十七
お良は聖なる祝詞を唱え、大蠅に向かっていった。懐からクルスを取りだしたが、それは骨を十字に組み合わせたものだった。さらに硝子瓶を取りだし、なかの液体を祝詞とともに蠅に浴びせた。
「ギユギワアア」
蠅は異様な叫び声をあげた。やったか! と思ったが、その前脚と中脚でお良をつかみ、ぐらぐらと揺すぶった。口の筒が伸び、顔といわず体といわず、ぐざぐさとお良を突き刺した。
お良の手から骨でできたクルスが滑り落ち、瓶も落ちて割れた。
「やっぱり骨じゃだめだったか。銀のクルスは盗られちまったからね」
お良の声はもはやか細く小さかったが、色吉の耳にはそれが聞き取れた。
お良の体はもはやがくがくと人形のように揺すられるいっぽうで、どたり、べちゃりとなにかが床に落ちた。はずれた肋骨や、腐った臓物だった。
「ああ、あたしはもうだめだ。……あんた、こいつをやっとくれ……」
「すすすすまねえ、おれゃバケモンにはからっきしなんでえ。ブッセツマカハンニャハラミタ……」
大次はそんな色吉を、腕を組んであざ笑うように見ていた。
「そんな異教のまじないなんかこいつにはきかない……叩いとくれ……打っとくれ」
色吉はぶるぶると震える手で、懐から十手を取りだした。忘れていたかのように、汗がいちどきにどっと流れだした。せっかく取りだした十手をいまにもとり落としそうだ。
「早く……!」
「ゲェコォ、ムーウクウフ」
色吉は大股に蠅に近寄ると、十手を振りおろした。二度、三度と蠅の頭に叩きつける。蠅がまた「ギユギワアア」と異様な叫びをあげる。お良にかけていた前脚と中脚が離れた。にやにやと見ていた大次の顔色が変わった。
「てめえその十手はなんだ! どうなってる。見せやがれ!」
色吉は頭をしたたか殴られ、うしろから羽交い絞めにされた。それを振り払い大次に向き直る。顔面を拳固で殴られたが殴り返す。大次も十手を取りだして振りおろしてきたから十手で横に払った。キン、と耳障りな甲高い音が鳴り、大次の十手と色吉の十手が交差し、闇に転がっていった。
双方ともに黙ったまま、殴りあい、蹴りあいが続いた。色吉が人間相手にこれほど手こずるのはめったにないことだったが、とうとう左の拳固が顎をとらえて、大次が崩れ落ちたとき、色吉もへたり込んだ。
振り返ると、蠅がお良にのしかかるように押さえこみ、とどめを刺そうとしていた。
ああ、まずい。だが体がおもりを乗せられたように動かない。あと少し、ほんの少し休めば、動けるのだが……
「クルスだ。銀のクルスだよ……」
お良が言うその声はつぶやきのように小さかったのだが、色吉には地下室内に響き渡ったように聞こえた。




