9 船の上で
用意された船のチケットは午後の便だった。
予定は日暮れ前にアルメアを出発し、夜の帳が下りる頃にロトスへと到着する。船はレティスが三日月の西から北諸島へ渡った時のものよりは小振りだったが、それでもゆうに百名は乗れるのだという。
大きな船体に負けず劣らずの大きな帆。風の他に補助動力として魔石を利用した魔道具が備えられているというのはセイジから聞いた話だ。
あてがわれた一等客室の周りは人払いがされているようで、一行の他に乗客は見当たらない。わずかな時間でも人目には付きたくないとルーフェは部屋にいることを望んだが、レティスは湧き上がる好奇心を抑えきれないでいた。
「せっかくだし、外に出てみたいんだけど……」
ルーフェとハシバから難色を示される中、唯一手を差し伸べてくれたのはセイジだった。
船の中という閉鎖空間では誰しも揉め事は起こしたくないはずで、少しくらいは問題ないだろうというのがセイジの言だ。
「俺がついていればいいだろう?」
レティス一人が目立つのであれば、現地民であるセイジと共にいればよりリスクは減る。それはルーフェも認めるところなのか、渋々といった体で首を縦に振ってくれた。
船室に二人を残して、レティスはセイジと連れ立って甲板へ向かう。
「海の上は冷えるからな、しっかり着込んでおけよ」
雪の舞う甲板は人がまばらだった。
セイジの言葉通り吹き付ける風は冷たく、上着を着ていてもなかなかに寒い。吐く息は一瞬にして白く染まり、船の後方へと流れていった。
「う、わぁ……」
レティスの目の前に広がっていたのは橙色に染まる雲と帆、それに一面の海原だった。
雲の切れ端からわずかに覗く太陽は赤く、北島と南島の合間を縫うようにゆっくりと地平線へ沈んでいく。
『神殿からはね、海に沈んでいく夕陽が見えたの』
ふいに母のそんな言葉が思い起こされる。
故郷ではあれほど力強く大地を照らしつける太陽も、ここではどこか儚さを感じさせた。
「――レティス、悪いが少し席を外す。自分で戻れるよな?」
「えっ? あっ、うん」
感傷にふけっていたら急に現実に引き戻された。
振り向けばセイジのかたわらには乗組員らしき男がいる。何やら話があるようで連れ立って船の中へ入っていった。
何の話か気にはなったが、それよりもこの場を離れるのが惜しい。
時間を忘れて見入っていたら、いつの間にか周囲から人がいなくなっていた。
とうに太陽は地平線へ沈んだというのに、ほのかに残る橙色から夜の藍へのグラデーションが美しい。
(……もうすぐ、大神殿に行けるんだ。そこで、マナ様に会って……)
まぶたを閉じて思い浮かぶのは母であるイズミの姿だ。
マナのことを語る時、イズミの瞳には羨望の色が宿っていた。けれど表情はどこか物悲しくて、裏腹などちらが真意なのかレティスには分からなかった。
レティスの知るイズミは夢うつつで、今にも消えてしまいそうな危うさがあった。レティスと父の区別もつかない時もあったが、それでも、レティスは愛されていたと思う。
頭を撫でる手は優しくて、抱きしめる腕は暖かい。なにかひとつできるようになる度に喜んでくれて、叔父に理不尽に怒られて泣いていた時はずっとそばに寄り添ってくれた。
時折会う父の印象は薄い。同じ髪色、父の幼い頃に瓜二つだということもあり、幼かった頃は可愛がってくれた記憶はある。けれど年を重ねる度に不思議と態度は硬化していき、イズミの死を契機に完全に切り捨てられてしまった。
悲しくはあったが、心のどこかでそんな気はしていた。父にとって自分は要らない子なのだろうと。
むしろあの故郷を出る決定打となってくれて、今となっては感謝すら覚えていた。
(……魔導師、か)
疎まれるばかりの存在なのだと凝り固まっていたレティスに示された、一筋の光。
それを掴み取るための場所へ、刻一刻と近づいていっているのかと思うと無意識に欄干を掴む手に力が入ってしまった。
「――こんにちは。ううん、こんばんは、かな」
「えっ」
声をかけられるとは思いもよらず、レティスは弾かれたように振り返る。
――黄昏時とはあの世とこの世が交わる時。
ぱっと灯る船の明かりに照らされてきらりと輝く髪に、黒の中にいくつもの光りをたたえた瞳。
そこにいたのは、あの時夢で見た人に他ならなかった。
「な、なんで……」
「ん? ボクが挨拶してるのに、返してくれないの?」
首を傾げる様はなんとも愛らしいのに、その声色は不思議と有無を言わさない圧力が感じられる。
「あっ、こ、こんばんは」
ぺこりと頭を下げれば満足げに微笑まれた。
(だ、誰……?)
どうして夢の中で見た人が?
呆気にとられるあまり、喉元まで出かかった言葉は外に出ることはなかった。
にこりと口角を上げた少年は立ち尽くすレティスに歩み寄ってくる。
「ねえ」
その声音は高く澄んでいて、声変わり前独特のものだ。
おもむろに欄干に身体を預け、少年は問いかけてくる。
「キミはこの国の『成り立ちの話』を知ってる?」
「えっ? そりゃもちろん知ってるけど……」
テレサリストに住まう者であれば知らない者はいないだろう。
精霊の恩恵を受けるこの国で、そのあらましは脈々と語り継がれているのだ。
『最初は、精霊とヒトだけがいた。
幾年もの間、仲睦まじく暮らしていた両者だったが、いつの日か精霊たちはその姿を消してしまった。
代わりに悪魔の子が現れる。
その圧倒的な力にヒトは蹂躙されるしかない。
混乱の時代が続く中、ある時、賢者が現れた。
賢者はヒトを導き、悪魔の子を打ち破ったのだ。
そうして、大地に再び平穏が訪れる。
いなくなったと思われた精霊たちは、大地に溶け込んでいた。
姿こそ見えなくなったが、精霊たちの加護は確かにそこにあった。
『魔法』という、精霊の力をヒトは使えるようになったのだ。
時が経ち、精霊に愛される者として巫子が現れた。
対して賢者は精霊の力を操る魔法使いの中から特に優秀な者を魔導師として選び出す。
魔導師と巫子。
両者が揃うことで安寧が保たれると賢者は告げ、その姿を隠してしまった――』
親が子に絵本を読み聞かせるように、レティスもまたイズミから教わった。
イズミが話に登場する巫子なのだと知って、幼心に誇らしく思ったのはよく覚えている。
懐かしく思うと同時に、いきなり何故そんな話を持ち出してくるのか真意が読めず、レティスは困惑するしかない。
「その話さ、おかしいなって思わない?」
「……おかしいも何も、言い伝えなんてどこか都合の良い風に変えられてるものじゃないのか?」
「ふうん。そこはちゃんと分かってるんだ」
意外そうな言葉とは裏腹に、少年は嬉しそうに笑う。
「それじゃあさ、どこがおかしいのか考えてみてよ」
「な、なんで」
「なんで、って。キミ、魔導師になりたいんじゃないの?」
「……っ」
予期せぬ言葉にレティスは目を見開いた。
――今、魔導師、と言ったのか。
ルーフェ達以外には誰も知らないはずのことを、どうしてこの少年は知っているのだろう。
まじまじと目の前の少年を眺めてみても答えを得られるわけではない。けれど少年から目を離すことはできなかった。
「最初は精霊とヒトしかいなかったんでしょ? それじゃ急に現れた『悪魔の子』って、何なんだろうね?」
「……」
「答えは次に会った時にでも聞かせてよ。――会うことができれば、だけど」
少年がすっと腕を伸ばし指し示すのは、太陽が沈んだ地平線とは真逆の方向だ。
見えるのはロトスの街がある中央の小島。船の入港を待ちわびるかのようにいくつも明かりが灯っている。
「あの明かりの数だけ、キミたちを捕まえようとしている人がいるよ?」
「えっ……」
ひときわ強い風が吹き抜け、短い汽笛が鳴り響く。
船体が揺れて足元がぐらついた。風にあおられて刺すような雪に思わず両手を顔の前で交差する。
何度か足踏みをしてようやく周りを見る余裕が戻ってきた時には、少年はその姿を忽然と消していた。




