私の居場所
◆私の居場所. 三上操
学校を卒業したら、一緒に暮らしてくれるんじゃなかったのですか?
そう問いかけたところで、もう誰からも…答えは返ってきません…。
私の実父である筈の学校二組担任だった池田直己は
卒業式後、教員宿舎のアパートに家財一式を残して
まるで消え失せるかのよう姿を隠してしまいました。
学校の寄宿舎の寮母だった高橋さんがアパートの部屋の鍵を預かっていらして
私に心苦しそうな、申し訳なさそうな顔をして、それを手渡されただけでした。
あの八年生の五月から夏休み近くの頃まで、二人で一緒に暮らした部屋です。
リビングのテーブルの上にはカレンダーの裏に急いだように読み取りづらく
殴り書きされた書置きと、財布でも引っ繰り返したように投げ捨てた感じで
ばら撒かれた紙幣と硬貨がありました。それだけが私に残されたものでした。
『 ミサ
本当にすまない 顔を合わせられなくて 申し訳ない
卒業式が終わった日の夜中 時計見たぞ 今 午前1時半くらい
なんか知らんが 俺にかけられていた マ法がとけた
シンデレラかよ! おれはー!!
名まえと特×ちょうが いっちしたらおわりだ その前に逃げるは※が
見はってたヤツが うごき出したようだ いっしょに つれてけない
おまえには ※せになってほしい 心から そうねがうから
そういう形の 父から*ムスメへの あいがあると
しんじてくれー!(とても大きな字で書かれていました)
おまえがつくった カレー うまかった! またくいたい
あまり ないけど おまえへ センベツ やる
ひきだしも! さがせば 見つかる ごめん
あるだけ ぜんぶ つかえ! 会えたら あおう! れんら〆』
最初は漢字が使われていたのに、段々焦るような感じになって書いたのが
一目で読み取れるような手紙でした。本当に意味不明な私のぃ…父…です。
私には帰る家もない。頼る相手もいません。谷地君の手紙が思い起こされます。
『もう少しだけ、心を開けばいいと思います。
誰かに鍵を開けてもらうことを期待しているよりも
自ら内鍵を開けばいいだけです。それで楽園への扉は開く筈です』
他の人にはどうなのか分かりませんが、彼の手紙の…この文章を…目にしたら
涙が、どうしても、いくらでも、あふれてきてしまって…ダメ…になりました。
関わってきた全ての人々に対して『拒絶』という態度でしか心を守れなかった
ひどく弱い人間でした。卑劣な言葉ばかり、周りに聞かせてたと思います。
でも、今更、自分のことを上手く変えられなくて、卒業を迎えました。
友達なんて、何か起こった際に頼れる人なんて、どこにもいません。
私が自分から線を引いて『高い壁』を作ってきたのだから『当然』です。
寄宿舎内や教室の中にも、こんな私へ親切に声をかけ…楽しく笑わせようと
形振り構わず…といった形で接してくれていた本当に優しい人たちがいたのに。
ごめんなさい。そういった心遣いに、ちっとも気付かずにいて、ごめんなさい。
だから、こうして、今の私は…ひとりぼっち…になってしまいました。
全て自分自身が悪いのだから、誰かを恨んだり、責めたりできません。
この現状は当然の報いです。怖い。どうしよう。どこへ行けばいいの?
もう他の先生たちは村から引っ越してしまった
元村の学校教員用住宅の一室で泣いていました。
これは私への罰です。これがひどいことした人間への罰なのだと思いました。
意地悪な「アネサン」が近付いてほしくないから、人を傷つける言葉ばかり
言って、失礼な態度ばかり取っていたから、ひとりぼっちになっただけです。
他の通学生の人たちを頼って自宅へ図々しく上がり込む気にもなれません。
全て拒絶してきた私を親切に迎え入れてくれる誰かがいるとは思えません。
食べるのをやめて、ここで飢え死にしようかと思いました。でも、そうしたら
私と関係ない村で暮らしている人たちに迷惑をかけることになってしまいます。
また何日か時間をかけながら、時には泣きながら、部屋にあるお金を探したり
置き場所がなくなってしまった寄宿舎自室の私の荷物を一人で運び入れました。
私たち寄宿舎生は、学校側から毎月お小遣いみたいな手当も頂戴していたので
それを少しずつ貯めていたのも、今後の生活を考えると役に立ったと思います。
荷物をなるべく多くしないようまとめて自転車に乗って村から出ました。
村の誰とも顔を合わせないように夜明け前の独りきりでの旅立ちでした。
街も…浅井家…壱琉たちの関係者が多くいて、居心地が悪い筈だと思ったので
車に乗せてもらったりして、遠い中央方面に近いところへ腰を落ち着けました。
ここから先は、本当にもう思い出したくありません。嫌なことが多くなります。
こんな恥ずかしいばかりの記憶など…きれいさっぱり消せたらいいのに…。
『ツマトハ、カナラズ、ワカレルカラ、ケッコン、シヨウ』
こういったのと似たような言葉を何度も聞かされるばかりの年月でした。
実をいえば、父の箪笥貯金など含めると、それなりの金額を持っていたので
最初は小さな一軒家みたいな造りの借家で憧れていた一人暮らしというのを
楽しんでいた時期もありました。スクーターも購入して気分だけは昔読んだ
アルファさんになったような…。鉢植えの草花を育てるのにも挑戦しました。
オリヅルランやアイビーを碧いグラスに挿して育てたり、エアープランツは
ちょっと私には難しかったらしくブルボーサを二度も黒くしてしまいました。
小瓶に入れた毬藻は、私の小さな友達でした。窓辺にはサンキャッチャーを
幾つか吊るして、たくさんの小さな虹が室内に散らばる時間が楽しみでした。
寄宿舎の専用スペースの半分に分かれた窓にも吊るせば綺麗だったでしょう。
そういえば窓の鍵やサッシの開け閉めで壱琉と言い合いみたいになったっけ。
私たち二人が使っていた自室の左側にクレセント錠があったのも一因でした。
夏場は虫が入ってくるとか、暑い、寒いやら…。お互い我慢の連続だったな。
そういった私の大切な貯えも…いずれは尽きてしまうというか
ただ、その人のために、役立てばいい、そう思って手渡して…。
一人暮らしもできなくなってからは、私の惨めな思い出ばかりとなります。
ある観光地で、ホテルのベッドメイクの仕事をしてたこともありましたが
作業が終わって疲れ果て休憩中のリネン室で、遅めの昼食を済ませてから
一人で谷地君からの手紙を読み返すと少しですが生きる気力が湧きました。
(本物はボロボロにしたくないから、ノートの一枚に書き写したものです)
学校の笑ってしまう掲示物やコントみたいな光景が思い起こされるのです。
谷地君自体がピン芸人さんみたいな感じで病気の身体に無理をさせてでも
きちっと真面目を装いながら、さり気ない調子で笑えることを喋ってくれ
そんな優しい人さえも…拒絶しかできなかった…私は最低な人間でした…。
望みが叶うなら、死にたい場所があるんだ。再会したら、そのとき必ず話す。
彼の望んだ再会は果たせずに、彼は望まない場所で死を迎えたのでしょうか?
彼に死にたい場所など考えないよう伝えて、また普通の友達になりたかった。
心の内鍵は未だに解除する勇気が持てませんが…それでも生きていよう…。
死んでしまったら、私の心にいる谷地君も消えてしまうから、絶対にダメ!
そんな気持ちになれました。だから、谷地君には感謝してもしきれません。
まるで目に見えない、私だけの大切な友人のような存在となっていました。
谷地君と並んで座って…学校での出来事を…思い出し笑い…してるのです。
二組に入って、谷地君と一緒に勉強できたらよかったのになと思いました。
父の授業内容は「ミサだけは絶対に知らない方がいいんじゃないかな」と
尋ねる度に谷地君が含羞んだような笑顔を作って遮られてしまいましたが
あのクラスなら、もう少し壁を作らずに済んだような気がしてなりません。
そういえば、谷地君曰く「我らが君主」…級長の斎藤さん…といえば
八年生六月末日の朝、五名の来訪。それが真っ先に思い起こされます。
私にとっては教員宿舎のアパートを訪ねてくれた五人の生徒の中から
どうしても私の方から誰か一人選んで握手しないといけないとしたら
何の余計なことも考えず、安心して手を伸ばせるのが斎藤さんでした。
二人は完全にアウト。一人はワケあって除外。残った二人から選ぶと
私には、どうしても…斎藤さんしか…選べなくなってしまうのです…。
そして、制服の右ポケットに結びつけたマスターキーを取り出して眺めるのが
当時の日課みたいになっていたと思います。万が一紛失したら多額の賠償金を
請求される重要な預かり物です。全客室の鍵を交換しなければいけませんから。
それなのに自分から開くのが難しいものを何とかするヒントが得られないかと
たいした意味もなく眺めてしまうのでした。微妙な表情を浮かべていたかも…。
こうして思い返して綴っていても、恥ずかしくて、胸が苦しくて、駄目です。
息が出来なくなりそうな気持ちで、この手記を綴っています。惨めですね。
ですが、こんな風にしか生きられなかったのは事実だし打ち消せません。
実は、学校を卒業する前に…寄宿舎の同室だった壱琉…から
困ったとき相談に乗ると連絡先のメモを受け取っていました。
幾つかの場所を転々として流れ者みたいな人生です。「池田直己」の行方を
捜しながら旅を続けるような形でした。他の人たちは一体どうやって上手く
幸せに暮らしていってるのか全く分からないので、本気で悩んで困りました。
職場で一緒に働く人たちとも馴染めなくって…孤立というか…挨拶はしても
男性に不自由してない、不倫してる、根も葉もない陰口が耳に入るばかり…。
ある日、私は…どうしようもなくなってしまった…惨めな…私は
学校があった村の隣り街、そこに暮らしてる元級友である
浅井壱琉に…連絡を取ることを…決意…しました…。
私たちが学校を卒業してから八年の月日を経過していました。季節は春。
きっと、それが『悪魔の鎖』を首にかけた瞬間だったのではないかと思います。
◆…氷塊少々氷解…. 三上操
「本当に馬鹿だな。余計な遠慮しないで、もっと早く頼れば良かったんだ」
街で再会した浅井壱琉から、そんなことを言われたような記憶があります。
壱琉は心を持たない人形のような瞳を持っているから、非常に苦手でした。
全ての言葉が淡々としてるというか、まるで演劇で独白してるような喋り方。
私の視界から逸れた瞬間、煙のように消えていても不思議じゃないような…。
そういった人間だからこそ、ほぼ十年もの間、自室を共用できたのでしょう。
それでいて口を開くと蛇口から水が迸るような凄い勢いで喋り続ける性質は
卒業してから数年経ても変わりなかったとしか感想が述べられませんでした。
『傾聴』は学校三組の壱君先生、彼から授業で教えられた言葉でもあります。
意義ある行動でも耳障りな響きを聞くのは苦痛でしかありません。
おそらく彼から私への愛情を示してるのかもしれない言葉も
毎回、必ず誰かへ向ける罵詈雑言と引き換えなのです。
私が感情を抑制すればいいだけですが、壱君先生は他者に聞くことを望んでも
他者が伝えたい言葉に耳を傾ける心情は、一切持ち合わせてないようなのです。
軽蔑。不信。拒否。苦痛。嫌悪…。湧き上がる心情を宥めながらの生活…。
それでも壱琉から寄せられる好意を利用するしか、もう手立てがなかった。
私の心の中で共に過ごす友人たちと
もう少し一緒にいたいと思ったから。
死ねないと思うから、利用するだけ。
我ながら最低、惨めだと自己嫌悪で
壊れそうになりますが耐え忍びます。
心の中にいる友達、谷地君のために
浅井壱琉を利用することにしました。
そして、私の父である池田直己の行方を捜してもらえることになりました。
浅井家の事務所らしき室内で、元級友だった浅井彰太君と再会しました。
現在の彰太君は街の浅井本家で色々な仕事を手伝っているのだそうです。
それともう一人、学校で一組の通学生だった三上灯君の姿もありました。
モル君は壱琉の招きにより「執事さん」とでも称すればいいのでしょうか?
壱琉の側近として、彼の自宅にも寝泊まりして務めているとのことでした。
モル君は村では聴覚他に難有りだったけれど、街では健常者なのですから
何の支障もなく働けるようです。随分と背が伸び体格も変化していました。
現在のモル君は「壱琉のボディガード」と称するのが相応しいでしょうね。
気高く凄まじい寂しさが伝わる男子だったのに…それと違う空気を纏って…。
たまの楽曲的イメージから遠ざかってしまっていて、それが寂しかったです。
八年生夏休み某日、彼が歌った、終わりのない…。
モル君の静かな…温かい眼差しは…もう二度と…?
三人とも少し照れ臭い感じ、含羞んだ笑顔しか見せられませんでした。
記憶の中にある彰太君は腰縄を振りまわしていた暴れん坊みたいな姿でしたが
何と無く落ち着いた物腰で、いつも短かくしていた髪がだいぶ伸びていました。
どれだけ近い親戚なのか分かりませんが、夏目宙にも似た雰囲気になってます。
どことなく女性的な印象を覚えるような風貌だと表現すればいいのでしょうか。
よっぽど気に入っているのか制服を脱いでも相変わらず腰に縄を着けています。
学校時代より痩せたので顔立ちは引き締まり、以前よりもっと寂しげな表情を
覗かせていました。学校時代から気にはなってましたが、いつも彼の心の眼は
他の何かに向けられているような…逸らされているような…印象を受けるので
だから、どうしても…こちらの心の中にも強く残ってしまっていたのでした…。
その想いを彼に伝えるべきか悩んだ時期もありましたが、もう終わった話です。
ただ、私が成長した彰太君を見て、どうしても哀しいと感じてしまったのは
昔の私が懐いていた、お人形たちに周りを取り囲まれ困惑していた少年が
結局、彼の周りと全く変わりのないお人形さんだったという現実でした。
浅井一族の容貌は、ああいった眼差し、面相が基本となるのでしょう。
彼こそが本物の人間に違いないと信じてたのに、お人形さんだった。
差し障りのない範囲で打ち解けてみると、やっぱり彰太君は優しい人でした。
一度ドクズの森魚脩とよく通っていたという洋菓子店の二階にある喫茶室へ
半ば連れ出されるような形で、紅茶とタルトのセットをご馳走になりました。
こんな元級友にさえ、私は…いつも失礼な冷淡な態度で…接していたのです。
そう思って、彼にも謝りました。思い返せば、涙も少し出てたかもしれません。
きっと、私は誰かの優しさ、親切な姿に物凄く飢えていたのだと思います。
でも、彼は通学生でしたから、どうしても会話が弾まないというか、続かずに
彼と同じ場所で過ごした時間は、殆ど沈黙になっていたように思われます。
彰太君自身…以前よりもっと寡黙な人になってたのが原因だったかも…なんて
他人に責任を問うようなタイプの人間だからこそ、私は駄目なのでしょう。
会話の流れで、中央で暮らす夏目従兄弟のことも聞くような形になりましたが
彰太君も卒業後は…二人と全く連絡がつかなくなった…と話していました。
元から仲が良い訳じゃない感じでしたし、疎遠になって当然なのかも。
「いつも近くにいたの見てて知ってる。だから、自然と結びつくのは分かる」
何か決意したような雰囲気を感じる口調で俯いてた彰太君が切り出しました。
「でも、悪りぃことは言わねえ。あの人とはそう深く関わんない方がいいよ」
そのときだけ、彰太君は眼差しを私の目へ
はっきり向けて告げました。すぐ逸らして
「今のミサは…。あ、失礼…。ミサさんは、まだ灰を被った程度なんだし
それくらい自力で掃えるんじゃないかと思う。多少なら助けにだってなる」
僅かに小さめで矢のように鋭い眼光、そして透き通ってると感じる視線を
窓の外に向けながら、彼はお茶を飲みました。途中でカップを唇から離し
「だから、さっさと早いうちに掃っちゃって、もう一度きれいになりなよ。
まるで捕縛して連行するみてぇな、おかしな感じになったと思ってるけど
どうしても一度きっちりミサさんに俺自身の意見を伝えときたかったんだ」
言い終わってから、飲み干して空になったカップをソーサーに置きました。
「それと、もう一つ警告。モルに気をつけるべき。あいつは昔と変わった。
壱琉とモル、あの二人は…。いや、俺も相当アレだけどさ、それは兎も角
きれいさっぱり俺たちとは離れ…いや、縁を切った方がミサさんの幸せだ。
壱琉の性格は知ってるし、苦痛でしかなくね? 別離した方がいいと思う」
我ながら…惨めな状態にある私の胸を突き刺すような言葉…痛かったです。
それに全く気付かない素振りができる彰太君ではなかったのだと思います。
学校時代の彰太君。彼に視線を向けたら…困惑しか湧いてこない不思議な…。
普段は周りに粗暴な態度を取ったり、ひどい言葉を投げつけたりしてたけど
あくまでも形だけで同じクラスにいる壱琉などの身内に相当な気を遣っての
例えれば「自棄」みたいな言動だったのではないか?と、推測していました。
本当は心の優しい人。十年間も同じ教室で過ごせば、そうと気付く答えです。
これから先、再会といった形で出会う全ての人物から
不憫だと哀れむ目で見られなければならないなんて…。
恥ずかしくて情けないけれど、受け入れなければならない非情な現実でした。
なので、そこは…ちょっとふてぶてしい…といったような態度でいなければ
脆弱な自分自身が保てませんでした。また少し私の心が欠けた気がしました。
落ち着いて座っていられなくなった私は「他に用があるので」と伝票を手に
その場から急いで逃げだすよう向かい合ったボックス席から立とうとしたら
彰太君が素早く短く切った丸い爪の大きな手の指先で、そっと押さえつけて
彼の指先が私の手へ徐々に力を加えていき、ほんの僅かな痛みを覚えました。
そのまま私の手を強く握られてしまう気もして、僅かに焦りも感じましたが
結局、私が手に持っていた伝票を奪うような勢いで取り戻されただけでした。
私を見上げた彰太君の瞳は、やはり壱琉の血縁なのだと確認できただけです。
そして、彰太君とは…それを限りに疎遠…といった形となりました。
そういえば彼とよくつるんでた森魚脩はどうしてるのかと、ふと過りましたが
他者への気遣いを心得てる彰太君だから、この程度の胸の痛みで済んだだけで
脩のような平気で他人を侮蔑嘲笑できるタイプの人間に出会ったりでもしたら
もっと心を音立てて引き裂かれ、醜く変えなくてはならなくなるだけと思って
余計なことを考えるのは止めました。年月は人を苦しくさせるものみたいです。
◆…悪魔の鎖…. 斎藤和眞
例えてみれば『悪魔の鎖』にでも繋がれた状態。
俺、斎藤和眞の現状はそういった表現に似てるんじゃないかと思ってます。
ほら、タロットカードのアレ! 十五の悪魔のカード、ご存知っすか?
あの鎖に繋がれちゃってる人間。あの姿、今の俺って気がしてます。
発症する前、確か今から四~五年前になると思うけど、或る病院で受けた
血液検査の結果、その病院の女医さんの自己抗体値が高めなのが気になる
といったような発言が耳に残った記憶があるんですけどねぇ。これは本当。
精密検査とか勧められた訳でもなく、その後すぐ身体の調子を
崩したということもなかったから、ごく普通に生活してました。
喫煙してました。割と軽いヤツを一日で多くても十本以内です。
周りに喫煙者が多かったのもあって、つい流されるような形で。
息抜き、気分転換…とかいった逃げ口上で…屋外に出ては一人で煙草に火を
点け、喫っていました。自分の身体のことや学校時代のハシムのボヤ事件も
もちろん記憶に刻み込まれていますし、火の元には気をつけなくちゃという
罪悪感みたいな懼れも当然ありましたから何度か止めてはいましたよ。煙草。
で、今は仕事の休憩中なんですけど、また一本だけ口に咥えちゃってまーす!
俺が眺めてるのは、黒く見える岩場の波打ち際で海の色は暗い青
聞こえてくるのは、どうしても耳に入る生活音と遠くから波の音
風向きの所為か潮の香りまでは感じない。鼻が慣れてるからかも
いつでも、どんなときに見ても、心が落ち着く景色だよなぁ。
昔、約十年間くらい…囚われの身…だった自分には
しんどいとき…心を逃避行させる場所…でもあった
云わば憧れでもあった実家近くの…日常風景…です。
喫い終わったので、きちんと後始末しました。これで息抜きの一本終了。
依存とは思ってないけど確実にニコチン依存でしょうかねぇ? 何だろ?
俺の実家は、小規模な旅館兼土産物屋を経営してまーす。
こんなんでも男だし、やっぱり力仕事が主になってしまう
感じになりますけど、それなりに真面目にやってきたつもり。
なのになんでかなぁ、いつからか矢鱈と体がしんどくなってきて
寝ても何しても体調が回復してくれなくなっちゃったんですよね…。
栄養不足かと思ってビタミン剤とか小まめに飲んでみたりもしました。
飲酒は付き合いの席くらいで飲んでいません。好きではないの、酒席が。
昼食を済ませたら、ふっと意識を失うような風に気づいたら一時間くらい
眠り込んじゃうといった変化が起こったのは、どれくらい前になるんだろう?
割と暇な旅館なんで咎められることもなくて、その辺だけは助かりましたが。
その頃から疲れてるんだろうって家族の勧めで、栄養ドリンクに果物とか
そういった甘味を口にすることが多くなったのは…間違いありません…。
ああ、嫌になるな。べつにこんなの誰だって知りたくありませんよね。
なんていうか他人の排泄物でも見せられるような気分になるかもね。
それでも、こんなの見たくなければ目を閉じたらいいだけなので
覚悟を決めて、引き続き俺の言葉を紡いでいくことにします。
体調不良、どうにも起き上がれない。凄まじい倦怠感。
これじゃ仕事にならないなぁって体調が普通になってきて、水でも何でも
水分が勢いよく自分の身体に沁み込むかの如く流れていくようになりました。
「斎藤さん、まるでスポンジにでもなったんじゃないかしらって思うの!」
そう学校時代の俺なら表現したかもね。少し口を湿らす程度のつもりで含んだ
緑茶のペットボトルが気づいた時には空っぽなんですよ。何の魔法だよ?って
自分自身が一番不思議でなりませんでした。一気飲み名人の誕生でーす。
それで…体に溜まった水分を出す方も近くなっていっちゃいまして…。
スポンジに水を含んでは絞られるような、そう表現するしかない日々。
スポンジってより蛇口に繋いだホースと同じ身体だ。液体が通過するだけ。
普段から体重計にも滅多に載らないでいたので全く気付きませんでしたが
見た目も痩せ型ってか体重自体可成り減ってた。入院先で数字を見て吃驚。
この発症は鏡で自分をよく観察してこなかった罰なのかもって思いました。
気づいてみたら、ねばつく感じがして、常に不快だった口腔内。
口がカラカラで唾液が出ないんです。出そうとしても湧いてこない。
現在こうして口内に湿り気がある状態っていうのが有難いと思えるくらい
カラッカラに乾いてた。なんか情けなくて泣きたいような気にもなったのに
涙さえ出なくなるほどで、洗顔時に鏡の前で口を開けたら見ちゃいました。
舌に亀裂といえばいいのか、斜めに二センチくらいのヒビが入ってたんだ。
それを目にした俺は「旱の休耕地の田圃みたいな様相だなぁ」と思った。
意外と冷静。今にして思うと物凄く淡々としてた。完全に他人事だった。
完全に乾ききってたんですねー。出すものが尽きた状態。よく生きてたかも。
もう普通じゃないのが誰の目にも明らかになったので…翌日には病院へ…。
忘れません。そのときの血糖値は586でした。
歴史の年号並みに脳裏へ焼き付いた三桁の数字。
その病院から一歩も出ないで病室へ直行といった形で、入院生活突入。
「うわぁ、人生初入院!」なんて余裕あるワケねーでしょうが。
蓄尿だの初めての低血糖だの堪えることばっかりだった。
まだ長くなるんですけど、そろそろ端折った方がいいでしょうかねぇ。
一言で済ませれば、成人後に発症した一型糖尿病患者でした。
抗GAD抗体が陽性4.6U/mなので、緩徐進行一型糖尿病ではないかと
担当医師から…疑われる者…となりました。ハイ、自己免疫疾患でーす。
でもまぁ、生活習慣とか咎められるようなパターンに陥りやすいので
面倒だから必要ない限り、自分から病名なんて言いませーん!
病名を何とかもうちょっと…。尿はイヤだよなぁ、美しさに欠ける響きだ。
それでも俺はまだまだ幸運な発症者だと思わなければなりません。
インスリンの流通が少し前までは入手困難だったのに不思議というか
然るべき医療機関等へ行けば、決して安価とはいえない価格ではありますが
不自由なく買い求められるようになったからです。命が繋げられます。
さて、ここで問題です。『インスリン』とは何だかご存知ですか?
インスリンは決して「治療薬」ではありません。
たったの一回、打てば完治するもんだったら…。
これは発症した人しか理解不能な気持ちでしょうから
ぐだぐだ怨嗟の言葉をつらつら並べ立ててちゃアレだし
現在の状況をそのまま受け入れるしかありません。
色々あきらめた上での…。生の存続。決意?
馬鹿馬鹿しい。心なんかあっちゃ生きてられない。
ある程度の恥や外聞とか棄てたよ。その必要があった。
ああ、失礼しました。それでは、正解を発表しまーす。
インスリンは『人体に必要不可欠なもの』です。ハイ、分かりましたか?
これで試験も乗り切れる。やっめられませーん!ってなもんなのでーす。
斎藤さんの場合はですねぇ、自己注射という形で「持効」と「超速攻」の
二種類のインスリンを持効は朝夕、超速攻は朝昼晩の食前に打つんですよ。
俺の場合、基礎である持効型溶解インスリンが通常のように効いてくれず
普通なら一日一回でいいのに朝夕二回の処方にしてもらってるんですよね。
合計で一日五回ほど自分の皮膚に注射針が刺し込まれるだけじゃなくって
血糖値を測定するための穿刺針も毎食前パッチンと時にはもっと使います。
毎日毎日毎日…死ぬまで…針と自分の指先から出る血を見なけりゃ駄目か?
いや、どこか別の世界じゃ完全快癒可能。些細な風邪みたいな病気かもね。
あー、疲れたなぁ。こんな文章、排泄物と同一化してる。美しくねーもん。
あれも失くすつもり、疾うに諦めたし…。でも、そんなのどーでもいいか。
体の震え。冷や汗。低血糖。血糖の変動が大きい場合らしき舌の麻痺感。
焦燥感。手の痺れ。上手く表現できねー状態。ケトアシドーシス。絶望。
そういった体験談なら幾らでも語れる男になりましたとさ。おっしまい!
…とも締め括れず、まだ本日も存命中。それだけでーす。そんな日常…
でも、煙草はやめよう。健康とか抜きで嫌になってきた。罪悪感は不要だ。
こうやって外の風に当たって考えなくちゃなんない用件ってのがあって
元級友、鯨井シンちゃんから「ヴァケーションのお誘い」のお返事…。
行くか行かないかの二択なんですけど、保留はなぁ…。今は少し…。
ああ、そうそう
シンちゃん、昨年の夏に目出度く浅井彰太君の妹さんとご結婚いたしました。
で、新婚旅行にこっちまで足を運んでくれたんですよー。うれしかったなぁ!
学校三組…あの腰縄の実妹さんと思えないほど突然変異的に麗しい女性…
盲目の新妻である美琴さんとも、ご一緒に三人横一列に並び、勇気だして
「せーのッ、たぁいそうぅーうっつくしいィーーーーーッ!!!」
周囲に見られちゃ馬鹿なんじゃねーの?って恥ずかしくって楽しい大絶叫で
二人の門出をお祝いしたので御座いますですのよ。どう喋りゃいいんだっけ?
えぇと、目出度し目出度し。良かったねー!ってな新婚物語の始まりでした。
男の美学が刺激されちゃいますよ。心の底から羨ましいっす。
俺は失くさなきゃいけない。諦めなきゃならないものだから。
蚊帳の外の者は、御両人が「幸せであるように」心で祈ってあげてましょ。
卒業から数年経っても、まめに連絡くれるのはキヨとシンちゃんくらいだ。
面倒になっちゃって二組の君主を隠退した感じになってるのが原因だけど。
まあ、他の連中にも人生があるんだし、こっちはこういう人生を歩んでる。
もう俺は「クラスのリーダー斎藤さん」でいる必要なんかねぇですもん。
これでも学校時代は、可成り必死になって頑張り屋さんを演じてました。
本当に何しても駄目で、どうにも付き合いづらかった学校の王子様もいたし
晃ちゃんを庇った報復とかいう名目で、三組の某五名の生徒に連れ出されて
殴られちゃった思い出なんかもありまーす。ゼンッゼンッ笑えねーけどォー。
でも、実際に殴ってる実行犯の三人が厭々やってるのが分かってましたから
耐えてましたよ。後ろでケラケラ笑ってやがった女面が首謀者だって真相は
名探偵じゃなくっても気づいちゃいますし、仕方ない仕方ない。過去の話だ。
ハイ! ちゃーんとッ!
斎藤さんが一人で、大変身して、五人まとめて、ヤッツケちゃいましたー!
斎藤さんは…村の学校では…たぶん五番目くらいの実力があったんですよ。
筆頭となる人物は、優れたコミュ能力の持ち主さんですから何より面倒な
トラブル招き寄せる事態は起こさない。穏やかな空気っぽい…神…ですね。
二番目さんも常々散々自分の強さを見せつけ、周囲に注意を喚起していた。
「オレサマ怒らしたら、ぶっ潰すーッ!」てな調子で周囲にアピールする。
だから、二番目さんは無用なトラブルに遭わず、和やかに過ごせたんです。
三番目さんは少々面倒な王子様。向こうを怪我させる訳にはいかないけど
こっちが普通に怪我させられる。手加減なく暴虐できる壊れた性質なんで
本当にヤっちゃいそうだし、二組は結構バイオレンス教室だったんでーす。
んーと、ある意味じゃ三番目さんが学校一でいいかもってな…アレでした。
てか、キヨも暴威といっていいくらい暴虐な傾向を持つボーイでしたっけ。
うわぁ、小父ちゃんだなー。そんなこと普通に言える年齢になってきてる。
ゆわぁって言ったら御終いだな。リューザッジ化は、脳外科手術が必要だ。
話を元に戻します。喧嘩の実力四番目になるとやや微妙になるんですよ。
ヘタすりゃ俺かもしれないけど…某暴虐的性質持ち君なのかも…ですね。
お互い一度も決着つけたことがないんですから、順位不明となる訳です。
そこんとこは正直どうでもいいんです。順番とか評価されるのイヤだし。
ただ、強さ四位以下は外道の標的にされる場合がありましたってぇだけ。
級長っていう役職の俺とキヨが目の仇にされやすくなっちゃったんです。
もしかしたら、嫉妬なのかしらぁ。外道の少年たち、カワイイっすよね!
冬場の除雪勤労少年四人組が揃えば、怖いもんナシだった訳なんですよ。
後は、ほら…。学校のプリンス二人は除外対象。一人はリトゥル遼様だし
実力三番目さん自身は気づいてないかもですが疾患持ちなのは知られてた。
幾度か馬鹿が突っ込んだ事案があっても、知ってる連中が止めてましたし
本当に強いことは強い。不思議なくらい本気で強かったから無双呼ばわり
されてたんですよ。強くて結構だけど…性格がなぁ…。本当にアレでした。
無駄なくらい拗れまくりの無言君には卒業式の翌日まで振り回されました。
一組には不思議なプリンス・リトゥル遼様。
二組には沈黙修行中の王子様がいたのです。
しかし、学校の三番目の王子様は、大変な…ご病気も抱えていらした…。
もし血を流したら命取りになりかねません。怪我させらんねーですもん。
そんな理由で基本的には外出禁止。住み込んで寮母さんの手伝いしてた
新山緋美佳が彼の監視役を務めてたんですよ。晴ちゃんは知ってたかな?
そんな晴ちゃんも、今にしてみると、本当に哀れで可愛らしい
夕食テロリスト君だった。侍・プリンス西谷無双ってアレは…。
あいつの我儘な夕食リクエストで、寄宿舎の生徒たちは寮母さんらの
真心と愛情いっぱいの美味しい夕食を味わえたんだ。感謝はしてますよ。
どっから経済的なものが動いてるのか知らなくても贅沢させてもらってた。
村の学校は事情やら背景持ちが大量にいた。成長するほど明確に見える。
その御陰様を持ちまして、強い緊張感、歪力、頗る溜まりまくりました。
並の神経じゃ潰されそうになる…見えない何かが纏わりついた…閉塞感で
息を吸う喉も、空気を溜めこむ肺も、本気で異常を感じるほどでしたもん。
しいちゃん、てっちゃんの二人が二度と学校に来れないと確定してからだ。
呼吸器がヤられた状態になって、相当キツかった時期もありましたっけ…。
キヨも、そんなのが掃除に執心…。強迫神経症みたいな形で表面に出てた。
過食にも繋がっていたんですよ。あれだけ揃っていいヤツばかりの一組も
平和なようでいて、アレレな笑うしかない精神的惨事が日常的にあったし。
今はもう、きれいさっぱり忘れられる昔の黴臭い出来事だ。ハイ、終了形。
長くなりましたが「二組の君主、斎藤さんをなめんな!」ってぇ昔話です。
俺は小さな貧乏旅館の一人息子ですから、親孝行のために耐えてきました。
何故かというと、俺があの学校で過ごすことで、実家の家族に勉強しただけ
生活の足しになる分の「お手当て」ってのが送られてたみたいでしたから…。
それと、寄宿舎生に毎月のお小遣いもね…。考えるほど不思議だらけだけど
人間生活する以上、必要なものだし貰えるなら貰っとけぇってなもんですよ!
小遣いに不自由しなかったし、僅かな貯金もできました。軽くリッチな程度。
卒業後もお祝いだか何だか知らないけど、たぶん全員頂戴してるのかもねー!
義務教育とかいうのもない世の中で、子ども時代の不思議な懲役生活でした。
あの頃の良かった記憶だけ、自分の心に留めておけばいいや。
いやーな恥かいた記憶だけ、どっか遠くへぶっ飛ばそーっと。
緩徐か、緩やかに、徐に、俺は一体どこを目指して進めばいいんだろう?
今月のHbA1C6.3見事に不良やらせて頂いておりまーす!って格好悪いな。
とはいえ、一型糖尿病患者としては「まずまず」と思わねばなりません。
一型は食べたりしなくても身体が勝手に血糖を上げちゃうから困ります。
合併症や病状の悪化が怖いんで眼科や歯科の定期検診も欠かせませんし
朝から晩までじゃなく、一生続けていく覚悟が必要なのが自己管理です。
もう少し穏やかな気持ちで…以前とは違う視点から村を眺めてみるってのも…。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
カチッ!
…………………………。
…………………………。
…………………………。
うわ、ヤダ。もう一本に火ィ点けちゃった。勿体無ーい。本当に最後だよ。
そういった訳で、ここに「真やさぐれ王子さん」が誕生していたのでした。
ああ、悪魔の鎖っていうのはですねー、「インスリン」のことになります。
あくまでも『斎藤和眞の比喩』ですから、妙な誤解等はしないでください。
病気の詳細を知りたいなら、本職の医師に尋ねるか、ご自身のご判断で…。
インスリンは超回復薬でもあり、死にさえ至らしめる魔法のアイテム。
その魔法薬を使う契約を交わした人間は、自ら外すのは可能でも
決して外せない鎖に繋がれたような状態なんですからね!
タロットカード十五の悪魔。あの絵柄。あいつが人間にかけた首の輪っか。
どう見たって緩くって、その気になりゃスポッと外せそうじゃないですか?
少なくとも俺が見せてもらったカードは、そういった印象が感じられたし
占い、おまじないめいたことを好む人が俺の割と近い場所にいてくれて…。
そんなこんなで、気づけば無駄知識の一つとして憶えちゃったって訳です。
囚われた人間の意思で、簡単に外せる。なのに…繋がれてなきゃならない…。
それが斎藤和眞の喩える『悪魔の鎖』です。インスリン様様。持効と超速攻。
どうか皆様方は発症しませんように。
この先、一人でも多く増えないこと。
斎藤和眞の「我が現状」に於いては
それだけが「祈願と希望」なのです。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
視界に映る離れ小島の景色が日常だってだけ
昔より遥かにマシなんだと思うべきだ。うん。
冬は雪深い山間の村は、遠い日の思い出です。
シンちゃん、誠に申し訳ない。まだ当分、休暇はいいや。ごめんよぅ。
銀のアルミ鍋で弾けらかして作ったポップコーン。ちょっと懐かしい。
だが、もうちょこっと失くし切れないものがある。島を離れたくない。
気分転換兼ねて、顔を見に行ってこよう。配送局へ葉書出しにも寄らないと。
昼寝したら寝違えたか。軽く首と肩が凝ってる。消炎剤を塗って誤魔化そう。
なんか頭の上に雲が増えてきてます。薄暗ーい。
もう夕暮れだっけ? まだ春の真っ只中なのに
一雨きそうな気配だな。そんな重さを増してる。
死刑執行の宣告と、ボタン押す刑務官と、刑に処される受刑者。
これから先…同時に…三つ巴…みてぇな立場ってのになるのか?
俺がヤらねぇと完全に終了させられないってぇのが、キツイな。
消したい。消えようか。海に入水? 読経される度胸ねーよっ!
…………………………。
…………………………。
…………………………。
はい、喫い殻の揉み消し終わりィ。携帯灰皿に後始末いたしました。
すいません。もう二度と煙草は喫いません。喫煙完全終了宣言です。
つーか、脳内で駄洒落を繰り返しすぎ。独り言なら閉鎖病棟行きだ。
駄洒落で誤魔化してる場合じゃねぇよ。斎藤和眞は己の正義を貫きまーす!
◆同い年のお父さん. 三上操
経済的な不安がなくなって、少し退屈を持て余したようになった状態。
そんな私を察したモル君がサプライズ的な形でプレゼントしてくれた
新しいスクーターに乗って、街をぶらつくのが愉しみになってました。
実際は蔑まれるような存在ではあっても上辺だけは親切にしてもらえる
それが学校があった村の隣り街で暮らしている現在の私だったのでした。
ある日の昼過ぎのこと、桜の花筏が浮かぶお堀のような場所を通り抜け
ただ気まぐれに、春のまだ薄い陽射しの中を漂うよう走らせていきます。
きっと、ここは、いつまでも、覚めない、夢の世界です。
そう強く思っていなければ、砕け散りそうな弱い心を抱えての生活でした。
気づいたら街外れ、学校時代に来たことのある村へ続く通りを進んでます。
私じゃない他の意思で選ばされたかのようにスクーターを操っていました。
この先には行きたくない。行かない方がいい。やめよう。もう引き返そう。
頭では確かにそう思っているのに、胸を過るのは…いつかの夏休みの一日
モル君と比内君と…心穏やかな気持ちで、温かく不思議な時間を共にした
壱琉と一緒に自転車を漕いで行った…あのカラオケ店での不思議な時間…。
青い靴のメロディーが流れ始めました。歌ってるのは八年生の比内君です。
こんな状況じゃなければ懐かしい心で覗いてみたいけど、今はちょっと…。
二人がいる訳ないと分かっているし、モル君は知ってて黙ってる筈ですし
あの頃の二人がいたとしたら…私は嘲笑われてしまうに違いありません…。
…?!…
向こうから自転車を漕いで、こちらの方へ近づいてくる人影が見えました。
その人影に気づくことで私の方は停車させることができたように思います。
自転車を進めてくる人は、白髪が入り混じった頭髪をキラキラさせてます。
白というより透明というのが正しいと思える感じ。輝いてるなぁと思って
そのまま黙って自然に眺めてしまいました。透明な煌きを放つ髪色でした。
近づいてくるほど鮮明になって、その全容が私の目に捉えられていきます。
その男性は、前頭部の八割近くが白というか銀色みたいになっていました。
「あー!」
向こうの自転車の人が私の方を見て…声を上げました…?
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
ああ、私が会いたいと思わない人たちの一人に出会ってしまいました!
私の手前まで自転車を近づけると、大きな音を立ててブレーキをかけました。
だいぶ白髪が増えましたが、村の学校一組生徒で寄宿舎生の望月漲君でした。
学校時代から変わらない彼の特徴だった銀縁眼鏡がそれを証明してくれます。
「驚いてるのかな? まあ、あまり深く考えなくていい」
いつも私に声をかけてくる場合のように『突然の気まぐれ』といった形で
もう最初から、この日この時に出会うよう仕組まれていた感じがしました。
「ちょっと私の胸に溜め込んでしまった想いを『話す』ということで
手放したくなってね、無性に旧友たちの誰かに会いたいと思ったから
ちょっとした気まぐれで、村を発つ直前、そう私は宣言してみたんだ」
私と目を合わせ、心から懐かしむ安らいだ笑顔を浮かべていました。
「おそらく偶然、近辺にいた操氏が『宣言』に引き寄せられただけ」
相変わらず不思議な意味を隠し持つような煙幕発言を並べたてます。
「現在の操氏のアレコレを窺うつもりはない。少しの時間でいい。
このオジサンの語りを…傾聴する…といった役割を務めてほしい。
それで充分だ。たぶん、そう時間はかからない筈。頼めるかな?」
この後に予定がある訳でもないので素直に応じることにしました。
当時もやっと営業していたように思っていたカラオケ店は放置されたまま
空き店舗へ姿を変えてしまっていました。店舗の出入口は開け放れていて
エントランスに入った二人は、出入口側の窓から道路が見える向きとなり
部屋が空くのを待つために用意されたソファに少し間を開けて着きました。
店舗の向かいの道路に設置されていた自販機のドリンクを、それぞれ手に
時々それを口にする、といった感じです。私は緑茶。望月君は無糖の珈琲。
少しずつ空の雲が増えてきたような、そんな曇天模様へ変化してる最中です。
ついさっきまで空気の澄みきった…春らしい薄い青空が広がっていたのに…。
「りゅーりょー、もちろん操氏も覚えてるよね?」
劉遼君といえば、全員ほぼ同い年である筈の学校生徒の中で一番幼いとしか
表現できない学校卒業時でも見た目は九歳くらいといった一組の生徒でした。
「私は学校の卒業後も彼の面倒を見るため彼の実家、詳細は話せないが
そこで生活していた。学校時代も夏冬の長期休暇はそこで過ごしていた。
おそらくキミと私は同じだと思う。大金と引き換えに身内に棄てられた。
二組にもいた西谷晴一と林原晃司、彼らも同じ。学校へ売り渡された子」
そういえば望月君や林原君たちがどういった境遇を辿ってきたか
私は一度たりとも向き合って考えてみた憶えがありませんでした。
望月君も私と同じ。身内と引き離され…学校へ収容された囚人…。
思い返してみると、脳裏に映る望月君の姿は…基本的に劉遼君のお世話を…。
身支度を整えてあげたり、遊び相手になってあげたりなどを事細かにしてる
そのような優し気な様子ばかりが留められていました。おかしな時も多かっ!
そういえば学習発表会の出し物、確か竜崎君たちのバンドだと記憶してますが
ちょっとアレレな役をやらされ、桜庭君と一緒に歌ってたのを思い出しました。
大人になってから再会した友人が女性化していたという困惑する内容の曲。
あの曲を思い返したら…ちょっと隣りの望月君の顔が見づらくなりそう…。
大人になって、女性化したレディーなサンディーさん。その本名は…。
彼が曲中の寸劇で、ミス・テイコさんの役をしていたのもアレレ。
一組は竜崎君がいるから、色々大変そうでした。飛島君とかも。
世話ヤキ役の桜庭君が一番痛かっ…大変だったことでしょう。
おしゃれ…。ピアノが…。…お父さん。恋は…。
後で心の谷地君と思い出し笑いして楽しもうっと。
もう既に谷地君が笑い転げている様子が窺えます。
望月君は優しいから恥ずかしい格好でも歌の相手を務めてくれた筈です。
現在も普通の格好ですし、女性化とか有り得ない…と…?
望月君、寄宿舎内では女性ボーカルの曲をよく歌っていました。
同室の劉遼君にCDの曲を覚えさせ、可愛らしく歌わせていました。
一組生徒の中では一番外見も落ち着いた雰囲気で慕われてた生徒ですし
望月君も三組の嵩ちゃんと等しく『同い年のお父さん』だったのでした。
そう、確か…私が初めて見た望月君の姿は…母親らしき女性に手を握られ
空を見上げるかのように顔を上げ、泣き声まで出し、涙を零していた
入学する子ども達の中でも『一番透明な感じがした生徒』でした。
優しい色合いの春空、その下で彼一人だけ慶びの場で泣いていました。
あの、お母様らしき方とは…?…私と同じ、もう二度と逢えなかった?
「あの生物もね…先日とうとう変声期完了…といったところ。
あれほど無邪気だった性質が、この私にも人間では反抗期と
呼べるような態度に変わってしまったんだ。寂しいものだね」
様々な疑問は湧いても現在は傾聴に徹するべきかと思ったので
おとなしく話の続きを待つことにしました。この人について
私は何も知らなすぎるほど、全く情報がありませんでした。
失礼ながら…寄宿舎での存在感が希薄な人でしたから…。
長期休暇中の林原君や西谷君との会話、遣り取りの方が
まだ色々と思い出せる感じです。私にとっての望月君は
透明に近いものだったかもしれません。無色透明な空気。
七年生の春頃、あの不思議なインビジブルとの遣り取りや
九年生の冬、劉遼君を連れて共同浴場まで行った思い出。
そんなに思い浮かんできません。申し訳なくなるほど。
「それで、この度は…私なりに相当な覚悟を持って…学校のあった村へ…」
そこで目を伏せた望月君は小さな缶珈琲を口にしました。少し間を空け
「私には、どうしても…顔が見たくて…どういった成長を遂げてるか
気になって仕方がなく…その少年を思うだけで…この胸いっぱいに
言葉という言葉が…あふれてならない…そんな元通学生がいた…」
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「あのお嬢さんと本当に結婚して、娘までいた。驚いた。けど、よかった」
望月君の眼の縁が徐々に赤らんできて
その瞳が潤んでいく様子が見て取れました。
望月君は元通学生の誰と逢ったのでしょうか?
気になるけど、訊くより聞くことを優先しました。
「これで、もう思い残すことは…何一つないような…そんな気がしてきた」
涙を浮かべた笑顔を向け、心から喜びの情を表し
喋った言葉は、もう絶対に忘れられないものです。
お節介でしょうが、彼に未開封のポケットティッシュを差し出しました。
「すまない。あー、洟が垂れてちゃ…見っとも無いよな…」
軽く照れ笑いをしながら望月君はポケットティッシュを開封すると
二枚ほど引き出して涙で濡れた目や鼻をティッシュで押さえました。
不快な音も立てず、望月君の品の良い所作が記憶に留められました。
「この秩序をはじめとする幾多の代物に欠けた巫山戯きった世の中も
それほど悪くなかったと思う。受け入れられる気がしてきたところだ」
前に向き直した彼は、空にしたらしい缶珈琲を足元の床に置きました。
「ごめん。喫うけど、構わない?」
望月君の羽織ったシャツの左胸ポケットには、煙草が入っていました。
私も以前少々喫煙歴があって気持ちは分かるつもりです。頷きました。
「イヤな顔しないでくれて助かる。意外と気が合うのかもな…」
慣れた手際で火を点ける一連の手順を済ませ、深く喫い込んだようです。
灰と吸殻は彼の左下に置いた空き缶に捨てるつもりなのかもしれません。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
意外なようでいて…当然なのかも…というような望月君の喫煙動作…。
もっと親しかったなら、一本だけ譲って貰いたい気もしながら眺めました。
卒業後この人は喫煙を愉しみとしなければならないような胸の痛む日常を
送っていたのでしょうか? 静かに喫い終えた一本を缶へと落としました。
火の消える小さい悲鳴が聞こえました。
周囲が望月君の匂いに包まれた感じ。
癖のあるメントールが混じった…。
「私のカラオケ、ちっとも上手くないことは、操氏も知ってるだろうが
ちょっと好きな曲でも歌いたいような気分だ。ここ、閉店してたんだな。
変化が非常に乏しい割には、時間だけは過ぎ去ってる。そう理解したよ。
引き籠り過ぎた。もっと外出して遊んだりしても許されたのだろうか?」
それから、呟くようにして…仏蘭西語らしき響きで歌いはじめました…。
耳に憶えがあります。十年生春の学習発表会で劉遼君が歌ったことのある
「すてきな王子様」というタイトルの曲。劉遼君は訳して歌っていました。
成人過ぎた男性には…ちょっと可愛らしすぎる…といった内容の歌詞の筈。
それでも私の胸に残ってる懐かしい一曲でした。
九年生の雪の日、一人きりで進む筈だった冒険。
それが偶然といった形の望月君からの依頼で劉遼君のお供になってしまって
一緒に村の共同浴場へ行き帰りした思い出。途中で寮母の高橋さんが来て…。
ああ、愛犬はちべえの散歩途中の彰太君と脩の姿も思い起こされました。
ビッタンビタビタ、はちべえを叩いて撫でる可愛らしい劉遼君の様子を
内心では困惑しながらも見守る…三組の生徒の三人…。彰太君の左手首。
曹灰長石の細いブレスを着けた左手で、劉遼君の右手を優しく押さえて
黙って撫でることを教えてくれていたっけ。吹き出しそうな自分の口を
左手の甲で必死に押さえ隠して…両目だけ大笑いして傍観していた脩…。
吹雪いて真冬日だった午後、短くても温かく残る同窓生としての思い出。
…?!…
彼の右手が親指と人差し指を伸ばしたようになって空中に何か描くように
動き出します。そして、それを押さえるよう右手首を左手で掴んでいます。
校内では周囲から「もっちー」と呼ばれる場合が多かった望月君でしたが
『気まぐれ反則ヤロー』などと、彼を称した生徒たちが思い出されました。
正面の窓から見える空が、気づいたら灰色に変わっていました。薄グレー。
猫間智翔、いつも彼が着てたジャージの色を思い出してしまいました。
彰太君が彼のことを「通年曇天男」とか陰口を言ってた記憶と共に…。
「私は人に尽くすことで自分自身を支えてきて、人に尽くすことで
心が潰れそうな辛い過去から心を逸らし、生きて来なければ
我が身を保てなかったのだよ。長い間ずーっとねぇ…」
ポップスを呟くのを止めた望月君の右手は、自分の意思とは違う
何か別なものに…無理やり動かされているようにも窺えました…。
「ごめん…。おそらく現在のキミが置かれている状況は
キミ自身が受け入れられるものではないような気がする。
いや、詮索しようとは考えていない。語らなくてもいい」
彼に見抜かれてしまうほど、私の表情か姿に滲み出るものがあると思えば
逃げ出したくなるような焦燥感を覚えますが、必死に堪えて座ってました。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
無言で窓の向こうの通りを眺めていた望月君が再び私に顔を向けました。
「本当に操氏が望んでいる生活…もし私で構わなければ…叶えようか?」
どう答えたらいいのか即座に思い浮かぶような言葉は、私にありません。
返事の代わりに、自分の胸でも覗き込むように深く首を折り曲げました。
「実は可成りの問題発言…となるかもしれないが煙草を一本喫って
歌を愉しんでいる合間、私の頭が面白い展開へと突入していたんだ。
操氏には、この謎が即答できるだろうか?…いや、答える必要ない」
再び窓の向こうに視線を向け、彼は淡々と暗誦するように喋り出しました。
「奥のカラオケルームにキミを連れ込んでいた。後はご想像にお任せする。
どう思う? これから本当になるかもしれない悪い予感も有り得るけど…」
ほんの少し口端を上げながらも、視線はずっと窓の向こうのまま動かさず
何一つ物音が感知されない静寂な空き店舗の正面にある窓を眺めています。
「キミ、耳とか弱い? 遠い昔から私は相手の耳を弄るのが悪い癖と
称せるほどで…。いい耳の形している。触りたい。許してもらえる?」
単なる気まぐれの言葉紡ぎ。そんな気がしましたから沈黙で応じました。
「あー、肝が据わってるねー。意外と上等…。ここに好みの女性がいた。
私の最高と最低、そのまま素直に受け入れてくれる人物が好きなんだよ」
表情に動きは感じ取れません。私も心と口を動かす気にはなれないまま。
「劉遼の成長祝いとしての金銭的報酬も、それなりに受け取ってる。
少なくとも当分はのんびり気ままに暮らしていける状態なんだよね。
だから…操氏さえ望むなら旅行でも欲しい物でも…何でも遠慮なく
楽しめるように支えてあげたって一向に構わない。本心から思った」
そのとき私は少しだけ顔を上げ、望月君の見ている方向を覗き見ました。
彼の右腕の先端部分が…ゆらゆらくるぅん…と動く。時々見たものです。
そして、今度は…右肘の辺りを左手が抑えているといった様子でした…。
望月君の右指先の動き、馬鹿にされてるように見えて、私は苦手でした。
学校では、彼に強く意見する人はいませんでしたが『くるくるぱー』の
手つきとしか私には説明しようがありません。時々軽く掌も広げますし。
「村で逢った彼と奥さん、まだ小さなお嬢ちゃんを見てたら、何だか私も
例えば、そうだな…。ミナちゃんでも、ナギちゃんでも、まぁ何でもいい。
いつも傍らで可愛く呼んでくれるような女性がいても悪くないと思ったよ」
そういえば…彼を下の名前で呼ぶ人…。村の学校には、いなかった…?
ああ、谷地君。谷地君が『ナギちゃん』そう呼んでいたくらいでした。
『ミナギ』可愛い女性的にさえ思える響きの名前。確かに素敵な名前。
一般的だと「美袋」でしょうか。望月君に似合うと思う、懐の美しさ。
「操氏が作ってくれた生姜入りの玉子粥、物凄く美味いと思って食べた。
アレで風邪も吹き飛んだ。土曜の昼食、帆立のグラタンは熱かったっけ。
腹を空かせて食堂へ下りたりゅーりょーを追い駆けたら偶然キミがいて
三人で食べた真夜中の野菜たっぷり味噌ラーメンのことも私は憶えてる。
胡麻油で焼いた長葱がたくさん載ってて、大蒜も多すぎなほど入ってた。
りゅーりょーの要望に応えて、長葱をメラメラに焼いてくれたのだろう。
後で少々息がアレだったが、忘れられねぇ。最高にトクベツ、究極だ!
今度は私のためだけに料理を作ってほしい。これは、可成り本気で望む。
私の好きな曲を並んで共に聴いてほしい。それこそ求める至高の関係!
このまま行こうよ。船にでも乗ろうか。もう絶対に離れられないくらい。
失敗した。アレの御目付役に結構必死で、貴重な時間を無駄にしたかも。
一度でいい。一度もなかったから、一生を一人の女性に捧げさせてくれ」
望月君は、反則氏というより、私には…困惑氏…です。
本当に何を言っているのか分からなくなってしまう人です。
失礼でしょうが、ダムの放水状態でずっと喋り続けています。
「息子だって…いた…。意味不明だろうが理解を求めていない。
傾聴に徹していてくれ。長話に付き合ってもらって申し訳ない。
すまないが空模様、そっちが今の私には重要事項となるのだよ」
彼の左薬指など目視しましたが、どの指にも指輪は見当たりません。
もう既に…離婚、破局…とでもいった経験をしていたのでしょうか?
「望月漲としての初めての恋心を操氏に捧げたい。一緒になろうよ」
えぇと、彼は…気まぐれ…反則な言動にも…程がある…そう思いました。
いい加減に胸の内に湧いた困惑が私の表情にも現れ出たかもしれません。
「この世界じゃ結婚届という書類を提出する必要ないのだから楽だね。
キミから私の手を取ったなら契約完了という形で、いいかもしれない。
指輪が欲しいなら幾らでも買おう。そんなに拘る必要ない気もするが」
どう口を挟んでいいものか判断しかねました。意図不明。何のつもり…?
「あー、容姿かな…。この白髪交じりの頭が気になるなら染めたっていい。
操氏の理想となる存在に近づけるよう多少なりとも努力してみて構わない。
犠牲。生贄。望月漲は全て捧げて尽くすことが趣味で生き甲斐の男なんだ。
但し、気まぐれ。反則…。他の誰より、心は空の天気のように移り変わる。
雨だけは嫌いだ。濡れるのは非常に苦手。まあ、風呂には入る。当然だが」
握手を求めるかのように左手を私の側に向けてきました。普通、握手は…?
「操氏、細かいことはいいから。早く私の手を取りなさい。キミのため。
決して後悔することはないと思うから。幸せに穏やかに暮らせると思う。
煙草、飲酒、宝飾品、キミの趣味趣向には一切干渉せず、良き夫になる。
それとも…?…そうだな。この私が自ら『宣言』してあげよーっかなぁ」
彼の視線は、さっきからずっと窓の外、通りの方を見つめているまま。
呪文でも唱えるかのように感情の籠らない言葉を発し続けていました。
ぽつぽつと雨が通りのアスファルトの色を濡れた色へ変えていきます。
断言して構わないと思います。彼の放った言葉の多くは『虚言』だと。
十年間ある一つの建物内で共に生活してきた自分の家族に近い存在です。
望月漲君の本来の気質等は十割とはいかなくても心得ているつもりです。
奥へ連れ込むとか、恋心を捧げたいとか、悪ふざけだとしか思えません。
「あ、来てくれた。操氏、私は…こんな展開を…少しばかり期待してた」
うれしそうで安堵さえ感じさせる小さな声を耳にしました。近づく足音。
どういうこと? 頭の向きを元通りにしようと思ったら望月君は続けて
「私の『宣言』に畏怖したか?…地の底を這いずるだけのチキン野郎が…。
腹が笑えて、震えて、しょうがなーい! 姑息の極みだ。いや、悪くない。
学校時代から全然お変わりなく、懐かしささえ覚える。クソヤロー健在!」
足音は聞こえなくなり、立ち止まったのが確認できました。…見れない…。
「でも、うれしい。サード権限、シックスを好きに利用できる契約、
忘れずに訪ねて来てくれた。それだけは心から礼を言わせてもらう。
シックス、ほんまもんのヤミビト。sick and wounded soldiers...」
隣りの人が何を言ってるのか理解できない。今すぐ逃げたい。ここから。
「唆し。卑怯で卑劣な行軍。冤罪。暴虐。敗走…。ヤらかし、シデかし。
数多くの罪状を犯した。愚劣な私も…いた…。その非を認め、悔いてる。
私は…罰を…受けなければならなかった。そんな最低な…最悪の屑だ…。
それを受け入れる。テメェに感謝だ。望月漲の初恋は終わり。至福の恋」
私の方を…横目で…たぶんもう…。
生涯、忘れられない表情の…望月君の瞳…。
…塞の決壊…
傍に寄って、拭き取ってあげたい。
入学の日に見た、彼のお母さんみたいに。
入学の日に見た、あの忘れられない光景。
望月君の激しい泣き顔。嘆く声…。
…涙…
ただ…私が感じ取れるのは…
かつて、犯した罪を激しく悔いていて
罰を受け入れたいと、心から願っていること。
「とうとう眼に映る形で姿を現した『ペリドットの蛇』の、ご登場でーす!
さあさあ、操氏も、そこのドクズに向かって拍手でもしてあげるといいよォ」
はらはら涙を零してるのに不思議と声は鼻の詰まった感じがしません。
奇妙なほど淡々として落ち着き払った声は表情と剥離しすぎています。
ピタリと動きを止めた彼の人差し指が空き店舗のエントランスを指しました。
「プロレス観戦してると思って…。全ては台本通り。予定調和」
望月君が自らの口以外の動きを止め、私へ向けて告げたのでした。
「操氏、これが望月漲の胸が張り詰めるほど、望んだ結末です」
私たちの他にも誰かの影が…嘘っ?
どうして彼が…?…今…ここに…?
「あ、最後に少し。余計なのを承知で言うよ。
操氏、自分のことイジメないで。イジける必要ない。
夜空に舞う雪。綺麗だ。より良くなるよう大切にしなさい」
立てた右手…。伸ばした…親指…人差し指…。
「キミとコンビ組んでた相棒に逢えると『宣言』する。乞うご期待…」
え、えぇ?…?…?
彰太…君…?
…???…
…?????…
突然のこと…混乱する頭…私の右脇にいた…望月君に向けたら…
彼の首に…彰太君の…持つ…縄が…かけら…れ……ぃゃ……
やや左下へ滑り落ちるように膝をつき、私は座席から落ちました。
怖くて、私の体が動きません。
今すぐ走って、逃げたいのに。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
あまり…恐ろしくて…全ての感覚…閉ざしてるより…
傷しかない…私の心…守る方法…ありません…でした…。
……何か大きなものが崩れ落ちたような物音が聞こえました……
「出来るだけ…遠くへ…村にでも…」
私は、座り込んだまま、彰太君の声と、遠ざかっていく靴の音を、聞きました。
あの喫茶室で目にした…人形のように澄んだ眼差しが…思い起こされ…怖ぃ…。
私がいる…右の方向には…
既に…息をしていない…
気配を感じない…ぃゃ…
街には…もう行けません…。
浅井家の砦と言っていい街。
村だって…彰太君の実家があるのに…
このカラオケ店跡の目の前にある一本道の通りは…村か街…
通りを左へ進むと街、右へ進むと村です。
私は…私は…左右どちらを…ぇ……。
◆ラファエル. 斎藤和眞
長時間一人きりで列車に乗り続けることには学校時代で慣れておりましたが
やっと、俺が…アッレェ、そうかっ! きれいさっぱり忘れちゃってました。
そういえば、先日二十八になっちゃってた。十月十六日の夕刻、我が目的地
北の外れにある駅に到着でーす! 空気が違ーう! 懐かしい匂いがします。
鯨井シンちゃんより、北国でのヴァケーションへ誘う手紙を頂戴してから
なんとまぁ、あれから三年以上も思いっきり待たせちゃいましたけどねぇ!
あ、もちろん事前に村の診療所のシンちゃん宛に手紙は出しときましたよ。
ばっちり「ОK!」もらってまーす。いくらなんでも突然はねぇですって。
しかし、十月十二日が誕生日だったのにィ。
親にさえ忘れ去られてたなんて、過酷な運命だ。
笑える…。笑えねーな。ケーキも食いたくねぇもん。
逆に色々と気ィ遣ってもらってたんだ。そう思い込もう。
親孝行、親孝行。我が生存こそ親孝行。先には死なないッ!
持病の…自己管理関連の問題にも…大量に積み上げられた不安有りで
旅の決断まで、少々どころじゃない時間を必要としたとは思いますが
実家の方も勧めてくれましたんで、秋休みをもらうことにしたんです。
要は俺が少々暇してて構わないような…。そんなところです。閑日月。
夏はインスリン所持者には、動きづらい時期(熱変性があるから)ですから
涼しくなる季節を選びました。大量に降り積もる雪も見たい気はあるけど
そうなると雪かきの手伝いが…役立たずなのがバレたら恥ずかしいんで…。
やる気はあっても作業中に低血糖を起こして迷惑かける訳にもいかないし
学校時代の冬を思い出すと腰痛まで感じてくるぅ。熱い生姜湯が懐かしい。
現在の時刻は、午後五時を過ぎたくらいになるな。
シンちゃんが車で迎えに来てくれる予定になってるけど
やっぱり食事とか色々と気を遣わせることばかりになりそう。
どれだけ向こうが「構わない」と言っても、こっちにも心はあるんだから
苦しくはなると思う。敢えて、そういったのも経験すべきだと思いました。
肩に背負ってたバッグを脇に置き、駅の前に並んだ中でも割かし状態良好、
傷んでないベンチを選び、そこに腰かけて車の到着を待ってるところです。
持病を発症してなきゃ、ここまで重苦しい負担みたいなのに苛まされなく
済んだんでしょうが、今更どんなに嘆いてみてもどうにもならない現実だ。
そういった部分での「心の修行」っていうのも兼ねての一人旅となります。
他人様のご厄介になった上で…「自己管理」を学習することが旅の目標…!
自分の心にそう言い聞かせ、駅前の景色を心に留めるでもなく眺めている。
服装は出立前ちょっと考えたけど、七分袖Tシャツに半袖シャツを羽織り
丁度ぴったりな天候でした。単に天気運が良かっただけかもしれませんが。
七分袖のTシャツから出ている自分の腕、自然と視界に入ってしまいます。
寝てる間に思いきり強く引っ掻いちゃって、今は隠れてるけど肘の辺りに
五センチ以上の三本の傷痕が赤く見えてて…だいぶ経つのにまだ消えない。
右手首には美女猫が甘えてきて、傷つける気もなしに前足を乗せただけで
付いた爪痕が転々と濃かったり薄かったり、色々な具合で残っております。
他にも複数、何が原因だったのか、全く思い出せないような傷痕ばっかり
身体中に残ってます。仕方ない。そうなってしまう身体になったんでーす。
痒いと思って指に触れた耳の裏や手足にも瘡蓋が転々としてる。傷だらけ。
顔も…右頬に自分でヤったらしいのがあります。ようやく薄くなってきた。
飲み過ぎ。そのとき引っ掻いたんだ。力の限り…。あくまでも憶測だけど。
女なら化粧で誤魔化せる程度か。愚痴っても仕方ない。現在の自分の顔だ。
意識が遠のくと危ない。自傷癖? 頭の中にも何らかの症状が出始めてる?
少しずつ表に出てきてるんだ。一度、低血糖で意識を失って目が覚めたとき
病院のベッドの上だった時も憶えてる筈ねえけど肺炎を起こしてたって。
明け方小用に行くのを億劫がってたら、その後で血尿が出ちゃった。
あれでもうトマ…心的外傷案件を発生させたくない。以下略…。
膀胱炎も生まれて初めての経験でした。そうだ、発症した当初は抜け毛が
ヤヴァかった。気づいたら洗面所の床にパサパサいっぱい落ちてんだもん。
陽ちゃんのトレンディー枠入りだったし、一応そういった覚悟あったけど
本当このまま禿げちゃうのかと焦った。ある晩、入浴中に頭を洗ってたら
指通りが…アレ?アレレ?…乾かして鏡で確認したら左側頭部と頭頂部が
ツル~っと禿げてました。硬貨一枚程度の大きさの円形脱毛症が二つです。
他人事みたいに思わず笑っちゃったなぁ。ちゃんと再び生えてきてくれて
心の底からサンキュッ!感謝しまくりです。愉快で貴重な体験できました。
散髪を面倒がって肩より長く伸びていた頭髪が、禿げ隠しに功を奏しました。
後ろで束ねると上手い具合に円形脱毛箇所が隠せたんですよ。神の采配だな。
当時のまとめ髪について、祖母と両親に客商売向きじゃないと叱責されても
束ねた髪を解いて肝心要の一目瞭然となる二か所を見せたら、即座に沈静化。
三人揃って痛々しい傷口を見せられたような表情して黙り込んじゃいました。
ヘタすりゃ水虫で足切断と何かで見ましたから、感染症が滅茶苦茶怖えぇ!
仕事や外出時以外、靴下は脱ぐ。入浴後よく拭いて乾かします。徹底除菌。
喉は元から少し弱いと感じていましたけど、もうマスク常用でもした方が
いいのかもしれねぇなと思うくらい免疫とか抵抗力ってのが弱まってると
身に沁みて分かってきました。困ってしまう『大変身』を遂げたのでーす。
実はXよりBLACKの方が好きで「俺は一体誰なんだー!」至高の叫び。
でも、Xは主題歌が一番好き。聴くとテンションが上昇する。士気高揚曲。
超絶素敵な名曲を頭ん中に流してるのに上がってこねぇや、意気込みが…。
合併症…イヤだなぁ…。俺にも…いつか来んのかよ…。絶対イヤだー!
透析も失明も…。覚悟してんのに、死にたくなーい。面倒くさい。何もかも。
死ぬこと自体は結構だ。誰しも訪れる結末、受け入れる。片付けが面倒。
膵臓 ランゲルハンス島 β細胞、調べてないから皆目見当つかない。
まだ多少は残ってるのか? もう完全に消失完了してるのか?
自分が望んで生まれたんじゃなくても死ぬのって面倒だよ。
仏壇、遺影、気味悪い。位牌と遺灰も。墓と花も不要。
全部が死者には無縁だよ。死とは消えて失われる命。
きっと切り刻まれる。名前を知られてる分だけ…。
そんな気がする。歴史上人物こそ受難者一同だ。
教科書の御仁、やんごとなき雲上人の皆様方。
俺は凡庸な斎藤和眞であることに安堵。
精々数年、数人の心に棲むだけだし。
好きなだけ嫌え、罵れ。ご自由に。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
向こうからシルバーのライトバンが近づいてきた。あの車がそうなのかな?
小さな女の子が後部座席の窓から顔を覗かせ、こっち見てます。可愛らしい。
てか、危ねぇ。きちんと子ども用座席に乗せろよ! どんな寂れた世界でも
危険行為は駄目ですってば! 大らかで済む問題じゃないと思う、この件は。
反射するフロントガラス越しでもシンちゃんの笑ってる表情が分かります。
学校時代から全く変わってませんし、きっと変わることないんでしょうね。
大きく見開いてて輝いてるような瞳と元気な声の持ち主が鯨井シンちゃん!
右前歯の欠けた箇所は街の歯科で差し歯を入れ、治療済み。…停車した…。
立ち上がる。あ、やっぱり何だか緊張みたいな気持ちが生じる。負けんな。
これから年月を経た「斎藤さん」を、しっかりと演じられるのか、不安だ。
学校じゃ斎藤さんは一人だったけどさ、所謂よくある苗字の一つなんだし
実家へ帰郷後は周囲からはカズマ呼ばわりされる場合が多くなってたっけ。
二組の君主、斎藤さん。名軍師は、最早…。
元から二組じゃ孤立無援と思い込んでいました。
それでもシンちゃんは友達。そう信じ込んで幾年月。
「こんちはー!って、アッレェ? この時間帯は『こんばんは』が正解?」
心にまで響き渡る声。卒業から十年以上も経つって信じられなくなります。
「それは兎も角、まずはお久し振りでしょ! あれから三年経ってんだし」
ちゃんと自然に笑えてるか分からないけど、気持ちは笑顔でいるのは確か。
「本当また今度は、こっちで顔を合せられて、何とも言葉が出なくなるよ。
三年振りの再会になって申し訳ない。お嬢ちゃんとは、はじめましてだね」
笑顔笑顔、学校時代も必死に無理してまで作ってた未だに自信のない笑顔。
「あー、そういや、そうだったよぅ。おひさしぶりだよ。本当そうだァ!」
言いながら、後部座席を開けてやって、お嬢ちゃんが抱き上げられました。
「同封されてた赤ちゃんの写真は見せてもらってたけど、それよりずっと
大きくなってますね。可愛らしくて、帰りにはお持ち帰りしたくなるかも」
そんな趣味は皆無、逆にひどいレヴェルで興味なさすぎ。
斎藤さんなりの礼儀として…。社交辞令の発言を向けた。
生まれてきちゃった以上、避けられない関係なのが親子。
このお嬢ちゃんは、シンちゃんの何になるんでしょうね?
親孝行。シンちゃんと奥さんの心の支えとして頑張って!
お嬢ちゃんを斎藤さんの真向かいに寄越して頭を下げさせる、シンちゃん。
「本当この度はありがとう。しばらくご厄介になります。どうぞよろしく」
こちらも二人に深く頭を下げて…お土産…は、まだ渡すのは早すぎるかな?
我ながら社交能力の低さを思い知ってしまう瞬間です。ナサケネェナァ…。
「堅苦しいの抜き! しばらく一緒に楽しく過ごそうよ。サイトーさん!」
さっさと乗車するようシンちゃんに促され、助手席へ乗せてもらうことに。
…発車…
年上なのにカワイイって表現したくなるんだよなぁ、シンちゃんは…。
お互い小父ちゃんなのに。しかも、向こうは立派な妻子持ちさんです。
それでいて、若々しい活力的な何かを周囲に感じさせる御仁なのです。
二組が助けられてきた…本物の重要人物…だったんだって思いますよ。
アレとか、あいつ、あの人、彼もなぁ、鋏狐も少々、この人だって…。
皆それぞれ苦手な部分はありましたけど、この人は可愛い兄ちゃんだ。
相手側も同じことだよな。誰も完璧にはなれない。至らない箇所有り。
どう絡むべきか懸命に考えて築いた、少人数教室内に於ける人間関係。
十年間かけて築き上げた掛替えのない『仲間』であると考えられます。
村の学校の建物や寄宿舎とか…今頃どうなってんだろう?…早く見てぇ。
なんせワレワレの卒業後は放置状態という話だから、廃墟と化してるかも?
新規入学ってのもなく、本当に歪んで拗けた世界の不思議な学校だった。
シンちゃんの車に乗って運んでもらえば、いずれ目に入るんだもんな。
今のところ、それを何よりの楽しみにしないと…。そう思い込む。
流れていく左車窓の景色に両目が張りついてる。
この道を昔は自転車で行き来したりしたっけ…。
左側は帰り道。賑やかだった気持ちを捨てる道。
一人のときも、二人も、三人以上にもなったよな。
カラオケ楽しかったな。俺もテニスやりゃよかった。
メンツがあぶれるの分かってたから、そこで試合終了。
思いきれない臆病者だ。人見知りっていうか当然だよな。
斎藤和眞は誰より遠い離島から入学した。喩えようない孤立感。
言葉が別世界なんだもん…。聞き取れなかったんです。
てっちゃんたちが北国訛りで喋ってる意味が分からなくて
ヨソ者感にヤられて涙出たこともあった。恥ずかしいけどさ。
山の紅い色。やっべぇ。また昔みたいに喉と胸が詰まりそうだ。
でも、勇気出したな。我ながら当時の俺を褒めてやりたい。
級長になりたいと立ち上がった。一番の除け者になるのが
怖くて…それが真相でも…必要な人間になってみせようと
その決意表明したつもりだったんだ。適任者は他にいたよ。
それでも中央の大都会から勉強しに来た谷地アッちゃんも
俺とタッグ組んでくれて、副級長になってくれたんだった。
チビッこくても堂堂としてて、可愛らしい見た目に反して
小狡いってか周りを笑いの方向へ持っていく才能があった。
最期…十年生の夏休み前には…何かと笑っていた様子しか
思い出せないや。あまりに聡明だからか、頭の中が即座に
お笑い方面へ結びつけちゃう構造となっていたんだろうな。
ラジオでニュース聞いてる時間でさえ漫才の演芸DVDを
観ているかの如く、病的な程に笑っていた。渇望していた。
笑うという行為でしか自身の苦痛を克服できなかったのか?
俺から見て、二組副級長の谷地敦彦は怜悧で格好良かった。
存在感、二組じゃ一番大きかった!身長は別としての話で。
てっちゃん、しいちゃん、二人の顔を想うことも…拒絶感…。
純粋無垢な子は早く天へ還る。俺は図太く長生きできるかも。
ダメだ。思い出したくない方のアレばっかり、浮かんでくるぅ。
自己否定。自己管理よりも酷い。現在進行形での駄目無理不良。
しかし、間違いなく北の外れの村で生きていた記憶がある。失ってない。
道路脇で自転車を漕ぐ斎藤さんを見つけた。現在じゃ目に映らなくても
小父ちゃんになった現在の自分が『心で映せる存在』に姿を変えていた。
「晩ごはん、何かご要望みたいなのある? 実はもう適当に用意してる!
ポップコーンも久々作っちゃった。塩と黒胡椒かけたのオヤツに食べよっ」
顔は前方へ向けたままで運転席から俺に声をかけてくるシンちゃん…。
ポップコーン、俺は好きじゃありません。アンタが特盛で食うだけでしょ!
この人、あれだけ食って肥満してねぇのが不思議だ。俺より痩身だもんな。
後部座席に横たわってるお嬢ちゃんは寝息を立ててますね。疲れたのかな?
子ども…。失礼だが、この人でも…。んーと…思考停止義務事案発生中…。
「いや、こっちが面倒かけるんだ。心配無用。何でも感謝して戴くつもり。
当分シンちゃんには負担かけるんだから、心くらい軽く、ふわっとしてて」
絶対に食べちゃいけないという物はない。食べる順番とか糖質の摂取量は
それなりに気をつけてはいても、胸張れるレヴェルでもないのが現状です。
何年経っても難しい。全然下がらないときもある。下がり過ぎるときも…。
同病でも程度の差が結構あるでしょうから、斎藤さんは何も申せませーん。
現在の主食は、ざく切りキャベツに酢醤油かけて胡麻油少々垂らしたもの。
他にも食べますけど、基本的に食物繊維や野菜中心を心掛けてる。茸好き!
ああ、マリオみたいにワンナップできりゃジサツも試せる? 笑えねぇよ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
それより何より、今ちょっと斎藤さんの心が景色で色々と刺激されすぎて
脳内処理が追っつかねぇ。我が身も心も様々と景色と共に変動しまくり中。
黙れとか不敬なこと言う訳ないけど会話する余裕がない。揺れて動いてる。
この凸凹した道、変わらなすぎ…。時間が止まっている錯覚さえしてくる。
あー、でも、空店舗や空き家が増えてる。歳月は確実に過ぎているようだ。
この路線、廃止した? 踏切の警報器等が撤去されてる。線路はそのまま。
何だろ?…この罪悪感に似た…これが寂しさって、落ち着かない気持ちか?
駄目無理。シンちゃんには日常風景でも、こっちは違うよ。良いも悪いも
情け容赦なく胸いっぱいに湧き起ってくるばかり。抑え込むなんて難しい。
そうだ。到着まで目を閉じて、寝たふりでもした方がいいのかもしれない。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
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…………………………。
…診療所…
卒業式の翌日、こちらに長く勤めていらしたマエダ先生が失踪なさった
自分にとっては長く感じた、あの一日の出来事は忘れられないでしょう。
アレに向かって脳内で復讐。百花繚乱。シンちゃんが零した涙…。偏頭痛。
桜庭潤、猫間も加わった奇妙なカルテットでの宵の小宴。フルーツロール。
紅茶の香り。窓を叩く雨粒。沈黙を紛らすラジオ。背に受けた朝の陽射し。
鍵尻尾のキジトラ長毛にゃんこ。帰郷後すぐ似た毛色の猫を探しまわって
飼い始めたんです。現在は実家で留守番中、暢気に寛いでる筈。俺の美女。
あれから既に十年以上の年月が過ぎてもマエダ先生の行方は知れないまま。
医師不在の診療所を守るシンちゃんの医学的知識は…学校での成績から…?
ごめん。失礼なのは承知の上でも精々ここは村の保健室といった場所です。
薬剤等は幾らか揃えてあるようだけど、基本的には村人の愚痴など聞いて
気持ちを楽にしてあげるのがシンちゃんの仕事だと数日いて理解しました。
有意義な職務です。人は誰かに溜め込んだ思いを聞いてほしいものだから。
重篤な症状の方は正式な医師が勤めている街の病院へ搬送するらしいです。
何より懐かしい。一人暮らしする夢を見た診療所の個室へ帰ってきたんだ!
壁、天井、床、洗面所。あらゆる備品に慈しみの情が湧き上がってきます。
この部屋で再び過ごすなんて考えもしませんでした。縁ってヤツなのかな?
生姜入り玉子粥が運ばれてくる妄想。実際に食べたのはレトルトの梅がゆ。
真夜中に猫間の恐怖体験を聞かされたっけ。たいしたことない内容だった。
可哀想だから俺が寛いでたベッドを猫間に使わせることにしたら、大爆睡。
窓の下の二人掛けソファも健在、シンちゃんと桜庭潤が並んで寝てたっけ。
開いたカーテン、下の方に散らばってる茶色いシミを見つけた。何の汚れ?
歳月が経過した証拠。傷んで当然。現在の俺も歳月を経た傷みを抱えてる。
学校生活の最後の一夜、巫山戯た妄想と感傷に耽ってた
流れるラジオの音楽と雨音の中で過ごした常夜灯の下…。
様々なことを思った。生きている以上、思い続けると思い知らされました。
木偶人形は壊れました。辛うじて生き長らえ
本日も必死に人間の振りを頑張って…いる…。
…………………………。
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…………………………。
…………………………。
今宵は悠ちゃんたち通学生数名と再会した。少しばかり付き合いの形で
飲酒することに…。焼酎の薄い水割り。ほぼ水。酔うほどの量じゃない。
鋏狐が碧依ちゃんと結婚して、街で暮らしているって、幸福そうだった。
清らかな微笑み、親切心と気配りの行き届いた人だもん。望まなくても
幸福が陽ちゃまを訪ねてくるんだろう。ツキに恵まれている。幸運の月。
普通なら捻くれても容認されそうな家庭環境だった筈なのに強靭な神経。
悠ちゃん…。向こう側から望んだ見合いをしても、全て断ってるらしい。
理想が高いのか何なのか。以前より痩せてて、元から容貌は酷くないし
家柄も悪くない長男さんだってのに不思議ィ。まあ、所詮他人事でーす。
もう一つ、悠ちゃんは最初から何事もなかったかのように接してたけど
卒業後、帰郷する俺に贈った謎に満ちた数頁の記述。何とも不可解な文。
嘆きの吟遊詩人が告白した難解すぎる謎。禁忌。壊れる。隠したノート。
美しくはない解決法。一時凌ぎの解決法。要は向き合うことから逃げた。
問い質す絶好の機会だったけど、無言が無難。空気と化して過ごしてた。
元二組級長らしく取り仕切る気なんてねーよ。斎藤さんと呼ばれる空気。
周囲に馴染むのが難しい異質な空気。実家へ帰っても変わることなく空気。
構成要素を分析してみれば、有害な猛毒を含んでる事実が公表可能な空気。
…空気…
ぶっ壊れた動く木偶人形の心。謎を解く鍵を持つのは…あの人らしいが…。
「今後、何らかの問題で困った際は、あの人に連絡を取ることを勧めたい」
結びにそんな趣旨の一文が綴られた松浦悠一郎から俺へ向けたメッセージ。
あの人は少々煩雑な私的事情があるらしくて、今宵の酒宴を欠席してた。
車を使えば二時間近く、再会したいなら可能な距離に自宅のある人です。
ごく普通に会いたいと思いますけど、会って話してみたいとも思わない。
悪意や敵意みたいな感情は一切ない。無関心。単なる元級友の一人です。
正式な同窓会じゃないから無理だけど、晃ちゃんやアレにも会いたかった。
現在のアレは中央暮らし。新山緋美佳と一緒に暮らしているんだそうです。
きっと緋美佳が強く押し切って勝利を収めた。アレは年貢を納めたって形。
晴ちゃん、元甘やかし寮母殿の高橋さんとは手紙の遣り取りしている様子。
そのことを高橋さんの実子である陽ちゃんが教えてくれたって寸法でーす。
晃ちゃんだけ消息不明。詐欺師…じゃねぇ…探偵の仕事して稼いでるのか?
真っ直ぐ歩けてるのか? 頭から盥が落ちて来たり、躓いたりしてそうで
学校時代の晃ちゃんを思い出すだけで笑えてしまう。歩く爆笑玉手箱だ。
率直に申し上げますと、彼の表現は難しいんです。色々とアレレすぎ。
文章にできない部分で盛大にヤらかしてらっしゃる御仁が林原晃司。
当の本人は至って真面目。笑わせるつもりなんてないってのが…。
元一組ではオヤギとヒナちゃんが顔を見せてくれたんだ。うれしかった。
ハシムは逢いたいと思うヤツの一人だけど、現在は遠い西の都会暮らし。
暁の魔獣やモル君の話題も耳にしたが、どうでもいいと思ってしまった。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
インスリンの追加が必要かもしれないし、寝る前に確認しとかないと。
その前に、病室備付の小型冷蔵庫から炭酸水を取り出して飲みました。
数年前、新婚旅行中だったシンちゃんに薦めてみたら気に入ったみたい。
こっちとしても非常に助かるところ。このとおり何本か常備されてるし
シンちゃんはアルコールが口に合わないから主に酒の席で飲むんだって。
俺は口腔内をさっぱりさせるというのが目的で飲む感じになってますね。
血糖値も上がらず満腹感らしきものも得られるので必需品になりました。
発症後から酒を飲む場合は、醸造酒は避けて蒸留酒って決めてまーす。
アルコールは…下げる効果もあるけど…不良患者には諸刃の剣も同然。
舞茸の天麩羅とか食べたから油脂は兎も角、衣と天つゆの糖質が問題。
確認、確認。面倒くせぇけど、やらなきゃ分かりませーん!って話だ。
バッグからポーチを取り出し、ファスナーを開いて一連の作業の開始。
何年も毎日欠かさず続けてる行為だってのに、どうしても嫌悪の情が湧く。
怖いだの痛いとか特に感じません。その辺はとっくの昔に麻痺してまーす!
それなのに両手指を酒精綿で消毒して、毎回穿孔針を刺す指を決める瞬間
左手の三本の指がそれぞれ譲り合いしてて、他人事みたいに笑えてくるぅ。
流れ作業してるようでも、心は動いてるんだ。今は薬指にパチッとやった。
俺の場合、目測で直径2mmほど出す。採血に失敗するとセンサーが勿体無い。
186.と計器に表示された。という訳で超速攻2単位追加で打つことにします。
就寝中もっと上がる懼れ有り。低血糖も有り得る。わっかんねー。泣きてぇ。
格闘ゲームみたく体力とか、諸々のステータスが頭の上に表示されてりゃ
色々と楽になりそうだよな。感情とかもエフェクト表示されてくれ。
あー待て。それじゃ俺が性格悪いのがバレバレになってしまう!
悪くていい。色々と過去から何から悪かったのが斎藤和眞だ。
血糖値も日内変動、上がったり、下がったり、激しいです。
軽く死にそうになるし、上がり過ぎて「HI」にもなる。
死神、いつも側にいる気配。もう既に我が心の友かも。
しかし、今更、我が本性を曝け出したって痛くも痒くもなかったりします。
級長を務めてた三人は揃ってクラス内で浮き上がった三銃士だったと思う。
無理にでもクラスに居場所を作るため…しがみ付いてた立場でしたから…。
パワーパフガールズにひっ絡めて喩えられても元々遠い。遼遠な関係です。
そういえばキンポウゲ…。則ちバターカップが学校の前に群生してたっけ。
緑色のスカーフ結んでた俺は、タフどころか脆弱な部分を眼鏡で隠してた。
その大変身アイテムもブロッサム役に破壊された形で…縁切りしたけど…。
付き合いって難しい。付き合い上手になれそうにない。
ぶっちゃけてしまうと、俺には楽しい場ではなかった。
やっぱり、俺には二組に友と呼べる人間がいないのを
卒業後十年以上経って、再確認したってだけなのかも。
シンちゃんも自分の家族を作り出したんだ。もう俺は
特に必要のない存在になってしまった。それは兎も角
松浦悠一郎宅の広間で…俺は全く以て美しくない噂を耳にしてしまった…。
まだ他の皆さんは酒席でーす! 俺はひと足お先に逃げてきちゃいました。
敗走将軍って心境。戦じゃなくても心は負けてる。色々なモノに負けてる。
二組君主の斎藤さんは、卒業後どこかに去って、もう取り戻すのが難しい。
そんな気にすんな。どこの誰も俺のこと気にしちゃいませんって。
気を取り直して、次は注射器入りのポーチを開けるとしましょう。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
未だ処分できず入れたままの大天使のメダイとカード二枚が挟まってる。
ラファエル「神は癒される」「神の癒し」「天の内科医」「旅の同行者」
医師をはじめとする医療関係従事者の守護天使らしいですね。Rapha...
俺自身は占い、まじない、御神籤とか苦手でーす。他力本願なんて拒否だ。
誰かが暗い足元を照らしてくれても、自らの意思で足を踏み出さない限り
一歩たりとも前へ進めませーん。無理に背中を押されても倒れるだけです。
何もかもが自分の「思い」の中から生じて形作られている。そう思ってる。
幸福も、不幸も、全て自分の心が今どっちを向いてるか次第じゃないのか?
でも、あのとき祈るような気持ちで渡されたカードの「思い」まで
捨てる気には…。酔ってるな…。普段なら、もう気に留めない絵札。
既に終了した出来事です。あれから二年くらい経ってるじゃないか。
それなのに、斎藤さんはポーチの外皮消毒用酒精綿を挟むポケットと
同じ場所に入れている二枚のカードを手に取って…眺めてしまった…。
他にも…これに関しては…無視…。傷つけ、瑕も付いた無価値な品物。
斎藤和眞の故郷、そっちの名産品。ヒントはこれだけにしときまーす。
眩しく光輝くような黄緑色のローブを纏った天使のカード。
緋色のローブを纏ったのも同じ天使。旅人を導いてくれる。
考えてみると、俺は今ちょうど「旅人」と呼べる存在です。
…愚昧…
天使に祈ったところで状況が変化するかよ。
発症した病の完治なんて奇跡が起きるかよ。
それでは超速攻さん、少し力を貸してくださーい。
気分だけでもラピッドストリームに変更すべきだ。
オレンジ色。みかん、発症後は全く食べてません。
それでも天使などよりずっと俺に必要な橙色です。
今晩、俺が知らなくていいような情報が耳に入っちゃったのが原因かも。
勝負さえしてないのに、完全敗北に似た感覚を味わってる最中で困惑中。
ああ、最低だ。さっさと寝て、きっぱり全て忘れろ。心の向きを変えろ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
待て。寝る前に歯磨きして、洗顔しないと。
自己管理を疎かにしちゃ本当におしまいだ。
この個室、洗面所が室内にあって楽だよな。
洗面所の棚に置いた歯ブラシを手に取り、歯ブラシの上に歯磨きを載せ…。
…!!…
あー、そうだ。キヨ!
キヨに連絡とって逢おう。
少しは気力が回復できるかも。
まずは手紙だ。手紙、書かねーと。
いや、見られてもいい。葉書で結構!
キヨだけが唯一の学校の友だった。少なくとも俺の立場からしてみりゃ
言葉から何から教えてもらった同い年の先生。日常を共にしてきた家族。
顔自体は、しばらく見てない。見れない事情も向こうにはあった。
こっちが行って何かできる訳もないし、薄情なのかもしれないが
俺のために些細な時間だって取らせたくない。そう思っただけ…。
もう竜崎家の側にいる義理だってない筈だし、戻ってきてるよな。
キヨの実家は管財会社を経営してるんだから、そっちを継ぐ筈だ。
学校時代のキヨはミカエルのメダイを自分の首や何かしらに着けてたんだ。
諸悪を成敗、排除する立場に憧れて已まない男。その分、緩さが足りずに
寄宿舎の鬼軍曹、特掃ヤロー呼ばわりされ、運動靴には紙屑を詰められ…。
終いには俺がキヨを虐めてた三組の外道らを大変身で成敗してやったっけ。
キヨの気に入らない趣味、拒食に過食。お互いウンザリする思い出もある。
喧嘩もしたよな。お互い殺意めいた感情さえ共有した程度の友情を築いた。
学校時代、秋の清掃奉仕した一日、俺の眼鏡を無惨に踏み潰された顛末も
振り返ってみれば、笑えて腹が痛くなる思い出へ大きく変化を遂げている。
御陰様で眼鏡の使用も卒業した。己を偽り、取り繕うことから晴れて卒業。
特掃野郎。懐かしすぎる俺のロボット刑事。無性に顔が見たくなってきた。
村から車で一時間離れた温泉町に親友の実家がある。明日は配送局へ行く!
◆フザケンナ. 劉遼
成長速度を操作されてたんだ、うちのクソジジイに。
学校にいたバカ連中が扱い易いよう玩具にされてた。
たぶん、そうだと思ってる。でなきゃ考えられねえ。
ホント腹立つ。俺を寝小便タレ小僧にしやがって…。
あいつも俺を都合よく利用してたんだよ。ヘビ除け。
ションベン臭けりゃ部屋に立ち入りたくねえもんな。
ずっと一緒に珊瑚の屋敷で暮らしてきたのに、突然
逃げられた。もう関わり合いになりたくねぇってさ。
俺、あいつの得物なのに手放すって…。フザケンナ!
あいつ、特殊な施設の中。俺が立ち入れない領域だ。
場所は分かっていても顔を見れねぇ。声を聞けねぇ。
場所は知ってる。あいつの…。真っ白い建物の中に
引き籠ってやがる。表に出てくれりゃ話せるのに…。
いいよ、好きにしな。
あ、でかい戦でも起こそうか?
そうすりゃ誰かが逢いに来てくれる筈。
◆Rescue Remedy. 浅井彰太
鯨井紅音、二歳の女児
現在二十七歳である俺の心をトキめかす、究極の存在と呼べる姪っコ。
秋の紅葉の時期に生まれたから『紅』の字を入れたんだそうだ。
本当にうれしい。カワイイ。あの壱琉でさえ可愛がるくらいだもん。
紅音を初めて見たとき「何この奇跡?」って言ったよ。忘れらんねーな。
いやまぁ、深くアレコレ考えるべき事柄でない話なのは確かだ。俺は伯父。
本日は、その紅音を連れて俺が一人で住んでる部屋へマコが来てくれる。
表は生憎の雨降りでも心は晴天と呼んでいい。にこにこ日光が照ってる。
豆から生まれてきたに違いねぇってレベルの豆好き野郎のために用意した
「昆布入りの大豆」最近のあいつがハマってるのは、これと炭酸水だから
迎える側としちゃ可成り楽できていいよ。手抜き万歳!って感じだもんな。
こっちにしても豆に関しちゃ好みは変わってるかもしれねーって思ってる。
納豆に黒胡椒入りの味塩をかけて食べるのが好きだから。醤油やタレ不要。
お供のご飯も普段はいらねぇんだ。だから変わったヤツだと思われそうで。
納豆に黒胡椒は合うと思うんだよな。納豆炒飯とかも作る。葱多めが好み。
長葱、玉葱、どっちも好きになった。子どもの頃は邪魔な食材だったのに。
ああ、特盛ポップコーンなら完成済み。アルミ鍋で弾けらかすのが面白い。
塩分は控えめのつもりだけど、黒胡椒は挽きたてのを盛大にぶっかけたー。
もう本物のバケツに入れて提供してやりたくなる。貪り食うよ、マコなら。
一人で生活するようになってから食の好みの傾向が変わった。肉より野菜。
自己分析だけど、実家じゃ何か食べる行為で苛立ちを紛らわせた気がする。
今は食べることに関心が向かなくなった。そしたら、なんか自然と痩せた。
魔王ベルゼブブ様が暴食の鎖から解き放たれた顛末の物語でも綴れそうだよ。
縫い包みの「うーたん」が演じたら面白いかも。実家のどこに仕舞ったっけ?
懐かしいな。いい歳して縫い包みなんか思い浮べてんじゃねーよ。うーたん。
って、オランウータンかよ。サルじゃねぇし、ウサギたんなのに誤解される。
バカだなァ、狭い台所で思い出し笑いしてる困った小父ちゃんがいますよぅ。
あー、そういや朝メシ食うの忘れてたかも。適当なもん腹に詰めとかねぇと。
千切りキャベツにマヨ少量とチューブの大蒜、胡麻油に塩胡椒かけたのが主食。
とろりっとオレンジ色に焼いた目玉焼きが最高!こいつも塩胡椒だけで充分だ。
実家で出されるのは固すぎだから嫌だったと気づく。ゆで卵より温泉卵が好き。
塩だけか麺つゆ少しがいいな。炭水化物がほしい場合は冷凍庫から食パン1枚!
せめてトーストしろって自分にツッコミ入れながら食う。8枚切りので足りる。
手で確認して硬くないのを確認して買った長葱を切って胡麻油で焼いて煮浸し。
茄子の生姜焼きも美味い。マコにゃ鉄サビくさいって不評だったが美味かった。
ピーマン苦手だった筈が自分で調理したら好物の一つに加わった。苦味も美味。
豆腐になめ茸。とろろ昆布の吸い物。蕪も煮つける。大根より調理が楽でいい。
あっれェ…?…やっぱり、俺って作ったり食べたりすんの嫌いじゃねーのかも。
元の木阿弥になっちゃ困るし、もう少し加減しねぇと。食事内容を見直すか。
俺とマコの二人を「すっげぇ馬鹿!」だと認識してくれたって構わねぇよ。
いくら面倒でも、命に係わらない程度、何か作って食べなきゃ困るもん。
今じゃクッキー作りも趣味といえる。恥ずかしくて他人に言えねえけどさ。
ボウルに小麦粉、粉チーズ、バジル、塩胡椒、卵、マヨネーズとか適当適量。
粒マスタード追加する場合もあるけど、そういったのを適当に入れてやって
ゴムべらで混ぜ合わせて、オーブンシートを敷いた天板に薄く広げて伸ばす。
うちのじゃ百八十℃に設定してるけど、二十分近くオーブン機能使って焼く。
出したら、まだ温かいうちに適当な大きさに切り分け、冷まして出来上がり。
自分じゃ手作りのスナック菓子だと思ってる。酒のつまみにもちょうどいい。
ピザも発酵させずにBPを加える簡単な生地で作る。まとめて冷凍しとくよ。
トッピングも適当。ミートソースや自分でドリアっぽいの作って載せて焼く。
いちいちレシピをメモしとく気もねえから、テキトーすぎて偶に失敗もする!
でも、結構悪くねぇと自分じゃ思ってる。食べ物の好みは人それぞれだし
喧嘩の元にもなるから拘らねぇのが一番だ。こだわりが強いと苦しくなる。
それくらいは学んだ。余計なもんは思い切って潔く手放した方が気楽だよ。
それでも、どうしても…ってのがあるから、俺はまだまだ修行が足りねえ。
朝メシ済ませて、現在はマコの愛娘のためにゼラチンで作るタイプのプリンを
アルミ型に流し込んで冷ましたのを幾つか冷蔵庫へ入れたところで作業終了。
卵と牛乳、砂糖にゼラチン、バニラエッセンスがあれば出来るから余裕だ。
カラメルも水とグラニュー糖で作る。フライパン洗うとき面倒なだけ。
エプロンとかしてねーよ。持ってるもんか。買うのも恥ずかしい。
二人の到着予定は本日昼過ぎだから、それまでには出来上がってる筈だな。
こういった現在を過ごしてる浅井彰太君って…ナニコレ…?
遥かに等級を超えたマコちん、男オバサン化してんじゃね?
ずっとキッチンで立ちっぱなしだったし疲れた。どこかに腰を落ち着けたい。
ソファ…。いいや、リビングまで行くのもメンドクセー。床に腰を下ろそう!
…………………………。
…………………………。
…………………………。
見落としてんだな。結構な具合で床が汚れてる。毛髪の大量落下だ。
頭髪はまだ至っちゃいない筈だよ。元々そんな遺伝的要素ねぇもん。
遺伝的に極めて気になるのは、将来二型発症しそうな傾向だけだよ。
どっちも考えるのは…なってから。立ち上がったら、忘れず床拭き!
床に敷いてる猫柄のマット、そろそろ交換だな。ゴミが絡んでて汚ねーよ。
くろ、しろ、きじとら、はちわれ、みけ、さばとら、おれんじ、七匹の虹。
ブドウ糖の無駄消費とは思うが、思考ってヤツは起きてる限り働き続ける。
身体を休めてる筈が頭脳は休んでねェ。不思議。にゃんころ。心ころころ。
コロコロ、スペアの買い置きあったか? 今使ってるの使い勝手まあまあ。
ころころ転がっていく。心ころころ。心根に届いた。本日雨天。
あいつの心根にも、まだずっと…長い雨…が降り続いてるのか?
森魚脩。昔は毎日のように絡んで遊んでたドクズのクソヤロー!
ドクズの心根は、まだ腐っちゃいねえ。
今でも俺のラファエルだって信じてる。
隠れ名を理典君という俺の大切な友人。
現在…心を…病んじまった…としか言えねぇ。村の森魚家は大変だろうな。
もちろん、何度か顔を見に行ったよ。こっちは友達だと勝手に思ってるし。
最初はよく泣いてたけど、漫画やゲームなんかで気を紛らわせていられた。
向こうが巫山戯たこと言ってきて、お互い笑い合えたときもあったんだよ。
でも、疎遠になる前は…怒り…という感情しか表せなくなった状態だった。
あいつは左手で箸持つから、たまたま並んで食事したときにお互いの肘が
ぶつかって…そんなのどーでもいいんじゃねーの?…って事案で発火する。
自分で自分を憎んで罵ってる。俺も似たようなもんだが…まだそこまで…。
何より一番辛いのは当の本人であることは分かる。そのつもりではいるが
側にいる方だって終いにゃ胸も潰れてくるよ。見てられない。腫れ物同様。
俺のどんな言動がヤツの怒りに変わるのか皆目見当つかなくて…涙出た…。
思い遣った筈の言葉が…憤怒の情で返ってくるなんて…。苦しすぎて困る。
俺自身が強くねえの、たぶん。だけど…沈黙で同室してる状況に疲れた…。
男女の関係なく、ごく親しい二人きり状態の天国と地獄みてぇのを学んだ。
ごつごつ延々と自分で自分の頭を叩き続けてるヤツ見て、何を思いますか?
感染する病原体じゃなくても伝染るのは確実の状態だ。寝つけなくなった。
試しに一度だけ…。脩に処方されている赤い錠剤を2錠、飲んだことある。
あいつ、飲まない薬を溜めてんだもん。ティッシュの空き箱いっぱいに…。
約一時間後、頭の中に二発衝撃を喰らった途端、胃袋の中身を全て戻した。
何だよアレ? あの薬、ヤバい。酷い体験した。心霊現象より怖いと思う。
三環系抗鬱薬を服用してみた彰太君、本当に体験しちまった怖い話だった。
何かしてやりたくて、色々と自分なりに探してみた。フラワーエッセンス。
レスキューレメディってのをヤツの飲み物に、数滴…垂らしてみたりも…。
五種類のエッセンスを合わせたもの。日常の様々なストレスに対応が可能。
内訳は水とグリセリンだ。副作用や依存性なし。服薬中の人でも問題なし。
『インパチエンス』…イライラ、焦って落ち着かない心の抑制安定。忍耐
『クレマチス』…ふわふら、現実や意識が逃避した状態を取り戻す。集中
『チェリープラム』…心に棲む狂気へ対応。自傷及び他傷衝動抑止。自制
『ロックローズ』…強い恐怖。パニック状態、緊急事態の時に対応。克服
『スターオブベツレヘム』…トラウマ打消し。心と身体の衝撃回復。癒し
乱れた心のバランスを取り戻す、おまじないでも何でも、効き目ほしくて。
たぶん、アレ…。推測だけど、隠して盛るより、本人が望んで飲むことが
重要な部分かもしれない。そう感じた。自分で効果がある!…と信じ込む。
正史の五将軍列伝。あの将軍たちに準えて考えると、何故だか不思議に…。
何となく、心なしに、効能が五将軍にも対応しているような気もしたんだ。
学校低学年の…校庭の隅で色々話してた頃、明るく楽しく平穏だった時代。
せめて心だけでも戻りたい。そう腹の底から願って已まない俺が…いる…。
強欲マモン。リテン君とか…俺だけの渾名で呼んでた時期…懐かしいなァ。
マモンのあいつは欲望が強すぎて…あんな結果…。いや、終っちゃいねえ!
違う。まだ諦めるのは早い。俺みてぇな暴食ベルゼだって、まだ生きてる。
節制だ。吊るされた男も節制を身に着けたら
きっと…カードが逆位置になって…変われる!
タロットカード。吊るされた男。逆位置だと、軽く浮いた魔法使いの男だ。
タカシの…もう死んだタカシ…そいつの趣味が占い、タロット占いだった。
「これはコックリさんに近いものなんだよね」そんなこと言ってたっけな。
まあ、男向きの趣味じゃないとは思うけど、不思議と当たるんで怖かった。
それで、いつしかタカシの陰口的渾名は「大魔王閣下」に定着していった。
俺の心だけのタカシの渾名は「傲慢ルシファー」だった。
あいつがタロット占いする際の様子を眼にして、そう感じた。
不思議と、大きくても無骨さを感じさせねぇ綺麗な手をしてたよ。
その手が展開させるカード。メッセージを伝える声色。ルシファーだ。
だが、明けの明星としての煌めきを失っても嘆いたりしない高潔な傲慢だ。
タカシの容姿は、学校入学時に比べたら、随分と違う感じへ変貌を遂げた。
そういうのも含めての…魔王…呼ばわりだった。全員ぶちのめしたかった。
タカシは七年生の一学期過ぎ頃、頭の中に腫瘍ができてしまったらしい。
様々な伝手を頼って、タカシの両親が高名な医師まで訪ねて診せたところ
成長ホルモン産生腺腫(※この記述は正確ではないかもしれない)の
疑いがあると診断されたとか何とかいうのを、実家での噂話で耳にした。
けれどもなァ、今の世の中じゃ脳外科手術ができる医師を捜すってのも
また相当な金銭や縁というか幸運みたいなもんが必要となるんだよな。
きちんとした教育施設なんて殆どないんだから「医師」と称する存在が
本当に希少な人材となっちまってんだ。馬鹿な俺でも本気で猛勉強して
医師の資格を持って、脳神経外科医としての技術に磨きをかけた状態なら
タカシのことを手術するなりなんなりして治してやりたかった。本気で。
脳内に腫瘍ができて何年か経ったら…糖尿病も併発してしまったんだ…。
インスリンって注射薬を入手するのに相当な苦労してた。見て、知ってた。
うちの実家まで訪ねてタカシの両親が深く頭を下げ、親父から金を借りた。
形振り構わず息子のために…。それが親なんだろうな。俺には無理な立場。
そこまで努力したのに…タカシは卒業後の十七歳で亡くなってしまった…。
学校じゃもう既に何人かが故人になってるが、タカシも仲間入りしたんだ。
三組では一番乗りだな。うれしくも何ともない。悲しいだけの一番最初…。
糖尿病。俺も…いつ発症するか…。だから、現実に自分を吊るす前の節制!
二型は遺伝要素もあるが、食事と運動で自己管理が可能な所謂生活習慣病。
最初も経口薬。インスリンはQOL向上とかの理由でも使用するみたいだ。
一型は遺伝要素があるようだけど、不運の要素が強そうだ。自己免疫疾患。
数年前…元二組級長の斎藤が発症させてしまった…とマコから伝え聞いた。
神社の御籤で大大大凶でも引いちまったような超絶不運なヤツだと思った。
不運は乗り越えられる神からの贈り物なんて、他人事として俯瞰できねぇ。
ある意味、最恐な強運だと思い込むべきなのか否か、普通に可哀想だよな。
心も身体も突然ぶっ壊れちまったりする。現実を受け入れ、生き続けよう。
難しくても自分なりに必死でやってるよ。どれだけ物凄く望んでみたって
誤った時間は戻せないけど、それでも必死でド屑なりに毎日を生きている。
自分を吊り下げるのは、まだ早い。もうしばらく此処で一緒に…耐える…。
だから…脩…。すぐ元通りにならなくていい。もう少し、ゆっくり休めよ。
サイアク、本当の最悪で…災厄的危機が訪れた場合…俺が持ってるアレ…。
心の向きを変えて、兄者である慶の力になってやりてぇとも思ったんだけど
結構あいつも難しい性質で、どう表現したらいいんだろ?…気が合わねェ…?
既に自分の世界が完成してるから不慣れな刺激に弱いんだって俺は感じたよ。
学校時代からだ。虐められっ子の親友やってた優しい男。それを知ってるし。
詳しい勤務内容まで知らねぇが、街の精密工場に自動車通勤で働いてるって。
あいつと向かい合ったとき、ほぼ十割で自分の指を噛む仕草を見せるんだ。
左右の人差し指の第二関節辺りの皮膚が荒れてる。歯形の痕が残ってんだ。
俺を見ることが相当な心的重圧らしい。俺の眼にも沁みて姿が見れねーよ。
慶には耐えられねぇ嫌な行為に三組の外道兵として巻き込み過ぎたことも
原因だってのは重々承知してるよ。全て浅井一族四名の罪業だと思ってる。
殴りたくないのに殴らせた。後ろで笑って見てた。
諸悪の根源は…俺の卑劣な腹ん中にあった…。
一組の馬鹿ザジには、何の非もねぇよ。
現在でも謝罪の気持ちは持ってる。
単に…ヤツがあまりにもサ…。
俺は、暴食の上に嫉妬深い。
最悪な災厄をもたらす。
最低なド屑でした。
ごめんなさい。
裏にもう一人、俺の背中を押したのが意外なことにタカシだった。
俺とは違った向きで、少しばかり異常なほどザジ嫌いだった。
三クラス合同で武術の授業したとき、全員が竹刀持ってヤり合う。
タカシの目付きが変わる。いつもの慈母的眼差しが冷酷に…。
ザジへ向かって容赦ねぇ乱撃し捲ってた。ザジは華麗に躱してた。
まあ、学校の食堂とか提示物関連の爆笑テロリストだから
ザジを怨むヤツは、タカシ一人じゃないのは間違いねぇが。
それは兎も角、他人に責任を押し付けちゃダメだな。
虐めの主犯は俺一人でいい。極悪卑劣な浅井彰太君。
自分の歪んだ言動が他者の人生まで狂わせる元になるのは恐ろしいことだと
学校を卒業してから気づいた。「バカというやつがバカ」って意味を知った。
いつも腹の奥で嫉妬の水流を煮え立たせ、渦巻かせてた。暴食で逃避してた。
どうしようもなく醜い性質。昔から今も最悪なところ。人生かけて直したい!
時間は戻せねぇし、気づくのが遅かったと反省し、正しく直していく腹積り。
この部屋は俺の居住空間であると同時に、慶と脩が逃げ込める場所なんだよ。
それぞれに合鍵を手渡してる。物を盗んでもいい。何だって差し出すつもり!
「役に立つ物があったら欲しい物は全部やるから!」もちろん本気で言った。
その程度しかしてやれなくって申し訳ねぇくらいだが、それしかできねーし。
脩がああなった原因は知ってる。そこまで俺が内情晒せねぇ家庭の事情だ。
その引鉄は付き合っていたカノジョとの結婚を相手側から反対されたこと。
ダメだ。あいつらのこと考えてたら、こっちの喉と胸が苦しくなってくる。
よし、床掃除だ。ああ、掃除といえば…。
元一組級長の特掃ヤロー、まだ息してんのか?
脩の想い人、ちょっと笑える、狂った愛情込めた
ゴミ屑を靴に日々贈り続けてたドクズのリテン君。
何故そこまでしてたのか疑問だった…今でも不思議ィ…?
ヤッちまいたかったろうな、俺たち外道を。本気で絶命望んでた。
花田の箒や埃取り、真実の姿は「死神の鎌」だっての知ってるぅ。
激しく煮え滾るものを掃除で祓い清めてた。それくらい分かるよ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
今日は休みで暇だし、紅音が喜ぶようなもの探しに出かけようかな。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「彰太くーん、こんちはーッ!遊びに来たよぅ!
そんじゃ早速ぅ、勝手に、お邪魔っしまーっす!」
予定どおりマコが昼過ぎに紅音を連れてきた。室内が一気に賑やかになる。
今朝から冷たい雨が降り止まねぇが、玄関ドアに付けた引っ掛ける形式の
傘立てに木目調とピンク色の柄を並べた。それぞれの石突から滴が垂れる。
寒くなってきたから、紅音に真っ赤なニットのパーカー着せてる。似合う。
ふわっとしたスカート付レギンスが可愛い。あ、変な性癖は持ってません。
なんで、マコって元気すぎるくらいのテンション維持できるのか不思議だ。
こいつは最初から入学が決まってた俺たちより二つ年長なんだ…本当は…。
けれど「若さ」に於いては、完全敗北。そう申し上げ、白旗を振り揚げる。
二人に同行したら紅音の父親が俺になる。マコは、まだ独身さんの風体だ。
とっくに悔しいとかって感情なし。誕生から二年も過ぎたし、もう慣れた。
俺たちの見映えの印象です。としか説明できん。若けりゃいい訳でもない。
要するに鯨井信は子どもの作成育成なんて無理と思える面と格好ってこと!
お気の毒さま級のあどけなさが残ってる所為で「何この奇跡?」と繋がる。
しかし、若さを妬む気になれねぇ。もう少し落ち着いた佇まいに変身しろ!
父親としては、よくやってると思う。美琴が苦労してないって様子だから。
地面に額をこすり付けたいくらいに感謝の気持ちは懐いてます。今後一生。
それでもマコは壮絶としか思えん。この外面で狡猾で強欲と称すべきだな。
誰の手助けも借りず、一人の力で正々堂々家族を掴み取って増やしていく。
真似できねえレベルの生命力と強運の持ち主だ。絶望の淵、地獄の底から
飛び立って、自ら光り輝きながら、眩い陽射しを浴びて舞う不死鳥と同様。
うわっ、酔ってる所為か、頭の中の雲一つない天空を
自由に羽ばたき舞い輝く純白の鳥が視えてきた。
光り輝く純白な不死鳥こそマコの正体だ!
俺の目の前にいるのはアレレだが。
年がら年中、空色ジャージの顔も碌に洗わねぇ男の正体が白い不死鳥かよ。
ご立派。真似できねェ。尊敬だ。根性が余って困ってる筈。分けてほしい。
いつか依頼する予定。性根が腐り果てた自分の始末をつける手前辺りで…。
紅音にはカートゥーンアニメのDVD見せて、俺たちはコーナークッションに
適当に身体を預けて寛ぎの姿勢を取り、飲み物だの載せたテーブルを囲んでる。
「美琴は順調?」
鯨井夫人の美琴は、現在二か月だから安定する頃まで無理させられねぇよ。
現在進行形で家族を増殖させてやがる。こいつにゃ勝てません。何もかも。
「あー、うん。彰太君もさァ、また村に来てよ。お義母さんも心配してる」
うちの…でも、マコにとっちゃ大事な価値ある存在に取って代わるんだな。
全く以て行きたくありませんな場所。マコちんとその他大勢で何とかしろ。
「そうだ! こないだ一緒だった、あの人と一緒に来なよ」
「その人とは、もう会ってませーん」
「えぇ、どーして! ショックだ。なしてだよぅ?」
「…ん?…んーと、うぅーうーうぅーうーぅ…。実はー向こうにー」
「嘘だ!」
「マコちん、その台詞は鉈を持って言うべき。セーラー服も着ろ!」
はい、只今想像しちゃいけねぇ事案発生中となりましたよ。
マコは普通に小汚ねぇ男だし、現在も定番の空色ジャージを着てる。
具体的想像禁止。抽象推奨。萌え厳禁。ワレワレ総合的にキモチ悪りぃ。
容姿の優れたヤツほど性質にペナルティが付加されてんのだ。笑えるぅ!
脳内出入禁止。どっかから出禁を言い渡されてみてぇ。痺れる言葉『出禁』
俺、職質に憧れてるぅ!警察関係者一同様、いついらしゃっても大歓迎だ!
私は嘘をつきたくありません!って。汚ねぇハラワタ晒して終了!が理想。
あくまでも『理想』にしか過ぎない非現実なんだ。この世にゃ警察ねーし。
「よろしくってよぅ。思考停止アンド終了物語。おしまいッ!
ヘソでも咬んで、もうシンちゃん、シんじゃえばー!
赤い蜘蛛の巣、いっくらでも放出してやるぅ…」
彰太君の脳内ウシロミヤエバ様を登場させて申し上げてみた。
グラスの中身も空にしてから言った。芋焼酎の舌で感じる仄かな甘さ。
でも、偉そうにウンチク垂れられねぇから思ってても言わね。酔ってるし。
あれやこれ、その道を究めたかの如く評価するのが得意な御方に任せとく。
あー、学習発表会を思い出した。翼キュンママ、女帝。すっげぇヤな記憶。
「えぇぇぇえーっ、やっぱりさー、彰太君は厭きるのすごく早い人だよぅ」
マコは何の豆でもカリポリさせるの飽きねぇよな。永遠に延々と食ってな。
「早いとかいいますぅ? もういい。今は飲食をゆっくり楽しむ時間な!」
しばらく二人で黙って飲み食いを続けた。芋焼酎は安いもんでも充分だな。
「でも、でもさ、ソレ。今日、着けてるね。えぇと、青いコンニャク石!
そのブレスレットは大事にしてくれてる。いいことだ。ご立派。結構だ!」
年上の弟が我慢しきれず口を開いた。蒟蒻かァ。厚揚げなら好物だけどな。
マコに指差された左手首で思い出したよ。
あれは、春…。紅色と黄緑色した思い出。
堅い桜の蕾と杉菜の色合わせとなる記憶。
懐かしいや。二人で一緒に笑った時間だ。
短くても手放したくねぇ記憶は残るもんだな。
こいつを手放さないのは、マコからの命令だから。
現在も厳守中で、偶に着けてる安物のブレスレット。
買った当初より余裕ができて、若干ずり下がるんだよ。
自分の人生、安上がりで結構だ。食器もグラスもそこいらの安物で充分。
上等なのが欲しい人に全部ゆずるよ。余計な執着、こだわりが敵になる。
あいつらを見て、たっぷり学習した。見て覚えること、いっぱいあるな。
「それ、見れば見るほどいいよ。青だけじゃない。オレ観察眼、低いや。
よく見りゃオレンジ、グリーンにも光ってる。すっげぇコンニャク石だ。
ヒビ入ったようなとこが虹色になってて、それがイイ味わいになってる」
だから、蒟蒻じゃ…。ま、マコの世界じゃ光る蒟蒻石なんだ。常識だった。
小粒の蒟蒻ビーズを繋げたシンプルなのに、もう長いこと続いてる繋がり。
自分を悪魔となる道から引き止めてくれる鎖。生きてる限り外せない禁戒。
「コレ眺めてると時間が潰せる。人間よりずっとイイ関係が築けてるかも」
俺が思ったまま素直に言葉で伝えられる相手はマコだけなのかもしれない。
このブレスも何度かテグスが切れて交換した。忍耐力と器用さの修行だよ。
「いい顔だ。彰太君のいい顔が見れて、オレは来て良かった。ありがと!」
厚揚げ焼いたの今回少し塩辛い。麺つゆ割合が多かった。しつこいオアジ。
厚揚げ自体は大好物。酒で口に残る塩味を流して食おう。マコにはやらね!
甲種は悪酔いするから苦手。好きな人、ごめーん。乙種派だ。安いの探す。
「のんびりと村で休んでたいって言うから、連れて来れなかったけどさ」
含んだ炭酸水で口の中を洗うよう飲んで舌もごもご。カワイイおっさん。
「サイトーさんッ!」
こいつの食い方を観察すんのが何見るよりも楽しいな。もう笑えてくるぅ。
「村の学校二組、我らが君主のサイトーさんが今、診療所にいるんだよ!」
映画のDVDで見るような役者か何かでも来たかのように興奮してやがる。
くねくね、くねくね…。きっしょきもーい。このオッサン誰か捕まえてェ!
斎藤はマコが思わず身を捩じらせるくらい大きい存在なんだな。羨ましい。
マコの斎藤へ傾ける情熱みてぇなヤツは、可成りのもんだって知ってるよ。
二人の新婚旅行も斎藤との再会目的を兼ねてのもんだ。軽く嫉妬のレベル。
二組級長の斎藤といえば、ヤツを語る上で欠かせない殆ど口癖っぽかった
『美しい』って言葉を思い出す。あの面に似合わなすぎて腹立つんだよな。
あー、いや、俺だって似合わねえ言葉なのは鏡で確認済み。使わねぇ言葉。
そいつに追加すりゃ卒業式の二組は斎藤と松浦と新山緋美佳が、それぞれ
谷地敦彦、高橋虎鉄、新山紫峻の遺影を持って出席したんだ。きつかった。
斎藤は俺の面なんか見たくない。マコの手前、体調を理由に辞退したんだ。
俺が馬鹿パタでもその現実はよく分かってる。こっちはキラワレ外道だし。
斎藤ヤるときゃヤるんだ。夏目らが軽く潰された。気分爽快な過去の話。
全く以て美しい華麗なる単独争覇だと腹の内では拍手を送っていました。
「ひと月くらい、ゆっくりしてってくれるってさ!うれしくって、もう!
てか、何とか永住させられないか、元通学生ほぼ一同で現在画策中なんだ。
だからさァ、よかったら知恵貸してよぅ。彰太お兄ちゃーんッ、ねえぇ!
ああ、お嫁さん! そういう形で村に繋ぎ留めちゃうのも悪くないかもな。
彰太君にもゼッタイ必要だって。料理上手になってちゃダメダメだよォ!」
繰り返しますけど、この人が二つ年上なんですけど、本当に子どもっぽい。
相槌代わりに、適当なもん抓んでグラスの中身を一口含んだ。黙って聞く。
言葉で返してやらなくても、視線を向ければ通じるヤツって重宝するな…。
そこもマコの良いところだ。何故こんなに付き合い上手なんだ? 育ちか?
「この炭酸水、うまいと思うー! なんかさァ普通に酒飲んでるヤツらと
同じ気分を味わってる感じになるぅ。サイダーと違って甘くないからかな。
うん、オトナだ。水に二酸化炭素を足しただけで、オトナっぽい味だァ!」
本当うるせー!っつーか、元気が有り余りすぎ。脩にも分けてやりてぇよ。
「この炭酸水をオレに教えてくれたのも、二組の君主サイトーさんなんだ!
オレは彰太君が一番大好きだけど、その次に大好きなのはサイトーさぁん。
あの人がいると、いつだって二組の教室がパーッと明るくなったんだ!
オレ、年上で浮いてたから守ってもらって、いつも助けてもらってた。
もう愛しいくらい好きだ。もっと一緒に笑いたい。サイトーさんと」
なめ茸豆腐は飽きねぇ。絹ごしを水切りして載せるだけ。また瓶詰買おう。
「おかしな誤解しちゃダメだよ。奥さんを愛してるっていうのとは違った
お兄ちゃんを慕うみたいな気持ちだなァ。うん、絶対!絶対そうだよぅ!
あの人もお兄ちゃんだよ、オレの激烈すごく大切な二番目のお兄ちゃーん」
まるで酒でも呷るようにして、炭酸水のペットボトルを勢いよく空けてる。
お代わりは十分用意してあるから好きなだけ飲みなよ。カロリーゼロだし。
つーか俺と斎藤は実際二つ年下。マコは何故そんなにまで弟になりたいの?
「あの人だけ、オレを『シンちゃん』って愛称で呼ぶんだ。そこが好きっ。
サイトーさんはオリジナルな呼び方で自分のものにする手法の持ち主だよ。
オレはサイトーさんのシンちゃん。マコじゃないんだ。意味分かるぅー?」
ああ、確かに他の連中は俺と同じく『マコ』か『ノブ』って呼ぶもんな。
「でも、オレは何日か一緒に過ごして、ちょっと思ったんだ。
サイトーさんは学校の頃とは違ってきちゃったなァって。
ジェントルマンの印象が消えかけてるっていうか…」
そりゃ誰だって心境は空模様と同じだろうし…。斎藤、マコを悩ませるな!
「三年前はガリッガリに痩せてたんだ。少し心配になったくらい。
でも、今の見た目は普通より軽くぽっちゃりになってて良かった!
デブじゃないよぅ。昔の彰太君みたいにぽちゃぽちゃっとしてないし。
たぶんねェ、インスリン…。あの人、量を多めに打ってる可能性がある。
一型には必要不可欠だけどさ、インスリンの量は少なめに抑えとくべきだ。
多いと低血糖を起こすし、反動で急上昇したりして調整するのが大変かも…」
肥満ネタはやめろ! こっちの傷も抉られる。ここでグラスに芋焼酎追加。
半分に切った竹輪、マスタード混ぜたマヨ載せて焼いたの美味く出来てる!
とろけるチーズも載せたら、もっと美味い筈だ。チーズ、買うべきだった。
たらこをほぐして茹でたじゃが芋に載せたくなった。そっちも今度やろう。
作るのが簡単で食って美味いのが一番。また作ろう。竹輪購入&冷凍決定!
「見た目じゃなくって性格がさァ、メラメラからクールになったと思った」
メラメラ~といえば一組の劉遼だ。懐かしい。髪の毛ピンピン立てながら
学校中を跳ねまわってたっけ。校長の孫ガキも少しは成長したんだろーか?
確か九年生冬の雪の日だった。うちの犬をビッタビタ叩き撫でられたっけ。
苦笑いってか…あのガキ、あれから一緒にいたミサと女湯に入ったのか…?
あの姿で俺たちと同い年って方が年上のマコより遥かに大きな問題だった。
寄宿舎でも…?…いや、たぶん一人で入浴くらい出来ると思うが、まさか?
「サイトーさんらしくなくなってきて、オレは寂しい。病気のせいかな。
こないだの晩にさ、村の通学生だった連中にも声かけたりして揃って
マツーラ君の自宅広間で…再会を祝した飲み会をやったんだ…」
ポップコーンを口に放り込みだした。手で一掴みして豪快に食う。下品だァ。
それでも俺はマコの食べるとこ見るのが好き。演芸を見るより愉快になれる。
浅井彰太って男は年齢性別不問で一人でもマイペースで楽しくやれる人物に
好感を懐いてしまう性分らしいって、もう何年か前に気づいてしまっていた。
「流れで、みんなの噂話っぽい感じになって…。そんで、サイトーさんは
エムジェイの奥さんのことが…ショックだったように…オレには見えた。
その後で、ちょっと食後の血糖がどうとかって、先に帰っちゃったし。
モリ君やヒナちゃん達も気を悪くしたのかなって心配してたんだよ」
こっちと目を合わせねぇで考え込むように頬杖ついて、マコは言った。
その件は村の人間が口にしづらい話になってくるもんな。厄介な病巣だ。
俺も…そっちの方向は靄ついててよく見えねえってな…曖昧な形に濁して
沈黙するしかねぇ話題になっちまうんだ。酒食で紛らわせるしかねぇウワサ。
三上操、三組にいたミサっていう人は…なんか色々と面倒が多すぎて…困る。
成長した姿を見てるからこそ分かる。つくづくってほど思い知ってしまった。
あの女性、向こうにその気がないんだろうけどヤバい感情を持たせてしまう。
もう三年くらい前になるが、行きつけの洋菓子店喫茶室で彼女と向かい合って
座ったときを思い出す。なんつーか最高潮に困惑させられちまった時間だった。
会話してるうちに泣かれちまって、周りから見た俺たちは別れ話してる最中の
カップルみたいに思われてんじゃねーの?って、焦りまくって仕方がなかった。
ヘタに目なんか合わせたら、こっちの心まで持ってかれそうだったし。何なの?
ああいうのが所謂『魔性の女』とかいうもんに例えられる見本だと思った。
既に壱琉がヤられちまってたもんな。婚約者がいたんだよ、あいつには…。
確実にもう…アレな状態になってたから…諦めてもらわなくちゃと思って
わざわざ連れ出して別離するよう説得しようと思ったんだが、結果大失敗。
正直に白状しちまうと…こっちも同じ穴のムジナさんになりそうだった…。
連れて帰りたくなる気持ちが理解できてしまって…本当に困った、困った…。
おそらく学校時代に三上操が好きだったのは斎藤だけじゃねぇよぅ。絶対ッ!
思い返してみるだけで片手の指以上になりかねない数のヤツが片思いしてた。
被害者の会が作れるかもな。俺はノータッチにさせてもらいてぇとこだけど。
どうしても纏ってた空気が違うから、気になる存在になって仕方ねえと思う。
思ってた。学校の頃から、ミサは…アスモデウスの化身だ…。そうとしか…。
壱琉は確実だと思ってたな。同室って自制心が凄すぎる。褒めて遣わしたい。
ミサが亡くなった谷地と親しかったのを知ってたから、遠慮してたんだろう。
もう谷地に遠慮する必要ねーし、現在フリーと知りゃ男なら近づきたくなる。
壱琉の最側近っぽくなってるモルでさえ、興味でも引きたかったのか
身銭叩いてまで、数々買い与えてたもんな。俺、近くで見てたし
黙って見過ごしてたけど。モル君もアレで結構な自信家だ。
奪い取る機会がありゃ行動に移す展開も予想できる。
怖ぇよ。目付きが学校時代と変わっちまって。
モルの親友、ヒナちゃんが可哀想になるよ。
ヒナの眼差し、変わってなきゃいいけどな。
脩の様子だって心配してくれてる筈なんだ。
たまひろい王子は通学生みんなの心の支え。
モルはヘミモルファイト。頑張ってほしくねぇ!
温和な静寂で満たされた人生を送る選択を棄ててまで
壱琉の魔除けの護符として、不要な者を掃い清める仕事人。
悪霊の頭領でもあるベルゼな俺には、少々目障りでもある訳だ。
あいつは危険察知能力者。そいつを見込んだ壱琉に雇われている男。
その御蔭でモルは有難い存在でもあると心から痛感してる俺もいる。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
ヒナちゃん+モルちゃん+ラファエル
低学年の頃からトリオを組んでたっけ。
なんかグダグダ感たっぷりの三人でも
絶妙に絡んで馴染んでた仲良しトリオ。
個性の強い三種の中身が詰め込まれた
大判焼きでも食わされたようなトリオ。
そう評したい気分。粒あん、苺ジャム、
マロンペーストの三種混合って感じだ。
いや、好みの人もいるかもしれねぇし
食べ物での比喩は、俺には少々難しい。
じゅっちゃん、ともちゃん、しゅうちゃん
それぞれ、そう呼んでいた時期もあったよ。
いつしか呼び方が色々変化していったっけ。
俺はサ…。村で暮らしてた頃の友達は、もう思い出す気もない。マコだけ。
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…………………………。
…………………………。
三上ミサ、寂しがり。誰だっていいんだと思った。
自分を必要としてくれる人なら、誰とでも許す。
不適切な発言なのは承知の上、彼女は妖しい。
昔から思ってた。アスモデウスの化身だと。
頭おかしいかも。酔ってる所為だろうが。
もしかすると、あのとき俺が彼女に…。
こっちの出方次第で、どこにでも連れて…。
いや、自制しろ。飲み過ぎだな。緊急思考停止!
或る春の日、三上操が急に街から消え去ったんだ。言伝も残さずに。
ミサは…本当に謎すぎる人…としか言えねーの。父親も二組のアレだったし。
村で何があったのか知らんけど、壱琉の異母兄である仁とくっ付いたらしい。
その点じゃ同姓でよかったんじゃねーのって思うけど、祝福する気はねぇな。
壱琉が心の底から絶望感みたいなもんで満たされている現状も見て知ってる!
婚約を解消しちまったんだもん。間違いなく今も帰りを待ってるんだと思う。
周りが見ちゃいられねぇ有様に突入した形で、現在に至ってるって訳なんだ。
落ち込んでる壱琉を見て、清々したように感じてる俺もいて…戸惑ってる…。
「今さァ、なんか、村の中、ちょびっと様子がおかしなことになってんの。
言いづらいよぅ。口に出せない問題になってる気がする。意見できないっ」
マコにしちゃ元気のない口ぶりだ。でも、曇り空みてぇな表情のマコなんて
こっちも見たくねえ。痛てぇとこ突いて傷を悪化させるのは嫌なんだってば。
マコが脩みたいになるのだけはどんなことより恐ろしい。絶対イヤだーッ!
一緒に腹の底から笑い合える唯一の宝物みてぇな存在だよ、俺にとっちゃ。
ただでさえ、マコは絶望の淵から一人ぼっちで這い上がってきた人間だし
マコみたいな善人が義理でも自分の弟になってくれて、俺は本当うれしい。
妖精か天使かってくらい可愛い姪っコまで…感謝の気持ちしか持てない…。
だから、こっちからは慌てず騒がず、黙ってマコを見守るだけにしとこう。
数年前、鯨井家の五人惨殺事件の核心に近い情報を得たが、口が裂けても
マコには話せない。マコの仇を討ってやることも現時点じゃ不可能なんだ。
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…………………………。
…………………………。
あ、カートゥーンアニメの再生が終わってる。他のに変えてやらなきゃ…。
紅音も気づいたら、落ち込んだ父親の膝の上にいた。親に似て、優しい子。
童謡を歌い出した。場の空気を少しでも明るくしようってつもりか?
こんな小さな子でも他者に気ィ遣う心を持ってるんだな。スゲェや。
マコに似た生命力ってもんにあふれた力強く可愛い歌声が室内に響いてる。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「おとーさんも!」
下を向くマコに向け、首を上に傾げて紅音が誘ってあげた。目に眩しすぎる。
そして、お父さんのマコも一緒になって歌い始めた。最高の光景だ。いいな。
家族か…。いや、俺は我が子を持つ資格なし。
性根の腐った悪しき血は、すっぱり断つべき。
本来なら吊るされなきゃならない男が必死で節制してるだけの偽りの姿だ。
魔王ベルゼブブが醜く窶れてみせただけ。鏡は敵。見たくねぇもんが映る。
痩せてみたところで容姿に自信が持てない。元々の姿を思い知ってるから。
いいんだ、いいんだ、俺のことは置いといて
他に何か気持ちを晴らしてやれることは?
二人を外食にでも連れ出そうかなァ?
タクシーでも呼ぶか? それとも?
心が…温まるような…何かなかったかな?
ああ、そうだ。マコたちにインスタントの袋麺でも作ってやろうか!
昔、二人で食って一緒に「これ不味い!」と言い合って笑ったっけ。
時が戻せるのなら、今すぐ何しても戻してーよ!…あの日、あの時…。
もうマコとの思い出だけだもんな。俺が平気で振り返っていられるのは。
振り返るのが怖い。変えたい。直したいとこばかりが多い人生。恥多数。
思い返すと、考えれば考えるほど、書き直したい過去たちばっかりだよ。
時を戻す魔法が使えりゃいいのにな。仲良く歌うマコ父娘を眺めながら
頭に他の景色が過って…無性にそんな気持ちになって仕方がなかった…。
◆特異点. 嘆きのクンツァイト
彼との再会は懼れでもあり、運命でもありました。
受け入れる覚悟は、疾うの昔に済ませていました。
彼の存在は彼自身が思う以上に大きかったのですが
その事実に気づくこともなく、再び発つのでしょう。
しかし、以前とは…再び村を訪れる時期と罹患した病が…異なっています。
運命の流れが以前と違うものになっているのは、他にも発生している模様。
一組の生徒が味わった、学校だけで済まなく村にも衝撃を与えた出来事が
きれいさっぱり消失してしまい、普通の出逢いと幸福へ変化していました。
不治の病から解放された同窓生は別離の運命を覆せなかったようでしたが、
私の恩人とも呼べる彼は『避難』の運命を受け入れることになるでしょう。
彼女が村に舞い戻ってきたのも以前からの運命…。彼女を囲む者たちも…。
どういった末路を辿るものか気にはなりますが、私は観覧者の一人。
静寂な気持ちのまま、全てを受け入れ、終幕まで見届ける所存です。
◆序列不明の宝石の人の深層心理的独白.
ずーっと遠ーい、そのまた昔の話になってしまうようです。
年代を伝えるのも馬鹿らしい。私にとっては昔であるだけ。
或る二人の男性から形の違う深い愛情を注がれてきた少女。
その少女が長いこと求めて已まなかった…想い人という存在が
ほぼ無関係である筈の私でして…。隠しきれなくなったという
気持ちを打ち明けられても不思議というか、全く訳が分からず
ただただ困惑するばかりの私。一緒にいたいとは思えませんし
気づいた時には既に大人のように成長してしまっていた身体も
受け入れ難く…幾年月苦しんだものか…。もう憶えていません。
割り切る。受け入れる。そんな大人の計算は、未だに苦手です。
嫌悪。拒絶。逃避が気楽な解決法でした。傷つけたと思います。
それでも離れようとしない。執着心の強い人がいる時もあって
眠りの世界へ避難したこともありました。同情なんて無理な話。
…そしたら…
任せた人格と深い仲になってしまっていたようです。汚らわしい。
好き嫌いの感情は分かる。でも、それよりも面倒な感じですよね。
ああしてほしい。こうであってほしい。多様な要望を向けられても
まだまだ、私は子どもです。理解には相当な時間を要するでしょう。
我が仮の名は、大天使ミカエル。そして、ジャベール。
正義の剣で、諸悪の根を、首を、容赦なく、切落とす!
現在の私も…こういった調子ですから…。
胸を張って大人と言うのは、恥ずかしい。