第60話 姫は魔王不在の牢でお茶を飲む
魔王イヴリースは己の番に夢中で、毎日牢へ通っている。昼も夜も入り浸りで、仕事もすべて牢内で処理し、宰相メフィストは書類片手に通っているそうだ。噂にびらびらと余分な情報が垂れ下がる中、さらに追加情報を流した。
「メフィスト様。仕掛けは上々、明日には動くかと」
ゴエティアの1人、ウァルフォルが報告に訪れる。ロバの耳や獅子の鬣を隠さぬ第二形態の彼は、静かに次の指示を待つ。牢の入口で報告を受けたメフィストは、口角を持ち上げた。
「やっと……ですか。手筈通りに」
事前に手順は決められている。そのシナリオから外れた時のみ、新たな指示を出す予定だった。敵は予定通りに動いている。未来を操る予定調和を得意とするウァルフォルは、喉の奥を震わせて笑った。口角が持ち上がり、鋭い牙がちらりと覗く。
「承知、陛下と……囚われの姫君によろしくお伝えください」
足元から薄くなって消える寸前、ウァルフォルは頭を下げて言葉を残す。頷いたメフィストはそのまま、地下牢へ続く階段を下りた。響く靴音が止まり、牢の前で立ち止まる。
「明日、だそうですよ」
「まあ、本当?! 嬉しいわ」
魔王イヴリースがいるはずの牢内で、姫君は一人くるくると回る。踊るようにステップを踏むが、しっかりした体幹が彼女のふらつきを押さえた。機嫌よく振舞う彼女を見て、牢の前で警護するアモンとマルバスは肩を竦める。
鬱憤をため込んだ姫君の喜びは理解できる。どんなに豪華な調度品が並び、素晴らしい料理で持て成され、愛らしく着飾ったとしても、彼女は活発に動き回ることを望む人だった。
「早く明日になればいいのに」
うっとりと頬を両手で包みながら懇願するような響きが、牢内の静寂を揺らす。結界により、囚人の檻と次元すら隔絶された部屋で、宰相メフィストは持ち込んだ書類の処理を始めた。魔王が姫に用意した椅子に座り、芸術的なテーブルの上に大量の書類を積む。
「あらあら、宰相閣下も大変ね」
くすくす笑う姫はベッドに身を投げ、柔らかに身を包む寝具に横たわる。番である魔王がいない部屋で、宰相とはいえ異性がいる場所でベッドに横たわるなど、姫らしからぬ所作だった。しかしアモンは何も言わず、マルバスも溜め息をつくだけ。
「暇ならお手伝いしていただいてもいいのですが」
嫌味を向けると、姫は慌ててベッドから身を起こした。離れたソファまで静々と歩き、3人掛けの端に座る。ヴェールに隠された表情は読めなかった。膝の上で両手を重ね合わせ、姿勢を正す。
「そろそろお茶の時間みたいね」
「そうですか。それは気づかず失礼いたしました」
メフィストの口調は丁寧だが、その表情は興味深そうに姫の動きを窺っていた。立ち上がって自ら紅茶を淹れ、ソファ前のローテーブルに並べる。数は4人分だ。
「休憩にしましょうか」
彼の一言で、アモンとマルバスは護衛対象の姫の向かいに腰掛ける。魔王不在の牢で行われる、奇妙な顔ぶれのお茶会は誰にも知られず開催された。




