四
御舟庵は二階建てで、お畝の座敷は二階の一番奥にあった。この部屋だけは二間続きになっている。
二階には他に三部屋ばかりあり、お畝の部屋からひとつおいた座敷に惣太郎が一昨日の夜から泊まっている。当初はその晩に帰る予定が、紙礫騒ぎのため姉を心配して残ることにしたとのこと。
その惣太郎は、さっき皆とともに下に降りたが、他の者たちが自室に引きあげたり散歩に出たりするなか、ひとり階段のしたでうろうろしていた。
そこに平太が降りてきた。
「おう、おまえは平太とかいったな。ちょっと顔を貸してくれないか」
周囲に首を巡らせながら、小声で惣太郎が言った。
「へい」
と平太は愛想よくつきしたがう。惣太郎は母屋を出て表庭の隅の目立たぬところまで歩いた。
「おまえは誰だい。さっきは客のてまえ黙っていたが、おまえなど、店で見たことがない。念のため島太にも訊いてみたが、あいつも知らないと言っていた。それからあのお稲とかいう下女も、おまえの仲間なんだろう。どういうつもりなんだい」
ひそひそと声をひそめて言う。
「こいつは失礼を。若旦那は宿を留守にされていたからご存じないですが、あっしは実は船頭として雇われていやして。このたびはお嬢さんの身の回りで力仕事などあったときのためにつかわされやしたんで、ヘい」
平太は頭をさげた。
「いや宿を留守にってたった一日二日じゃないか」
思わず声を張りあげてしまい、はっとして母屋のほうを振り返り誰もいないのを見てほっとした。
「あっしはいま留守にしているが若旦那がいらっしゃると聞いただけなんで」
平太のほうはいたって朴訥としたものだった。
「……そうか、それは疑ってすまなかった。じゃあおまえは昨日か今日雇われたということだね。だがそんなまだ誰ともわからない人間を姉上の供につけるとは、父上もなにを考えているのだろう……」
後半はほとんど自問、独り言のようなものだったが、
「へい、それがお嬢さんがあっしをご覧になって、いい男だと言ってくださいやしてね、おまえを連れていくよ、だなんて、こんな次第で」
いかにもお畝の言いだしそうなことだったので、
「む。姉上の気まぐれにも困ったものだ」
惣太郎も納得するしかなかったが、しかし平太がにやにやとしているのを見て、
「ちぇ、姉上はおまえなんかとは身分が違うんだから、妙な夢は見るなよ」
なぜか平太は驚いた顔をしたが、すぐに、「いやそれはもちろん承知でさあ」と言った。
まさかこいつ、本当に姉上をどうにかできるつもりでいたのだろうか、図々しい奴だ。
「じゃあおまえといっしょに来た、あの下女はどうなんだ。おまえと同じく昨日雇われたのか」
「へい、それがいよいよ出発の段になって、お嬢さんが身の回りを見る小女がほしいと言いだしやして」
失礼な言いかたに惣太郎は目をむいたが、平太はそんなことは気づきもせず、「もう別荘のほうに下女をふたりもやってあると大旦那が言ったんですがどうしてもと聞かない。それで、店の者をそう出すわけにもいかないので、急遽雇ったような次第で。お嬢さんは、知らない人はいやだ、とまたわがままを申すもんで、近所の幼なじみを、自分の店の手伝いがあるというのを無理言って連れてきたようなわけでして」とさらに失礼に続けた。
惣太郎はもうこいつはそういうものだとあきらめて、
「自分から訊いておいてこういうのもなんだが、おまえ、下女の事情になどやけにくわしいな」
「え……へい、ええ、なにしろここにくる道すがら、そのへん話してくれたもんでやすからね」
なるほど事情はわかったが、しかし惣太郎には違う気になる点が出てきた。
「おまえたち、そんな店の内情を往来で大声で話してきたというのか」
「いや、めっそうもねえ。話したのはもっぱらお嬢さんで、あっしらはただ聞いていただけなんで、へい」
ああ、姉上ときたら。
「……ところで、おまえはどこへいくつもりだったのだ」
「いや、どこへってこともねえんでやすが、周りの様子を見とこうと思いやして。なにしろあっしはお嬢さんの用心棒でやすから」
「なに? 力仕事のために遣わされたとさっき言ったじゃないか」
「いえ、これもやっぱりお嬢さまが、あんたはあたしの用心棒だよ、とおっしゃったんでさ」
まったく姉上の気まぐれにも困ったものだ。
「大旦那も、おまえの好きなように呼んだらいい、と――」
「わかった、もういい。屋敷のなかなら安全だ。おまえはご苦労であった。もう姉上のそばを離れてもよいぞ。なんなら店に戻ったらどうだ」
「いや、そういうわけには」
「いや、いい。私が命じる。逆らうな」
惣太郎の剣幕に、平太は驚いた顔をしたが、
「へえ、それじゃあお嬢さんにうかがって、お許しが出たらお店のほうに――」
「待て、姉上に余計なことを言うでない。その、つまり……無用な心配をかけるからな。この邸内にいてもいいが、ならばおまえは一階の下男部屋に寝泊まりせよ。姉上には近寄らんように」
なおも平太がなにか言おうとするのを、
「道中の用心、大儀であった。おまえの用心棒役は、もう解任だ。ここでは私が主人だ。私の言には従ってもらうぞ」
平太はうつむき、なにかに耐えているようだったが、やっといってしまうと、惣太郎はため息をついた。