その足取りは軽く
鼻をかすめる湿った匂い。
いつもは優しい風を届けてくれる部屋の窓も、今日はぴたりと閉じています。
降り注ぐ雨が外の世界を濡らす。
葉から滴り落ちる雫が美しい。
時折吹く風に雨がぱちぱちと音を立てて窓に当たる。
今日は朝から大粒の雨。
暖かい木漏れ日はないけれど、私の気分は晴れやかでした。
今日はお父様に城下町の視察に行った際の報告書を渡しに行きます。
お父様が褒めてくれるかもしれない…。
そんな淡い期待が胸の中にあって、それは小さな陽だまりのように心を甘やかにする。
そして、緑綬が花の都へこれから戻るという連絡が入った。
明日には城に着くそうです。
城下町の視察から戻ってすぐに他国へ仕事に行ってしまった緑綬。
もうすぐ、会える。
それはとても嬉しく、同時にとても切ない。
私はこの城下町の視察が終わった後、緑綬と話をすると決意していました。
そう、緑綬が結婚するという、あの話。
聞きたくなくて、考えたくなくて、ずっとずっとはぐらかしてばかりでした。
でも、ついに聞く時が、真実を知る時が来たのです。
怖い。
でも、いずれは受け止めなければいけないこと。
きっと話を聞けば、緑綬に対するこの気持ちの正体も、はっきりとわかるはずだから…。
結奏と共に玉座の間へ向かう。
結奏は少し心配そうに、でも明るく着いてきてくれています。
私はふと足を止める。
ここは…。
曲がり角を見つめる。
前にここを通った時に、ここで彼に会った。
まだ遠くから見えた、碧の彼。
彼のことは名前も年も、何も知らない。
なぜ城にいたのか、なぜ城下町にいたのかも知らない。
でもとても気になって、何度も何度も思い出していた。
「姫様?」
心配そうにそっと窺うように、私の顔を少し下から覗く結奏。
「ごめんなさい結奏、行きましょう」
慌てて取り繕い、歩き出す。
結奏に心配をかけてしまったことに申し訳なさを感じながら、玉座の間へ先程よりほんの少しだけ足早になりながら進む。
玉座の間へ続く階段の前。
いつものように結奏はここでお留守番です。
結奏が私の手を取り、微笑む。
「姫様、いってらっしゃいませ。頑張って下さいね!」
明るい笑顔に私もつられて笑顔になる。
結奏の笑顔は太陽のように明るく周囲を照らしてくれる。
「ええ、行って参ります」
一歩一歩、階段を上る。
靴をふわふわと包む絨毯の感触に、私は以前ここを通った時を自然と思い出す。
最初に外へ出たいと申し出た時。
そしてその後心の中にずっしりと重い石があるような心持ちで歩いた時。
提案書を届けた時。
その帰り、待っている結奏の顔が見えた時。
そして今。
全て全て、同じ場所だけど、全く違う。
私も日々、変化している。
それが成長、と言えるものなのか、私にはまだわからない。
でも確実に変わっている。
今はそんな変化を心地よく思う。
いつもの窓際で、優しい木漏れ日を浴びながら窓の外を見ていた日々。
暖かく穏やかで、でも変化のない日常。
あの頃の私から、一歩踏み出していることだけは確実だった。
玉座の間へ入るドアの前につく。
門番が両扉を開ける。
私はゆっくりと丁寧にお辞儀をする。
お父様は、どんな顔をして迎えてくれるでしょうか。
喜んでくれるでしょうか。
笑ってくれるでしょうか。
ドアが開ききったのを感じて、ゆっくりと顔を上げる。
目に入ったお父様は、真っ直ぐに私を見つめていました。
私の姿を確認すると、また手元の書類に目をやる。
私はお父様まで続く絨毯の上を歩く。
報告書を渡した後、いつものようにお父様に座るように促され、私は椅子に腰掛ける。
書類を読む手をキリの良いところで止め、お父様が向き直る。
私も姿勢を正して改めてお父様を見つめる。
「よく帰った、琴子」
私を見つめる真っ直ぐな瞳。
「はい、お父様」
私も真っ直ぐに見つめ返して話し出す。
城下町の視察を許してくれたお父様。
しっかりときっちりと、報告しなければ!
膝の上に置いた手を握りしめ、呼吸を整え、口を開いた瞬間。
「初めての城の外はどうだった」
私は思わず惚けてしまう。
「城下町では気に入った店は見つかったか」
これまでのお父様とは違う、とてもとても穏やかな笑み。
話を聞くのが楽しみだと言うように、少しだけ前に乗り出す。
瞳の奥は、まるでお父様の中の少年を少しだけ垣間見たような、そんな気持ちにさせる輝き。
いつものように王として、というよりも。
一人の父親として、私の前に座っているように感じます。
「は、はい」
思わず声が上擦ってしまう。
それすらもお父様は、にこやかに見つめている。
お父様ではないみたいです。
不思議な気持ちになりながら、私は話を続ける。
「城下町の外は、城から見る景色よりもずっとずっと広く感じて、まるでこの道がどこまでも永遠に続いているように感じました」
「ふむ」
「門を一歩外へ出た時は、生まれ変わったような気持ちで」
「ほっほ、大袈裟であろう」
お父様がにこやかに、慈しむように笑いかける。
「そ、そうでしょうか。
でも今までの私には出来なかったことですから、大きな一歩だったのですよっ」
少しだけ拗ねて言ってしまいました。
お父様は嬉しそうに笑っています。
「民達はどうであった」
「とても…喜んでくれました。
最初は、あんなにも近くで大勢の民に囲まれるのは初めてでしたから、戸惑ってしまったのです。
でも、私の姿を見ると声をかけ、手を振り、後からも私を見る為に背伸びをしたり、遠方から来たという者もいて。
皆、とても笑顔で私も嬉しくなったのですよ」
その時のことを思い出し、自然と笑顔になる。
お父様も満足そうに微笑む。
ふと、生誕祭の時にも感じた疑問が頭をよぎる。
お父様なら、教えてくれるでしょうか。
「しかしお父様、私にはわからないことがあって…」
「どうした?」
優しい声。
お父様の声は、こんなにも安心する声だったでしょうか。
ふと懐かしいような、嬉しいような、そして悲しいような気持ちになりながら、私は続ける。
「生誕祭でもそうだったのですが、民達は私を見ると喜んでくれるのです。
直接会って話した事もない私の誕生日を祝ってくれたり、私の顔を一目見たいと遠方から来てくれたり。
それに、笑いかけてくれるのです」
じっと私の話を聞きながら小さく頷くお父様。
「私は、なぜ民達がそのように誕生日を祝ってくれたり、喜んでくれるのか、わからないのです」
ふむ、とお父様が顎を手でさする。
「お父様は、お分かりになりますか?」
真剣な眼差しでお父様を見つめる。
ついつい膝の上に置いた手に力がこもる。
お父様はしばらく考えた後、また優しい笑みになって私を見つめた。
「それは、民達に直接聞いてみるがよかろうな」
穏やかな優しい声。
心が暖かくなる。
「琴子よ」
ふいに真剣な眼差しを向けるお父様。
私も少し固くなる。
「お前のその民の気持ちを知りたいという気持ち。
それはとても大切な事だ。
この先、絶対に忘れてはならぬ気持ちだ」
いつもの、王としての眼差しに心の中を少しだけ冷たい風が流れたけれど、大切な事だと言われた事が素直に胸に届く。
「はい、お父様」
またお父様は穏やかな笑みを浮かべた。
その後はまたお互いに穏やかに笑いながら報告を続け、報告書にも書いたきちんとした報告もしました。
城に帰ってから目が覚まさないのではないか、とずっと心配してくれていたお父様。
騒いでも私の不安を煽るだけだからと敢えて口にせず見守ってくれていた臣下達。
それでも視察の次の日に目を覚まし部屋のドアを開けると、心配な眼差しで近くから私の部屋の様子を伺っていたらしき臣下達がお父様の元へ喜び走って報告に行っていました。
皆が心配してくれていたことを実感して、嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが込み上げました。
それでも改めて私の口からも、あれから数日経ちますが体調の変化などは何もありませんとお父様にお伝えしておきました。
そして私が退室する前に、
「今日の夕食は共に食べよう」
そう、誘って下さったのです!
お父様と夕食!
物心ついた時から、大事なお客様との会食やパーティぐらいでしか共に食事をした事がないお父様と。
私はまるでスキップでもしてしまうのではないかという軽い足取りで玉座の間を後にする。
お父様と食事。
こんなにも嬉しい事だなんて。
二人で何を話せば良いのか、という不安もちらついたけれど。
それよりもずっとずっと大きく、嬉しいという気持ちが身体中に広がっていきました。




