災害 (エッセイ風短編小説)
私たちは“あの日”をきっと忘れないだろう。
経験した全員が亡くなるまで、忘れないだろう。
それは、“あの日”の未明に起こった。
私は“あの日”の“あの時”、未だ夢の中だった。
もう、“あの日”にどんな夢を見ていたかなど、忘れてしまった。
私が起きると、既に家はガラクタと化していた。
ガラス片に気を付け乍ら、スリッパを履き、玄関に向かった。
玄関は開かなかった。
玄関はガラス製品が使われておらず、ガラスの置物も置いていなかったことが幸いして、靴に硬い物の破片が入っている心配は無かった。
私は運動靴を持って、家の庭から外へ出た。
家の外に出る途中、何度か大声を出してみたが、誰もその声に返す者はいなかった。
家に出た途端、家の大黒柱は安心したかのように、その役目を終えた。
その時の絶望感を、今でも覚えている。
家を出て、家族が先に避難所に来ていることを祈りながら、最も家に近い避難場所の一つになっている小学校に行った。
私が卒業した小学校だ。
行くと、既に何人かが避難していた。
それで少しは希望を持って、探すことにした。
暫くして、私は家族が別の避難場所に行っていると考え、探索届を出した。
同じく学校の掲示板にも同様の張り紙をした。
その日は他の人の多くと同じように、ラジオに耳を傾けていた。
その後も暫しラジオを聞くことはあったが、給水車や支援物資受け取り場所の情報以外で芳しい情報が得られたことは無かった。
“あの日”から数日が経った。
家族はまだ一人も手掛かりが出なかった。
親友も、旧友も。
避難所で知り合いには数人ほど合った。
進路で別の高校に行った、中学校時代のクラスメート、少し遠い、一度だけ行ったことのある、そこまで美味しくもないパン屋の店員、挨拶運動や横断歩道の先導をしていたおばさん。
ある程度顔の知った人は居たが、そこまで親しい人がいなかった。
彼らは彼らの親しい人が一人以上はいたのもあって、最初の挨拶程度を済ませると、それ以降は挨拶以外に話しかけることもなかった。
まあ、おばさんは度々パサパサながらも貴重な非常食を分けてはくれた。
あの非常食は最近出ていたものだったが、一昔前に売られていた非常食より不味かった。
不味かったにも関わらず、「人が自分に物を分け与えてくれた」という感情のみで涙が溢れてしまった。
“あの日”から約一週間後、道路の応急修理が終わり、通常タイヤの大型トラックによる補給物資の配給が始まった。
割り箸は支給されることが珍しいと後から知ったが、この地域は少量ながら配られた。
ここから暫くカップ麺と化合反応熱の非常食の生活となった。
少量の不味い非常食よりかはマシなものだ。
ラジオでは津波の被害を伝えるようになっていた。
幸い私はその被害に遭うことはなかったが、どうやら人的被害、経済被害、その両方で多大な被害が出たようだ。
“あの日”から二週間後、家族が見つかったらしい。
ただ、生きてはいなかったが。
不思議と涙は出てこなかった。
もしかしたら、どこかで悟っていたのかもしれない。
ただ、もっと言いたいことを言っておけば良かったと、多少の後悔の念はあったが。
ここから復旧速度は上がっていった。
仮設住宅が建てられ、避難民はそれらに入っていった。
私は近くに血族、縁族がいなかった為、多少時間は掛かってしまったが、“あの日”から一か月経つ前には入ることが出来た。
風呂は無いがシャワーはある。
久々の個室の浴室。
ここで温かいシャワーを浴びて、少し家族のことを思い出して、泣いてしまった。
そこから瓦礫の撤去などが始まり、今となっては“あの日”発生した瓦礫の半分以上は撤去したと言われている。
だが、未だにここは“被災地”だ。
人の心は傷ついたまま。
失った人命は戻ってこない。
そして思い出も。
だが、私たちは進んで行かなくてはならない。
私たちの足で。
私たちは再建しなければならない。
私たちの手で。
そしてここが再び前の街並みを取り戻したとしても、この事実を語っていかなければならない。
次の世代に。
それが、生き残った者の使命なのだろう。
次の世代、若しくはその次の世代、はたまたその先の世代か、再びこの災いが訪れることがあれば、この経験、この情報をせめて活かして、乗り越えていって欲しい。
それが私の願いだ。
この事実を振り返るのは、私たち当事者の多くは辛いと感じるだろう。
だが、この経験を伝えなければ、災いに遭う人々の被害が大きなものとなってしまうだろう。
失われた命、時間、思い出は、せめてその為にと、私は願う。
完