第5話 置いていくと言ったか?
王都の屋敷にある家具や調度品はすべて、働いてくれた使用人や出入りの業者に分配する。屋敷の土地の権利書を、長年支えてくれた執事に渡そうとした公爵へ、彼は首を横に振った。
苦笑いした公爵家当主アウグストは、財産の分配が終わった使用人に囲まれ、懇願されていた。財産は要らないから、領地へ連れて行って欲しい。馬車がなければ歩いて行くから受け入れてくれ、嘆願する彼らにアウグストは肩を竦めた。
「わしは置いて行くと言った覚えはないぞ」
この場で今までの働きを労う支払いをしただけで、彼や彼女らを切り捨てる気はなかった。アウグストの胸に残るのは、かつて己の師が遺した言葉だ。
『慕う民なくば、貴族も王もない。国は人々が集い作り上げるもので、王や貴族が所有してよいものではない』
長く生きた賢者であり、若き頃に魔王と戦った魔法使いだった。今のこの世界に魔法はほとんど残っていない。魔王との激戦で、魔法使い達が死に絶えたことに加え、使いすぎた魔力は散らばってしまった。
魔力を再び集める方法も、使用する魔術も残っていないのだ。そこに加え、魔王を封印して疲弊した世界を災害が襲った。降り続く雨に各国は分断され、この国も生き残ることに必死となる。
へーファーマイアー公爵家も、自領の民を守るだけで手一杯だった時期があった。その時にまだ若き国王は籠絡され、王宮は姦臣が横行する伏魔殿と化した。王の命令により各地は搾取されて、滅びる寸前だった国を強引な手法で立て直したのが、アウグストだ。
涙を流して礼を言う使用人を連れて屋敷を出たアウグストは、妻カサンドラを馬車ではなく馬に跨らせた。その後ろにひらりと飛び乗る。
「我らは先に行く。護衛は息子ベルンハルトが指揮する騎士に任せた」
執事スヴェンが進み出て一礼する。
「承知いたしました、旦那様。我らは後から追いますが、お嬢様は」
「私も馬で行くわ、スヴェン」
勇しくも乗馬服で馬に跨ったアゼリアに、老執事は苦笑いした。兄ベルンハルトの真似をして、お転婆に育った令嬢に穏やかに言い聞かせる。
「良いですか、お嬢様。くれぐれも御身を大切に。落馬なさったら、嫁ぎ先がなくなりますぞ」
「いいわよ、お兄様に養っていただくわ」
落馬により腰を打って動けなくなることもある。魔法使いがいた頃は治癒もできたが、今は簡単に治らないのだ。生まれた時から知るアゼリアを孫のように思うスヴェンが口を酸っぱくして言い聞かせても、彼女はけろりと言い返した。その後に、笑顔で付け加える。
「それにお嫁にいけなくなったら、スヴェンが面倒を見てくれるんでしょう?」
子供の頃、大人の男性に憧れたアゼリアはスヴェンに「いつかお嫁さんにして欲しい」と告げたことがある。「お嬢様が年頃になる頃は、私はお役御免の老後生活ですぞ」と笑った執事の対応が、今になると破格の厚遇だったと気づいていた。
断って傷つけることもなく、かといって期待を持たせることもしなかったのだから。使用人である執事は、己の立場にもっとも相応しい答えを口にした。だからこそ、アゼリアも甘酸っぱい思い出を茶化して口に出来る。
「強く、賢く、お綺麗なお嬢様に相応しい方がお迎えに参りますよ」
老体のお役目はそれまでです。明るく返した執事の前に飛び降り、一度抱きついた。それから使用人を連れて別便で追う兄ベルンハルトに抱きつき、アゼリアは再び馬に飛び乗る。
「では、領地で会いましょう」
頷いて手を振る騎士や兄、使用人達に見送られて2頭の馬はへーファーマイアー領へ走り出した。




