17 ひび割れる
『僕以外が付き人になっていたらどうしていましたか?』
ちょうど一年ほど前、酔いに任せてそんなことを聞いたことがある。
その時のルーフェの答えは『分からない』といった漠然としたもので、不安に駆られたことをはっきりと覚えている。
いざそうなってしまえば、流されてしまうかもしれない。――ハシバ自身との最初がそうだったように。
けれど蓋を開けてみれば、ルーフェははっきりと拒絶した。
それは一年越しに、これ以上ない答えをもらったようなものだった。
「待って、待ってください」
応接室を出て、逃げるように足早に歩くルーフェの後を追う。
何度か声をかけるもルーフェは後ろを振り返ることも止まることもない。行き先も決まっていないようでどんどんと見たことのない場所へ進んでいた。
しびれを切らしたハシバはルーフェの腕を掴む。
「っ、離してっ」
「逃げないでいてくれるなら離します」
「……っ」
ルーフェの肩がぴくりと跳ねる。
足が止まり、頷いてくれるかと思いきやそんなことはない。ルーフェはちらりと一瞬だけハシバを仰ぎ見て、すぐさま俯いてしまった。
機嫌を損ねていることは分かるがハシバにはその理由が分からない。
どうしたものかと腕を掴んだまま、ハシバはあたりを見渡した。
おそらくはミカサ邸の北のはずれの方。
人の気配は感じないが、廊下に突っ立っていてはいつ誰が来てもおかしくはない。周囲に目を配れば大きな木の影、草木に覆い隠されたように離れがあることに気付いた。
あそこであれば人目につくことはないだろうとルーフェの手を引いて誘導する。
近付いてみれば、そこは異様な雰囲気を漂わせていた。薄暗く、外から鍵がかかっている。物置にしては大きく、まるで牢のような――
「……あんな言い方しなくたっていいじゃない」
ぽつりと、ルーフェの口からそんな言葉がこぼれ落ちる。
あんなというのは先ほどの発言のことだろう。任せてくださいと見栄を張るのもなんだか違う気がしてああなったのだが、それが不本意だったと見える。
「あれ以外にどう言えばよかったですか?」
「……」
ルーフェから返事はなく、視線も合わない。
だんまりを決め込んだ姿勢に苛立ちがつのる。
――割り切るのではなかったのか。
そんな言葉が脳内に浮かぶも問い詰めたいわけではない。
「どう取り繕ったところで、貴女は魔導師で、僕は巫子です。任された役目を果たすためにここにいます」
「……役目だなんて言うけど。そんなの、嫌なら無理にするものじゃないわ」
「え……?」
「面倒くさい、手のかかるやつだって呆れてるんでしょ? ……忘れてくれって言うくらいなら放っておいてくれたらよかったのに」
小さく吐き捨てられた言葉にハシバは息を呑む。
忘れてくれという言葉の心当たりはひとつしかない。
暴走したルーフェを助けたあの時、人目もはばからずに抱きつかれ、無事を安堵すると同時にわいてきたのはこれ以上ないほどの優越感だった。
自分だけが受け入れられているのだという浅ましい思い。
それを見透かされたくなくて、忘れられるわけがないのに気付けば口をついて出ていた。
「……放っておけるわけないじゃないですか」
言葉を飲み込み、かろうじて出たのはその一言だけで。
手がかかるとは思っているが、だからといって嫌だなんて思ったことはない。想いを寄せていることに気付かれるのは悪手中の悪手だ。
なかったことにするのが一番都合が良いだろうと思ったまでだが、そんなこと、口に出せるわけがなかった。
「…………そうね、私になにかあったらマナに合わせる顔がないものね」
ハシバの言葉は逃げ口上と捉えられたようで、ルーフェには響かない。
「私と一緒にいるのはあくまで巫子として……食糧でしかないって。そう言ってたものね」
突き放すような言葉は全てハシバ自身から出たものだ。巫子として一線を引くために吐いた言葉がここにきて突き刺さる。
責めるような口調にも関わらず、声色は震えていた。
ルーフェが拳を握れば掴んだままの腕にぐっと力が入るのが伝わってくる。
「……誰も苦しませたくなんてないのに……」
「……っ!」
俯き、吐き捨てられた言葉を聞いたらいてもたってもいられなくなってしまった。
ルーフェの腕をぐいと引き寄せ、バランスを崩した身体を腕の中に閉じ込める。
「ちょっ、なに……っ」
「……ん」
「……?」
「…………ごめん、なにも言えなくて……」
肩口に顔をうずめ、懇願するように囁く。
巫子である以上、一個人としての言葉をハシバは持たない。
なけなしの魔力を触れた箇所から送りこむと、こわばっていた身体から少しずつ力が抜けていく。
腕の中のルーフェは抵抗はしないものの、返ってくる言葉は不満げだった。
「……なにそれ。わけ分かんない。言いたいことあるならちゃんと言ってよ」
「…………それ、貴女が言います?」
だんまりを決め込むのはルーフェの得意技だろう。
身体を離してじろりとルーフェを見下ろすと露骨にたじろいだ様子を見せる。視線が合ったのは一瞬で、すぐに顔をそらされてしまった。
そんなに心の声が顔に出ていただろうか。責めるつもりはなかったのだけどと気まずさをごまかすために眼鏡を上げようとして、そこになにもないことに気付く。
(そうだ眼鏡、預けたままで……)
そこでハッとした。
不自然なほど視線が合わないルーフェを見下ろせば、短くなった髪からのぞくうなじが心なしか朱に染まっているような気がする。
(……そうか、眼鏡がないから……)
思い返せばこの挙動不審さには見覚えがあった。
眼鏡をかけることになったそもそもの理由を思い出し、ふ、とハシバの口元が緩む。
鍵はとうに開いている、胸の奥底に沈めた箱。
それを形作っている立場というくさびにヒビが入った音がした。
ハシバは手を伸ばし、横を向いたままのルーフェの頭を撫でる。制止の言葉はかからず、なすがままのルーフェに穏やかに話しかける。
「大神殿に着いたら……いや、レティスが魔導師になったら、でしょうか。聞いてほしいことがあるんです」
「……? 今じゃだめなの?」
「だめですね。だからそれまで……あと少しだけ、待っててくれませんか?」
「…………分かった」
なんだか釈然としない、そんな内心がありありと声色に出ていたが頷いてくれただけで御の字だ。
ルーフェの手を取り、そっと指先に唇を落とした。
「ありがとうございます」
「……っ」
魔力を介さない、その一点を除けばいつもしていることにも関わらずルーフェの肩が跳ねる。
見なかった振りをして、ハシバはぱっと手を離した。
「部屋、戻りましょうか」
ルーフェの返事を待たずに母屋へと歩みを進める。
後ろからついてくるルーフェの気配を感じながら、かげりゆく空から射し込む陽の光に目を細めた。