動できるんだから使ったらいいだろ!」
ドスドス地響き立てて廊下を走っていく音。俺より親友の許へ…。
「そうだった。ご教示ありがとう。テレポーテーションしなきゃ」
忘れちゃいけない。誰もいない扉の向こうへ感謝を込めての一礼。
いるだけで周りの空気を和やかにして、俺に労いの言葉をくれた。
知れば知るほど嫌いになれない優しい魔獣さん、本当ありがとう。
気持ち悪りぃバターカップが共同浴場の浴槽に沈められたことも
怨んじゃいねぇが憶えてまーす。きれいさっぱり忘れて瞬間移動。
仁丹が飛び出すブローチを持っていません。フィンガースナップ。
…?!…
この室内は…持病を発症する前後に付き合ってた元カノの部屋…。
ラファエルのメダイとカードを贈ってくれた女性は小さな病院で
看護の仕事をしてたんです。地域の若者の集団見合い的な催しに
親が勝手に申し込んでて、全く以て行きたくねぇのに強要されて
世間話できる知己の仲もいないんで不貞腐れ顔全開で過ごしてた。
飲み物のお代わりを繰り返して、会場とトイレを往復してました。
脱力して座ってたら声かけられたんです。異常者を放っとけない
性分みたいです。何度も席を外す長身の男が気になったらしくて
カノジョは膝をつくような姿勢で俺を観察しながら自己紹介した。
されたら返さなきゃと思ったんで簡単に旅館の跡取りだと話して
それが糸口でした。最初で最後の交際相手。こっちからサヨナラ。
思い返すと恥ずかしくなるな。カノジョの部屋で過ごしてた時間。
姿を現されても困るし、他の人と家庭を作って幸せだった筈です。
昔の男は消去される虚しい存在。どうして、ここを思ったんだよ?
…………………………。
…………………………。
…………………………。
砂浜。繰り返す波の音。早朝の海岸は俺と礼の贅沢な遊び場でした。
只で手に入る玩具は流木やシーグラス、四歳頃の礼は自分の背丈と
同じくらいの棒を振り回して機嫌良く遊んでたっけ。最初に教えた
形は〇です。○×△□を棒切れで砂浜に描いて、褒めると喜んで…。
礼は彼の原型となる二人に似ず、素直な笑顔を向けてくれたんです。
あ、礼がいました。長い棒切れ使って、お絵描き中です。○×△□
一度、花丸を教えたんですが四歳児には難しい形だったみたいです。
幼児用の学習ドリルを書き終えたら、偶にミスはあっても必ず花丸。
花丸を見るのは好きだったみたいです。礼が勉強する励みとなった
花丸、斎藤礼を亡くした現在は胸の奥が痛む造形となり果てました。
黒髪に白い肌、愁いを帯びた眼差し。それでいて陽気な音楽好きで
島の観光ホテルにあるグランドピアノを弾きたがるんで困りました。
ピアノを習わせるのも渡し船とバスを乗り継がなきゃいけませんし
才能は十分あると知っていながら諦めさせたことが今となっては…。
音楽の道に進ませたなら、あんな姿を見たり早世しなくて済んだ筈。
俺の大伯父である斎藤千馬は容貌が不思議と彼によく似てるんです。
鏡を見ると斎藤礼を想起させる姿であり、礼を奪った敵も思い出す。
『お兄ちゃん』学校時代から変わりません。俺にとって兄者は『敵』
視えない風が小さな親友に向けて深々と一礼。感謝と悔恨を込めて。
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狭いコンクリート敷きの俺専用ステージ。以前の学校の屋上です。
俺のヘタクソな演奏と歌を聴いてくれるのは夕暮れの空と雲だけ。
悠ちゃん家の門前で見かけた麗しのレイディに捧げる曲を作って
雑記帳に思い浮かんだ言葉を書き連ねた歌詞にメロディをつけた。
脇にいた貧相な小男から難無く奪い取れる。名無しの二組級長の
お嫁さんになるのは彼女しかいないと思い込んでた痛すぎる過去。
色々と視えない糸が紡がれて布が織り上げられた現在
あのレイディは元親友と結ばれたのです。遠い昔から
彼女の想い人は青空喫茶の冴えない雇われ店主でした。
劉遼と慈友君が自室に隠してたという若い女性の生首、
そのバケモノは遠い昔の俺が監視と護衛していた少女。
意地悪くキツイ言葉を投げつけられても心が惹かれて
最後の最後まで決死の覚悟で守ろうとしたんですけど
三女猫に背中から雨傘で突かれ、敢え無く死んだ俺…。
猫の追跡と警護に協力してくれた格好良い探偵さんが
狼の先輩でした。死んだ俺を哀れんだ探偵さんの手で
天涯孤独な故、家族のように可愛がってきた白文鳥と
狼の先輩が兎さんから贈られてた婚約指輪のパールを
依代とする死ねないバケモノになった俺は助手として
先輩とコンビ組んで猫四姉妹の犯罪を喰い止めようと
死に物狂いで頑張り続けてきたんですけど敗れ堕ちた。
自己を保てなくなり、女性化した先輩から逃げました。
それからは窮乏の中、狂気に囚われながらの人助け…。
重ねる罪に氷塊と化した心臓は何一つ感じなくなって
年齢性別不詳の悪霊みたいなバケモノとなり彷徨った。
仏像を倒して分身の遺灰を辺りに撒き散らした物狂い、
それが俺自身でもある統合された最悪な類のバケモノ。
…?!…
安い造りのアルミドアが開いて、姿を見せたのは名無しの一組級長。
白いマスクで面皰面を隠して、肘まで袖をまくった制服の両腕には
俺の贈った空色のアームカバーが手の甲まで覆い、彼を守ってます。
喧嘩で殴られて幾つも痣を作った。焼身を止めたとき火傷を負った。
十年間の寄宿学校生活じゃ色々あったけど、たった一人の俺の親友。
「この僕が現れたのだ。瞬間移動という卑怯な真似は使うな、反側」
反側。俺の呼び名であり寝返りを意味する呪縛のスペルとなります。
同じ響きの反則と組んで色々な糸を紡ぎ合わせて布に仕立てました。
反則は儚き魔法使い。俺の力で悲しい死の運命を反転させた訳です。
儚き魔法使いは墓無き魔法使い。墓守になる運命を受け入れない者。
名無しの一組級長は俯くことなく背筋を伸ばし、俺を見据えてます。
左眼一つ、名無しの級長だった頃には見られなかったキヨ独自の癖。
見た目は名無しでも中身は現世のキヨで満たされてるに違いねぇな。
対峙する俺は防御壁を取り払われた反側の姿を夕闇の下に晒してる。
自室の姿見に映ってたのは偽りと取り繕いが消え去った素顔の俺…。
「高橋虎鉄と新山紫峻の二人を死に至らしめた真犯人の一人が反側、
おまえだったとは…。夏期休暇中は実家のある南西の離島に帰って
犯行は不可能だと思い込んでいたが実行犯を操る黒幕だったなんて。
真実に辿り着いた以上、正しき道へ導かねば…。反側の罪を掃う!」
ついさっきまでなかった竹箒を竹刀のように構えてます。火の構え。
「白いスカーフをしてる時点で既に反側の敗北は決定しているのだ。
往生際よく白旗を揚げ、投降するというなら反省房に入れてやろう」
上段に構えた姿勢を崩すことなく元親友が交渉の言葉をかけました。
元親友は一組生徒を示す紅いスカーフ、俺は何故か白いスカーフ…。
「違うよ。この白いスカーフは俺が清廉潔白であることを示すモノ。
斎藤和眞は不器用で無様な二組君主だけど、罪を犯さず生きてきた。
斎藤千馬も忘れられがちな地味な級長だけど、たった一人の親友を
失いたくなくて、半狂乱でギター掻き鳴らして歌いクルってたんだ」
悪い夢。俺が目を覚ましたら全て忘れ去ることができるんですよね?
メッタメタに打ち据えられて…親友の気が済むなら構わない気も…。
真っ黒で最悪だった俺も現世で斎藤和眞として生きて、それなりに
幸せな時間を与えてもらったと思うし、もう引き際かもしれません。
打ち寄せる波が引くような自然現象です。始まれば終わるのが自然。
逃げるのは簡単です。それでも逃げません。今まで仕出かしてきた
全ての罪を悔い改めて赦されるのなら、どんな処遇も受け入れます。
「そうだ。カズ、おまえは清廉潔白な白文鳥。空を自由に舞い飛べ」
一組級長、俺の親友キヨが大きなマスクを外して笑顔を見せました。
面皰なんて一つもない現世同様に磨き上げられた清浄な素肌の笑顔。
我が名は反側、白い小鳥になって空へ飛び立つのが終焉に相応しい。
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何かに許しを乞うことで彼が目覚めるのなら何度でも頭を下げます。
現在の彼は村の診療所跡に建つ鯨井クリニックの病室で眠り続けて
まだ意識を取り戻さないのです。私が目視して得た情報に於いては
十日近く意識不明だった経験を持つようですし、ネガティブ思考に
囚われたら明るい未来を掴むことはできませんね。必ず目が覚める。
降雨が続いても耐え忍べば雲が動いて晴れ間が覗くと信じています。
遠い日の彼が望月漲の名を騙って謝罪の手紙を送った顛末を真似て
私が斎藤和眞の名を騙って綴ってみたものの、胸の奥が深く抉られ
その苦痛に耐えきれなくなりました。現在の私の望みはたった一つ。
私と同じ時間を生きて同じ記憶を共有できる掛け替えのない相棒を
失うのが惜しくて堪らない。彼の反側は数々の奇跡を起こしました。
死の運命を迎える者たちを生の道へ導きました。私も救われた一人。
生き続けるのは情けなく、虚しく寂しい。全てが重苦しく心が塞ぐ。
そんな中でも雲間から射す微かな光明が自身の笑顔を作る元となる。
生きていなければ笑顔なんて作れない。血肉に囚われた状態でこそ
自分自身の喜びを表し、周囲に喜びの意思を示す笑顔を齎すのです。
真理など追究する時間が勿体無い。欲に囚われた姿は洩れなく醜い。
衆前の好奇の瞳に晒される敵方の首級。秋風と同様、もののあはれ。
心身を苛む冬に降り積もる鬱憤。個体と化した水を除去する暮らし。
ダイヤモンドダスト、細氷、氷晶。多寡が知れたこと。浅ましい姿。
広がる言葉の翼よ羽ばたけ。空想、夢幻、虚空、言葉が連なる無限。
名も無き一兵卒だった彼は光輝く翼を広げ、飛び立って想天を舞う。
不可解とも言えます。それでも恋愛の情に似た執着を向けてしまう。
生み出した者が時に忘れるほど薄く地味な存在だった筈の二組級長。
独り善がりでも最悪な自分と向き合って最後まで生き続けてみせる。
斎藤和眞の記述した独白に厭世はありません。目覚めると信じます。
低血糖昏睡。半世紀以上の年月、合併症を起こさずに節制を続けた
彼が曖昧模糊の靄に包まれたまま終焉を迎えるなんて有り得ません。
彼は新しいギターを購入したばかりなんですよ。淵主様とハシムに
披露すると意気込んでいたのです。ヘタでも聴けば笑顔になれる歌。
彼の強い自制で無自覚性低血糖が通常となっていた非常シグナルは
私自身が確認していました。自己管理ノートも食後低血糖の数値を
確認していたので糖質制限を緩めるよう彼に口添えしていたのです。
実際に書き込まれていなくても目視できるのが羊の持つ能力でした。
インスリンを打つ単位の節約と称して食事量も少なめに抑えていた。
彼は鈍い頭痛を訴えながらも小さい頃、ハードカバーの書籍で見た
フラットウッズモンスターが怖かったと助手席で笑顔を見せていて
私も車の運転に集中していられた。最近寝不足だと話していたから
助手席で寝息を立てる姿を見ても即座に昏睡と気づけずにいました。
異常を感じたのは寄宿学校のあった村に入った黄昏の時間帯でした。
言い訳に過ぎませんね。一粒の飴で昏睡に陥らず済んだのでしょう。
餓えに気づけなかった私の失態。小さく白い不死鳥は未だ目覚めず
静かな寝息を立ててる筈です。きっと覚めるのが惜しい夢を見てぃ
「ナギちゃん、気は済んだか? そろそろ楔を抜いて旅立たせよう」
谷地が処置を施せば身内から外れます。我らの呪縛を解けば終わり。
目覚めた後も癒えぬ病を抱えて生き続けるくらいなら全てを解いて
永遠の自由を与えるべきなのかもしれません。失うのが惜しくても。
マコの台詞で「大好きだ」と私の気持ちを代わりに叫ばせたのです。
斎藤和眞は想像を遥かに超えて、大きい存在となってしまいました。
手放すのが惜しい。どれだけ辛く苦しくても生き続ける限り些細な
出来事から笑顔を見せてくれる筈なのです。たとえ手足を失っても
絶望の淵に沈み込むことは有り得ない。彼は生きる希望の明星です。
死なせない。死なせるのは惜しい。死なせないための一手は打てる。
でも、彰太君のように新たな呪縛で覆うのも哀しい。
斎藤和眞のパールは特別な意味を込められた品です。
だからこそ真実を知った彼が狂気に囚われたのです。
婚約指輪を飾る宝珠を利用して生まれたのが白文鳥。
歪んで拗けた現世を生み出した引鉄となったパール。
「唯一残るオパールの長女猫としての望み、私は彼を死なせない!」
時空を越えて姿を現した私は二つの存在となってしまったが
そんなの些細なことだ。現在では羊猫となって融合している。
「あ、そう。俺も暇じゃないんで一旦帰京するよ。起きたら教えて」
宵闇色の服を着た谷地が忙しい足取りで院内の階段を下りて行った。
私は病室前の廊下に備付けられた長椅子に腰かけ目覚めを待ちます。
数日、数か月、数年でも待ちます。百年、千年でも構わない執着心。
傍から見れば『醜い』と評されるに違いありません。潔く手放して
忘れ去るのが静かな終焉に相応しいと知りつつ寝穢く足掻き続ける。
懐かしいマコの面影を受け継いだ院長から
街の病院へ転院させる申し出を断りました。
以前の二組級長が人生の最期を迎えた場所。
村の診療所以外…彼の終焉は…望めません。
特に親しい間柄でもなかった彼と私が背後で手を結んで糸を紡いだ。
織り上げた大きな布が何の役に立つ訳でもないと知っても
一つの作品を生み出した喜びを共有し合う掛け替えのない
相棒となってしまった彼を簡単に手放す気にはなれません。
「そこに望月が座っているということは昏睡から目覚めてないのか」
私からのSMSを読んだ花田が村まで駆けつけてくれたのは有難い。
掛け替えのない親友のために数時間かけて車を走らせ訪ねてくれた。
私などより遥かに結びつきが強い二人だ。きっと良い影響を及ぼす。
学習発表会の出し物では同じ楽曲を歌う仲間でもあったし
私こと橙羊の初代鞄持ちを務めていた白い猫でもあったが
特に思い入れのない遼遠とした関係だ。無言で目を伏せた。
「染めた部分が伸びてきて見っとも無くなってきてるな。髪の根元」
長椅子の隣りに腰を落ち着けた花田が早速見つけた私の欠点を論う。
「今は髪の毛に構う暇などないのはキミも分かってる筈だと思うが」
元々相性が良いと言えなかった二人の級長。親友と呼ぶのは表向き。
それでも学校時代の斎藤が心の拠り所にしてきた同室者に違いない。
黒縁眼鏡を踏み壊されても縋り付いてた大切な親友で同い年の先生。
二つの学校時代、幾多の困難を与えて苦しめたキミの親友が訪れた。
元親友なんて遠ざける必要ない。何の考えもなく花田が来る筈ない。
袖を捲った濃紺のデニムシャツから空色のアームカバーが覗いてる。
目覚めてくれ。恥ずかしいと思う必要ない。キミは恥ずかしくない。
反側の斎藤和眞は紛れなく清廉潔白な罪のない存在であるのは真実。
バケモノである身を潜め、家業の跡取り息子を終幕まで演じきった。
二組の君主役も重い責任を持つことで掴み取った彼の居場所だった。
犬と龍は死ぬ必要ないのに自分たちから望んで舞台を下りただけ…。
以前の世界に於いて、私は操氏と偶然の再会を果たした。
自転車を押しながら村へ帰るという彼女と並んで村道を
歩いてたところを蛇の手で撃ち殺された。見通しの良い
場所での狙撃だ。見えない銃口に彼女は恐れ戦き逃げた。
蛇が使用した銃は花田が冗談半分で文通相手に依頼して
贈ってもらったという品だった。インビジブルの能力で
入手して使用したのだが現世で花田は銃を返送している。
その代わりが絞殺…。罪の処罰を望んだ私の若気の至り。
呪われた姿で必死に仕事した。病と傷を癒すことだけが
私にもできる罪滅ぼしと信じて打ち込んできたつもりだ。
蛇は自分を殺した兄を『宝石の人』にしようと目論んだ。
しかし、そこにも反側の力が及んでいた。林原に憑いた
谷地が街の浅井家にある慰霊堂でペリドットを供養して
新たな生命として蘇らせた。池田ミサの息子となった蛇。
元から蛇を苦手とした狼である操氏に育てるのは難しく
後に白文鳥の養子となったものの幸せな時間を過ごした。
早世した息子の最期、白文鳥にとっては悪夢だったろう。
だが、短くとも『宝石の人』じゃない生涯を送れたのだ。
斎藤、キミが気に病む必要は一切ない。目を覚まして淵を訪ねよう。
キミが奏でるギターの音色を聴きたい。あの陽気な歌声を聴きたい。
夕闇の下、嘆きたい心情を堪えて宵の明星の如く歌ったキミがいた。
知ってるからこそ懐かしい。再びキミの演奏と歌声に耳を傾けたい。
現世では行けない。もう夢でしか行けない屋上だから代わりに淵で。
「羊の先生、見苦しい考えに囚われているな。あのカズに惚れたか」
周辺の沈思黙考を聞き取れるキメラ猫の底意地悪い薄っぺらな微笑。
どれだけ読めても真意まで測れぬ者。浅い思考を掬い取っての表情。
縁日の屋台で泳ぐ金魚を掬うのと似ている。水面を漂う小さな思い。
どんな言葉も歪めて受け取られる。この思考も筒抜けなのが歯痒い。
絶対勝利者の立場にいる余裕の笑みが憎らしい。敗者は勝利者の陰。
下に置かれた敗者の気持ちなど同じ立場まで堕ちないと分からない。
「彼は私が長い時の中で何度も夢に想い描いた光景を見せてくれた。
妻子と再会して、私の失踪後、妻が私の後輩と一緒になって息子も
迎えられ、新しい家族となり、幸せに生きることができたと伝えた。
夢の戯言と思わず、真実であると信じる。夢使いの起こした奇跡を」
数日前に彼の能力で引き込まれた夢、扉を開けたら待っていた二人。
夢の出来事と笑って忘れる気にはなれない具体的な氏名の出た会話。
心残りが重い雲となって胸に広がり延々と雨を降らし続けたけれど
あれから一粒も雨は落ちてこない。長い雨が止んだのかもしれない。
「まだ小魚泥棒は村に来ないのか? あいつを早く始末してもらえ」
嘘を吐いてる。花田が本気で彼の始末を望んでいたら村まで来ない。
未だに幼い童子の心を持て余し、口の聞き方さえ会得できないまま。
勝利者が懸命に皮肉な大人を演じようとしてるが南瓜ではなく大根。
背筋を伸ばそう。彼は直に目を覚ます。余裕が出来たら村内を散策。
カシコの家を確認したい。以前の世界に於ける筒井由子との再会は
彼が還暦を過ぎて村に誕生した女児として…。長く哀しい恋の終幕。
現世では三十過ぎての再会になったが、結婚まで到ったのだろうか?
年始の挨拶状などで遣り取りを続けていたが、私は泣き虫もっちー。
名目ばかりの部長。私はカシコたちの下に位置する寂しい寄宿舎生。
或る年にカシコから父親の喪中葉書が届き、寒中見舞いを出しても
それっきり…。私も忙しい日常に追われ、連絡が途絶えてしまった。
カシコ、チアキ、ハシムの御蔭で愉快な放課後だったよ。感謝する。
淵主様の祠と因縁深い部員のハシムをコーラルとして交渉役を頼み、
筒井由子を村の淵主様に仕える巫女の務めから解いてもらったのだ。
カシコが子孫を残したか気になる。私の眼で心ゆくまで村を見たい。
共同浴場の前、引き湯管から白い湯気を上げて湧き出していた源泉。
胸の傷を消し去った現在なら躊躇なく入浴も愉しめる。懐かしいと
思える我が心と共に生き続ける。全ての過ちを否定せず、生きたい。
肉体は用意された借り物だろうが意識は長きに亘る記憶と共にある。
記憶こそ私の宝と呼べるかもしれない。肉体の中で生存維持のため
徐々に厚く、強くなって確立された頼れる我がパートナーで真の友。
私という死ねないバケモノの胸の奥には長大な記憶の書があるだけ。
どんな孤独の中でも笑顔を引き出す魔導書に綴られるのは今の記憶。
谷地の車は花田の車と擦れ違うことなど有り得ないのだと思われる。
舞台の袖裏を支障なく通り抜けられる近道を知っているに違いない。
「村にモガミ屋がなかった。その現実が僕には堪らなく寂しかった」
素直な口調に戻した花田、不意に立ち上がると廊下の窓を眺めてる。
私も花田の横に並んだ。気紛れで宣言した秋雨の昼休みを思い出す。
雨が降ったり止んだりを繰り返す秋らしい空模様。今は雨の休憩中。
白い雲が空一面を覆い尽くし、光の梯子が幾つも地表まで射してる。
「モガミ屋は移転したようだが、八木橋給油所は立派になって健在。
時の経過が齎す変化だ。元学友たちの顔が見たくても墓に参るしか
挨拶する手段がない。斎藤が退院したら三人で村の墓地を訪ねよう。
街へ行って大判焼きの店も探そう。ハムとチーズ入りのが食べたい」
むぐらもちの望月となって雑談に応じた。同い年らしく会話しよう。
花田は学校時代と変わらない大判のトートバッグを担いで来ている。
車中泊してでも花田が親友の目覚めを待つつもりなのは確認できた。
「九年生の真冬日を思い出す。ウィンナー入りは『しつこい味』と
望月が話したが、当時は鯨井と食べていたなんて想像できなかった。
あのおじいちゃんスタイル、思い出し笑いするほど似合ってたっけ」
急いで来たらしく伊達眼鏡とマスクをしてない微かな笑みで言った。
「先日は端末から熱心に文章を記述していたようだが終わったの?」
誰に宛てるでもない長い長い手紙、私は読みたいとは思えない長文。
「望月からのSMSを見て、慌てて出る支度をしたんで持ち忘れた。
いいのだ。作業の続きはいつだって構わない。首と右肩を痛めたし」
私の初代鞄持ちが大袈裟に首と肩を動かしたが心配するまでもない。
「花田の実家、代変わりしても会社は大きく発展を遂げて何よりだ。
ホームページで社員を募集していたから斎藤と二人で応募しようと
履歴書まで書いたところだ。十割以上の本気だね。ベッドメイクは
彼の得意とする日常作業だった。きっと真面目に仕事してみせるよ」
彼の優れた身体能力はどんな場所でも開花する。…強かな生命力…。
「ん、ああ…。父が興した管財会社を弟が懸命に盛り立てた結果だ。
長男である僕は蚊帳の外に出るより仕方なかった。バケモノだから。
現在は姉の子孫が会社を継いでいる筈。弟は縁がなく未婚だったし」
サイトの閲覧までは紛れない事実だが、応募云々は私の作った虚構。
「おまえらの心底は透けて見えてる。僕の掃天を止めるつもりだな」
病室入口を振り返って吐き出すように言った花田。読まれて当然の
二人の祈願である一つ。反則と反側は想天を漂い、掃天を防ぐ所存。
家族を呼ぶよう院長から告げられても既に親族を失った私たちは…。
白文鳥に衣食を与えた先輩のキメラ猫で名無しの級長同士だった
花田と万一の際、終焉の儀式を執り行う谷地を呼び寄せたけれど
穴の多い布でも予想外に大きな仕上がりとなったのは
彼の力添えがあってこそ…。だから、死なせたくない。
白雲の下は荒れ果てた畑と葉が秋色に染まりつつある小さな桜の樹。
目に映る地面も疲れて眠ってる。目覚めたら桜は再び花を綻ばせる。
…?!…
病室の引き戸が開いて看護師が姿を現した。何となく慌しい気配…?
「患者さんが目を覚ましました。院長先生に確認して頂きますので」
操氏を思い出させる綺麗な女性だ。名札によると猫間というらしい。
個人病院に重篤な患者を預けて苦労かけたと思うが良い結果を得て
心なしか彼女の頬も上気してるよう映った。安心できるのは有難い。
生き物は安心を求めて活動するのみ。全てが動かなくなる瞬間まで。
反側との新たなゲームは始まったばかり、終わらせる訳にいかない。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
院長の許可が下りて、彼と面会したのはもうしばらく後のこと。
斎藤は両目をはっきり見開いて頻りに病室の照明を見つめ続け
気が済むと今度は白い壁を黙って眺めるのを繰り返してる状態。
視界のピントが合わずに戸惑ってる様子だ。まだ機能が完全に
回復してないと窺える。この病室は非現実な空間かもしれない。
白い壁は薄いピンクやグリーンのモザイク模様の壁面だと認識、
天井の照明も見る度に位置がズレて不思議でならないのだろう。
天井から下がる酸素や吸引のホースには小蠅の群れが蠢いてる。
此の世と彼の世の狭間と喩えられる不可解な光景を眺めてる筈。
言葉が出るようになったら答え合わせが可能。それまで待とう。
「こんなニオイしてるのに平気だとは…。看護師を呼んでくる」
村のスーパーまで昼食を買いに出かけた花田が戻ってくるなり
顔を顰めて姿を消した。食事する前に不快な排泄臭を嗅いだら
誰でも食欲は失せるだろう。当の本人も意思を回復させたなら
赤面する筈だ。誰でも想像はつく。今は自力で起き上がるのも
困難なのだから相当の時間をかけて回復してもらわなければ…。
学校時代、頼まなくても寄宿舎の廊下に消臭芳香剤を置いてた
花田は些細な刺激も好まぬ性質を持ってるのだから致し方ない。
姿を消して動けたところで世界に大きな変容を及ぼすことは出来ない。
千年以上もの長きに亘って、私という意識と付き合いを重ねてきても
変わることなく遠い昔の濃やかな幸せな時間を懐き続けて手放さない。
病室の窓から狭い通りと住宅が見える。私が診療所で勤務した当時と
大きく変化を遂げたとは言えない。空間に詰め込まれた情報が意外と
多い事実に気づいた程度。様々な思いと物語が空間の中に籠っている。
そんな怪情報を読み取れる者が所謂「霊感の持ち主」と称せるらしい。
私は目視したモノから情報を読み取ることが出来ても透明な空気中を
どれだけ見つめ続けても霊魂は視れない。失せモノ探しも無理な芸当。
蝙蝠だった亡き林原や熊猫の桜庭なら情報取得と視る能力に長けてる。
直接現場まで足を運ばずとも頭の中でテレビと同様の映像を見られる。
金銭を手放してでも情報を得たい者に伝えることを生業とした蝙蝠の
実の父親である熊猫自身も間違いなく霊感探偵として活躍できるのに
片付けと掃除で汗水垂らして働くことを貴いと考えている我らの仲間。
医療従事者、教育者、肉体労働者、形に拘らず役に立ちたいと窺える。
何らかの道標になることでバケモノとして生きる苦痛を癒したいのだ。
祈望。世俗の明星となって光輝く道標、胸の奥に潜む…祈りと望み…。
…?!…
声を出さずに私を見てくれている。今はそれで十分だ。必ず回復する。
目覚めた友に感謝と喜びを込めて、望月漲が涙を堪えた笑顔を向けた。
引き戸を開けて病室から出た。反則と反側の死なせないゲームは続く。
Oui continuer.