残り少ない命
ある水曜日、夜に呼び出された彼は、その帰り道、彼女の病気のことを考えながら、ふと気が付くと繁華街の裏通りを歩いていた。
「えっ、ここはどこだ?」そう思った瞬間、
「おい、誰に断ってこの道を歩いてんだ?」右前方で煙草をふかしていたチンピラ風の男に声をかけられ、
「えっ…… 」彼はその低く冷たい声にドキッとして振り向いて引き返そうとしたが
「どこへ行くんだ?」別の男に後ろをふさがれ頭が真っ白になってしまった。
「と、通して下さい……」彼の声がフェードアウトする。
「おうっ、何だって? 聞こえねえよ」
「と、通してください」
「じゃ、払うもの払えよっ」
財布を取り上げられ、抵抗しようとした彼は腹に一撃をくらいうずくまってしまった。
「何だよ、おめえよっ、三千円ぼっちか、ふざけんじゃねーよ、名前と住所を教えろっ」
その男が純也の胸ぐらをつかんだ時だった。
「おい、何やってんだ」後方からの低い声に純也は再びドキッとしたが、その男も慌てた。
「な、中野さん……」
「子供じゃねーか、ふざけんじゃねーぞ、返してやれっ!」
その迫力は半端なかった。
「す、すいやせん」その男は財布を純也に差し出すと
「し、失礼しやす」そういって頭を下げるともう一人の男と逃げるようにその場を後にした。
「ぼうず、大丈夫か?」
「は、はい、ありがとうございました。た、助かりました」
純也は慌てて立ち上がると頭を下げた。
「ここは通っちゃだめだ、知らねーのか」
「すいません、考えごとしていたら……」
「そうか、まあ、気をつけな」
「はい、あ、あの俺は佐久間純也と言います。中野さんとおっしゃるんですか?」
その中野と呼ばれた男は、【佐久間純也】と聞いて驚いた。彼は、入院している娘から純也のことを何度も聞かされ、一度は病室に入りかけたが、楽しそうな話声が聞こえてそのまま引き返したこともあった。
転居してからの編入であったため、見舞いに訪れる友達もいない娘のことが不憫であったが、彼は久しぶりに楽しそうに同級生のことを話す娘がとてもうれしかった。そのため彼はその少年に感謝していた。
「あっ、ああ、警視庁の捜査一課にいるから、何か困ったことがあれば、いつでも尋ねて来な」
中野は誰かにこんなことを言う人間ではなかったが、それでもたった一人の最愛の娘が、この少年に癒されていると思ったら、ついそんな言葉で出てしまった。
「は、はい、ありがとうございます」
その土曜日、彩奈を訪ねた純也は、この話を楽しそうにしたのだが、名前と捜査一課と聞いた彼女は父親かもしれないと思った。
「ところでさ、本当にどこが悪いの?」
「だから、顔と頭だって……」
「はー」彼がため息をついた、その時だった
「うっ」
彼女が顔をしかめたかと思うと胸を押さえて今にも倒れこんでしまいそうな状況になり、見る見るうちに顔から血の気が引いていく彼女に、慌てた純也はブザーをおした。
『はい、彩奈ちゃん、どうかしましたか』
『大変です。彼女が苦しそうで……』
『すぐに行きます』看護師の慌てた様子が伝わってくる。
すぐに医師と看護師二人が部屋に飛び込んできた。
「彩奈ちゃん、彩奈ちゃん!」医師が懸命に呼びかけるが彼女はぐったりとしたままだった。
呆然と立ち尽くしていた純也は
「ごめん、外に出ていて!」看護師に言われ、押されるように部屋の外に出た。
頭が真っ白になってしまった彼が、部屋の外で様子をうかがおうとドアに耳をあてると
「のけて!」
別の看護師が慌てて何か機材やら点滴の薬がいっぱいに乗っているワゴンを押して走ってきた。
とにかくただ事ではない、とんでもないことが起きている……
彼にもそのことだけは理解できたが病名も知らない彼は何もわからず、ただおろおろするばかりだった。
二十分ほどすると一人の男性が顔面蒼白で病室に走りこんだ。
「彩奈!」叫ぶ声が聞こえたが……
「あれっ? 今の人、中野さん?」
しばらくして病室から出てきた中野は、廊下に設置している長椅子に腰を下ろすと
「ふうーっ」目を閉じて大きく息を吐いた。
純也がその隣に座るとそれに気づいた彼は
「ありがとう」といった後、再び目を閉じた。
「だ、だいじょうぶですか?」純也が尋ねると
「ああ、ありがとう。何とか落ち着いた。今は薬で眠っている」彼は微笑んだが悲しそうだった。
「あのー…… この前はありがとうございました」
「ははっ、名前を聞いて驚いたよ。名前だけはあの子から聞いていたからね」
「ぼ、僕も驚きました。彩奈さんのお父さんだったとは……」
しばらく沈黙の時が流れた。
「あの…… どこが悪いんですか? いくら聞いても彩奈さんははぐらかしてばかりで……」
「そうか…… 」
「教えてはいただけないですか?」
「いや…… 心臓が良くないんだ」
「えっ、でも治るんですよね」
「いや、もう移植するしか手はないんだが…… 順番なんて待っていてもどうにもならないんだ」
その横顔は、あのチンピラをしかりつけた人とは思えないほどの悲哀に満ちていた。
「そんな……」純也も俯いてしまった。
「ありがとうな、君が来てくれるからあの子は楽しそうだ、今はそれが一番うれしい。本当にありがとう」頭を下げた中野の瞼から涙があふれる。
「また来てもいいんですかね?」
「ああ、お願いするよ。明日の朝には元気になっているはずだ…… 」