1 つぼみの日々
ハシバにとってイズミは叔母であると同時に、親よりも親らしい存在でもあった。
息子であるハシバを顧みない父、溺愛するばかりで躾とは無縁だった母から引き離されて水神殿に放り込まれたのは六歳になる年の夏。そこで初めて会った叔母と名乗る人は厳しくも優しい人だった。
イズミは口ばかり達者でわがままな子どもだったハシバを一から根気よく躾けてくれた。マナの側近として忙しくもあったろうに、空いた時間を見つけては色々なことを教えてくれる。学校に通えないので読み書き算盤といった基本的なことから、社会的なルールといった生きるために必要になるもの。いずれも実家にいた頃には無縁のことばかりで、耳が痛くもあった。
わがままを言って困らせて、いたずらをして叱られて、それでも見限ることなく世話を焼いてくれるイズミの信頼に報いたいと思うようになるのにそう時間はかからなかった。
魔導師であるサヤとは数度顔を合わせたきりで、その印象は「綺麗だけどどこか怖いお姉さん」といった漠然としたものだった。
気高く優美なサヤと儚く可憐なマナが並び立つその姿はまさに荘厳美麗という言葉そのもの。同時期に魔導師と巫子になった二人は切っても切れない仲で、まるで姉妹のように仲睦まじいのだと家にいる時は聞かされていた。
けれど神殿内での二人はその限りではなかったように思う。親密さはうかがえるものの、サヤと話した後のマナは決まってどこか浮かない顔をしていたから。
一度イズミに「姫様とサヤ様はけんかでもしているの?」と問いかけたことがある。イズミは目を丸くした後、曖昧に笑って「どうしてそう思うの?」と困ったような顔をした。
「だって姫様、サヤ様と話したあとさびしそうにしてるから」
「……そう。ミツルにはそう見えるのね。でもそうね、そう思うのなら大きくなってもマナ様を支えてくれる?」
「うん、まかせて!」
神殿の外にいることが多くて不在がちなサヤよりもずっと距離の近いマナの支えになりたいと思うのは自然なことで、ハシバは何のためらいもなく頷いていた。
成長するにつれてマナの儚さは見かけだけで誰よりも苛烈なことを身をもって知ることになるのだが、それはまた別の話。
魔導師と、巫子の卵。近いようで遠い存在だったサヤが消えたのは神殿に来て初めて迎えた春のことだった。
当時の混乱ぶりはすさまじく、入れ替わり立ち替わり見たことのない外部の人間が神殿内に出入りする状況は異様としか言いようがなかった。振り返ればその中に見知った顔であるセイジをはじめ、五家の者も幾人か含まれていたりシラハの家の者もいたりしたが記憶はおぼろげで正確に誰がいたのかはよく覚えていない。
筆頭巫子であるマナとその側近であるイズミは矢面に立たされて悲しむ暇すら与えられていない様子だった。もうじき首長会議だというのに魔導師不在でどうするのだと責める大人の声、それをなだめる人の声はあれど、片翼である魔導師を失って最も憔悴しているであろうマナを気遣う声は聞こえてこない。
慌ただしくもなんとか首長会議を乗り切った夏頃、ふと気付けばサヤ付きの巫子たちはいなくなっていた。男の巫子は全員、女の巫子も幾人かが神殿を去り、残されたのはマナに近しかった巫子たちだけ。
「サヤはいなくなったけれど、じきに新しい魔導師がくるでしょう。それまでは限られた者で神殿を維持します」
そのマナの言葉通り、間を開けることなく五家の者が神殿を訪れる。神殿の奥深くにある試練の扉。天井に届くほど巨大でいかにも重そうな扉は開くことはなかった。
「大丈夫。心配いらないからね」
幼いながらに不安がるハシバにイズミはそんな声をかけてくれた。頭を撫でる優しい手はどこか母親に似ていて、けれど凛とした声音はどこか父親にも似ていた。
人が減った分、残された巫子たちは皆忙しそうにしていて慌ただしく日々が過ぎていく。
筆頭巫子であるマナは神殿の外へ出られないため、何かあれば側近のイズミが駆り出されることになる。残った巫子は皆ハシバには優しかったが、折に触れて『シラハのお坊ちゃんだから』という心の内が透けて見えるようで居心地の悪さも感じていた。
そんな時に思い出すのはルーフェとのこと。
神殿に連れてこられた際に出会ったルーフェはまだ魔導師になる前で、ちょうどサヤの客人として招かれていた。他地方出身のせいかハシバの生家など気にもとめずに接し、生意気な子どもでしかないハシバの相手を嫌な顔ひとつせずにしてくれたルーフェを慕うようになったのは必然だった。
『来年も来るね』
去年の大祭の時、並んでマナの舞を見終わった後、ルーフェはそう言っていた。
けれどその年の大祭にルーフェは来なかった。
「ルーフェさん、もう来ないのかな」
「…………」
ぽつりと漏らした言葉にイズミからの返事はなく、ただ優しく頭を撫でてくれた。
「来るって言ってたのに。サヤ様がいなくなっちゃったから?」
「……分からない、けれど。バジェステはバジェステで大変だそうよ。あちらも風の魔導師様がいなくなったみたいで」
「そうなの? どうして?」
「分からない。分からないの……」
困ったように笑ってイズミは首を横に振る。
弱った声色は初めて聞くもので、虚をつかれて出そうになった涙がひっこんでしまった。
「イズミさんにも分からないこと、あるんだね」
「もちろん。分からないことだらけよ。……このタイミングであんなことを言ってくる兄さんとか、ほんとわけが分からない」
「? 父さんに何か言われたの?」
イズミの口からシラハの家の話題が出ることは珍しい。迂闊に口に出して家が恋しくならないようにと気遣われていたのだと大きくなった今なら分かる。
「ちょっと、ね。安心して。わたしはどこへも行かないから。ミツルが一人前になるのを見届けないとね」
落ち込むハシバを励ますようにイズミはにこりと微笑んでみせた。
そう言っていたイズミが消えたのは、年が明けた春のこと。
風の魔導師となったルーフェがシズと共に水神殿を訪れたのと入れ替わるように、イズミはこつ然とその姿を消した。