2 花言葉
乗馬姿の絵を送ってすぐ、婚約者のベルンハルトから手紙が届いた。
いつもなら送ってしばらくしてから季節の挨拶から始まる、よく言えば大人っぽい、悪く言えば味気ない手紙が来るのに。
お茶が冷えるのも気にせずにスカーレットは何度も繰り返してその手紙を読んだ。若い男性に褒めそやされるのには慣れていたが、婚約者はいつも彼らと同じようなありきたりな言葉しか送ってこなかった。
だが今回は「華奢で守りたくなる」「会える日がとても楽しみだ」という一歩踏み込んだ言葉を書いてくれている。あの絵のおかげだ。ドレス姿より乗馬姿にしてよかった。
(この方がこんな風に心の内を言葉にしてくれたのは初めてね)
胸の中で少しずつ大きくなる不安や、誰にもぶつけられない怒りのような感情が急に溶け出していく。
他国の王妃になる、とひと言で言えば晴れがましい話だが、言葉も習慣も違う国で将来の王妃として暮らすことがどれだけ精神を削られる日々になるのか、スカーレットは年齢のわりには正確に理解していた。
そして、意地悪されても失敗を笑われても、抱きしめて慰めてくれる両親がいないということがどれだけ心細かったか。
国内に嫁ぐことが決まっている令嬢に自分のことを羨ましがられると「そんなに羨ましいならあなたが私の代わりに嫁ぎなさいよ」と言ってやりたいのを我慢してにっこり笑って聞いてきた。
婚約者は今回「心細い思いでいるかもしれないが、全力で君を守るから安心して自分のところへ来て欲しい」と書いてくれた。自分がずっと欲しかった言葉をやっと送ってくれた。
自分の両親は政略結婚でありながら途中でごたついたのは社交界では有名な話らしい。お茶会でそれをとある令嬢に匂わされ、侍女を問い詰めて聞き出したことがある。
もめた挙句に父の「こんな心労の多い立場を頼める女はお前しかいないんだ」と言うセリフで母が王妃になることを決意したというエピソードだった。娘からすると「あらあら」と苦笑したくなる甘い話だ。そしてとても羨ましい話だった。
婚約者の両親の結婚が最初からあまり良い形では始まっていないことは最近母から聞かされた。
「お前もいずれその女性に会うでしょうから、今から胸に収めておきなさい。決して義父が大切にしている女性を貶めたりしてはいけない。だけどその女性の存在に苦しんできた義母の苦労も忘れてはいけない」
と王妃である母が真面目な顔で話してくれた。
ベルンハルト様は仲の良い両親を見て育った自分が経験していない苦労をしてきた人なのだ。私がその苦労を半分負担してあげられたら、とこの手紙を読んで思った。
「全力で君を守る」「誠実な夫でありたい」「安心して自分のところに来て欲しい」
何度もその文字を追っていたら便箋にポタリと涙が落ちた。
「スカーレット様」
生まれた時から自分のそばにいる侍女がそっとハンカチを差し出してくれた。
「あら、嫌ね。泣いたりしてみっともない」と苦笑した自分の背中を侍女のセシリアが優しくさすってくれる。
「良いお手紙だったのですね」
「ええ。初めて血の通った人間と結婚するんだと思ったわ」
「まあ。またそんな言い方をなさって」
ハンカチで涙を抑えてから、スカーレットはセシリアを見つめた。
「本当は大声をあげて泣いて暴れたいくらい嫌だったのよ。なんで王女なんかに生まれたんだろうって。外国になんて嫁ぎたくないって。でも仕方ないわよね。私がお母様を選んで生まれてきたんですもの」
セシリアは何も言わなかったが穏やかに微笑んでスカーレットの手を両手で包んでくれた。
「どうしても避けられないことなら『さすがはスカーレットだ、自慢の娘だ』ってお父様に言わせてみせるわ」
「その意気でございますよ」
同じ箱に収められていた植物画を手に取った。繊細な花の絵が二枚。
「こんな趣味をお待ちだったのね」
机に置いてあるベルンハルトの絵姿を見る。額縁の中で赤みの強い茶色の髪のベルンハルトが正装してこちらを見ていた。知的な黒い瞳の、整った顔立ちの青年だ。
「殿下が植物画を送ってくださったのですから、スカーレット様も何かお手製の物を送って差し上げないとなりませんね」
「そうね。面倒だけど刺繍したハンカチでも送ろうかしら」
「それがようございます。スカーレット様、この植物画に描かれている花の花言葉をご存知ですか?」
「知らないわ。レモンの花と菩提樹の花ね。どちらも地味よね」
セシリアがいそいそと花言葉集を開いてレモンと菩提樹を探してくれた。
「まあ」
「なあに?」
「ご覧くださいませ」
「レモンの花が『誠実な愛』で菩提樹の花は『結婚』ですって」
「素敵なことをなさいますね」
スカーレットが、ほんのり頬を薔薇色にして植物画を眺めた。
・・・・・
「ええっ!」
「どうなさいました殿下」
「お前、僕が植物画を箱に入れるのを見ていたよな?」
「はい」
「僕が送った植物画の花言葉を知ってたか?」
「いえ、花言葉があるのは存じておりますが、全ての花言葉はちょっと。バラくらいしか」
「僕もだ。うっかり失念していたよ。学術的な分類くらいしか知らなかったが、『花言葉に感動しました』って書いてある」
二人の若者は顔を見合わせてから慌てて図書室に走り、花言葉を集めた本を開いた。自室には学術的な図鑑しかなかったのだ。遠くの地にいる婚約者だから花束を贈ったこともなければ花言葉の意味を調べたこともなかった。ヒヤヒヤしながら本のページをめくった。
「レモンは『誠実な愛』、菩提樹は『結婚』だ」
ベルンハルトが「ふうう」と大きく息を吐いた。
「偶然に当たりを引いてましたね」
「全くだ。おい、これを見てみろよ。クローバーは『復讐』、オダマキは『愚か』って……なんで花にこんな恐ろしい言葉を紐づけるんだ?こんなきまりを作ったのはどこのどいつだよ」
「殿下はオダマキの絵も描かれてましたよね?」
「ああ描いたな。あの時も手元にあった。選ばなくて本当に良かった。なんて恐ろしい」
「愚かって!年下の婚約者に向かって愚かって!とんだ性格破綻者になるところでしたね。オダマキの絵を送られてたら、スカーレット様はどう思われましたかね」
一瞬の間を置いてからベルンハルトはブルっと身体を震わせて
「この本は手元に置いておこう」
と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
知らないって怖い。
次はスカーレットの母、マーゴット王妃のお話です。