白い犬
祖母が亡くなった夕方から雪が降った。
鈍色の分厚い雲が二月の空を覆っていたのは確かにその日の午前中までで、よくもそれで降らなかった方が季節に似つかわしくなかったくらいだ。
両親とともに帰省した僕は言いつけられては腰を上げての手伝いを繰り返していた。その間、両親は集まった他の親戚たちに交じって祖父と話をしていた。葬祭業の方は段取りに加わっていた。
一夜明けると、すでに五十センチ近くの積雪になっていた。停めていた車の屋根にパンケーキとはいえそこまで膨れることはないだろうと嘆いたくらいに雪が乗っかっていた。
吐く息が消えることなく白い靄となって眼鏡を曇らせ続けていた。
田舎のお勝手から外へ出る戸はすりガラスだった。それでも積もった雪がこんもりとしているのははっきりとわかる。わかるから、そこを白い塊がさっと動いたのも見えた。風にあおられた雪玉にしては大きい。僕は好奇心でも確認でもなく、ただ何となく戸を開いた。雪は物が移動したり、氷柱が落ちたりした跡はない。静かに一晩降り続けて積もった自然の形成のままだった。白く光る瞬きが、視線を左右に振らせると、海岸へ抜ける家の裏手に白い犬がいるのを見た。じっと見つめていた。僕ではない。視線が交わることはなかったし、威嚇をしてきている様子もなかった。犬は雪像ではなかろうかと、眼鏡の中の目はぎゅっと細くなった。落ち着いて座っている姿勢は、息をしている体躯は確かに犬だった。まさかあの犬がここから走ったとしたら、足跡がないのは不可思議で、またじっとそうしているのも不自然な気がした。僕は急に動悸がして、お勝手にそろえてあった冷たい長靴に足をつっこむと、犬の方へ大股で動いた。積もっている。雪かきをしていない。走れないから、どうしても不格好にそれでも早く近づきたくなってそれが肩を左右に揺らした歩幅になった。犬まで数メートルになると、その白い犬はそっと腰を上げると軽やかに、僕がさらに歩むとそれからずっと軽快に走って行ってしまった。小屋を過ぎて見通しがよくなると、犬の姿はどこにもなかった。僕は荒々しい息でやはり眼鏡を曇らせながら、ようやく長靴の中に入ってしまった雪の冷たさを感じた。振り返ると僕の足跡がボーリング作業の跡のようになっていた。ぼやっとした胸の熱さで僕はあたりを見渡した。右耳の先だけ茶色の白い犬がいた所から走り抜けた方向には座った尻の跡どころか、足跡さえなかった。一晩降ったままの白い雪の造形のままどこまでも広がっていた。
出棺の前に雪は止んでいた。
通夜、葬儀、納骨を終え、居間では大層な引っ越しを済ませた安堵の感で、一同が互いにねぎらいあった。葬儀場でも墓地でも号泣していた祖父はけろりとお茶を啜っている。父は断り切れなかったビールの量のせいで着替えて早々仮眠に入ってしまったし、母は叔父や叔母たちとせわしなくしていた。僕はあの犬のことが気になってはいたけれど、誰にも言い出せなかった。年上の方々はみんな落ち着きなく動いていたし、年齢が近いとはいえ数年ぶりの再会した従兄とも会話はそつのないことばかりだった。それにたった一度見ただけの、足跡のない犬のことを話すのは、まだ新人の部類に入るのだろうけれども社会人の僕には憚られることだった。
その翌日である。遺品整理と言うのは仰々し過ぎて、年越しの、あるいは年末を先駆けた大掃除みたいに祖母の部屋やら物置やらを片付けることになった。祖父と祖母しかいなくなった築何年か計れない大きな家に、人手がある時にそれを使わない手はない。
休憩になった。もう二時間もぶっ続けで作業をしていた。
「面白いもん、あってな」
父が熱いお茶を啜ってから居間のテーブルにどしりと置いたのはアルバムだった。叔父も叔母たちも一杯どころか何杯かひっかけたくらいの浮き立つ感で懐かしい写真たちに喚起された記憶を肴にしていた。父の後ろから立って覗き込んでいた僕は、一枚の写真にくぎ付けになった。幼い、三歳くらいの僕が写っていた。
「これって……」
思わずつぶやいた。思い出を保持している方々はその時のエピソードに歓喜しだした。沸き立つ物語の断片断片が僕の耳に入ってきた。まったく記憶にない。けれど、写真にはおそらくその通りなのだろう一瞬が収められている。白い犬、右耳の先だけが茶色の、ユキと言う名の犬と、その頭に手を伸ばす僕が枠の中にあった。あの時見た、そのままの白い犬だった。それまで怖がっていたのに、ふいに近づいて行ったので撮ったらしい。叔父も叔母も自分が撮ったと引かなかった。
「あのさ、こないだ……」
僕は口になってしまったように、白い犬の話をした。考えながら差しさわりのないようにするとか、理路整然と体裁を整えるとかそんな頭がなくなってしまっていた。
みんな奇異の目をしていなかった。
「そういえば、ユキってお母さんが亡くなった前日くらいが命日じゃなかったっけ?」
「寒かった日ってのは覚えているけど、そうだっけ」
叔母と父がぼんやりとした回想をし出すと、
「ユキが母さんを迎えに来たんだろうなあ」
叔父がまとめた。誰も反論をしなかった。大学院へ進学予定の理系の従弟も別段異議を差し込む様子はなかった。皆、懐かしいまなざしで再びアルバムを見出した。
止んでいた雪が再び降り出したのはその日の夕方からだった。
除雪車によって不格好に積み上げられた、いわば雪塁が歩道を狭くして、また土色が混じる雪の気持ち悪さに僕は手伝っていた雪かきを、「勝手場から裏の方やるよ」と提案して玄関先から移動した。お勝手を出ると、みずみずしい形状と色彩の積もった雪が敷き詰められていた。僕はそこから小屋の方へ、それから海へ抜ける家の裏手へ一人雪かきをした。蛇行する型崩れしたU字の雪道はそれでもやはりキラキラとしていて気持ち悪さどころか、鈍い腰の重さもどことなく達成感に似た心持を催した。数回かいてはちょっと休みを繰り返して、どうにか敷地を出るぎりぎりまで一本の道をこしらえることができた。背中を遠くから吠えられたので、少し陽気な感じで振り向くと、四、五軒向こうの家の屋根の下に細い犬がいた。ため息をつくと煙となった。白い犬はどこにもいなかった。動物の、おそらく猫か何かの足跡が小気味よく隣の家へ伸びていた。裏の通りには人の足跡が乱雑に散らばっており、散歩に同行したのか犬の足跡も並んでいた。ユキとは、その白い犬がやって来た日に初雪になったからと聞いた。右耳の先が茶色になっていてもユキと名付けられた白い犬に僕は怖がっていても撫でようとして手を差し伸べたと聞いた。へたくそながら雪道を作った僕は、短く息を吐くと、玄関の雪かきへ戻った。除雪車に積み上げられた雪塁に気持ち悪さはもう感じなくなっていた。
雪はその日の夜には止んでいた。翌日にはこの帰省は終わる。その準備と言えるほど荷物は多くない。スマホの充電が気になるくらいだ。二十一時前、僕は外に出た。星々が煌びやかに広がっていた。細長い雲の切れ端が流れていく。ずいぶんと上空は風が速いようだ。それでも星々の輝きは宇宙に散りばめられており、「あ、オリオン座」とはっきりと識別できた。雪かきをした成果を見直した。昼と変わらない雪の光。外灯があったとしても雪は雪だった。もう一度星空を見上げて、雪染まる地面を見た。星の光と雪の光、どちらが照らしているのだろうかと、ポエムちっくな想起があって肩をすくませた。充電が不十分なスマホをズボンのポケットから取り出した。目障りに感じる画面をタップして現したのはLINEのトーク。入力しようとして止めた。「通話」マークをじっと見た。
「おばあちゃんね、あなたに彼女ができるかって気にしてたみたい」
アルバム閑談が一通り終え、片づけを再開する前、叔母からそんなことを言われた。明確な相方とは言い切れない関係の女性がいた。祖母の件は帰省の前に話していたからこの数日連絡は取ってなかった。「通話」をタップするとシグナルが三度して彼女が出た。数日の経緯はまた今度として、本題に入った。
「あのさ、今度一緒にこっちに来ない? 小旅行みたいな感じで」
彼女は二三秒言葉はなく、
「もう少しストレートで、それでいてひねった告白の方がよかったかなあ。まあ、そろそろなければ私からのつもりだったし」
からかうように注文を付けてきた。トーンは了承を続けた。戻ってからの予定を軽く話して、僕は家に戻ることにした。玄関を入ってすぐLINEが鳴った。彼女からだった。犬を飼うことになったと言う。画像もすぐに送信されてきた。そこには、彼女と一昨日来たという犬が写っていた。頭をなでられているその犬は左耳の先だけが茶色で全身が白かった。ちなみにと、遅れて送信されてきたメッセージには白い犬の名があった。ユキ。
僕は仏間の方を、それから裏の方を見やってから、彼女のユキを見てみたいと送信した。その時には、こちらの白い犬の話もするだろう。