其の捌
翌日、祖母が作った朝食が待っているであろう居間へ、重い頭と身体を引き摺りながら向かっている間、私は『今日は学校を休もう』と考えていた。
昨日起こった出来事の衝撃、そしてそれに伴う心労。それは想像以上に私の身体と心を蝕んでいた。まるで鉛で出来た服を着て歩いているように身体は重く、常に鈍器で頭を小突かれているかのように頭痛が続く。風邪の症状に似た物ではあるが、身体が熱を持っている訳ではなく、逆に冷たく冷え切っていた。
身体全体が冷え切っている為、寒気や悪寒がするのでもなく、私自身が既に死人と化しているかのように錯覚する。一歩一歩が重く、辛い。歩く度に何か視界が狭まって行くようにさえ感じた。
「ん? 深雪ちゃん?」
「……おばあちゃん」
居間へ入ると、ちょうど朝食を配膳している祖母が顔を出した。この家の居間は、神社の母屋である事も関係しているのか、完全に純日本的な居間である。広い畳の居間に、向かい合えば6人から8人は座れる大きな長ちゃぶ台があり、座布団がしっかりと敷かれていた。
祖父は食事の時などは胡坐で座るが、祖母や私は正座で座る。椅子に一人で腰掛けて食事を取るよりも、祖父と祖母と一緒に食べる事が嬉しかった私にとって、正座は苦になるような物ではなく、それは今でも同じであった。
だが、今日に限って言えば、正座をする事どころか、その場に座る事自体が苦痛に感じる程に辛い。台所から顔を出した祖母が配膳板を置いて近づいて来た事にさえ気付かなかった私は、上げた時に見えた祖母の顔に驚愕した。
「……そう」
正直、生まれて此の方、これ程に厳しい表情を浮かべた祖母を見た事はない。そう思える程に祖母は眉を顰め、不快感を隠そうともせず、私の顔を見つめていた。
だが、何かを理解したように一言呟いた後、そんな表情は瞬時に消え失せ、いつものような柔らかな笑みを浮かべる。この世で唯一と言っても過言ではない、私が心から安心出来るその表情は、私を縛り付け、苦痛を齎していた何かを解きほぐして行った。
しっかりと私を抱き寄せ、その背中をゆっくりと、そして優しく2回叩く。その間、私の耳元に祖母が何かを囁くが、その声はまるで私に向かっての物ではないかのように、私の耳には届かなかった。
「はい、おしまい。さぁ、朝御飯を食べましょう。深雪ちゃん、おじいちゃんを呼んで来て」
「え? あ、うん」
最後に、あの不思議な終わり文句と共に背中を先程よりも強めに叩かれた私は、祖母の笑みを不思議な物のように見つめる事しか出来ない。何が終わったのかは解らないが、それでも、祖母が私に何かをした事だけは理解出来た。
何故なら、あの最後の言葉と共に、私を縛り付けていた何かが消滅したかのように身体が軽くなっていたのだ。頭痛もなく、身体を覆うような重さも消えている。あれ程に私の身体を苦しめていた全てが、祖母の掌に吸い込まれたように、いや、その手で祓われたかのように消えてしまった。
いつまでも呆けたように見つめている事に気づいた祖母は、私の額を軽く小突き、『朝御飯、冷めちゃうから』という言葉と共に、私を祖父の許へと向かわせる。釈然としない何かを胸に抱えながらも、軽くなった足を一歩一歩動かして、私は祖父が水撒きをしている庭へと急いだ。
朝食も終わり、身体が軽くなった為に、学校を休むという選択肢が消えてしまった以上、不本意ながらも登校しなければならず、玄関で靴を履き替えていると、幼い頃のように祖母が見送りに出て来た。
「深雪ちゃん、これだけは忘れないで。貴方は、神山という苗字を継いだ、おじいちゃんと私の孫です。何かあった時や、それが自分の力ではどうしようもない時は、必ず、おじいちゃんと私を思い出してね」
「何、それ? おばあちゃん、どうしたの?」
幼い頃は外へ遊びに行く事を伝えると、何をしていても必ず玄関まで祖母は見送りに出て来てくれた。そんな祖母の優しい笑顔に見送られて手を振って出て行くという小さな幸せが嬉しかった事を思い出すが、今日の祖母はあの頃のような笑顔ではなく、真面目な顔で私に言葉を残す。
その言葉の意味は全く理解出来る物ではなく、私は首を傾げた。そんな私の様子を見た祖母は真剣な表情を崩す事無く、私を抱き寄せ、しっかりと抱き締める。その温もりが私の身体へとゆっくりと浸透し、同時に軽く叩かれた背中から不思議な何かが私を包み込んだ気がした。
「大丈夫。深雪ちゃんなら大丈夫。何せ、このお祖母ちゃんの孫なんだから。『神山深雪』の名を持つ乙女なんだから」
「もう、おばあちゃん……全然意味が解らないよ」
抱き締める手の力を緩め、私の顔を正面から見る祖母の顔は、既に満面の笑みだった。歳を感じさせない綺麗な笑みは、自然と心も軽くし、私の顔にも笑みが浮かぶ。未だに言っている意味は全く理解出来ないが、それでも大好きな祖母が自分を信頼してくれている事を実感する事で、胸に喜びが湧き上がって来た。
『行って来ます』という私の挨拶に、笑顔のまま手を振る祖母を見て、その喜びは益々大きくなり、朝起きた頃の調子の悪さが嘘のように、私は軽やかに神社の階段を下りて行く。夏が近い事を感じさせる緑の匂いと、朝露が蒸発する事で下がった気温がその気持ちを増幅させていた。
私が登校する時間は、基本的には早い方だと思う。祖父母の家にいると、朝の早い二人と同じ生活時間となる為、朝食も自然と早くなり、家を出る時間もまた、早まるからだ。ここ数日は気持ちの面もあり、結構遅めの登校をしていたが、今日は朝の調子の悪さから一転した気分の良さもあって、私は早めに家を出ている。
この時間帯に登校する生徒は疎らであり、近所のゴミ収集所にゴミを出して出社するサラリーマンの方が多かった。仕事に行くのが嫌なのか、何処か憂鬱そうに歩く背広を着た男性の後ろから、小学生らしき子供達が大声を上げながら掛けて行く。朝早くから小学校に登校し、校庭で遊ぶのだろう。そんな光景に自然と顔を綻んだ。
「なにこれ……」
しかし、そんな清々しさも、私が通う高校の校門の前まで来たところで、全て消え失せる。まるで今まで歩いて来た道とは別世界であるかのように、校門の先は暗く澱んでいたのだ。真っ黒に塗り潰されていると言えば言い過ぎだろうが、そう感じる程に視界が闇に閉ざされている。校門の先にある筈の昇降口さえも視認出来ない程の闇。それはもう、奈落と言っても良いと思った。
『奈落』とは、仏教で言う地獄の事であり、信仰しているかどうかは別として、神社という神教の血筋の私とは関係がないかもしれないが、私は校門の前で立ち尽くしながら、その言葉が真っ先に思い浮かんだのだ。
「おはようございます」
「おはよう」
いつまでも立ち尽くしている私の横を一人の女生徒が通り過ぎ、その女生徒が発した挨拶へ返答があった事で、ようやく私の傍に男性の教員が立っていた事に気付く。
最早、この学校の中では私の存在は腫れ物を通り越して、厄介者になっているのだろう。その男性教員の瞳には明らかな嫌悪感が浮かんでおり、校門の前で立ち尽くしている私に対して、侮蔑を含んだ視線を送っていた。
通常であれば、その視線に多少なりとも不快感を覚えるものだが、今は男子教員の視線という本当に些細な事よりも、この校門を潜るという事自体への恐怖と不安が大きい。一歩踏み込んでしまえば、二度と出る事が出来ないとさえ感じる闇の深さに、私の足は無意識に震えてしまっていた。
「きゃっ」
しかし、そんな私の意志を無視するような手が背中を押す。突き飛ばすような力を背中に受けた私は、倒れ込むように校門を潜り、四つん這いになってしまった。周囲がそんな私を訝しげに見つめ、ひそひそと何かを語り合う中、私は背中を押した相手を確認しようと、後方へ顔を向けるが、その瞬間、私の時間が止まる。
「あ、あ……あ」
そこに居たのは、あの裸婦。
全身を覆い尽くすような闇を纏い、がりがりに痩せていながらも女性的なシルエットは残し、手入れがされていない髪で顔を覆っているにも拘わらず、その真っ黒な目が何かを求めるように彷徨っている。
その姿を見てしまった私は、声にならない声を上げてしまう。その声を察知したのか、その裸婦は瞳のない闇の目を私に向け、にたりと笑った。
そう、笑ったのだ。捕食者が獲物を見つけ、その捕獲の瞬間を想像した時のように、口元を歪めて笑った。背筋が凍る程の笑み。そんな笑みを見たのは初めての経験だっただろう。
そこまでが私の限界だった。震える足を強引に動かし、転がった鞄を拾い上げた私は、全速力で昇降口へと駆け出す。無我夢中だった。通常であれば、その恐怖に我を失い、腰も抜け、立ち上がる事さえ出来ないかもしれない。それでも私は立ち上がり、周囲の雑音などを聞き入れる事もなく走った。
「はぁ……はぁ」
昇降口を抜け、自分の下駄箱の前まで辿り着いてようやく、私は後方を振り返る。正直に言うと、怪奇小説などでよくあるパターンの振り返った瞬間、目の前に居るという状況が頭を過ぎり、恐る恐るという形でしか振り返る事が出来なかった。
だが、そんな私の不安は杞憂に終わり、私の目の前どころか、昇降口の入り口には生徒しかおらず、当然校門付近にもそのような影さえない。安堵と、疲労からの溜息が漏れ、肺に溜まっていた二酸化炭素を一気に吐き出した。
吐き出し終わると、頭も冷静になって行き、周囲の生徒達の視線の意味を理解する。完全に奇異の色を宿しており、それは、私が見たあの裸婦の姿を誰も見ていなかったという事を意味していた。
「あれって、例の転校生でしょう?」
「そうそう、八瀬さんに呪われたんだって」
「え~、何それ、あり得なくない?」
周囲から聞こえて来る心のない言葉が、私の頭の中を更に透明にして行く。冷静さが戻ってくれば、私が遭遇した出来事の不可思議さとそれを覆い尽くすほどの恐怖が明確に理解出来た。
この場にいる誰も見えていない。そんな事があるのだろうか。私は生まれて此の方、幽霊などは見た事も感じた事もない。霊感など欠片もなく、何か怪奇現象なども経験した事はないし、誰かが経験した時に側にいた事もないのだ。
そのような人間だけが見える物など、何があるのだろう。生物であれば、私だけが見える事などない筈であり、死者であれば、それこそ霊感のない私が見える事など有り得はしない。
そんな釈然としない恐怖を抱えながら、私は靴を履き替える為に下駄箱を開いた。
「え? 何これ……手紙?」
私の開いた下駄箱の中には、当然のように私の上履きが置かれており、転校を期に買い換えたそれは、新品そのものの白さで輝いている。しかし、その白さを打ち消すような茶色の封筒が上履きの上に乗せられていた。
それを取る私の手は、自分でも無意識の内に小刻みに震えている。薄い安物の茶封筒にも拘らず、片手では持てないと感じる程に重く、私は上履きの上からゆっくりとそれを取り出した。
朝早くに登校したにも拘らず、校門からこの昇降口までで相当時間を掛けてしまったのか、昇降口には生徒が溢れて来ている。学校特有の騒々しさが増えて行き、下駄箱前で呆けている時間はなくなった。
革靴を下駄箱へ入れ、上履きに履き替えた私は、茶封筒を手にしたまま早々に教室へと向かう。茶封筒の中身が気になって仕方がないが、それに気付かぬ振りをして教室の扉を開けた。
「……おはよう」
「っ! お、おはようございます」
教室の自分の席に近づくと、隣から遠慮がちな挨拶が届く。冷静になろうとも、今朝の出来事への動揺が残っていた私は、その声に過剰に反応してしまい、上擦った声で挨拶を返した。そんな私の反応を不思議に思ったのか、隣の席に座る男子生徒は首を傾げて私を見つめる。彼に何でもない事を伝える為に軽く手を振って席に着いた私は、机の上に鞄を置いたまま、例の茶封筒を開いた。
茶封筒の中身は、感じていた重みとは異なり、一枚の便箋が入っているだけ。便箋を取り出してみれば、何の装飾も施されていない真っ白な物であった。
「!!」
三つ折にされた便箋を開いてみれば、そこに記されていたのは僅か二文字のみ。
『死ね』
その言葉が便箋の中央に記されているのみであったのだ。文字の大きさも特異ではなく、特別に歪んでいる訳でもない。達筆という訳でもなければ、読めない程に汚い文字でもなかった。
ただ、そこに記された二文字は、明確な意志が込められているかのように力強く、私の脳へ直接響いて行く。そしてそれに理解が及ぶにつれ、全身に言いようのない悪寒が走った。
「どうした?」
「な、何でもありません!………??」
挙動不審になってしまった私を心配して、隣に座る丑門君が問いかけて来る。私は思い出したくはないが、昨日、彼の前で大泣きした経緯もあって、彼は心から心配してくれているのだろう。だが、その問いかけに答える事も出来ず、私は慌てたように手紙を茶封筒と一緒に机の中に押し込んだ。しかし、机の中への押し込んだ手に、別の何かが触れる感触が再び私の背筋を凍らせる。
基本的に、私は勉強道具を机の中に置いてはいかない。その日に授業がある教科書とノートは鞄に入れて持って来ているが、余計な物を学校に持ち込む事はないので、鞄が重いという悩みもないのだ。
故に、本来であれば、机の中は空でなければ可笑しい。それにも拘らず、私の手に何かが触れた。それは、確実に私の物ではないという証拠でもある。恐る恐る手に触れたそれを掴み、ゆっくりと取り出した私は、危うく心臓が止まりそうになった。
「……また」
それは下駄箱に入っていた物と同じ茶封筒。色褪せてもいないし、劣化している訳でもない。慌てて机に押し込んだ方の茶封筒は、私の反対側の手で丸まってしまっている為、これが新たな手紙である事は間違いなかった。
ホームルーム前の喧騒が急速に引いて行き、私の耳には痛い程の耳鳴りが響く。先程開いた手紙には、『死ね』という呪詛の言葉が一言だけ書いてあった。正直に言えば、驚きもあったし、恐怖もあったのだが、それと同じ程度の呆れもあったのだ。
若干の冷静さを取り戻していた私は、『くだらない幼稚な事をする暇人』という印象を僅かではあるが持っていた。だが、全く同じ茶封筒を見つけた瞬間に、そんな想いは何処かへと消え失せる。心に残るのは『恐怖』のみ。
「……」
呼吸が荒くなる。過呼吸ではないかと感じる程に呼吸は乱れ、茶封筒を掴む手が小刻みに震えていた。それでも、何かに誘われるように、何かに恫喝されているかのように、私の手は茶封筒の口を空け、中から簡素な便箋を一枚取り出すのだ。
最早、この先は言わなくても察してもらえると思う。そこに何が記されていたのか、そしてそれが私にどのような衝撃を齎したのか。正直に言えば、それを口にしたくもない。
『死ね 死ね 死ね』
その文字を見た瞬間、私の視界は真っ黒に塗り潰された。下駄箱に入っていた便箋に書かれていた物と文言は同じ。だが、その数量が異なっていた。
呪詛は数を増す毎に重くなる。相手の意思と想いが強くなり、それが重く圧し掛かって来るのだ。この手紙を書いた相手が自分に望む事。それは私がこの世から消えうせる事であった。
「何だそれ……」
意識さえもその手紙に吸い込まれそうな空気を感じながら、呼吸の荒くなった私の後方から、絶句したように息を呑む声が聞こえて来る。放心したまま振り返ると、そこには呆れと強い憤りを滲ませた表情を浮かべる丑門君が立っていた。
彼の顔を見て、私は自分が置かれた状況を改めて理解し、慌てて手紙を持つ手を机の中へと仕舞い込む。くしゃりと乾いた音を響かせ、手紙が入っている茶封筒が手の中で潰れた感触が伝わった。
「何でもありません」
「何でもない訳ないだろ……」
目を伏せ、横へ首を振りながら私がそう答えると、丑門君は小さい声ながらもはっきりと反論し、私が握り潰した手紙へと手を伸ばす。もう一度自分の目で中身を確認しようとでもいうのだろう。だが、それは私の中の何かに触れてしまった。
先程、全身を巡った恐怖が、苛立ちにすり替わり、その部分に触れようとする彼へと矛先を定める。身勝手な事だと理解してはいても、沸き上がって来た感情を抑える事は私には出来なかった。
「何でもありません!」
自分でも驚くほどに大きな声を上げてしまう。それ程広くはない教室中に響き渡るその声に、今までそれなりの喧騒を生み出していた生徒達が一斉に黙り込んだ。そして、全員の視線が当然のように私の方へ向けられる。それは、単純な興味というよりは、何処か恐れを含んだ奇異の視線であった。
その視線を避けるように私は俯き、それによって深追い出来なくなった丑門君は、ばつが悪そうに顔を歪めて、自分の席へと戻って行く。申し訳ない気持ちを持ちながらも、自分が置かれた状況に混乱していた私は、丑門君へ何も声をかける事が出来なかった。
「……怖いね。何か、神山さん必死だよ」
「余り言うと、私達もビンタされちゃうよ」
正直、有象無象の噂話になど欠片も興味はないし、誰が何を話そうと、しようと、私自身に害が及ばなければどうでも良い。そう、『私自身へ害が及ばなければ』という前提に私の考えは成り立っているのだ。
だが、今回はそうではなかった。私自身の行動はこの学校に来てから劇的に変化した訳ではない。転校する前の学校でもこのスタイルで人生を突き進んで来た。人間嫌いという自分の欠点にも近い感情を自覚し、他者との距離を適度に取りながら、当たり障りのない受け答えをし、深く入り込まないように、そして深く入り込まれないようにして来たのだ。
勿論、私のこの行動を快く思わない人間はいたし、そういう人間から何らかのアクションを起こされた事もあるが、大抵は私の行動や言動を受けて、存在自体を無視するという流れになっていた。
それも、小学生ぐらいの話であり、中学に上がってからは、こちらと同じように相手方も深く関わらないという何処か暗黙の了解のようなルールが出来上がっていたし、それが上手く立ち回る秘訣でもあった。
「……八瀬さんからの呪いの手紙でも見つけたんじゃない」
「え~、やばくない、それ」
しかし、都会とは言えない地域の高校では、そんな私の常識は一切通用しなかった。
『仮想敵を作らなければ日常を送れないのか?』と問いかけたくなる程、このクラスにいる人間のほとんどが私へそういう視線を送って来る。被害妄想ではない事を示すように、故意的に聞こえるように話されている陰口が私の耳へと届いていた。
だが、逆にそういった周囲の行動が、私の心を急速に冷やして行く。今まで味わった事のない恐怖に動揺していた心と頭が冷やされ、もう一度手元で丸まった手紙を開いてみた。
何度見ても記されている単語は同じ。私個人に向けての呪詛の文言。『死』を望み、私の消滅を望む言葉。本来であれば、他者に向けてはならない程に重い言葉なのだが、いつしか人はその重さを忘れ、容易く口にするようになってしまった言葉である。
「……疲れるわ」
思った事が口に出る。正直に言えば、『私が何をしたというのか』というのが本音かもしれない。確かに、転校早々に騒ぎを起こし、女生徒一人を張り倒したが、その程度のやり取りから生まれる恨みがここまで大きい物とは思わなかった。
加害者からすれば大層な事ではなくとも、被害者にとってすれば生涯の傷となり、大きな恨みになるという可能性は知っているが、それを言うのであれば、常に加害者であった『八瀬紅葉』という女生徒がその資格を持っているとは思えない。まぁ、同様に私も同じなのかもしれないが。
その後、時間は経過して行き、何事もなく授業が始まる。やはりというか、当然のように八瀬紅葉の席は空席であった。離れ小島となったその席を同じように離れ小島となった私の席からぼんやりと見つめながら、教員の言葉が耳を抜けて行く。既に私の中でこの学校に通う理由は薄れ、再度の転校を考え始めていた。
「先に行ってるね」
「うん」
5限目の授業を終えるチャイムが鳴り、6限目の授業までの短い休み時間が始まると、クラスの生徒達が慌しく席を立ち始める。その頃になって、ようやく現実へと戻った私が顔を上げると、直ぐ横を音楽の教科書と縦笛を持った女生徒二人が通り過ぎて行った。
以前通っていた私の高校では、1年生の時には音楽の授業というは存在していても、2年生に上がると履修教科の中に芸術系の物は存在していなかったのだが、この高校では週に一回ではあるものの、2年生も芸術系の授業がカリキュラムに組み込まれている。
音楽室はこの高校にも存在し、自然と音楽の履修となれば、教室を移動する事となり、短い休み時間を使って、クラス全員での移動となるのだ。
「ふぅ」
10分という短い休み時間の半分が終わり、教室からの移動を始めていた生徒全員が教室から出て行った頃、ようやく私は一息吐く事が出来た。周囲の喧騒は消え、開けられている窓から涼しげな風が流れ込んで来る。窓側の席に座っていた丑門君も既に音楽室へ移動したのか、風を遮る物は何もなく、私の髪の毛を弄びながら、廊下側へと吹き抜けて行った。
嫌な汗を掻き、心の動揺を抑える事が出来なかった私の身体は、想像以上に熱を持っていたのか、夏前の風は心地良い冷たさを与えてくれる。周囲に誰もいない事で若干の緩みを見せた私は、もう一度深く息を吐き出してから移動教室の準備を始めた。
だが、鞄から音楽の教科書と縦笛を取り出し、先程の授業までに使った筆記用具を筆箱へとしまっている時、定期的に私の頬を撫でていた涼しげな風が、ふと生温く、生臭い物へ変わったように感じたのだ。
それは本当に一瞬であり、直ぐに元通りの涼しい風に戻ったのだが、確かに私の鼻は不快な臭いを感じている。そして、違和感を覚えた私が手を止めた時、筆記用具を片付けている私の手元に影が差した。
その影は私の手元だけではなく、私の机全体を覆う影であり、誰かが目の前に立たない限りは絶対に有り得ない物である。それを理解し、私は顔を上げてしまった。その行為はどうしようもなく愚かであり、救いようのない馬鹿さ加減であろう。
「ひっ!」
顔を上げた私は、文字通り言葉を失い、息を呑んだ。いや、『息を呑んだ』は正確ではない。息が止まったと言うべきだろう。
私を見下ろすように立つ黒い影。水分の欠片もないような乱れた髪を垂れ流し、口元だけがその髪の隙間から覗いている。乾き切ったその唇は化粧をしている訳でもないのに真っ赤に染まっていた。
そして、息が止まり、声も出せず、只々それを見上げる事しか出来ない私に向かって、その口は小さな歪みを見せる。それが私にとっての限界だった。
「ひぃぃぃ」
最早、声にもならない悲鳴を上げ、手にした教材を持ったまま、私は教室を飛び出す。今思えば、これ程早く人間は動けるのだと思える程に、その時の私の行動は早かった。
無我夢中だったのだろう。開け放たれていた教室後方の扉を抜け、全速力で廊下を走る。既に授業が始まる直前だった為か、廊下には一人も生徒がいなかったのだが、私にそれを奇妙に思える程の余裕はなかった。
上の階にある音楽室へ辿り着く為、階段も飛ぶように駆け上がる。後ろを振り向く勇気もなく、あの時の私を後方から見ていれば、捲れ上がったスカートの中の下着は丸見えだっただろう。
階段を踏み外す事はなかったにも拘らず、踊り場の何もない所で躓き、転がりそうになりながらも体勢を立て直し、何とか音楽室へ辿り着いた時は、私は汗だくになっていた。激しい運動をした為に掻いた汗なのか、それともあの恐怖を味わった事による冷や汗なのか判断が出来ない程、じっとりとした汗が私の身体に纏わりついている。肩で息をするように呼吸は荒く、上手く呼吸が出来ていない事を示すように、私の喉から奇妙な音が鳴っていた。
「君、早く入りなさい。授業が始まってしまうよ」
音楽室の後方の扉の前で呼吸を整えようとしていた私に向かって、前方の扉の前に到着したばかりの音楽教員が声を掛けて来る。私よりも早く教室に入ってしまえば、私は遅刻扱いになってしまうからなのか、柔和な笑みを浮かべて私が教室へ入るのを待ってくれているところを見る限り、この男性教員は人の良い人間なのだろう。その事で若干ではあるが心が軽くなった私は、ゆっくりと深呼吸し、小さいながらも返事を返して扉を引いた。
独特の乾いた音を立てて引かれた戸が開くと、音楽室にいた生徒達の視線が一斉に集中する。だが、それに数秒遅れて開かれた前方の扉から音楽教員が入って来た事により、私への視線は消え、皆が授業開始を待つ姿勢に入った。
「はい、本日お休みの人は……」
音楽室の教壇に上がった教員は、出席簿を確認しながら生徒の人数を確認する。音楽室は特殊教室であり、基本的に自由な席順である為、名前を読み上げるか、人数で確認するかしない限り、教員も把握しきれないのであろう。
そして、自由な席順であるが為に、必然的に私の席も決まっている。通常の席よりも遠く離された場所で座る丑門君の横にもう一つの長い机が私の席だろう。本来であれば二人が座れるスペースがあるという事は、今日も欠席している八瀬紅葉という女生徒の席もこの場所に割り当てられたと考えるべきであった。
「では、本日は教科書の……」
何事もなく授業が始まり、少なからず生徒達の私語が漏れ出す。苦笑しながらそれを制する教員に、私語を楽しんでいた生徒達が黙る当たり、この学校の生徒達が基本的に真面目なのか、この音楽教員が慕われているからなのかは解らないが、それでも暴力的な怖い教員というイメージが欠片もない事を考えると、この学校の生徒からある程度は慕われ、認められているという事なのだろう。
音楽の授業というのは、正直何を履修すれば良いのか、私には解らない。音楽的才能を微塵も持ち合わせていない私のような凡人には、楽器を演奏する事も出来ないし、それをしようという意欲も無い。故にその楽しさも解らない。
音を楽しむという点で言えば、曲を聴くのも好きだし、歌を歌う事も好きだ。だが、それは誰かに聞かせる物ではなく、一人で楽しむ程度の物であり、合唱部に入ろうとも思わなければ、曲を演奏する側である吹奏楽部に入ろうと考えた事もなかった。
そんな程度の私は、中世の有名な作曲家の話を聞いても然程興味は持たず、その曲をぼんやりと聞いているような状態であったのだが、何気なく動いた右手に違和感を覚え、完全に意識が覚醒する。
「!!」
スカートの上に置いていた手を動かした際に右手に触れた物は、音楽室にある通常とは異なる長机の中に入っていた。
小さく『カサッ』と発した音を聞いた私は、表情を固める。最悪の結末のイメージが先に頭を過ぎり、徐々に身体が震え始めた。
それでも、それを確かめないという選択肢は私には無く、どうしても手は机の中へと導かれて行く。勿論、頭の中ではそんな自分の行動を全力で拒否する指令を発しているのだが、そんな私の命令を根本から無視するように右手が机の中にあるそれを掴んだ。
それは、想像していた通りの形状をした物であり、私の片手で掴み潰せる程の大きさに折り畳まれた紙切れであった。それをゆっくりと取り出し、目の前に持って来た時には、音楽室に流れていた曲が第二主題に入って行く。クラシック音楽には合わないような重低音の振動が私の耳を通り越し、直接頭へ響いていた。しかし、それは私の心音であり、荒い呼吸音でもあったのだ。
「ひっ」
そんな荒く乱れた心音は、手元に持って来た紙切れへ視線を落とした瞬間にぴたりと止まる。心臓の鼓動自体が止まってしまったのではないかと思う程に私の全てを止めてしまったのだ。
その紙切れは『白』ではなかった。三つ折に折られた便箋のような紙は、裏側からでもはっきりと解る程に、真っ黒に塗り潰されている。手が震え、紙切れを落としてしまいそうになるが、便箋のような紙切れ自体が私の指に張り付いたように離れない。
何かに強迫されているかの如く、そして何かに突き動かされているかの如く、私の指はその便箋をゆっくりと開いて行く。瞬きさえ出来ず、閉じる事さえ出来ない瞳孔でその便箋を凝視しながら私はそれを見てしまった。
「おい」
先程まで身体全体に響くように感じていた曲は消え、私の周囲の音全てがこの世から消え失せる。視界の中に色は無く、白と黒とで染め抜かれた世界の中、その紙を真っ黒に塗り潰す文字だけが頭の中に飛び込んで来た。
『死ね』という文字で埋め尽くされたその紙は、最早文字である事さえも判別出来ない程に白い紙を黒く塗り潰している。どれ程までに恨みを持てば、これ程の事が出来るのだろうと考える余裕さえない。只々、その真っ黒に塗り潰された便箋のような紙切れを震える手で掴み続ける事しか出来なかった。
「おい、神山」
「あっ」
その時、全ての意識が飛んでしまっていた私を強引に引き戻す腕が肩へと伸びる。瞬時に私の視界に色が戻り、耳へ音が溢れて来た。未だに音楽室の中は中世の作曲家が作り上げた名曲が流れ、皆が思い思いにそれへ耳を傾けている中、私の目は真剣な表情でこちらを見ている丑門君を映し出す。しかし、そんな彼の表情は、私の中で必死に閉じ込めていた『恐怖』という感情を檻から解き放つ一手となってしまった。
丑門君が怖かった訳ではない。むしろその逆で、彼の表情を見た瞬間、何故か安心に近しい感情が湧き、それによって緩んだ気持ちによって、抑えていた感情が溢れ出してしまったのだと思う。
そこからは良く憶えていない。何を持っていたのか、何を口にしたのか、そんな事も憶えていない。ただ、私は音楽室を飛び出した。
自分の意識が戻った時には、既に私は校門を飛び出し、帰路を走っていた。手には学生鞄も持っているし、靴もしっかりと履き替えている事を考えると、無意識に教室へ戻り、鞄を持って昇降口で靴を履き替えて外へと出たのだろう。記憶が飛ぶ程に必死だったにも拘わらず、我ながら律儀なものだと今なら思えるが、あの時の私は只々家に帰りたかった。
百四十九段の階段を駆け上がり、最後の鳥居を潜った先で待っている祖母に泣き付きたい。『おばあちゃん、助けて!』と縋り付きたい。その想いだけで私は学校から南天神社までの道を走り続けた。
「あ……あ」
南天神社は百四十九段という長い階段を上った先にある。つまりは山の上と言っても過言ではない場所だ。そして、そんな山へ向かう場所が平地より低い場所にある訳は無く、学校から何個かの坂道を登らなければ、麓にも辿りは着けない。緩やかな坂道から、少し急な坂道。そんな一つにそれは待っていた。
息が切れる事も構わずに走り続けていた私は、少し急な坂道の前で立ち止まり息を整えていたのだが、夕時を迎え、西へと向かって落ち始めた太陽が、何処か歪な影を映し出す。ゆっくりと見上げたその先にいたのは、あの裸婦だった。
逆光を背負っている訳でもないのに、漆黒の闇に包まれたように暗く、何も見えない闇にも拘らず、その細部まで見えてしまっているような恐怖。それが今、私を見下ろすように坂道の上で私を待っていたのだ。