第22話 あなた様の妃殿下?
顔を突き合わせているだけなのに、室内は氷点下のような寒さだった。身を震わせたアゼリアに気づき、慌てたイヴリースが毛皮を肩に乗せる。兄の視線が痛いが、寒さに負けて素直に羽織った。
「アゼリア、説明してもらえるか」
公爵を無理やり継がされた兄ベルンハルトは、白い息を吐きながら尋ねる。呆れ顔のメフィストが、魔王の放つ冷気を中和し始めた。これでは話し合いの前に、脆弱な人間が死んでしまう。
余計なことをする、舌打ちしそうな形相で睨みつけたイヴリースへ、メフィストは淡々と事実を突きつけた。
「魔王陛下、お忘れですか? 人間にも獣人にも歩み寄ると融和を口にされたのは、陛下ご自身です。私は宰相として、陛下が下された命令に従っております」
「わかっている」
むすっとした口調で返した主君の不器用さに呆れる。長寿でも精神的に幼い魔族の中で、メフィストの落ち着いた物腰は少数派だった。このまま不機嫌を引きずられると面倒なので、彼はイヴリースの援護を試みる。
「それと……こちらのへーファーマイアー公爵閣下は、『あなた様の妃殿下』にとって兄君にあたります。多少のご不興は飲み込めるのではありませんか?」
穏やかに言い聞かせる側近の声に、それもそうかとイヴリースは納得した。あなた様の妃殿下という表現も良い。にっこり笑えば、美形の魔王の魅了全開だった。アゼリアは頬を赤らめる。
先ほど助太刀に入る直前、ルベウス王女であった母カサンドラから婚約の許可を得た。思い出すと胸が高鳴る。あの時、彼女は嫌だと言わなかった。隣で頬を赤らめる艶やかな美女は、すでに婚約者なのだ。感情が落ち着けば、相手を攻撃する意思は薄れる。纏っていた魔力による冷気が徐々に散った。
温度が戻り始めた指先を動かしながら、寒さで紫色に変わった唇を動かすベルンハルトは、聞き逃せない単語を繰り返した。
「いま、あなた様の妃殿下と聞こえましたが?」
「その通りだ」
「お兄様、お母様公認の新しい婚約者候補ですわ」
まさかの妹の言葉に、毛皮を脱いだ赤毛の美女を凝視する。母によく似た面差しは、華やかで整っていた。魔王を虜にする美貌と言われれば、確かに反論の余地はないが……。
「ち、父上は?」
「反対ですって。でもお母様が説得してらしたわ」
それは陥落も時間の問題だ。母カサンドラの性格をよく知るがゆえに、兄ベルンハルトは悟ってしまった。
母はやり手の執政者だ。ルベウス王家の血を引くアゼリアの嫁ぎ先は、下位貴族というわけにいかない。そのためユーグレース王家との婚約が調ったわけだが、アウグストはその時も反対した。あの時は選択肢がなく、カサンドラも仕方なく承知した形だった。
その婚約が破棄という形で叩き返された以上、『ユーグレース次期国王の元婚約者』の肩書をアゼリアにいつまでも負わせる気はない。今回は特殊事例で、他の貴族は理解してくれた。だが婚約の解消は貴族にとって不名誉にあたるため、早く上書きしたいのも事実だ。
人が支配する地域の中でもっとも大きな国土を持つ国で婚約破棄された以上、他の王族や国内貴族へ嫁ぐ選択肢はなかった。格下へ嫁げば、アゼリアの価値が貶められるのと同じだった。
いざとなれば従兄弟の治めるルベウス王家預かりとしてもらう予定だが、魔族の王であれば人間の王族を遥かに越えるステータスがあった。
滅多に人間と関わらぬものの、獣人達は国交がある。ルベウス国と独自に外交ルートを保つへーファーマイアー公爵家には、サフィロス国の情報も入っていた。高い水準の魔道具や魔法をいとも容易く扱い、長寿で物知り、誇り高い種族ばかりだ。その国の王妃なら、確かに母が望む条件を満たしていた。
破棄された婚約者より財を持ち、地位が高く、国を治める王であって、アゼリアを溺愛する者。
アゼリアの「婚約者候補」という表現は、まだ確定ではない。カサンドラにとって最良であっても、アゼリアの気持ち次第という意味が含まれていた。
「わかりました、俺は認めます」
その一言に、イヴリースの表情が和らいだ。