No,00 プロローグ
「――世界は犠牲によって進化している。」
姉の死を境に、こんなことを考えるようになった。
文化や技術が進化してきた背景には、犠牲が生じるのは必然と言っていいだろう。
その犠牲は人間のみならず、人間が安全、快適に生活を暮らせるために他種を実験台として犠牲にしている。
具体例を挙げるならば、実験用のマウスや、人間より先に宇宙に打ち上げられたクドリャフカ(宇宙船に乗せられたロシアの宇宙犬)などの動物や、森林伐採、酸性雨などの環境問題による植物へのダメージも犠牲という言葉にあてはまるだろう。
俺(明日学人)に言えたことではないが、このように人間は多くを犠牲として生活している。
それは人間にとって仕方ないことであり、どうしようもないものだと俺は考える。
なぜなら人間は、結果からしか対策を考えることしかできないからだ。
しかし、結果から考えることができるのは、人間の悪い点ではない。むしろ人間のいいところでもある。
結果から、再発した時に被害を抑えたり、被害をなくすことを目的に対策を練る。あるいは、次、成功するようになぜ失敗したかを追求し、考察を求め、次に生かすのだ。
だが、結果では犠牲が生まれたあとなのだ。
犠牲が、劣等感や不名誉などの感情や、財産などの物質なら取り返しの可能性が0%ではないが、犠牲が生命になると取り返しのならないものになり、いくら悔やんでも悔やみきれないだろう。
そこで考えてみた。
結果を防ぐにはどうしたらいいのかと。
観測、予測などいろいろあるが1番の最適解は……
――――予知。
これであると断言していい。何が、いつ、どこで、どのようにしてくるのかを正確に理解することができるなら、何が来ても怖くないだろう。
つまり誰も知らないから、結果に対応できないのだ。
オルダス・ハクスリーの言葉に、
「たいていの無知は克服できる無知である。我々が知らないのは、知ろうとしないからである。」
という言葉がある。
予知というものはこの言葉を抜き取るならたいていの無知に入るのだろう。しかし、後ろの文の教えに従い、未来を知ろうと考えてみた。
もしも、姉の死という犠牲が、未来を誰かに見せるというほどの価値を持っていたとしたら、俺は未来を知ることができるのだろうかなどと。
そんな万人が考えもしないような中二病チックなことを考え続けていたら、自分には予知ができるようになっていた。
ただし予知の中でも、少し劣る未来視という類のものに近く、視覚情報になって断片的に送られてくるというものである。いわば、毎日が一週間先の正夢というわけだ。
一日一回夢の中で、一週間先の未来を見ることができるが、送られてくる映像は常にランダムで、来週の四限目が抜き打ちの小テストだとか、来週、突然の豪雨とか、来週隣のクラスの○○が○○に告白してズタボロに降られるとか、平和的なものばっかだ。というか平和的なものしかみたことがない。
これは犠牲から得た、結果を防ぐための異能なのかもしれないと心の片隅で二割くらい思う俺であった。