八
「あの顔面落下芸人の野郎、こんだ綱渡りをやろう、ってんで評判をあおってやがるぜ」
太助が言った。
「そうかい」
色吉は気のない返事をする。また太助に誘われて、小料理屋に来ていた。夕飯どきだったが、あいかわらず飲むのは太助だけで、色吉は食う専門だ。内心では、とうとう他の猿真似をやるまで落ちぶれたか、と六陸を哀れんだ。
「見にいってやらねえのかい」
「さあ。今月は旦那の月番だ。外廻りがあるから、勝手はできねえんでな」
「そうかい」
太助は羽生の旦那の話題が出たからかそわそわと落ち着きがなくなった。
色吉は羽生多大有にお付きで向両国の小屋通りを歩いていた。
「さあさ、天下の軽業師、驚異の曲芸屋、銀明亭六陸の新しい演目だ、綱渡りだよ、そこな兄さん姉さん寄ってらっしゃい見てらっしゃい」
六陸の小屋のまえを通りかかったとき、羽生がくるりと直角に折れ曲がってまっすぐ木戸に向かった。途中に何人も老若男女ががいるのに、ひらひら、するするとよけていく。まったく、よくぶつからないもんだ、色吉はいつも感心する。いや、そんな場合じゃねえ、色吉はあたふたとあとを追い、木戸番に文句を言われるまえに見物料を二人分、叩きつけるように払うと旦那についていく。
見物席は満員だった。
「お」
ありゃああの西国曲芸団の綱渡り女、吹田雲之丞じゃあねえか。
地味に装って島田も普通の娘のように結い、化粧も薄いが、すぐに色吉は見抜いた。芸人仲間らしいのを二人ほど従えているようで、こうして見ると大店の箱入り娘といった風情だ。当世の人気曲芸師も、ちょいまえの人気軽業師の新しい技とやらが気になると見える。
小屋は久々に、ほんとうに久々に大入り満員だった。
「へっ、ざまあみやがれってんだ」
この銀明亭六陸さまの芸を、新しいことをやるってんで江戸の衆はやっぱり気になるんだろう。そのぼんくらまなこをよっくかっ開いてよっく見てやがれ。だがそう簡単には見せてやらねえ。六陸は手に持っていた杯をあおった。
「引っ込め」「いつまで待たせやがる」「とっとと六陸を出せ」
客席から野次が飛ぶ。稲光のお烈というたいそうな名のついた女手妻師のときに文句が出始めた。
いままで見に来やがりもしなかったくせに、勝手を言うんじゃねえ。とっくりと待ちやがれ。
「いいかげんにしやがれ」「六陸の野郎、できもしねえってんで逃げやがったんだろう」「看板に偽りありだ、金返せ」
しかし治郎吉の似非落語をやっているときに、もう暴動でも起きそうな気配だったので、とうとう六陸は舞台袖から出ていった。六陸は動きやすい、鳶職のような恰好だ。
「待ってました」「千両役者、いやさ芸人」「この色男、さんざ待たせやがって」
場内の沸きに背中に震えが走る。まったく、こんな感じも久しぶりだった。
上方二間半ほどの高さに舞台と向こう側にかけて綱が張ってある。梯子もないのにどうやってあそこまで行くのか、と誰もが思っていたが、六陸は横にぶらさがっていた縄をつかむと、するすると昇っていった。届いた、と思ったらもう綱に乗り移っていたが、なんと六陸は逆立ちしていた。そしてそのまま綱を渡りはじめた。
中ほどを過ぎたところまで来ると、脚をおろし、うしろ歩きで舞台のほうに戻る。体が舞台にかかったあたりまで戻ると、上体をうしろにそらす。そらしきったところで、ぴょんと足を跳ねる。見世物客たちがはっと息をのむのがわかった。小屋の内はしわぶきひとつない。うまく両手で綱をつかむと、六陸はなんとか倒立した。綱が左右にぶるぶると揺れる。客がほうっと息をつき、拍手が巻き起こった。
そのまま足を綱につくと、また綱のうえに立ち、同じように体をそらす。六陸はこのうしろ回転をもう二回繰り返した。そのたびに場内は沸いたり、静まったりした。
繰り返した、と見ていた誰もが思ったが、最後に六陸は綱をつかみ損ねた。ひっ、と声にならない悲鳴が拡がる。見物席だけでなく、「うっ」舞台袖にいたお烈や治郎吉も押し殺した悲鳴をあげた。六陸はそのまま顔から舞台中央に落ちていった。
ぐぼ、と鈍い音がした。
雲之丞もひゅっと息を吸い込む音をさせたのを色吉の耳は捉えた。さすがの女芸人も驚いたようだ。
「旦那」
色吉はすぐ横に座っているはずの羽生の旦那を振りかえった。「あれ、いる?」
さっきと変わらず旦那が座っていたので驚いた。
いつもの伝ならぴゃっと見えなくなって六陸の野郎を助けてやってるところじゃあねえんで? 見殺しですかい?
しかし羽生の旦那は首をかしげるように動かすと、舞台のほうに目を戻した。
つられて色吉も舞台に顔を向けた。六陸が倒れている。舞台袖から、似非噺家の治郎吉と女奇術師お烈がよろよろと出てきた。しかしおそるおそるという感じでなかなか足が進まない。見物客は息をつめたまま見守っている。
こうなると女のほうが度胸があるのか、あとから出てきた稲光のお烈が治郎吉よりも先に六陸のもとに到達した。しゃがみこみ、顔を六陸の顔に近づけていく。
そのときいきなり六陸が立ちあがったので、お烈が腰を抜かしたようになって尻餅をついた。
「ひえっ」「きゃあ」「うをあっ」
客席からも悲鳴があがった。
立ちあがった六陸は、首が曲がり、顔が真横に倒れていた。そのままにやりと笑い、見物衆に一礼し、舞台を引っ込んだ。
小屋のなかは静まり返っていた。
ぱちぱちと、一人が拍手を始めた。追従するものがまばらに現れ、そこここでぱらぱらと音がしたが、周りが従わないのですぐにやんだ。みんな茫然としていたのだ。ひょっとしてあれはもう死んでるんじゃないか。誰もがそう思い、周りのものもみな同じことを考えている、ということがわかった。妙な一体感があった。
ぱちぱちと、そんななか独りで拍手を続けているのは、色吉はわざわざ見るまでもなく、音の出どころと目の隅に映った影で知っていた。西国曲芸団の女曲芸師、吹田雲之丞だ。
「ええ、これにてシマイでございます」
似非噺家が舞台のうえから言った。ひょいと頭を下げると、「本日は終わり、オアリ……オアリガトウゴザイ、でやんした」と言って自分も袖に引っ込んだ。
「なんでえ、ありゃあ」「もう死んでんじゃねえか」「薄っ気味わりいもん見せやがって」
客たちもやっと生気を取り戻したように話ながら、三々五々引きあげ始める。
その流れに逆らうように、雲之丞が舞台のほうに寄っていった。
「見舞わせてやっておくんなまし」
雑踏のざわめきなかから色吉の耳はそう拾いあげたが、羽生が周りの客とともに引きあげていくのに付いていったのでその先は知らない。
つぎの日の昼間、色吉は一人で向両国の雑踏のなかをぶらぶらしていた。西国曲芸団の見世物小屋まで来たが、そこは空っぽだった。
「ここにあった軽業はどうしたんでえ」
そこらにいた地元の呼び込みをつかまえて訊いてみた。
「ああ、北のほうへ移動したようだぜ」
もともと西国曲芸団は旅芸団なので、一昨日かぎりで店仕舞したが、それははなからの予定通りだということらしい。
「どこに行ったのかね」
「さあな、北のほう、としか聞いてねえな。とりあえず上州とか野州、はたまた常陸とか、そんなもんじゃねえか」
「そうか、そんなもんだろうな」
六陸の小屋も回ってみた。こちらは意外なことにやっていた。
「六陸はでえじょうぶだったのかい」
木戸番に訊いてみた。
「さあて、どうなんでしょうね」
「どうなん、て、ここの看板だろう。小屋主でもあるんじゃねえのか」
「小屋の権利はまた左衛門さんに売り戻したようですぜ」
左衛門というのはもともとの小屋の持ち主だ。
「で、六陸はどうしたんだ、昨日は無事だったのかよ」
「さあ、あっしは知らねえなあ」
「おいおい、そりゃねえだろう」
騒ぎを聞きつけたのか、女奇術師、稲光のお烈が出てきた。
「これぁ親分さん、うちのがなにか失礼しましたかね」
となれなれしく言う。別に顔見知りではないが、色吉もだんだん顔が売れてきた、ということなのだろう。
「いや。六陸がどうなったか訊いただけだよ。怪我の具合とか、どうなんだ、おめさんは知ってるだろう」
「はあ、親分さんもゆうべの様子はご存じで。それが六陸さん、楽屋へ引っ込んで、みんな心配してるのにだいじょうぶだ、心配すんなの一点張りで、すぐに帰っちまいました。首ひん曲げたまんまひょこひょこ歩ってくもんだから、悪いけどちっと笑っちまいましたけど」
「それでおめさんは」
「本人がそう言うんですから、そのまま、それっきりですよ。そんで今朝になったら左衛門さんがやってきて、今日からまた自分がここの興業主だって」
「で、六陸は今日も出るのか」
「それがわからないんですよ。長屋にもいないみたいで」
「そういや、どこだかの娘さんが見舞いにいこうとしてたみてえじゃねえか」
「ああ、六陸はもう帰った、つったらあきらめて帰ったようですよ」
色吉はそれから左衛門を探しあて、話を聞いた。ゆうべ遅くに六陸がやってきて、どこかに養生に行くから小屋を引き取ってくれと、ただ同然の値で権利を戻したということ、どこへ行ったかは知らないということだった。
「酒で身を持ち崩す。世のなかにゃあ珍しくもねえ、あふれかえった話だあな」
それきり六陸を江戸で見かけることはなくなった。




