16 夢から覚めて 2
「ひとつめは昨夜言っていた『お願い』のことです」
切り出された内容にルーフェは目をしばたいた。
お願いが何のことかは理解できたが、その言葉がハシバから出たことに驚いたのだ。
「レティスに何を頼んでいたんですか?」
「何、って、ミオちゃんがレティスにどう対応するかっていうのと、シズが懐くかどうかだけど……」
「……なるほど、それで。イチヤ嬢を見極めたかった、というわけですね」
レティスらしからぬ言動の謎が解けてハシバは大きく頷いているがルーフェはそうもいかない。
「そう、だけど…………ハシバ、覚えてるの? 昨日のこと」
あれだけ酔っていたのに?
疑いの眼差しを向けられてハシバの目が泳ぐ。
「……その、多分前ほどは飲んでいなかったのかと……」
「…………ふうん」
そういうこともあるだろうが、なんだか腑に落ちない。
不自然な沈黙が落ちる中、歯切れが悪いハシバと憮然たる面持ちのルーフェを見比べてレティスは首を傾げるしかなかった。
レティスがテーブルの上のシズに手を伸ばすとその腕にすり寄ってきた。頭を撫でるとシズは嬉しそうに目を細め、ごろごろと喉が鳴る。
愛らしいその姿に毒気を抜かれてしまい、ルーフェはふうと息を吐いた。
「まぁいいわ。そういうことにしといてあげる。――で? ひとつめ、ってことはまだあるのよね?」
「あ、はい。その……先程レティスに選択肢があるという話をされてましたよね」
「したわね」
「叶えたい何かがあるなら、とも。それは貴女の実体験ですか?」
「…………そう、ね」
マナに近しく、過去に何人か試練を受ける様を見ていただけにハシバは聡い。おそらく試練を受ける意味合いが違うことに気付いたのだろう。
目的と手段の違い。魔導師になることを目的にしていてはけして扉は開かない。賢者はその先を見るためだ。
大事なのは何のために魔導師になりたいのか。手段として見ることができて初めて、賢者の御眼鏡に適うことができるのではないか――というのがルーフェの見立てだった。
頷いたルーフェにハシバは問いを重ねる。
「ずっと不思議だったんです。どうして貴女は魔導師になったんだろう、って。望んで得た立場にいる風には到底見えなかったんですが……何かを叶えたかったから、なんですね。そうなのだとしたら、それが何なのか聞いてもいいですか?」
「……」
「なんでも聞いてと仰っていたのに、だんまりはないと思いますけど」
「……違う。ちょっと感心しちゃって」
口に出して言ったことはなかったのに、よく気付いたものだとルーフェは目を細める。
「そうね、色々あるけど……大きいのは居場所を作るため、かな。…………調べたら分かることなんだけどさ。父様が本当に私の父様なのかは分からないの」
ルーフェは物心ついた頃には神殿にいた。けれど近くにレオはおらず、レオに初めて会ったのは四才の時のこと。
それまでルーフェは風神殿の奥深くで父も母もなく暮らしていた。身の回りをしてくれる巫子が数人と、当時魔導師だったハリー、それにアリシアがルーフェの知る人のすべてだった。
そこに現れたのがレオだ。会うなり父親だと宣言されて驚きはしたが、それよりも嬉しさが勝った。頭を撫でてくれた大きな手のあたたかさ、肩車をしてもらった時の開けた視界。ルーフェだけでなくアリシアも等しく大切に扱う姿勢を目の当たりにして、レオに懐くようになるのに時間はかからなかった。
髪色が同じ亜麻色ということもあったのか、レオの子だという主張は表向きはすんなりと通った。
そこからルーフェの世界は広がっていく。
ある日レオが連れ帰ってきた身寄りを亡くしたという巫子で双子の兄妹と共に、神殿内を自由に動き回れるようになった。関わる人が増えると心無い声も聞こえてくるというもので、成長するにつれて自身の境遇が一般的でないと悟りもする。
ともすれば異物扱いされてもおかしくないルーフェが神殿にいられたのは、やはりレオの存在が大きいだろう。
「魔導師が自分の子だって主張して、筆頭巫子も同意すれば誰も異を唱えることなんてできない。そういうものだって、時間が経つうちに受け入れられていったけど……父様がいなくなったら話は変わる」
レオを失ったことでルーフェの立場はより微妙なものになった。
居た堪れなさに苛まれ、神殿を出ようと考えたルーフェを止めたのは他でもないアリシアだ。
あなたまでいなくならないで――そう泣いて縋られては出ていくこともできず、籠の中の鳥として息苦しい日々が続く。
「あの頃の私は風神殿にいられる理由が欲しかったの。巫子さまは守ってくれたけど、私をかばうことで巫子さままで悪く言われるのが嫌で嫌でたまらなかった。どうすればいいんだろうって考えて、魔導師になればいいんじゃないか、って……」
ルーフェはけして魔導師になりたかったわけじゃない。
それしか選べなかったのだ。身の置き場を作り、ひいては贖罪にもなるであろう魔導師になるしか、道がなかった。
「そういうわけで、運良く賢者の御眼鏡に適って魔導師になったってわけ。なってすぐにシズ……サヤさんをノルテイスラへ帰して、おしまいにするつもりだったの。これでもう、誰からも文句は言われない。――って、思ってたんだけどね……」
ぎり、と奥歯を噛みしめ、ルーフェの眼差しが揺らぐ。
急な代替わりの時点で混乱する上に、後釜に座ったのが存在すら公になっていなかった娘だという点はバジェステの上層部で大いに問題となった。
不幸中の幸いはレオが近しい人にルーフェの存在を漏らしていたこと。
特にレオの魔導師補佐を務めていた者は諸々の事情を理解した上で、ルーフェの魔導師補佐の任に就いてくれた。良家の出でもあった魔導師補佐はその後鞍替えしてバジェステの副首長となり、政方面からルーフェを支えてくれることとなる。
アリシアと双子を中心に後押しをしてくれた神殿も含め、周囲の人達の尽力もあって少しずつ受け入れられていったものの、その道はけして平坦ではなかった。
なにも知らない小娘と侮られ、些細な言動で揚げ足を取られる。足元を見られないよう発言に気をつけるようにすれば『沈黙の魔女』と不本意な二つ名をつけられた。かと思いきや魔導師なのだからと預かり知らない場面で矢面に立たされることもしばしばで、少しずつ心がすり減っていく。
そんな中、ルーフェの頭をよぎるのは楽しかったあの頃だ。
レオがいてその隣にアリシアがいる、あの暖かかった場所――それを壊したのは紛れもない自分自身で、もう二度と戻ってはこない。
もう一つ思い浮かぶのは、サヤに誘われるがままに訪れた水神殿だ。
「マナは私を責めなかった。本心は分からないけど、労ってすらくれたわ。水神殿ではサヤさんが消えた理由は伏せられたままで……居心地が良かったの」
水神殿では蔑むような視線を向けられることも、心を乱す雑音が聞こえてくることもない。
マナの態度はルーフェが魔導師になってからも変わらなかった。そしてもう一人、変わらず慕ってくれる小さな巫子がいたことに随分と気持ちが救われた。
そうして息抜きと称して時折ノルテイスラへ赴くようになった。
「それで、ミツルさんとは昔からの知り合いだって」
「うん。……って、ん? ミツル、ってその呼び方、そういえばさっきも」
「あ、うん。そう呼んでいいって言ってくれて」
どこか照れくさそうにレティスは目を細める。
視線を横にずらすとバツが悪そうなハシバに頭を下げられた。
「その節は気遣っていただきありがとうございました」
「……そう。そっか。和解できたのなら良かった」
その言葉とは裏腹に内心もやもやが募っていく。――何故だか面白くない。
冷めきったお茶を口に含むことで気持ちを落ち着かせ、ルーフェは「でね」と話を戻した。
「レティスも魔導師になったら大変だと思う。下手すると私以上に……だけど、もうノルテイスラに人を選んでいられる余裕はないの」
四苦八苦しながら過ごした日々はあまり思い出したくはないが、数年もすれば落ち着くというもの。
魔導師になってから訪れるノルテイスラはいつも大祭の頃――冬の時期だった。
あの綺麗な桜をまた見たいとふいに訪れた、三月末の北諸島。
……どうして気付けなかったんだろう。
急に魔導師を失ったのはノルテイスラも同じ。
違うのは、次の魔導師がいないことのみ。その一点のみなのに、ノルテイスラに目を向けると、そこには雪の世界が広がっていた。
「ノルテイスラを巡って思ったけど、みんな疲弊してる。五家がおさえてくれてはいるけど、それもいつまで持つか……」
小さな綻びがやがて大きな亀裂を産むことだってある。
「五家内ではそこまで急を要するものだという認識はなさそうですが」
「そりゃ恵まれた人たちだもの。でもそうでない人たちはどうなの? 食べるものに困る日もそう遠くないのに、悠長にしてられないでしょ。あまりにも民を蔑ろにしてたら、足をすくわれることだってあるかもしれない」
「それは……」
否定しようにもできない、そんな表情でハシバは口ごもった。
「あのおだやかな日々が戻ってくるなら、民は誰が魔導師になろうと歓迎してくれそうじゃない? それに、マナがいるわ。マナに認めてもらえたら、それこそ何の問題もないでしょ」
長きに渡り筆頭巫子として君臨するマナ。
深窓の令嬢さながらに表舞台に出てこないアリシアとは違い、マナは広く顔が知られている。それこそノルテイスラの首長よりも人気が高く、ある種カリスマ的な存在でもあった。
話の大きさに萎縮してしまったレティスにルーフェはふわりと微笑みかける。
「一筋縄ではいかない相手だけど、レティスなら大丈夫じゃないかな」
きっとマナはレティスを気に入ると思う。
根拠はあるのかと問われると答えられないが、そんな予感がしていた。