さとりと理縫
「もういいかい」
「まあだだよ」
梅雨の時季、八丁堀の子供たちがつかのまの晴れ間を縫うようにかくれんぼ遊びをしていた。
「もういいかい」
一軒の長屋の軒下にしゃがみこんで目を伏せて顔を手のひらでおおっているいるのは羽生理縫だった。
「もういいかい」
もうだいぶ長いこと遊んでいるのだが、日一日と日の長くなる初夏のお日様はまだまだ高い。
「もういいかい」
返事がない。
三度呼びかけて返事がないということは、みんな隠れ終わったということだ。理縫は顔をあげ、立ちあがって往来に向きなおった。
ちょうどそのとき、理縫がそうするのをまるで待っていたかのように一天にわかにかき曇り、桶の底が抜けたかのような土砂降りだ。
軒のしたで理縫は動けなくなった。皆もうまく雨にあたらないところに隠れたのか、道に飛びだしてくるものはいなかった。いや、友達ばかりではない。それまで行き交っていた大人たちまでがひどい降りを嫌ってかすっかり通りから消えうせてしまった。
ぼつぼつと雨の落ちる音がにぎやかに響くほど通りは寂しくなり、もう夜中かというほど、あたりは暗くなった。
軒下に理縫は立ちつくしていた。こんな豪雨のもとに出ていかれるはずもない。足がすくんでしまっていた。
そして気がつくと、雨のなか理縫に相対するようにしてやはり立ちつくしている奇妙な獣がいた。
「おまえはいま、おうちに帰りたいと思ったな」
奇妙な真っ黒なお猿のような獣が、理縫の正面に立ち理縫を見おろしている。
理縫はしゃべることもおぼつかず、がくがくと頭をうなずかせるしかできなかった。
「ほ。おまえはいま、わしを見て怖いと思ったな」
黒い体毛が雨に濡れてべっとりと体にはりついている。
理縫はまた何度もうなずいた。黒いお猿は獣のくせに表情があるようで、満足げに笑ったのがわかった。
「おまえはわしが笑うのを見てますます怖がっているな。けっこうけっこう」
雨の音にもかき消されもせず、獣の声はよく理縫の耳に入った。
「さて、もう怖がらせるのは充分だ。ひさびさに人間の子供をとって喰らうことにするか」
黒いお猿がゆっくりと足を踏み出し、理縫に近寄ってきた。
「おまえはまた、怖いーと思ったな、よしよし」
黒いお猿は理縫の怯える様子をじっくりと味わっているようで、さらに足をゆるめた。
「おまえはいま、あにうえ、と思ったな」
黒いお猿の足が止まった。
「なに?」
目が拡がる。理縫の見る先を追って振り返ると、同心姿の男が立っていた。
「おまえは……旦那!」
黒いお猿――サトリは去年の秋口に遭遇した「旦那」と呼ばれる男に驚愕した。世の中にさまざまな「旦那」は多いが、サトリにとっては「旦那」といえばこの同心姿でおおいつくされているのだった。
「いつのまに」
同心は籠手をはめた拳を握り、弓を引きしぼるように顔の横まで持ちあげた。
「ひい、堪忍してくれ」
サトリは頭を抱えて逃げていった。
雨はすっかりあがり、夕暮れの昏い明るさが戻った。
逃げ子だった友達が集まってきて、
「暗くなってきたからもう帰ろう」
と言った。
理縫は同心の兄多大有と手をつないで家路についた。
〈了〉