6.愛は罪の中に
この小説にはパロディ、オマージュがあるので、参照元を検索エンジンに入力したURLを脚注としてつけておくことにしました。
例)タイトル https://www.ecosia.org/search?q=The+Catcher+in+the+Rye
たぶんURLを踏むと草が生えます。
検索エンジンについて https://www.ecosia.org/search?q=Ecosia+wiki
全13話構成です。
拙い文章ですがよろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。加えて、このなかで語られた言葉はいかなる真実をもふくみません。
「で?これからどうするんだ?」
D503号アパートの向かいの公園、噴水の前に座り込んでいる一朗にニルは尋ねた。しばらく考えて、一朗は言った。
「とりあえず今日は民社で過ごそう。」
「民社?」
「近くにある旧国家宗教の社だ。あそこはもうボロボロで人も来ない。」
「ふーん。何でボロボロなんだ?」
「投石の対象になっているんだ。」
「投石?」
「その昔、国家の高度産業文明を支えた企業と当時の民衆を祀っているからだ。……僕たちの空を奪った環境戦犯を。」
そう呟いた一郎の顔は憎しみに満ちていた。
人工太陽の光は陰り、人もまばらな夕暮れを2人は歩き始めた。しばらくすると、千愁アカデミーと書かれた看板が立つ白い高層建築を通り過ぎた。その建物の入り口付近には青い蝶が飛んでいた。
「ん?おい!まさかあの蝶も!」
ニルは辺りを見回し物陰を探し始めた。
「落ち着け。大丈夫だ。余程インセクトが恐ろしかったようだな。」
一朗は怯えるニルを見て笑った。
「当たり前だ!冗談じゃないぞあんな量の虫は!」
ニルは吠えた。
「僕たちにはこれがある。」
一朗はポケットから赤く光っているドリームキャッチャーを取り出した。
「なるほど、情報を改ざんしながら歩いているんだな。でも大丈夫なのか?」
「何がだ?」
「バッテリーだ。そいつが途中で切れてしまったら。」
「バッテリーの心配は必要ない。この都市は核融合から得られるエネルギーを無線充電で全体に供給しているからな。」
「それなら、大丈夫だな。」
それから歩き続けると、王家の墓の堀と真っ黒な壁の側を通った。壁は2人を押しつぶさんと迫っていた。
「一朗。外に出ていた時から気になっていたんだが……。」
「何だ?」
「この都市の真ん中にあるあの巨大な塔は何だ?太陽につながっているようだが…。近くまでくれば何かわかると思ったが、真っ黒な壁で囲まれている。」
一朗とニルは壁の向こうにある天蓋に繋がる塔を見上げた。
「あれは、人工太陽へのエネルギー供給と公共放送を担っている塔だ。リヴァイアサンからの情報をあれで伝達している。」
「なるほど。電波塔なのか。」
「……そうだな、似たようなものだ。あとあの塔は地上へと繋がっている。出られないけどな。」
「どうして出れないんだ?」
「……地上は腐った海と死の灰で満ちていると記録されている。だからゲートで閉ざされているんだ。さあ、着いたぞ。」
「おっ!あれが民社か!」
ニルの目に折れたどす黒い柱が2本立っている長い参道が映った。その道は朽ち果てたコンクリート造りの本殿へと続く。2人は参道に入った。
夕暮れは本殿を闇に染めて、柱のそばには襤褸をきた老婆が長い紐を手で弄りながら、座り込んでいた。
「この髪を抜いてな……この髪を抜いてな……」
ニルと一朗はそれを横目に参道を歩いて、脛から上がない銅像のそばを通り、半壊して至るところに亀裂が走る本殿にたどりついた。本殿の扉は破壊されており、中に入ると辺りは投げられた石と建物の破片が散乱していた。転がっている石と破片を払い退けて、辛うじて重い屋根を支える柱に寄り掛かり、一朗は座り込んだ。
「ああ、疲れた。人生最悪の日だ、今日は。」
風化した柱は一郎の背中を冷やす。
「そんなことはないだろう?今まで生きてきた中で今日ほど面白い日はなかったぞ!」
ニルは目を輝かせて言った。本殿の虚な空間に大きな声が響く。
「……お前は今日初めて外に出たんだったな。」
「そうだ。臭い目にもあったが研究室の外を駆け抜ける自由、爽快さには比べ物にならない!」
尻尾を振って喜びを表現するニルを見て一郎の重く沈んだ気分が和らいだ。
「そうか。」
「ああ!そうさ!これから一体何が俺を待ち受けるのか?どんな冒険が始まるのか!俺はワクワクしてたまらない!」
一朗は崩れかけた屋根の外に広がる天蓋を見上げた。
「それに、何だかよくわからないが、お前は面白い!お前となら何だってできる!そんな気がする。」
夜空を見ながら、一朗はある望みを思い出した。
「そうだな。今の僕なら……禁じられた空も解放することができるかもしれないな。」
一朗は口元に笑みを浮かべながら言った。
「お?何か面白そうな話じゃないか。」
ニルは耳を立てて一朗の言葉に食いついた。
「今や僕も犯罪者だ……。それなら超法規的なことをやってみるのもおもしろいか。」
「いいじゃないか!どうせなら面白おかしく逃亡生活を送るんだ!それで?禁じられた空をどうやって解放するんだ?地上は死の灰に満ちているのだろう?」
「……いや、古代にこの都市には伝説的なゲリラ芸術家が現れたことがあるかもしれないんだ。」
「それが何だって禁じられた空に関わるんだ?」
「お前は芸術史を知らないんだな。その芸術家というのがBanned Skyという古代の芸術家だ。彼は街角に突発的なテロルで違法な形で作品を残した。」
「そいつを解放するってのはどういうことなんだ?」
「この都市にはBanned Skyの作品で最も有名な作品が収蔵されている保管庫がある。作品をオークションにかけた時に作品自体が爆発し、当時オークション会場と化していた美術館が大破するというテロルを発生させて有名になったものだ。」
「なるほど。罰当たりな野郎だ。」
「自由戦争に加担する人間の鼻を明かすためにアンチテーゼとして公表したものの、逆に作品の価値が上がってしまった。」
「あらら……作品自体が一つのアイロニーになってしまった訳だ。」
呆れた声でニルは言った。
「……そして、今、その作品のオリジナルを直接見ることができるのは一部の限られた研究者、コモンウェルスへの寄与度が4,000,000,000ポイント以上の開発者たちだけだ。一般市民はコモンセンスを介して見ることしかできない。父さんはいつも言っていた。街角に飾られた彼の作品は朽ち果てていくまでも合わせて芸術だ、と。」
「ほお!」
ニルは嬉々として一朗を見た。
「そいつを盗み出すってことか!」
「ああ。そしてあるべき場所へ返すんだ。」
「面白くなってきた!」
「……この都市で最もふさわしい場所に僕たちの手で。」
そう笑顔で語った一郎のはるか上方で、偽りの星は輝いていた。
数日後、2人は丸の外と呼ばれる地域にある四菱重工社に忍び込んでいた。一朗はどこの誰が作ったのか分からない古びた詰襟の学生服を着て鼻の長い赤い仮面を被っていた。整然とした社内の長い廊下を歩く2人は周囲の誰にもその姿を捉えられない。
「おい!俺たちはこれから保管庫から作品を盗むんだよな!」
「ああ、そうだ。」
「何でこんなところに潜入しているんだ?」
マントから作られた手作りの靴下を履かされて不機嫌なニルが一朗に尋ねた。
「それはだなぁ。おっと。気をつけろ。こいつらは僕たちが見えてないからぶつかるぞ。」
向かいから歩いてくる紺色のスーツを着たドールとアンドロイドをかわしながらニルは歩く。
「それはここにこの都市で唯一無二の素粒子プリンタがあるからだ。」
「素粒子プリンタ?何だそれは?」
ニルは訝しげに聞く。
「あまり大きなものは作れないのだが……マターと呼ばれる万能物質から素粒子を取り出して他のあらゆる物質に変換し、設計図から再現することができる。これができた当時は大変な騒ぎだったらしい。」
「はあ。」
「あらゆるモノを設計図から作成出来る。つまり素粒子プリンタにおいてはモノの創造が完全に情報化している、“始めに言葉ありき“、その原初の創造に人間が近づいたと。」
「そら、たいそうなこった。で……」
「実際は莫大なエネルギーと精密すぎる装置が必要で量産化には至らなかったが……。」
そして、一朗はある扉の前で足を止めた。ニルもそれに合わせて止まった。ドリームキャッチャーをループ命令に切り替えて扉が開くまで2人は待った。
「おい、俺の質問に答えてないぞ!なぜとっとと保管庫に行かないんだ?」
「……僕らがBanned Skyの作品を盗み出したとしても、450m圏内から出てしまったら盗み出したことがバレるだろう?」
「ああ、ダミーを置いておくのか。」
「そうだ。市販のレプリカではすぐバレてしまうだろうから……。ここで本物と寸分違わぬコピーを作ってそれをすり替えるんだ。」
「そういうことか。にしてもその服を着て潜入するんだな。」
ニルは一朗のボロボロの服装を見て言った。
「ああ、これなら糸くずが落ちても身元が特定されないからな。」
「なるほど。」
すると2人の前の扉が開いた。中には腰くらいの高さの灰色の立方体が3つポツリと置かれていた。
「何だこれは?」
「これが素粒子プリンタだ。」
ニルは中に入って装置の周りを嗅いだ。
「何の変哲もないただの箱じゃないか?」
「左からマター製造機、パターン記憶装置、物質複製機、これを合わせて素粒子プリンタだ。ただの箱じゃない。さあ、ここ何分間が勝負だ。」
「何故だ?」
ニルは不思議そうな表情で一朗を見た。
「ループをリヴァイアサンが感知するまでに作品を作り出さないといけないからな。」
そう言うと一朗はドリームキャッチャーを取り出して、素粒子プリンタをループ命令の対象から外して、マター製造機を起動した。すると、部屋の明かりが点滅し、少し暗くなった。
「大丈夫か?」
「マター製造機は電力を大量に消費するからな……。」
低い稼働音を発しながら、マター製造機が動く。一朗はその隣のパターン記憶装置を起動する。それを見てニルが尋ねた。
「設計図を入れるのか……。ん?そんなもんどこにあったんだ。」
「……父さんが考古学を趣味でやっていてな。一番好きな芸術家だったんだ。昔、僕のメメックスに完全にスキャンされたBanned Skyの作品のデータをくれたのさ。」
一朗は少し曇った顔でパターン記憶装置を操作しはじめた。すると、外の廊下から誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。
「おい!もう誰か来たぞ!」
「早いな……。電力消費量が急激に増えたことをリヴァイアサンに感知されたのか……?」
ニルは恐る恐る歩いて扉の外の様子を見に行く。赤く光る目で紺色のスーツを着た男が廊下をこちらに向かって走ってきている。
「なあ、ローレル!この廊下いつもより長くないか?何?このまままっすぐ?素粒子プリンタの部屋が怪しい?さっきも言わなかったかそれ……」
そのまま男は走り去っていった。ニルは顔を引っ込めた。
「どうなっている?」
一朗は装置に目をやったままニルに尋ねた。
「問題ない。ここに来るやつは向こうの壁にキスしにいくみたいだ。」
「そうか。ならいい。よし、マター生成とパターンの記憶が完了した。これからプリントに入る。」
一朗は三つ目の箱のスイッチを押した。
「あとどれくらいで出来上がるんだ?」
「そんな大きな作品じゃないからすぐに出来上がるだろう。」
5分と経たぬうちに箱の扉が開いた。一朗が内容物を取り出すと半分が炭化した絵画が出来上がっていた。その絵画には赤い風船に手を伸ばす誰かの手が描かれており、それより下は黒焦げで失われていた。一朗は操作パネルを覗き込んだ。
「同一率99.987%。本物と全く違いなく同じだ。この部屋のホコリやチリのノイズによる観測誤差しかない。」
ニルは出来がった絵画を匂いながら言う。
「こんな炎上したごみに価値があるのか?」
「お前は芸術史を知らないから……。」
一朗が呆れた顔で言ったが、すぐに思い直して笑顔になった。
「それに、今のこれに価値なんてないさ。これからすりかえるんだからな。」
2人は四菱重工社を後にした。
そして、その夜2人はメトロに不正に乗車し、六本樹と呼ばれる地域まで来た。商業用ビルが立ち並ぶ中、いっとう高くそびえ立つ高層建築の前に立った。
「ここにそのBanned Skyとやらがある訳だ。」
「最上階にその作品が保管されている。さあ、ループを始めるぞ。」
クモの形をしたオブジェの横を通り抜けた一朗たちはセキュリティゲートをくぐって中に入る。入り口にある観葉植物を模したアートのそばを通り抜けて階段へと向かい、アンドロイドが徘徊する倉庫内を歩いて最上階まで登った。戦火の中で辛うじて残った古代の絵画や朽ち果てかけた彫刻、コモンセンスを駆使して五感を刺激する現代アートなど、保管されている作品の中を歩いていく。
「暗くて周囲がうまく見えないな。暗視モードが壊れてしまったのか…。」
暗い館内を歩く中、一朗は通路の袋小路に人1人がようやく入れる大きさの小汚い箱を見つけた。すぐにその作品が何であるか気付き、思わず叫んだ。
「これは1992年に作られたRené Muttの“2つの裏切り”!」
一朗はその箱に駆け寄った。
「何だって?」
後をついていくニルは訝しげな目でそれを見つめる。
一朗が箱の扉を開けて中に入るとセンサーが反応し、灯りがついた。その狭い空間は全面が額縁で囲われた鏡張りの部屋になっていて、床面には古びた便器が置かれていた。横四面の鏡の下部には「これが芸術である」という文字が書かれている。一朗は「これが芸術である」と便器、そして、それを見る自分の姿が無限に続くのを見た。
「どうしたんだ?一朗?」
「こっちに来てみろニル!これが歴史的なコンセプチュアルアート“2つの裏切り”だ。芸術の同語反復性を表現したものだ。」
「同語反復ねえ……。」
ニルは小さくつぶやいて、部屋に入って四方の匂いを嗅いだ。
「こんなものもコンセプチュアルアートなのか。こう見ると何だか馬鹿馬鹿しい。」
「お前にはこの作品の素晴らしさが分からないのか?」
足元にいるニルを見て一朗は言った。一朗は前方の鏡に目を戻す。
「……芸術とは言っても、他者に理解されなければ、ただの鏡張りの便所じゃないか。」
「お前は無知だな。美術史を知らないんだ……。」
ニルは呆れた顔で言った。
「そんなローカルな密教の歴史をさも普遍的であるかのように語るんじゃない。とっとと出るぞ。」
ニルはそう吐き捨てて部屋を出た。
「何だこれは?」
一朗は便器の奥に銀色の棒状のものが転がっているのを見つけて屈んで手に取った。
「こんなものは作品の中になかったはず……。」
見るとそれはドリームキャッチャーであった。一朗は不審に思いながらもそれを起動して中身を確認しようとした。
「中に入っている作品はひとつか。……タイトルは”A Catcher in a」
「おい!そんなもんにかかずってると時間がなくなっちまう!俺たちの仕事ができなくなるぞ。」
ニルの叫び声に我に返った一朗は少し迷ったが、ドリームキャッチャーを投げ捨てて、部屋から抜け出した。
それから2人は倉庫の中を進み続けた。全ての電脳はループし自動で扉が開閉を繰り返し、アートのギミックが動き続けていた。その中で、一つのアンドロイドが虚空に向かって作品の説明を繰り返していた。
「……注意すべきことは、夢の構成要素をこれ以上に散漫なものにしてよい理由はまったく見当たらないということである。原則的に夢を排除する表現方式で夢を語っていることが残念だ。眠る論理学者や眠る哲学者たちは、いつになったら現れるのだろうか?」
それを聞いてニルは首をひねった。
「なんだこの説明は?」
「さあな。僕も知らない。眠る論理学者や哲学者がどうやって真実を語るというのだろう。」
アンドロイドにぶつからないように歩き続けて、2人は作品が保管されているIOI号室にたどり着いた。古代風の扉のドアノブを握り、ゆっくりと戸を開くと、暗く細長い通路の奥に額縁ごと半分炭化したBanned Skyの作品がひっそりと展示されていた。一朗は奥まで歩いて行った。
「これがその当時の強欲な人間たちを糾弾した作品、”Love is in the sin”だ。」
「はあー、こいつがホンモノか!」
「ああ、とてつもない迫力とオーラだ……。」
一朗はしばらくそれを見つめた後、自身の持ってきたダミーを脇に置いた。作品を丁重に取り外して、ダミーを取り付ける。ニルが何かをぼやいた後言った。
「……こんなものもコンセプチュアルアートなのか。こう見ると何だか馬鹿馬鹿しい。」
足元にいるニルを見て、一朗は思わず口走った。
「お前にはこの作品の素晴らしさが分からないのか?」
そう言って額縁に目を戻すと、そこには三白眼の黄色人種の男性、自分の顔が映っていた。
「……芸術とは言っても、他者に理解されなければ、ただの鏡張りの便所じゃないか。」
作品の中に映った自らの姿は、額縁に飾られていて、下部には「これが芸術である」と書かれている。その自らを映し出す迷宮は無限に続いていた。鏡の中にいるニルは四方を匂っている。一朗は自身が鏡張りの部屋に戻っていることに気がついた。
「お前は無知だな。芸術史を知らないんだ……。」
一朗の口は意図せぬ言葉を吐き出す。それを聞いたニルが呆れた顔で言った。
「そんなローカルな密教の歴史をさも普遍的であるかのように語るんじゃない。とっとと出るぞ。」
戸惑う一朗をよそにニルは鏡の部屋から抜け出していく。
「何だこれは?」
身体が屈み込んで頭は便器の奥を覗き込む。そして、転がっていた棒状のものを手が取った。
「こんなものは作品の中になかったはず……。」
一朗の顔は自身に怪訝な表情を強いてドリームキャッチャーを手が取らせる。
「中に入っているデータはひとつか。……タイトルは”A Catcher in a」
ニルの叫び声がする。
「おい!そんなもんにかかずってると時間がなくなっちまう!俺たちの仕事ができなくなるぞ。」
それを聞いた自身の手がドリームキャッチャーを投げ捨てて、一朗の身体が部屋から抜け出すとそこは鏡に囲まれた部屋だった。
「同語反復ねえ……。」
ニルが部屋に入ってくる。一朗は得体の知れない状況に恐怖と焦燥感に駆られる。
「……こんなものもコンセプチュアルアートなのか。こう見ると何だか馬鹿馬鹿しい。」
目が足元にいるニルを見て、口が話す。
「お前にはこの作品の素晴らしさが分からないのか?」
「……芸術とは言っても、他者に理解されなければ、ただの鏡張りの便所じゃないか。」
鏡の向こうには自らの姿、「これが芸術である」が永遠に続き、鏡のニルは四方を匂っている。
「お前は無知だな。芸術史を知らないんだ……。」
それを聞いたニルがまた呆れた顔で言う。
「そんなローカルな密教の歴史をさも普遍的であるかのように語るんじゃない。とっとと出るぞ。」
何が起こっている?待ってくれ!鏡の外に出ていくニルに向かってそう尋ねても一朗の口は思い通りに動かない。
「何だこれは?」
身体が再び便器から棒状の装置を取り出そうとする。
「こんなものは作品の中になかったはず……。中に入っているデータはひとつか。……タイトルは”A Catcher in a」
再びニルの叫び声。
「おい!そんなもんにかかずってると時間がなくなっちまう!俺たちの仕事ができなくなるぞ。」
ドリームキャッチャーが放り出され、部屋から駆け出すとそこは鏡に囲まれた部屋だった。
「同語反復ねえ……。」
ニルがまた部屋に入ってくる。
「……こんなものもコンセプチュアルアートなのか。何だか馬鹿馬鹿しい。」
ニルの声に反応して一朗の口が繰り返す。
「お前にはこの作品の素晴らしさが分からないのか?」
「……芸術とは言っても、他者に理解されなければおい!一朗!何をしているんだ!?」
ニルの声に我に帰ると、一朗は自身が取り付けた偽物と向き合っていた。声のする足下を見るとニルが何かを話していた。一朗は思わず叫んだ。
「何があったんだ!?」
「それはこっちのセリフだ。大声で叫びながらドリームキャッチャーを投げ捨てて!」
その時、扉の開く音がした。
「侵入者を発見した!直ちに確保する!」
一朗が扉の方を見ると声を聞きつけて赤く目が光るアンドロイドが数体部屋に入らんとしていた。その手前の床にはドリームキャッチャーが転がっている。
「ループが解けている!」
ニルが叫ぶ。一朗はドリームキャッチャーを取りに走った。駆けてくるアンドロイドは銀色の銃の引き金を引きながら叫ぶ。
「チッ!ブルースクリーンは効かない!その歩き方は…同一率98.9%…モノスコード978-4-04-136_603-5、昏一朗か?」
「一朗!早く使え!」
ニルが叫ぶと一朗はドリームキャッチャーを拾い、アンドロイドの方へ向けた。
「レベル2、ブルースクリーン・テイザー、いや、レベル3、イレイザーの許可を……」
一朗のドリームキャッチャーから赤い閃光が発せられた。アンドロイドは何もない宙を見て口々に叫び始めた。
「何だ?黒い正方形が現れたぞ!?」
「コンポジションⅥ!?なぜここに?」
「タヒチの牧歌!?ここはまさか!?」
アンドロイドは立ち止まって何かを叫び始めた。
「一朗。何をしたんだ?」
一朗は安堵してため息をついた。何が起こったのかわからないニルが尋ねた。
「……美術館に彼らを招待したんだ。」
「美術館?ああ、映画か。」
「ともかく早くここ出るぞ。今のはリヴァイアサンに間違いなく感知されただろう。」
一朗はドリームキャッチャーの夢を切り替えて、再び透明になり、建物の出口へと向かう。1階まで降りて入り口に向かうとそこには既に治安維持管理者が複数名駆けつけており、ちょうど中に入ってくるところだった。―――この状況ではループを使い扉を開けることは出来ない―――、一朗は走り始めた。
「今なら扉が開いている!走るぞ。ニル!」
「わかった!」
治安維持管理者達が話をしているのが聞こえる。
「……この前の病院や四菱重工社と同じです。」
黒ずくめの男達が杖をついてくたびれた灰色のスーツを着た老年のドールに話しかけていた。
「ループしているんだな?」
「はい、保管庫の電子機器がループして、アンドロイドは夢を見ています。ただし、コモンセンスで確認したところ、保管庫内の作品に盗み出された形跡はありません。」
「それはよかったが……。やれやれ…わざわざ耶摩手中央署から急いで来たかいがあった。」
一朗とニルが閉じかけの入り口を駆け抜けたときだった。
「ん?」
老年のドールが訝しげな表情で一朗達が駆けた後を見た。
「どうしました?」
ドールは杖を両手で握りしめてしばらくその方向を見つめ、納得のいかない様子で言った。
「……いや……何でもない……。そういえばさっき、今時珍しい民主派のバンカラ青年を見たよ。」
「バンカラ?」
入り口から脱出した2人はため息をついて、クモのオブジェの隣に座り込んだ。続々と駆け付けてくる治安維持管理者を見ながらニルが言った。
「奴ら、治安維持管理者だったか。危ないところだったな。」
「おそらく最初のループを感知して到着したのだろう。」
「そうだ、一朗。どうしてあの時ドリームキャッチャーを放り投げたんだ?」
「……僕のコモンセンスがループしたんだと思う。」
「ループだと?バグでも起きたのか?」
「分からない。」
一朗の表情が陰ったのを見てニルが言った。
「……まあ、作品を盗み出せたから良かったとするか!」
一朗はニルに目を向けた。目が合うと加えて言った。
「こいつで研究者どもの鼻を明かしてやろう!」
一朗は微笑んで相槌をうった。
「ああ。そうだな。」
その日、一朗とニルは再び民社戻り、朝を待った。
翌日、人工太陽が昇り始めたころに2人はメトロの駅へと向かった。
「で?どこにこいつを持っていくんだ?」
ニルはメトロの駅まで歩きながら一朗に尋ねた。
「U04駅、通称火の出駅……その近くにあるバグズアイランド行きの直航便が発つヘテロフォニーライナーの乗り場に持っていく。」
「火の出駅とは物騒な名前だな。」
「周囲を掘で囲ったバグズアイランドへの唯一の入り口だからな。社会的な火の手がここから上がることが多い。」
「そうなのか。なぜそこに持っていくんだ。」
「この付近にBanned Skyが作品を残したことがあるからさ。」
一朗とニルはメトロのセキュリティゲートを素通りしながら話す。
「ふーん。なるほどな。」
「その作品はヘテロフォニーライナーの乗り場に飾られていた。だから、そこにこの本物を設置する。」
「でもそのあとはどうするんだ?見つかったら持ち帰られてしまうぞ。」
メトロのホームに立って一朗は考えながら言った。
「そうだな。バグズアイランドに持ち込むか、今この都市に暮らしている貧しい人々に与えるか。」
「良いじゃないか。義賊って感じで。」
ニルは一朗を見上げながら言う。
「後は、見つかった瞬間に今度こそ完全に爆破するとか。」
「それは過激だが、作品の本意ではあるかも知れないな。」
2人は話しながら車両に乗り込んだ。
「そのどれかか、他には…まあ、この都市の反応を見て考えよう。」
「わかった。」
そんなことを話しながら、2人はメトロを乗り継ぎ火の出駅にたどり着いた。駅から外に出ると、バグズアイランドを隔離する広い人工の海から潮の香りが漂ってきた。
「初めて嗅ぐ変わった匂いだ。少し生臭いな。」
「ここは昔、大洋と陸地の境目だった。その雰囲気を演出しているのさ。」
「向こう岸は地面が剥き出しの壁になっているんだな。」
「ああ、あれがこの都市の果てだ。」
2人がそのまま道を少し歩くと、青い背景に白い文字でヘテロフォニーと書かれた看板が掲げられた建物があった。2人はその入り口前にあるセキュリティゲートをくぐりぬけて待合室の中に入った。
待合室の中は外の海が見えるようガラス張りになっており、外に向いて長椅子が並んでいた。一朗はガラスの真ん中に持ってきた“Love is in the sin”を設置した。
「これだけ目立つ場所に置けば大丈夫だろう。」
「ああ、隠れて見てみよう!」
一朗とニルはそのまま席に座って人が来るのを待った。しばらくすると、下顎が大きく膨らんで、白い帽子を被りパイプを加え紺のセーラー服を着た男と細身で赤い服を着た女が待合室に入ってきた。
「それで?今日の予約はどうだい?」
男が女に尋ねた。
「今日も渡航者はたくさんよ。検問にまた長蛇の列ができるに違いないわ!」
女は困ったように言った。
「最近は自分からバグズアイランドに行く奴らもいるってんだから……ん?何だあれは?」
男がモニターの横に置かれている作品に気がついた。近寄ってまじまじと見つめる。
「な〜んてこったい!こいつはBanned skyの”Love is in the sin“だぞ!」
「ええ!本当に!?小洒落たプレゼント!」
女が駆け寄ってくる。
「とても精巧なレプリカだわ。……オリジナルのデータとの同一率は99.987%!ねえ、これもしかして本物じゃない?」
「よし…。」
ニルは笑みを浮かべた。
「そんなわけはないだろう!レヴィ!現在の”Love is in the sin“をコモンセンスに見せてくれ!」
「私も見るわ!」
男と女は長椅子に座り目をつぶった。少し経つと2人は目を開けた。
「ほら!言っただろう!こいつはただのレプリカさ。レヴィもそう認めた!本物の同一率は99.999%だ!」
「そんな!」
ニルは悲痛な叫び声を上げた。
「そうね。それに、やっぱり本物はオーラが違うわね!でもこれが素敵なプレゼントであることには変わりないわ。」
「そうだな!こいつはここに展示しよう。ずいぶん前に使っていたクルーズ船の展示ケースがある!とりあえずそれを持って来よう!」
「ええ!」
そして2人は部屋から出て行った。
「しまった…コピーが精巧過ぎた!」
一朗は頭を抱え込んだ。
「あらら…。どうする?一朗?」
ニルは呆れながら言った。
「どうにもこうにも……。とりあえずそれを持ってここを出よう。」
2人は外に出た。足取りは重く、失望のうちに道を歩いた。
「まさかダミーが本物と認定されるとは……。」
一朗は今や偽物となったそれを抱えて、駅へと向かった。肩を落とす一朗にニルは話しかける。
「他のところで試したらどうだ?」
「どこで試したって無駄だ。ノイズが入ってしまう。何より、白いものでもリヴァイアサンが黒と判断したら、それは黒に変わる。」
「でも…」
「全く違いを見分けることが出来ないものは同一物だ。本物は今あの保管庫の中にある。」
そのまま歩き続けて、駅のホームのベンチに2人は座り込んだ。一朗はホームの床に敷き詰められたタイルをじっと見つめていた。そのそばを列車が来て、過ぎ去って行く。
「一朗……グズグズしていても何も始まらない。」
「そうだな。」
一朗はニルの方を見た。
「別にこんなことどうってことないだろ。失敗したところで何か別のことをすれば良いだけだ。」
ニルは舌を出して笑った。一朗は浮かない顔で返事をする。
「ああ。わかってるよ。」
そして、再び列車がホームに入り込んできた。一朗は立ち上がって、そばにあったごみ箱の中に絵画を放り込んだ。その絵画はあまりに大き過ぎて、ごみ箱には収まりきらなかった。列車のドアが開き、それを置き去りに2人は車両に乗り込んだ。出発のベルが鳴る。
「扉が閉まります。ご注意ください。」
その時、ニルは車両から飛び出した。
「ニル!?」
ニルはごみ箱から絵画を取り出すと、閉まる扉に挟まれそうになりながら、車両に滑り込んだ。
「ふぅ。間に合った。」
「お前……!」
一朗は驚いた顔でニルを見た。
「面白いじゃないか。」
「え?」
「……誰が理解しなくとも、誰が価値を見出さなくとも、俺たちはこれが本物だと知っている。」
ニルは屈託のない笑顔で言った。
「……ああ。」
「誰も知らない、俺たちだけが知ってる真実がここにある。そんなもので良いじゃないか。」
一朗もつられて笑顔になった。
「そうだな。このレプリカは……」
「……お前の親父にでもプレゼントしてみたらどうだ?」
ニルは一朗の方を見た。一郎の顔が陰った。
「どうした?」
少し悩んだ後、一朗は覚悟を決めて言った。
「……そうだな、そうしよう。」
2人を乗せた列車は静かに走り始めた。
脚注:
※1 https://www.ecosia.org/search?q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%94%B0%E5%8C%BA%E7%A5%9E%E7%94%B0%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E7%94%BA%EF%BC%92%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%92%EF%BC%90
※2 https://www.ecosia.org/search?q=Shinto+Shrine
※3 https://www.ecosia.org/search?q=Senshu+University
※4 https://www.ecosia.org/search?q=Yasukuni+Shrine
※5 https://www.ecosia.org/search?q=Rashomon
※6 https://www.ecosia.org/search?q=Omura+Masujiro
※7 https://www.ecosia.org/search?q=Banksy
※8 https://www.ecosia.org/search?q=Marunouchi
※9 https://www.ecosia.org/search?q=3D+Printer
※10 https://www.ecosia.org/search?q=John+1%3A1
※11 https://www.ecosia.org/search?q=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%A9+%E4%B8%87%E8%83%BD%E7%89%A9%E8%B3%AA%E8%A3%BD%E9%80%A0%E6%A9%9F
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※13 https://www.ecosia.org/search?q=Love+is+in+the+Bin
※14 https://www.ecosia.org/search?q=Roppongi
※15 https://www.ecosia.org/search?q=Roppongi+Hills
※16 https://www.ecosia.org/search?q=Mori+Museum
※17 https://www.ecosia.org/search?q=Maman+Spider+Sculpture
※18 https://www.ecosia.org/search?q=The+Treachery+of+Images
※19 https://www.ecosia.org/search?q=The+two+mysteries
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※35 https://www.ecosia.org/search?q=出版書誌データベース
※36 https://www.ecosia.org/search?q=Hermitage+museum
※37 https://www.ecosia.org/search?q=バンカラ
※38 https://www.ecosia.org/search?q=Hinode+Station
※39 https://www.ecosia.org/search?q=Symphony+Cruise+Tokyo
※40 www.ecosia.org/search?q=Banksy+%E3%82%86%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%82%82%E3%82%81
※41 https://www.ecosia.org/search?q=Popeye
※42 www.ecosia.org/search?q=%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%AD%98%E5%88%A5%E8%80%85%E5%90%8C%E4%B8%80%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86
※43 https://www.ecosia.org/search?q=The+Work+of+Art+in+the+Age+of+Mechanical+Reproduction
※44 https://www.ecosia.org/search?q=Leviathan+Hobbes
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。加えて、このなかで語られた言葉はいかなる真実をもふくみません。