十五
しかしつぎの日、昼を過ぎても富造はやってこなかった。
夜になってもとうとう富造は来なかったので、弥太郎は安堵するとともに少し拍子抜けした。
そうなると悪い血が騒ぎはじめる。ずっと縮こまっていた反動で、いてもたってもいられなくなる。
仁兵衛親分の縄張りを避けて、神田か日本橋あたりにいけば遊べるだろう。博奕にやられた頭でそんなことを考え、弥太郎はいそいそと木戸を出た。路地を曲がったところで目のまえをふさがれ立ちどまり、息を飲んだ。銀次だった。
「先生、お出かけですかい、ちょうどよかった」
その陰から富造が出てきた。
「先生の新しいお仕事を世話するのに、昼間いっぱいかかっちまってな」
富造と銀次で弥太郎をはさみ、夜道を歩きながら富造は上機嫌で話し続ける。
「しかし安心しねえ、いい店が見つかったからな」
「店ってのはなんでえ」
「昨日も言った通り、お茶屋だよ」
「まさか俺に陰間茶屋で働け、ってんじゃねえだろうな。話が違うじゃねえか」
「てめえ女房は平気で女郎に売りとばすくせに、てめえが売られるのは嫌なのか」
「あ、あたりまえじゃねえか……」
「まあひとつやってみちゃどうだ。自分じゃ知らないだけで、意外にいけるなんてことはよくあることだぜ。先生はいい男だし、きっと売れっ子になるだろうよ」
「冗談じゃねえ、陰間なんぞやるくらいなら死んだほうがましだ」
「まあもう半金は受け取って、あんたを届けりゃもう半金ももらえる。そうなりゃこっちの知ったことじゃあねえから、あとは店のほうに三十両、耳をそろえて返しゃあ自由の身だし、それができなくておとなしく客をとるならそれもよし、その方がましってなら死ぬのもよし、勝手にしねえな」
「また五両増えてるじゃねえか」
「吉八と松吉の香典だよ」
弥太郎は絶句したが、すぐに、
「待ってくれ、わかった、真面目に飾りを作って返すよ、なんならどっかに閉じ込めてくれてもいい。おとこ女郎だけは勘弁してくれ」
と言った。
「先生、あんたね、勘違いなさっちゃ困る」
富造は立ちどまると弥太郎に向きなおった。薄い月明りに、いかつい顔が浮かびあがり、弥太郎は背筋が冷えた。
「こっちは今までさんざ、あんたに便宜を図ってきたろう。だがあんたはいつまでたっても金を返さない。いいかげんつきあいきれねえ、あとは自分で好きにするんだな」
さあ、いくぜ、と背を向けたので逃げようとしたら腕に激痛が走った。銀次が腕をひねりあげていたのだ。
「痛い痛い痛い、かっ、勘弁してくれ」
「先生に逃げられちゃ、せっかく半金として受け取った十五両を雛多屋に返さなくちゃならなくなるからな」
と言って富造は倒れた。本郷から浅草の方に向かう途中、武家町の寂しい通りだった。
銀次があわてて駆け寄った。その手はしっかりと弥太郎の腕をつかんだままだったが。
富造の首にあいている方の手をあてて、その顔に驚きが浮かんだ。
「兄イ……」
つかまれていた腕の感触がなくなったな、と思ったら銀次も前のめりに倒れた。
弥太郎は銀次の真似をして、銀次の首筋に手をあててみた。すでに冷たくなりかけて、脈を探るまでもなく弥太郎は手をひっこめた。
「祟りだ……お君の呪いだ……」
弥太郎はその前の晩にも言ったことを繰り返すと、銀次の下になっている富造の首に手をあてた。こちらはもはや氷のように冷たく、弥太郎はさっきよりも素早くひっこめた手を呪いの穢れを落とすように腰のあたりでごしごしとぬぐった。
「お……お君……勘弁してくれ……」
弥太郎はずるずると尻を滑らせ、立ちあがり、すっかり暗い夜道をふらふらと駆けだした。
どこをどう駆けまわったのか覚えていないが、気がつくと弥太郎は自分の長屋にいた。
戸を開けると、薄暗いなか五尺ばかりもあるお君の顔がぼんやりと浮かんでいた。その顔は笑みを浮かべていた。顔からぶらさがった手が、両てのひらを弥太郎に向けて押し戻すような形で動いている。
逃げたいのはやまやまだったが、弥太郎はお君の顔を見たとたんにへたり込んで動けなくなってしまっていた。
「おっ、おっ、おきっ、み……」
お君はあいかわらず手のひらを向けて振っていたが、だんだんとその顔からは笑みが消えていった。代わりに怒りの形相が現れ、弥太郎のほうに近づいてきた。
弥太郎はそれを見て気が遠くなった。