間に合わなかったストップ安
土曜日、十二時前にカルボナーラとプリンを買った純也は彩奈を見舞った。
「よっ、久しぶり」彩奈は微笑んだが、顔は青白く、覇気はなかった。
「大丈夫?」純也が微笑むと
「大丈夫じゃない…… 」
「彩奈さん……」
「おっ、初めて名前、呼んでくれたね」
「……」彼が目を伏せると
「ありがとうね、親父から聞いたよ」
彼女は、最初、高校生が株で儲けるなんてありえないと思っていたが、それでも父親がこの話に乗ったということはその価値があったのだろうと思った。この目の前にいる男子が、懸命に自分を救おうとしてくれている…… 彼女はそう思うだけで涙があふれそうだった。ここまでの人生、何かが楽しかったという記憶は全くない彼女だったが、この最期の時に純也に巡り合えたのはこの上ない喜びだった。
しかし、たった一度の幸せなのに、終わりを告げる鐘が音が鳴り響こうとしていた。
彼女自身もそのことはよくわかっていた。ここまで、死ぬことは仕方ないと思って諦めきっていたが、それでも、純也に巡り合えて、彼女は死にたくない、あと少し、あと少しでもいいから生きたい、窓から遠くを見つめながら、初めて神に祈った。
そんな彼女を見つめながら
「……」彼は懸命に涙をこらえて小さく頭を振った。
「ごめん、でも、もう駄目かもしれない……」ここ数日の息苦しさが彼女を俯かせてしまった。
「そんなこと言うなよ……」純也の瞼から涙がこぼれ落ちる。
「おい、泣くなよ、私だって泣きたいんだ……」いつもは明るい愛奈の瞼からも涙がこぼれ落ちる。
「ご、ごめん」彼女の涙を目にした彼は、慌てて涙をぬぐうと微笑もうとしたが、その顔は引きつっているようにしか見えなかった。
「まっ、仕方ないか、最愛の人の命が尽きるかもしれないんだものね」彩奈が微笑んだが頬がびくっと動いただけだった。
「おっぱい飲ませてくれるんじゃないのか……」彼は彩奈の笑顔が見たかったが、そう言った瞬間。再びあふれ出る涙をどうすることもできなかった。
「ありがとう、最期に君に会えてよかったよ」
「そんなこと言うなよ。月曜日には絶対に一億できるから、そしたら……」
「ありがとう。楽しみに月曜日を待っているよ……」
彼は眠り始めた彩奈の寝顔をしばらく見つめていたが、どうしても涙が止まらず、病院を後にした。
しかし、夜になると彩奈の病状が急変した。
夜九時、中野からの突然の電話に驚いた彼は、病院へ駆けつけると、中野が目にいっぱいの涙を浮かべ「もう駄目だ」と言わんばかりに頭を何度も左右に振った。かみしめた唇からは血が滲み、彼の無念が伝わってくる。
「純也君が来てくれたよ」中野の妹が彩奈に語りかけると彼女がかすかに右手を動かした。
「彩奈さん……!」慌てて手を取った彼に彩奈が何かを言おうとしたが聞こえない。
「何? どうしたの、何が言いたいの?」純也が彼女の口元に耳を寄せると
「父さんを…… 父さんをお願い…… 死ぬかもしれない…… お願い」
かすかではあったが純也にははっきりと聞き取ることができた。
「わかった、わかったから!」彼が語気を強めたその時、アラームが大きくなり始めた。
慌てた彼は、その手を誰かに預けようと見回したが、
「君が…… 送って、やってくれ」中野が涙をボロボロとこぼし、嗚咽に遮ぎられながらも懸命に言葉を振り絞った。
その三十秒後、彩奈は静かには息を引き取った。
静かに手を離した純也はとても立っていられないと思い、廊下に出ると椅子に伏せ泣き続けた。
父親が亡くなった時でさえ、こんなに涙は出なかった。彼はもう自分がどうにかなってしまうのではないかと思うほど泣きじゃくった。
「ありがとうね」その隣に腰を下ろした彩奈の叔母が優しく微笑んだ。
「私はあの子の叔母、あの子の父親の妹なの…… 」
「……」純也は涙を流しながら俯いていたが、それでも小さく頷いた。
「あの子の母親はね、あの子が小学校に上がる前に亡くなってしまって、それでもあの子は懸命に明るくふるまって頑張って来たのに、三年生になった時、心臓に病気が見つかって、それからは病院と縁が切れなかった。友達もできないし、あの子が不憫で…… この世には神も仏もないって思っていた。でも、あの子は恨み言一つも言わずに、いつ行っても冗談ばかり……」
叔母の目から涙がこぼれ落ちる。うずくまっている純也にもその悲哀が痛いほど伝わってくる。
「でもね、最期の最期に、あなたに会えて、あの子は幸せだったと思う。あの子の幸せはそれだけだったのかもしれない。きっと、最期に神様がプレゼントしてくれたのね。本当にありがとう」
「いいえ……」純也はそれだけを言葉にするのが精いっぱいだった。
月曜日が友引であったため、通夜を月曜日に行い、葬儀は火曜日となった。
日曜日を一日家で過ごした純也は、彩奈の最期の言葉を思い出していた。
「父さんをお願い…… 死ぬかもしれない…… お願い」といった彼女の顔が頭から離れない。 まだ耳にもその声が残っている。
( どうしたらいいんだ…… 何ができるんだ。俺だって死にたいよ )
まだ元気だったころの彼女を思い浮かべ、自分が彼女にどれほど癒されていたのかを思い知った純也は、何もかもが、もうどうでもいいと思っていた。
その様子を見ていた母親が
「愛する人を失うっていうのは、明日を失ったのと同じことなのよ……」独り言のように囁いた。
「母さん……」はっとした彼は、母を見つめると
( 父さんが亡くなった時、母さんもこんな思いだったのか…… )当時の母親の苦悩がわかるような気がした。
しかし
( ちょっと待て、だって子供がいたんだから頑張らないと駄目だろ )そんなことを思ってしまうと、なぜか腹立たしくて仕方なかった。
「あっ、明日は小山が怒鳴り込んで来るなー、まっ、いいか……」
( でも、お金があってももう役に立たないし、何なんだ、くそっー )
届かなかった思いに、彼は唇をかみしめた。