動き始めた復讐劇
中野は翌日四千万円を証券口座に振り込み、パスワードのメモを純也に渡し、すべてを彼に委ねたが、少し、フォローしてやるかと思い、金融業を営む島田と言う男を呼び出した。
この男は、かつて、暴力団に陥れられ、殺人者として逮捕されたのだが、たった一人の幼い妹が病床にあることを知った中野が、その暴力団の組長と話をつけ、救われたことがあり、彼はその時以来、中野を命の恩人と奉り立て、中野のためであれば命でも投げ出すほどの思いを持っている人間であった。
彩奈の手術費を提供すると言ってくれたのもこの男で、彼は未だに彩奈のことを気にかけていた。
話を聞いた島田は、小山優斗を探し出し、すぐに接触を図った。
居酒屋で一人飲んでいた小山のそばに行くと
「お兄さん、合席してもいいですか?」島田が静かに尋ねた。
「えっ、他にも空いてるじゃねーか」小山はぶっきらぼうに答えたが
「あなたみたいに金のにおいがする人が好きなんですよ」彼が微笑むと
「えっ、そうか…… あっ、いいよ、まあ、座れよ」
スーツ姿の品のいい同世代の男に微笑まれた小山はついうれしくなった。
「あなたのオーラはすごいですね。一生遊んで暮らせる雰囲気がある」
「えっ、わかるのか」
「そりゃーね、わかりますよ。私はトレーダーで食べてるんですけどね、あなたは同じ香りがしますよ」
「あんた、すごいな、見えるのか?」
「見えるというよりは、感じると言った方がいいかもしれないですね」島田が微笑むと
「俺自身はさ、何もやらないんだけど、ただ、教えてくれる奴がいるんだよ。そいつの言う通り売り買いしているだけだよ」彼が応えた。
「それはそれですごいですね。その人は一生、あなたのそばにいてくれるんでしょうね、」
「まっ、それは間違いないな」小山が自慢そうに微笑む。
「失礼しました。挨拶が遅れましたが、私はこういう者です」島田が名刺を出すと
「島田コーポレーション、代表取締役社長 島田一樹…… すごいな、社長さんか、俺とはえらい違いだ、俺は小山っていうんだ」それを見た小山が顔をしかめた。
「いや、これからなんでしょう。正直言って、服装とオーラがミスマッチなのに驚きましたが、こうして話していると強いものを感じます」彼がおだてると
「社長さん、俺からは何も出ないよ」さすがに不思議に思った小山が苦笑いする。
「えっ、どういうことですか?」
「何か魂胆があるんだろうけど、俺は見ての通りだ。相手を変えた方がいいよ」
「はっはっはっはは、面白い。あなたは何もわかっていないんですね」
「わかるかよ、あんたみたいなお偉い人が、何の理由があって俺みたいなちんけな男のそばに寄って来るんだよ。なんか、良からぬこと、考えてんだろう」
「面白い、あなたは面白い」
「何なんだよ、全く」小山は少し苛々し始めていた。
「こうして、同じように運気の高い者が時間を共有すれば、その運気がさらに高まっていく。私はね、こうして同じ香りのする人を見つけてはお話をさせていただくんですよ。それだけで、十分です。それに、私の個人資産は二十億を超えています。会社資産も五十億です。あなたから十万円いただこうかとか、二十万円いただきたいなどと考える必要も時間もないですよ」彼が微笑むと
「ほ、本当にそれだけなのか? それ以外には何もないのか?」小山は目を丸くした。
「小山さん、私が望むのは健康だけです。物理的に恵まれている私の不安は健康だけなんです。だからこうして大事な人を求めて歩くんですよ」
「ほー、すごいね、でも、俺も金持ちになれるのか? 本当か?」
「何が起きてどうなるのか、私にはわかりませんが、けっこう近いような感じがしますね」
「そ、そうか…… 嘘じゃないよな」
「嘘を言って、何のメリットがあるんですか、私はそんなに暇じゃないですよ」
「そ、そうか、ありがとう」
「いいえ、お礼を言いたいのは私の方ですよ。最近は皆さん忙しくてね、誰も私の相手をしてくれないんですよ」
「皆さんって?」
「あなたと同じように運気の高い人ですよ。何人もそんな友人がいるのですが、それぞれ忙しいみたいで、食事に誘っても誰も出てきてくれないんですよ、さみしいものですよ」
「お、俺でも役に立つのかい?」
「もちろんですよ。また会っていただけますか?」
「ああ、めし、いや食事でも飲みに行くのでも付き合うよ。その代わりお金はないよ」
「お金なんて気にしないでください」
二人は電話番号を交換して、その日は別れた。
そしてその二日後、小山は島田が経営する高級クラブに誘われ、たった一着しか持っていないよれよれのスーツを身に着け出かけたのだが、あまりにも場違いなところに来てしまったと後悔していた。
しかし、美女が隣に座るとそんなことは忘れてしまい、有頂天になって夢のような時間を過ごした。
そして土曜日、純也から電話をもらった小山は再び舞い上がってしまった。
「来週の金曜日、引け間際に、東西工業の株を、現物で買えるだけ買ってください」
「ど、どういうことだ!」
「一年に一度あるかないかのチャンスなんだ、月曜日、ストップ高になる」
「ほ、本当なのかっ……」
「間違いない、俺も持ち金、全部行くよ、ストップ高は最低でも二日は続く。投資した額の一・五倍にはなるはず」
「信用買じゃ、駄目なのか」
「それは絶対に駄目、信じられないくらい跳ね上がるから、信用倍率の関係で、強制決済される可能性がある。こんなチャンスは滅多にないんだ。その代わり、儲かったら、もううちには来ないで欲しい」
「そ、そりゃ、金ができりゃ、問題はないんだ。だ、だけど…… 現物かー……」
小山の困惑が伝わってきた。
「でも、大人はいいよな、借りることができるけど、子供は借りるわけにもいかないし、祖父ちゃんに頼んでみようって思っているけど、信じてくれるかどうか……」
「お前、原資はいくらあるんだ?」
「三百五十万円」
「ええっ、あんなに儲けているのにかっ?」
「そりゃ、生活費に回してるんだから……」
「あっ、そうか……」小山は話しながら島田の笑顔がちらついた。
( あいつの言ってた通りだ、チャンスが来たんだ、だけど現物かー、金がないな、くそー )
小山は、その足でサラ金に問い合わせてみたが、五十万円が限界だった。
「誰かいないか?…… くそー」
そして、日曜日の夜、行きつけの居酒屋で飲んでいると
「小山さん、誘ってくださいよー」人懐っこく声をかけてきたのは島田だった。
小山は一瞬、島田に話してみようかと思ったが、純也からかたく口止めされていたこともあって、苛々していた。
「どうしたんですか? 今日は元気がないですね……」
「わかるか?」
「そりゃー、わかりますよ。何か困っているんですか? 遠慮しないで言ってくださいよ」
微笑む島田に、小山は「金を貸してくれないか」という言葉が喉元まで出かかっていたが、島田に軽蔑されたくないという思いが、その言葉をぐっと飲み込んでしまった。
「あっ、忘れてた。約束があったんだ、小山さん、今日はこれで失礼しますが、困っていることがあるんだったら、本当に言ってくださいよ。あなたの力になることができれば、私の運気も上がっていく。お互いにそうやって運気を高めていくんですよ」
何かあったのだろうと思った島田は、そう言い残して店を後にすると、中野に連絡を取り、佐久間純也が金曜日に東西工業の株を、現物で買えるだけ買うようにと話したことを聞いて、
なるほどね、現物で買いたいけど金がないのか…… と思って微笑んだ。
そして水曜日、島田は再び小山をクラブに呼び出した。
クラブと聞いた小山は、喜んでやって来たが、金のことが頭から離れないでいた。
「この前から元気がないのが気になっているんですよ。大丈夫ですか?」
島田が眉をひそめると
「実はね、金曜日に狙っている株があるんだ」
「えっ」島田はこの言葉を待っていたのだが、慌てたそぶりを装ってホステスに席を外させ、
「金曜日って、まさか東西工業じゃないですよね……」小声で小山に尋ねた。
「えっ、どうして知ってるの?」驚いた小山は目を丸くした。
「ちょっと待ってくださいよ。その情報は誰から仕入れたんですか、マル秘中のマル秘ですよ」島田が信じられないようなそぶりをする。
「いや、いつも教えてくれる奴が、一年に一度あるかないかのチャンスだって……」
「信じられない…… その人はどんな人なんですか?」
「えっ、ただの高校生だけど…… 」
「ええっー!」島田は唖然としたそぶりで遠くを見つめた。
しばらく沈黙があった。
「天才か何かですか…… あるいは親が外務省に勤めているとか……」
「いや、父親はもう亡くなっているけどトレーダーですごかったらしいよ」
「そ、そうなんですか…… 小山さんのそばにはそんなすごい少年がいるんですか…… どうりでオーラがすごいはずだ」島田が驚いたように呟く。
「えっ、でも、何を悩んでいるんですか?」島田が不思議そうに尋ねた。
「いやー、それが恥ずかしい話、現物で買うように言われてんだけど、金が四百万くらいしかないんだよ」
彼は株取引の原資にしている三百万円のほか、サラ金二社から各五十万円を借り入れ、四百万円の準備はしていたが、それが限界であった。
「なんだ、そんなことですかっ、早く言ってくださいよ。心配するじゃないですか」
島田が微笑むと
「えっ」小山は驚いたが
「私がお貸ししますよ」あっさりと言ってのける彼に
「えっ、ほ、本当ですかっ、担保は何もないですよ」彼は立ち上がってしまった。
「大丈夫ですよ、金曜日の引け間際に東西工業を現物で買うんでしょ、何も問題はないですよ。だけど、その少年はすごいですね」
「そ、そうなのか……」
「そりゃ、そうですよ。この情報を知っている者は、そんなにはいないですよ」
「なんか、裏情報を買っているらしいですよ」小山の言葉遣いが急に丁寧になり、島田は腹の底で笑った。
「そうでしょうねー、それにそれ以外にも何かあるんでしょうね。この銘柄はね、三日間はストップ高が続きますよ。だけどね、信用で買っていると、信用倍率が急激に動いてしまうから、強制決済されてしまう可能性がある。そこまで読んで現物買いを提案しているんでしょうね…… いや、恐れ入りました」島田が頭を下げると
「ええ、そいつも同じようなことを言っていましたよ」小山は悦に入ってしまった。
「わかりました、でも、今からだと…… 明日の朝一には証券口座に入金したいですよね」
「は、はい……」
「銀行がね、普通預金以外で億単位になると二~三日、待ってくれっていうことがあるんですよ。私も自分の普通口座には二億くらいしか入れていないんで、場合によったら二億しかご用意できないかもしれないですが、それでもいいですか?」
聞いていた小山は二億と聞いて戻しそうになった。
「そ、そんなに…… で、でも、だ、大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ、こんな話が近づいていたから、小山さんのオーラはすごかったんですね」
「だ、だけど……」
「何も心配することはないですよ、二億で買えば月曜日には二億六千万円、火曜日には三億ですよ。ただね、申し訳ないのですが、利益の一割はフィードバックして欲しいんです」
「そんなのはお安い御用です」
「一千万くらいどうでもいいんですけど、すべてを提供してしまうと、私の運気を小山さんに上げたことになってしまうんですよ。申し訳ないが、それはできないんで利益の十%だけお願いします」
「もちろんですよ、何の担保もなしに貸していただくんですから……」
「ただし、二億はその株の購入以外には使わないでくださいよ、東西工業の株を買うということでお貸しするわけですから……」
「もちろんです。でも本当にいいんですか? なんか夢のようで…… 」
「小山さん、いずれにしてもあなたは一生遊んで暮らせるだけのオーラがありますから、これからはこんなことばかりですよ」
「そ、そうですか、そうだったらいいんですが…… 」
「でもね、今回のことだって、もっと早く相談してくれていたら、銀行に五億でも十億でも準備させることができたんですよ。もっと早く言って欲しかったなー」
「す、すいません……」
「ああ、ごめんなさい責めているつもりはないんですけど、惜しかったなーって思って」
「ところで、島田さんはどのくらい買われるんですか?」
「はははっはは、笑ってくださいよ。こんな株を買ったら私はすぐに取り調べを受けることになりますよ」
「ど、どういうことですか?」
「私はインサイダー取引の関係で睨まれているんですよ。だから全く買えないです」
「そ、それは残念です」
「いえいえ、お金なんてどうでもいいんです。時間を共有する人たちに情報を流して、その人たちが儲ければ、私の運気も上がっていく。私はそう信じていますから……」
「その運気っていうのは占いか何かですか」
「易です。当たるも八卦、当たらずも八卦の易です」
「そ、そうなんですか……」
「あっ、明日、小山さんの前でネットバンキングから二億円振り込みますから、確認出来たら、形の上だけでいいので、借用書をくださいね。二億も動かすと税務署が絶対に調べに来ますから、借用書がないと、あなたに贈与したことになってしまうんですよ。二~三日借りただけで、どかっと贈与税を取られたらたまんないでしょ」
「ええ、ありがとうございます。ただ、実印は持っていないんです……」
「いいです。いいです。形だけなんだから母印でいいですよ」
小山は、最初に純也からこの話を聞いた時、確かにうれしかった。しかし、その一方で現物を買うための資金が乏しいということに加えて、初めて聞く話だったこともあって半信半疑なところもあった。
だが、島田の話によって、彼はこの話を完全に信じてしまい、来週火曜日の夕方には、自分は一億近い利益を手にすると信じて疑わなかった。
翌日の木曜日、午前十時、島田の事務所を訪れた小山は、ネットバンキングから二億円が振り込まれたことを確認すると、島田が用意していた借用書にサインして母印をついた。
「明日は、忘れないようにちゃんと購入してくださいよ」島田が微笑むと
「死んでも忘れないですよ」小山は嬉しそうだった。
そしてさらに翌日の金曜日、九時に立ち合いが始まると、彼はすぐに総額二億四百万円の買を終わり値で予約した。この証券会社のいいところは、終値で予約を入れる場合、額が確定していないことから、単価ではなくて総額で予約できるという点にあった。
間もなく、純也からも確認の電話が入った。
『予約入れましたか?』
『ああ、大丈夫だ、念のために確認しておいてくれよ』
『わかりましたけど、ところでいくら用意できたんですか?』
『ははっはは、見りゃーわかるよ、じゃ、よろしく頼むよ』
電話を切った後、小山のページにログインした純也は二億と言う数字に目を丸くした。
「まさか、誰かに話していないよな……」心配になった純也は再び小山に電話を入れた。
『もしもし、誰かに情報を漏らしたりしていないですよね』
『だいじょうぶだよ、なに心配してんだ』
『いや、情報が漏れると、仕切り直しされることがあるんですよ』
『大丈夫だって、俺の運気にほれ込んでくれた奴がいて、二億貸してくれたんだ』
『ええっ、どういうことですか?』
『まっ、心配するなってことよ』
純也は、小山が良からぬ人に情報を流し、二億円を手に入れ、その良からぬ人もこの株を買うようにしているのではないかと言うことを心配していた。
場合によれば、その良からぬ人が自分の所にも押し寄せてくるのではないか、そんな不安が脳裏をよぎったのだが、その時は、小山が売りと買いを聞き違えたのだと言い張ってやろう、それに中野さんだっているんだからと思って、懸命に自分に言い聞かせた。
純也もそんな不安の中、まず中野の四千万円を使って、終値での売り注文を六千万円、そして自らは、三千万円を原資とした場合の限界、一億円で売りの予約を入れたが、月曜日のストップ高値の一・五倍を担保しなければならないという特別ルールによって、結局は九千万円が限度とされた。
いずれにしても、その日の終値は二千百円となり、中野の売りは二万八千五百株、総額五千九百八十五万円、純也は四万二千八百株、総額は八千九百八十八万円、一方、小山は九万七千百株、総額二億三百九十一万円となった。
三時半になると小山が純也に電話を入れてきた。
『おい、月曜日のストップ高はいくらなんだ?』
『おそらく、五百二十円高だと思いますよ』
『と、言うことは九万七千百×五百二十円か?』
『ええ、だから約、五千五十万円ですか……』
『そ、そうか…… 純也、ありがとうよ。もうお前たちにゃー、迷惑はかけねーからよ』
( 迷惑だと思っていたのか、くそー )
『ええ、そうしてください』
「ふうっー」電話を切った純也は、自分がふるえていることに気づいたが、なぜなのかはわからなかった。
( まさか、下げないなんてことはないよな…… 仮に下げなかったとしても大きく上げることもないはず、中野さんが損したら、おれが弁償しよう。でも、でも、絶対に下がるはずだ。中野さんも月曜日は朝から来てくれる約束だし、絶対に大丈夫。あいつがどこで二億円を借りたか、気にはなるけど、でも、もう仕方ない。とにかく下がれ、ストップ安だ)
さすがの純也もその夜は眠れなかった。生まれて初めて押し寄せてくる不安に押しつぶされそうになっていたが、「大丈夫、絶対に大丈夫」彼は懸命に自分に言い聞かせうとうとしながら朝を迎えた。