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誰が為に春を恋う  作者: 香山なつみ
第七章 レゾンデートルのありか

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16 告白

 ミオとの面会の後、ハシバはいつもの尋問室ではなく特別懲罰室へと案内された。

 特別懲罰室の存在は耳にしたことはあるものの、目にするのもまして足を踏み入れるのも初めてだ。

 室内の造りは他の牢と大差なさそうに見えて、部屋の隅に置かれた椅子のようなものが異様な存在感を放っていた。箱のように四隅に柱があり、その中央に人が一人座れそうなので椅子と称したが、当然普通の椅子ではない。

 座れと促されるままに従えば、手足を椅子へ拘束されて動けなくなった。


 ――この姿勢のまま鞭や棒で殴られるのだろうか。


 そんな考えとは裏腹に、上からぽた、と何かが落ちてきた。

 一体何がと上を向けば、上部に備え付けられた桶から水滴が滴り落ちてきているようだ。


(……これのどこが罰なんだ?)


 拍子抜けするハシバへ、カズマは「洗いざらい吐く気になれば解放してやろう」とだけ告げて去っていった。




 それから、何日経っただろうか。

 ハシバは己の考えが甘かったことを痛感していた。

 たかが水滴、されど水滴だ。延々と一定間隔で落ちてくるそれは次第にハシバの身体を冷やし、容赦なく体温を奪っていった。

 身動きが取れず、眠ることもできない。

 けれどいずれ身体は限界を迎えるもの。気を失いそうになれば、看守からバケツの水が飛んでくる。無理やり覚醒させられ、咳き込むハシバに看守は優しく問いかけてきた。


「話す気になったか?」

「…………」


 連日の尋問に弱っていた身体は悲鳴を上げ、許しを乞うて楽になりたいと叫んでいる。

 けれどそれだけはできないと噛み殺して沈黙を守った。

 ここまできたら音を上げるのが先か、命の火が消えるのが先か、我慢比べだ。

 なけなしの根性を奮い立たせ、ハシバはぎゅっと唇を引き結んだ。


 何度かバケツの水を浴びて、その時は訪れた。

 なにやら外が騒がしい。


 ――カズマが様子でも見に来たのだろうか。


 表情を殺して重たそうな扉が開くのを眺めていたら、現れたのは予想とは違う人物だった。


「すまんミツル、遅くなった」

「……セイジさん……」


 助けはいらない、来るはずもないと覚悟はしていた。

 けれど、万が一。もしも助けが来るのであれば、それはセイジに違いないとは思っていた。

 そんな淡い期待に応えてくれたセイジは室内を一瞥しただけで状況を理解したらしい。

 問答無用で看守から鍵を奪い、セイジはハシバの拘束を解いていく。


「無事にレティスは魔導師となった。もう大丈夫だ」

「そう、ですか……」


 力強い声に頷くことしかできない。

 緊張していた身体がわずかに緩むが、まだだ。まだ、肝心なことが聞けていない。


「彼女は――」


 ルーフェはどうなったのか。

 そう問いかけようとした言葉にかぶさるように、耳をつんざくような声が脳天に響いてくる。


「もう、もう、心配したんだからね!」

「…………シオン……?」


 久しぶりに聞く声だったために一瞬誰だか分からなかった。


「なんてひどい……ほら、回復してあげるから。おいで」

「そうだな、魔力をもらえば少しは復活するだろ。よ、っと。解けたぞ。ほら、歩け……なさそうだな」


 身体は冷え切っており、手足の感覚はとうに失われてしまっていた。立ち上がることすら難しく、セイジに肩を貸してもらう。

 セイジの服に水のしみが広がっていくのを見て、自身がすっかり濡れ鼠なことを自覚した。


「すみません……」

「これくらい大したことない。気にするな」

「あの、――……っ!」


 改めてルーフェのことを聞こうとしたハシバの身体を、暖かな風が包み込む。

 濡れていた衣服のみならず、髪や肌までもがたちまちのうちにからりと乾いていった。

 ここは屋内で、風の吹き込む余地などないはず。それなのに、こんな芸当ができるとしたら――


「……どうして」


 あたりを見回したハシバの視線がフードを目深に被った人物で留まる。

 わずかに覗く口元に、垣間見える亜麻色の髪。

 どんな仕打ちを受けても守りたかったその人を、見間違うはずなんてない。


「ルーフェ……」


 喉の奥から絞り出した声は掠れて、白息と混ざり合う。

 ルーフェの前に立つには、今のハシバはあまりにもみすぼらしかった。

 全体的に薄汚れている上に髪はボサボサ。血色も悪く、見せたことのない無精髭も生えて、おまけに助けを借りなければ一人で立つこともできない。


 ――情けない姿を見せるくらいならば消えてしまいたい。


 そう思ったけれど、ルーフェから視線を逸らすことはできなかった。


「……待ってたのに来ないから、迎えに来ちゃった」


 フードを取り、ルーフェは歩み寄ってくる。

 エメラルドグリーンの瞳がきらきらと輝いているのは魔法の残滓だろうか。

 その表情は視界が滲んでよく見えない。

 身体から力が抜けて、肩を借りても立っていられなくなってしまった。へなへなとへたり込むハシバに、ルーフェの手が伸びる。


「遅くなってごめんね」


 ルーフェもまたその場にしゃがみ込み、囁くような声で告げた。

 ボサボサの髪に触れる手はいつもと変わらず優しくて、抑え込んでいたものが溢れ出しそうになる。


 いつもそうだ。

 ルーフェの手にかかれば、たやすくあの頃に戻ってしまう。

 迷子になって泣いていた幼い自分。必死に背伸びをして、大人にならざるを得なかったハシバをルーフェはいつだってありのまま認めてくれた。


「……っ、ルーフェ……」


 懇願するように名を呼び、手を伸ばすと抱きすくめられた。

 ほの暖かく、柔らかな身体に包まれる。深く息を吸い込めば甘い香りが鼻へ抜けていった。


「よく頑張ったね」


 ぽんぽんと背中を撫でる手があまりに心地良くて、このまますべてを委ねてしまいたい――そっと目を閉じたハシバの耳に、セイジの焦ったような声が響いた。


「っ、おい、やめろ!」


 目を開ければ、ルーフェの肩の向こうに何かがきらりと光る。


「――あんたさえいなければ……!」


 シオンの声だ。

 鬼気迫る形相で近寄ってくるシオンの手には鋭利な刃物が握られている。

 どこにそんな力が残っていたのか、ハシバはルーフェの身体を押しのけた。

 倒れたルーフェを庇うように前に出る。


「――っ」


 衝撃は一瞬のこと。

 先にきたのは痛みよりも熱さだ。


「どう、して……」


 愕然とした声を漏らすシオン。

 どうしてはこちらの台詞なのだが、泣き濡れて絶望の光が宿る瞳と目が合ってしまい、何も言い返すことはできなかった。

 シオンの手を包み込むように、左の脇腹に刺さったナイフをゆっくりと押し戻す。

 からん、と床にナイフが落ちた音を合図に、セイジが動いた。


「貴様……!」


 瞬時に距離を詰め、シオンを床へ引きずり倒す。


「ハシバ……! やだ、なんで……」

「ルーフェ、怪我は……」

「ない、ないから。私よりもハシバが……」


 もう立つことはおろか、座ることすら難しい。

 身体が傾ぐ。固い床に横たわり、殺風景な天井しか視界に入らなくなった。

 片手で脇腹を抑えてはいるが、生温い血が流れ出していくのを止めるには至らない。


「やだハシバ、しっかり……」


 どんどんとルーフェの声が遠くなっていく。


「……いかないで、ルーフェ……」


 空いた片手を伸ばせば握り返してくれることに安堵するも、その手の温度すらもう分からない。

 朦朧としていく意識の中、思うのはただ一つだけ。


 ――好きだ。


「ずっと、貴女だけ、が……」


 ぐらりと視界が暗転する。

 身体中を何かが這い回るような不愉快極まりない感覚に襲われ、ハシバの意識はぷつりと途切れた。




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