一
「近頃、鬼が出るそうじゃの」と、歩兵衛が言った。
色吉はいつものように羽生宅で夕飯を頂戴したのち奥の座敷で歩兵衛と差し向かっていた。
「へい、噂では。まったく、とうに節分も過ぎたってのに――いや、それとももう豆ぶっつけられる心配もないってんで出てきたんでやしょうかね、ははは……」
「ははは」
「……つっても噂なんで、もうちょっと自分で調べてから、なんかわかったらお話しようかと思ってやした」
「実のところ、色吉殿はどう思う?」
「やっぱり異人を見て、鬼だって思っちまったんじゃねえでしょうか。あの生っ白い体は、赤くも青くも、見ようによっちゃ見えやすからねえ」
「御府内を勝手に出歩いている異人がおるということかのう」
「ええ、どこかの屋敷から脱走したか、横浜あたりからこっそり流れてきたか」
かくいう羽生家でも、ある夏、異人の女をかくまっていたことがあった。かくまった、というよりは、多大有は妻をめとった、歩兵衛は嫁に迎えた気で、それぞれいたようだったが……
「あるいは両国あたりの見世物小屋から出演物が逃げたのかとも。ご隠居が気になるようなら、太助たちにも当たってもらいやすが」
歩兵衛はうなずいて、
「ご近所の元村殿は南の同心なのだが、じつはその妻女が――娘御のお夕殿はちょうど理縫と同い年だが――鬼を見たという話を耳にしたものでな」
話題に出したということだ。
元村家奥お香と娘のお夕が女中のお清を伴って浅草での芝居見物からこの界隈に戻ってきたのはもはや五つにもなんなんというころで、それというのも舟も駕籠も仕立てず、弱足で休み休み歩いてきたためである。
お清など、もう四十をいくつか越えているので、お夕の手を引きながら息を切らせていた。家の玄関が星明かりに見えたころ、お夕が、
「なにかいる、母上、清」
と玄関を指さした。
見ると確かに門のところになにやら黒い影がうごめいているようだ。薄い星明りではそれがなんであるか明瞭ではなかった。
「なにやつ」
お香が提灯を向け、鋭く声をかけると、それは、グワワ、と妙な叫びとも喘ぎともつかぬ音を出しながらお夕のほうに向かってこようとしたという。
「無礼者、さがりなさい!」
お香が懐剣を抜きながら立ちふさがり一喝すると、それは怯えた顔をして退散していった。
提灯と星明かりにほんの一瞬かすかに浮かびあがったその姿は、角生え、異形の顔つき、体は筋骨隆々六尺豊かな怪人だったとのことだ。