9 囮
翌朝、朝食の席で今日は湖の主の様子を見に行くとセイジに告げられた。
ノポリから湖までは少し距離があるため行程は馬車で。シンジが御者としてついてくるという。
空模様はあいにくの雪だが風は穏やかでそこまでの悪天候でもない。近場であれば馬車でも移動できるとの判断だった。
朝食後、クラキとの定時連絡を手短に済ませて用意された馬車に乗りこむ。車内は狭く、四人が乗ってせいぜいといったところ。ルーフェの隣にレティスが座り、その向かいにセイジとトウマが座る。乗り心地はお世辞にも良いとは言えなかったが雪道を歩かなくていいのは素直にありがたかった。
「もうまもなく着きますので」
御者席のシンジからの声にレティスはそういえばと村長の言葉を思い出す。
「湖の主って、明るい時には姿を見せないんじゃなかったっけ。行って、夜まで待つんですか?」
「まさか、明るいうちにカタをつけるさ」
レティスの疑問にセイジは何の問題もないといった風に答える。
「隠れているならおびき出せばいい。探すにしてもルーフェ殿がいれば容易だ」
「そう、ね。方法はあるわ」
ちらりとルーフェの視線がトウマを捉える。
ちょうどあくびをしていたトウマは視線に気付くとおもむろにルーフェに向き直った。
「分かってるって。囮になればいいんだろ?」
物騒な言葉に反して声色は明るくどこか気だるげで、昨夜のことなど何もなかったかのような態度だ。朝に顔を合わせた際に気まずかったのはレティスだけで、トウマが気にしているそぶりは一切なかった。
「悪いわね。おびき出してもらえたらあとは任せておいて」
「お、頼もしいねえ、ルーフェちゃん」
「当然でしょ」
対するルーフェも昨夜のことはおくびにも出さない。
腕に跡が残るほど強く掴まれてなお、ルーフェは巫子の力を持つトウマを守る姿勢を見せる。
個人の感情よりも立場に重きを置いているように感じられて、ふいに母の言葉がレティスの頭をよぎった。
『巫子はね、魔導師に守られているの』
魔導師と巫子は相利共生の関係にあると母は言っていた。魔導師がいるから、巫子は自由になれる。守ってもらえるからこそ、巫子は魔導師に魔力を渡すのだと。
何から守っているのというレティスの問いに母は曖昧に笑うのみで答えはなかった。
(魔獣から守ってるのかな……)
これもまたルーフェに聞いてみようと頭の片隅に入れておく。
木々の間を抜けるように馬車は進み、急に視界が開けたかと思うと山の裾野に広がる湖が姿を現した。
案内された湖は広く、向こう岸にそびえ立つ山々が広がっている。海のようだとも思ったが潮の匂いがしないことからここが海ではないことが分かる。
湖畔のあたりは透明度が高く透き通って見えるが徐々に緑青へ色が変わり、底をうかがい知ることはできなかった。
降る雪が水面に吸い込まれるように溶けていく。いくつもの波紋が広がり、音もないのにまるで泣いているようだとレティスは思った。
「それでは、また夕方頃お迎えにまいりますので」
「あぁ、頼むよ」
「休憩にも使える小屋があちらにあります。中に狼煙もありますので急用の際はそちらをあげていただければすぐにまいります」
それだけ告げてシンジは来た道を戻っていった。
馬車の背が見えなくなってからセイジがルーフェに声をかける。
「さて、それじゃまずは様子見といきますかな」
「そうね、ほんとにその湖の主ってのがいるか確かめないと」
頷くルーフェの手にはつるりとした棒が握られていた。
湖にかけられた桟橋の先へルーフェは歩みを進める。棒の先の翠の石がぼうと光ったかと思うと瞬く間に杖へと姿を変えた。
桟橋の先で立ち止まったルーフェを中心に風が起こり、長い髪がわずかになびく。足元に浮かび上がる光は魔法陣のようだ。じわりと光と風が膨れ上がり、えも言えぬ魔力の圧にレティスの背中を嫌な汗が流れた。ひりひりと張り詰める空気が破かれた途端、一筋の風と光が円状に広がり、駆け抜けていく。
「……いるわね」
瞳を閉じたままルーフェがぽつりと呟いた。
トン、と杖の先が陣に触れると光は消え、風も止む。ゆっくりと開かれたエメラルドグリーンの瞳にはわずかに光が残り、きらきらと雪に反射していた。
湖に広がった波紋の先を示しながらルーフェは岸へと戻り、セイジに声をかける。
「並外れた魔力を感じるから、湖の主ってあれだと思う」
「そうか。魔獣化したというのは噂ではない、と」
「……そう、ね」
「ではどうしますかな。対話できればいいが、そこまでの知性があるのかどうか」
「知性があるかどうかは分からないけど、……あの感じは難しそう」
浮かない顔でルーフェは湖を見据えている。
「なにか気になることでも?」
「……魔力の感じが変なのよ。今にも爆発しそうというか。へたに刺激しない方がいいというか……」
「ふむ。そうは言ってもこのまま放ってはおけんな」
セイジの言うことももっともでルーフェに異論はないらしく、ためらいながらも首が縦に動いた。
「そんじゃ、おびき寄せるといきますか」
ううんと伸びをしながらトウマが口を挟んだ。
緊張感の欠片もない様子になんだか拍子抜けしてしまう。
どうやっておびき寄せるのだろうと注視するレティスの目の前でトウマは懐から小さなナイフを取り出した。ためらいなく指の先でナイフが引かれ、すうっと赤い線が走る。
そのままトウマは桟橋を進む。先まで行かず、中程で立ち止まったかと思うと湖に向けて指を下ろした。赤い球が数滴零れ落ち、水面が揺らいで水の玉が跳ねる。
「ま、こんなもんでいーだろ」
ぺろりと傷口を舐めながらトウマは湖岸へ戻ってきた。
「魔獣は巫子の血に惹かれるもの、か。難儀な体質だとは思うが囮としてはこの上ないな」
感心したようにセイジがトウマの肩を叩く。
「お褒めに預かりどーも」
「しっかり止血しておけよ。お前が喰われると面倒なことになる」
「分かってますって」
指の先を押さえつつ手を振り、トウマは湖から距離をとった。
「――そろそろね」
ルーフェの言葉に湖に視線を戻すと湖面が不規則に揺れていた。ひやりと空気が張り詰めていく中、桟橋の先の水面が不穏に膨らんでいく。
「主様のおでましだな」
よく通るセイジの声が水音に負けずレティスの耳に届く。
水面から姿を現した湖の主。それは何とも形容しがたい異形の魔獣だった。