二
「ここまではいいか?」
「ああ。いくら甘いとはいえ、娘の嫁ぎ先なんざとっとと決めちまえばいいのに、なんでそんな面倒するか、お大尽の考えることはわからねえが、事情はわかった」
「くどい野郎だな。まあいいや。で、お畝を嫁に欲しいってのが三人いて、廻船問屋興河屋の次男友之助、材木問屋堤屋の跡取り松伍、菓子屋小滝の次男の清治、てのが三人の求婚者だ」
「そうか」
友之助は二十三、清治が二十二だが、松伍だけ年が離れて三十を越えているらしい。
廻船問屋は飯舟屋に舟を貸す、材木問屋は飯舟屋の増築や改修で木を卸すほか、松伍の父親で堤屋の当主、松造が釣りが趣味で飯舟屋の常連客。菓子屋は飯舟屋に菓子を卸しているというつながりとのこと。
なにしろお畝は大川端小町の異名をとる器量よし、気立てもよく、三人の男たちはもちろん、その親たちもずいぶんと乗り気の模様。
「気立てがいいのかえ。ずいぶんとわがままな娘のように聞こえたけどな」
「そこはそれよ、なんでもはいはい親の言いなりじゃねえってことも、自分を持ってるってことで却って株をあげたってなことだぜ。商売人の世界はお武家とは違うってことなんじゃねえか」
「そんなもんかい」
といって色吉だって武家の事情に詳しいわけでもない。仕えている羽生家も最下層とはいえいちおう武家の範疇だが、当主多大有にしろ隠居の歩兵衛にしろ最下層としてすらまったく参考にならない人たちだ。
「昨日からいまいった連中と、飯舟屋から手伝いが二、三、小石川の寮で暮らしてる。そこは御舟庵とかいう風流な名前がついてるんだがよ。肝心のお畝はまだ家にいて、明日から御舟庵に移るって話だ。で、昨日の晩のことだ」
本当はお畝も皆といっしょに寮に入るはずだったのが遅れたため、弟の惣太郎が詫びのあいさつに顔を出していた。そこで予定されていた酒宴も中止とはせず、惣太郎を囲んで開かれることになった。
「惣太郎殿では色気がないが、お畝殿の弟君ということに免じて歓待してやろう、ははは」
菓子屋の清治が笑う。同じ町内に住む姉弟の幼なじみで、惣太郎と年も近く仲が良いので軽口も出る。
「歓待するのはわたくしどもの方でございます」
惣太郎が生真面目に返すと、清治はまた笑った。廻船問屋の友之助はお追従笑いをし、反対に材木問屋の松伍はむっつりと何が面白いんだ、という顔をしている。
主役の不在で盛りあがらないながらもなんだかんだと酒席も進んだころのことである。
ばさり、と音がして、礫が障子を突き破って転がった。
幸いだれにもあたらず、けが人もなかったが、みな驚いて、おしゃべりも箸もとまった。
障子は庭に面していて、そのときは風を通すために一部を薄く開けてるだけで、他はすべて閉めていたのだが、惣太郎が飛びつくようにがらりと障子を開けると、庭を逃げていく影があった。
「曲者、待て」
惣太郎は庭草履をつっかけると、影を追って表玄関のほうに走った。
残された者たちはあぜんとしてなりゆきを見ているだけだったが、飯舟屋から手伝いに来ていた島太という手代が、礫を拾った。石を紙で包んだものだった。開くと、紙の内側には文字が書いてあるのが見えた。目を通した島太が眉をひそめる。
「なんと書いてあるのだ」
松伍が言った。背は低いが材木運びで鍛えられた体はがっちりとしている。その太い手を島太にさしだした。
「いや、使用人ごときが差し出がましい、勝手なことをするな。それをこちらによこせ」
島太ははっと顔をあげ、紙を奪おうとする松伍の手をのがれた。
「いえ、こちらはうちの惣兵衛……ここでは代理の惣太郎ににまず見せて、それから皆さまにお見せするかどうかは任せようと思います」
「使用人風情が客に逆らうか、いいからよこせ」
「まあ待て、松伍さん、島太の言うことももっともだ。惣太郎に任せようではないか」
清治が止めにはいった。松伍が不満そうな顔を向け、なにか言おうとする前に、
「なあ?」と友之助にも同意を求めると、
「あ、ああ、そうだよ、松伍さん、ここは飯舟屋の寮なんだから……」と、友之助も言った。
「おぬしらごときがわしに逆らうとはいい度胸――」
そこにおりよく惣太郎が戻ってきた。一人、ひとめで岡っ引と知れる男を連れていたので、皆が驚いた顔で見たが、惣太郎は首を横に振って、
「逃しました」
曲者を追って玄関を出た惣太郎だったが、月のまだ出ていない外は暗く、往来を見回しても人っ子一人見あたらない。
いや、ひとり小走りに駆け寄ってくる者があり、惣太郎が身構えると、向こうから声をかけてきた。
「こんばんは、あっしは御上の御用を聞くもんで、当磨と申します。いま男が飛び出してきて走っていったので追いかけましたが逃がしました。なにかございましたか」
当磨に事情を話しながら、御舟庵の客間に戻ってきたというわけだった。
「さっきの紙礫はどうした?」
惣太郎が誰にともなく訊くと、島太が紙を差し出した。惣太郎は文に目を通すと、当磨に渡した。
当磨は受けとった紙を読むと、懐にしまってしまった。「こいつは御上で預かりやしょう」
「おい、なんと書いてあるんだ」
松伍が言った。
「そいつも御上の預かりで。おっと惣太郎さんも島太さんも、中身を他のひとにしゃべらないでくださいよ」
島太はこちらの別宅の管理を任されていてよく来るので、当磨も顔見知りなのだ。「あっ、なにしやがる」
松伍がいきなり当磨を突き倒し、のしかかると、懐から文をつかみだして顔のまえでひろげた。
「なんだこれは、字が下手すぎて読めんぞ」
惣太郎や島太、清治に腕や体を押さえられ、松伍は引きはがされた。
「離せ、小者風情が偉そうに指図なぞするからだ」
松伍は文を放ると、自分の座敷に引きあげてしまった。
惣太郎と島太は自分のところの客が失礼をしたと当磨に平謝りに謝り、当磨も、
「まあ酒も入っていたのでしょう」
と不問にした。
それからあらためて、惣太郎をはじめそこに残った者たちから聞き取りをおこない、今回の嫁選びならぬ嫁ぎ先選びについての事情を知ったのだった。
「ところが当磨も御上で預かるなんて大きく出たはいいが、こんな事件にかかわった経験もなけりゃ知恵も浮かばねえ、ってんで親父んとこにどうしたらいいもんか相談にいったってわけだ。だが親父ももう楽隠居の身、身軽に動けるもんでもねえ。そこでおいらに頼ってきたってわけだ。なんとか色吉に話を持ってってくれってな」
「ふむふむ……なに? あんたが頼られたんじゃないの?」
「つまり色吉に――おめえさんに協力たのむように、って頼られたわけだ」
「頼られた、つうのかそれ」
「親父はおめえさんを高く買ってるんだよ」
「まあ、簾蔵さんにはいつぞやずいぶん世話になったからな」
「すまねえな。で、おめさんにやってもらいてえことってのは――」
「まあちいと待て、そのまえに二、三、尋ねてえことがある。まず、当磨は御舟庵のまえでなにをしてやがったんだ」
「うん、そいつは親父も当磨に訊いたらしいが、なんでも当磨は毎晩、縄張りを散歩がてら見廻ってるつうことだ」
「そいつは感心だな、あんたも酒ばっか飲んでねえで見習ったらどうだえ」
「おめえだってご隠居んとこでのたくってるだけだろ。茶々を入れるなよ、話がわからなくなる。ええと、それで、特に決まった道筋はなく、てきとうにぶらぶらしているだけで、昨日はたまたまその時刻――こうっと、五つか五つ半くらいだったらしいが――にそこを通りかかったら、玄関の門を駆けだしてくるやつがあって、なんだありゃと思って追いかけて逃がしたんでなにがあったのか訊いとこうと思って戻ったらもう一人出てきて先のやつを探しているふうだったから声をかけた、つうことらしい」
「惣太郎は曲者を見つけて一人で追いかけてたってことだが、危ないとは思わなかったのかね。おれたちのように悪い奴に慣れてりゃあともかく、ふつう素人じゃあなかなかおっかないだろう」
「惣太郎もいまでこそ真面目にやってるらしいが、つい去年だか位まではずいぶんと悪さをはたらいたようだぜ。不良仲間とつるんで喧嘩もずいぶんとやったというから、腕に自信はあったんじゃあねえかね」
「ふーん、なるほど、そんなもんか」色吉は腕を組んだ。「よし、それでおれはなにをすりゃいい。親父さんはどう考えてんだ」
「当磨はもう顔が知られちまったから、おめえにお畝の用心棒として御舟庵に寝泊まりしてもらいてえ。丁稚見習いかなんかってことにしてよ、おめえそういうの得意だろ?」