表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日本書鬼  作者: 久慈川 京
第一章 鬼気迫る
8/34

其の柒



 あの不可思議であり、奇妙であり、恐ろしく、悲しい出来事があった翌日、『学校などには行きたくない』という本能が鳴らす警笛のような想いを振り払い、私はあの学校の校門を潜った。

 昨日、あの後で保健室から教室に戻ると、教室内は異様な空気に満ちており、その空間は異世界と称しても可笑しくはない雰囲気であった。既に二限目の授業も終わり、休み時間に入っていたが、教室の後ろの扉を私と丑門君が開けた音に過剰に反応したクラスメイト達は、総じて真っ青な顔をしていたのだ。

 気持ちは解る。あのような出来事があれば、皆が不安に思うだろう。普通に生活を送っていれば、遠い場所にある筈の『死』という存在を間近で見てしまったのだ。しかも、確証こそないものの、その原因となった存在を皆が見ている。

 教室の後ろの扉から入って来たのが彼女であり、そして、今度は自分がその標的になってしまったらと考えてしまっても可笑しくはないだろう。


「おはようございます」


「……」


 それは、あの教室に居た生徒達だけではない。後から話を聞いた教員達も例外ではなく、生徒達の支離滅裂な話をジグソーパズルのように組み合わせた結果、教員達の間でも無責任な憶測と噂が飛び交った。

 現に、今、校門の前に立っている生徒指導の腕章を付けた教員に挨拶をしても、帰って来たのは怯えと侮蔑を含んだ視線のみである。転校数日にして、この学校での私の立ち位置は厄介者を通り越して、忌むべき者になってしまったのかもしれない。

 理由は解らないが、元々この町全体が忌避している『丑門統虎』という男子生徒と話をしていたという部分で、少なからず教員達からの視線も厳しい物になってはいたが、転校三日目に、教員達にとっても汚点となる『いじめ』という儀式の中心人物であった『八瀬紅葉』という女生徒を張り手で殴り飛ばした時点で、私の評価は厄介者になったのだろう。そして、昨日の奇妙且つ恐ろしい出来事は、そんな私の行動を起因とした末路と考えれば、理解出来る物であった。

 だが、理解出来る事と、納得が出来る事は異なる。挨拶に対し、挨拶も返す事が出来ない人間に、私は何を学べば良いというのか。このような人間に指導される覚えもなければ、謂れもない。改めて、私はこの学校が嫌いになった。


「……」


 そんな私の想いは、教室の扉を開けた瞬間に証明されて行く。扉が開く音でクラスメイト全員が振り向いたのだ。このクラスには約30名ほどの生徒がいる。今の時代であれば、多い方なのかもしれない。その全員の瞳が一斉に向けられた。

 そして、その60個程の瞳は、私の姿を確認すると、瞬時に安堵の色を浮かべる。それは、教室に入って来たのが『神山深雪』という人間である事に安堵したという事。つまり、彼等全員が恐怖を感じる人物が他にいるという事に他ならない。そして、私が自分の席へと向かって歩いていく中、窓際にある、私の隣の席に既に男子生徒が座っている事から、その恐怖対象が『八瀬紅葉』という女生徒であろう事は想像出来た。


「おはようございます」


「……おはよう」


 そんな何かに怯えるような空気を醸し出していたクラスメイト達であったが、私が隣の席に座る男子生徒へ挨拶を投げかけ、それに対して言葉が返ってきた瞬間、再び全員の顔が一斉に動く。だが、それは先程のように恐怖が見え隠れした怯えの表情ではなく、純粋な驚愕に彩られているようにも見えた。

 私が丑門統虎という人物に挨拶をし、それに彼が答えたという事がクラスメイト達にとっては驚愕に値する程の出来事だったのだろう。それが何処か滑稽であり、そしてこの学校が異常な環境にある事を改めて知らされる結果となった。


「……今日は来ないのかな?」


「来ない方が良いだろう。だけど、もしかして、このクラス全員を呪う為の儀式でもしているかもよ」


 教室のほぼ全ての席が埋まるようになっても、廊下側にある離れ小島のような場所だけは空席のままだった。ホームルームの時間が迫り、この時間からであれば、誰かが登校して来る事もないだろうという頃になると、教室に居る生徒達にも余裕が生まれ、くだらない内容の会話があちらこちらで聞こえて来るようになる。

 その全てが荒唐無稽な馬鹿らしい内容であり、私にはその資格がない事を理解していて尚、不快に思わざるを得ない物であった。

 昨日の出来事は、その恐怖を紛らわせる為なのか、このクラスでは完全に『八瀬紅葉』による呪いという事になっている。理解不能、非現実的である出来事であったからこそ、この科学が支配する現代に於いて、『呪い』などという噂が真実味を増していた。


「では、この部分は来週のテストに出しますので、よく復習しておくように」


 その後も八瀬紅葉が教室に顔を出す事はなく、何事も起こらないまま、午前中にある全ての授業が終了する。四限目を担当していた、くたびれたワイシャツとネクタイを着用する中年男性の教員は、黒板に書いた文字を消す事なく、出席簿を持って教室を出て行った。

 教員の姿が扉の向こうへと消えていくと同時に、クラスが騒々しくなって行く。弁当を出す者、購買に購入したパンを出す者、連れ立って学生食堂へ移動して行く者など様々ではあるが、総じて全ての人間が同じ話題を一斉に口にし出していた。


「結局来なかったね」


「来れないでしょ。皆に嫌われている事も解っただろうし、しかもあれだけの事をやって学校に来れたら、それはそれで凄い神経だと思うよ」


 学食へ行くのだろう。私の横を通り過ぎた女生徒二人の会話が耳に入って来る。自分の事を棚に上げるようだが、本当にこの学校に転入してから、人間の嫌な所ばかりが見えて来る。普通に過ごそうと思えば、私もこの女生徒達と同じように考えれば良いのだろうし、そうやって敵を作ってしまえば楽なのかもしれない。

 だが、恥ずかしながら、私は未だにこのクラスで名前を覚えているのは、隣に座る丑門統虎という男子生徒と、今ではこのクラスの敵となってしまった八瀬紅葉という二人だけである。私こそ、人間として最低の部類に入るのかもしれないが、名前を覚えた二人以外は、有象無象の輩と変わりがないのだ。


「……また外のベンチへ行こう」


 教室内で弁当を開くクラスメイト達の会話は、不快に思う事はあっても心地良い物ではない。このような場所で祖母の作ってくれた弁当を食べる気にもなれず、私はそのまま教室を出た。

 教室の後ろの扉から出た私は、お弁当箱を持ったまま、階段に向かって歩く。その私の横を誰かが通り過ぎ、通り過ぎた瞬間に、私の全身の毛穴が閉まったような気がした。慌てて振り返ってみるも、昼休みの時間に入り、混雑した廊下では、誰が私の横を通り過ぎたのかさえも解らない。通り過ぎた相手の顔を見ておらず、見たところでそれが誰だか特定出来ない私には、廊下を歩く多くの生徒達の中からそれを探し出す事など不可能であった。

 あの寒気にも似た悪寒が気にはなったが、いつまでも廊下で立ち尽くす訳にもいかず、私は足早に中庭へと出て行く事にする。私の立ち去った後の教室で何が起こっているのかを知る事はなかったのだ。




 中庭は、梅雨の時期に入る前の清々しさに満ちており、暖かな日差しが差し込み、心地良い風が吹き抜けている。先日破壊されたベンチではなく、私のクラスのベランダが正面に見えるベンチに腰掛けた私は、弁当箱を包む綺麗なハンカチを解き、蓋を開けた。お弁当箱の半分弱の割合で入っているご飯の上には梅干が載り、その周囲にはおかかが塗されている。

 弁当もまた、料理であり、やはり作り手のセンスが光る物だろう。必須であるお米の白を基盤としての色彩も必要であり、見た目で楽しみ、味で楽しむ。お米に色付けするやり方もあるし、海苔などで色を変えるやり方もあるが、私はこのご飯の真ん中に梅干があるお弁当が好きだったりする。梅干もまた祖母が自ら漬けた物であり、とても酸っぱいが癖になる味であった。


「美味しい」


 入っている煮物も、茶色一色ではなく、にんじんや絹さやなどで色があり、とても華やかである。味の染みた高野豆腐を口に含むと、自然に笑みが浮かんだ。いつも通り、私の大好きな卵焼きも入っており、その横には鶏肉の照り焼きのような物もある。自然に浮かぶ笑みを抑える事が出来ず、次々と箸を動かしていた私であったが、小休止も兼ねて、中庭に出る途中で購入したペットボトルのお茶の蓋を開けて口に含んだ。


「ん?」


 ペットボトルを口に当て、その中身を飲もうとすれば、必然的に視線は上がる訳で、視線が上がれば、正面の校舎の二階にある教室のベランダが視界に入って来る。だがそれも一瞬で直ぐに視線を弁当箱に戻したのだが、その過程で妙な物を捉えた気がして、私は再度正面へ顔を向けた。

 そして息を呑む。教室のベランダは二階にある。そのベランダから何か黒い物が飛び出して来て、その下へと着地したのだ。呆気に取られ、私はその場所から視線を離せずにいると、徐々にその黒い物の姿が鮮明になって行く。そして、その姿を認識した時、私は再びあの胸の苦しみに襲われた。


「んぐっ」


 お茶を飲み干した後で急に襲われた胸の鈍痛。呼吸が止まりそうになる程の痛みに眉を顰めながらも、私は二階のベランダから飛び出して来た黒い影へ視線を移すと、そこにはあの裸婦が立っていた。

 手入れがされていない長い髪によって表情は見えないが、その口元には歪んだ笑みを浮かべ、一瞬私に顔を向けた後、その女は二階のベランダへと顔を上げ、ゆっくりと手招きをするように腕を動かす。その動きに合わせるように教室の方から悲鳴や怒号が聞こえてくるようになった。


「は?」


 その黒い女の視線が教室へと向けられた事で和らいだ私の胸の苦しみは、異なる形の恐怖によって塗り替えられる事となる。

 先日の事があってから、私達の教室のベランダは立ち入り禁止になっているのだが、その理由はベランダを囲む柵が消失しているからだ。故に、本来その場所に人影などは見えてはいけない筈にも拘らず、そこに一人の女生徒が現れた。

 その女生徒の顔には見覚えがある。それは、昨日倒れた女生徒と共に『八瀬紅葉』を小馬鹿にしていた一人であった。

 昨日、何か解らない物に首を絞められて昏倒した女生徒は、今日は学校を休んでいる。あれだけの事があったのだから、登校したくないと考えても可笑しくないだろうし、それを誰も不思議に思わなかった。


『おいで……。おいで……』


 耳からではなく、脳に直接響くような声が聞こえて来る。地の底から響くようなその声は、まるで何かを手繰り寄せるように動くその腕に合わせて聞こえて来た。

 強制力がある程に力強い訳ではない。だが、それでも抗う事が出来ない程の誘惑に駆られるようなその声に合わせて、ベランダへ出て来た女生徒の身体は、柵の無くなった端へと進んで来た。

 教室から聞こえて来る悲鳴。その行動を制止するように叫ばれた怒号。中庭に居る私でさえもはっきりと聞こえるそれさえも聞こえていないような虚ろな表情をした女生徒は、手招きをする黒い女に誘われるように歩み進めていた。


「きゃぁぁぁぁ!」


 最早誰の声かも解らない。教室から轟く複数の悲鳴に背中を押されたように、女生徒の足が柵を失ったベランダの端を越えた。

 傾く身体、崩れるバランス。時間で言うと、本当に僅か数瞬の出来事であるにも拘らず、私の目にははっきりと映る。悲鳴や怒号も間延びし、ゆっくりとした時間が流れた。それは、この現実を拒否したい私が自己防衛の為に成した事なのか、それともこの時だけ世界の時間の流れが変わったのかは解らないが、永遠に続くのではないかとさえ思う程に長い時間であったのだ。


『ちっ』


「え?」


 だが、そんな緩慢な時間の流れに割り込む影が映り込む。それを私が認識する前に、あの黒い女が発したであろう舌打ちのような苛立ちの表現が脳に響き、時間の流れが一気に戻った。

 ベランダから落ちる女生徒の身体へと割り込んだその影は、女生徒と共にベランダから落下して来る。ベランダの真下は、中庭に作られたコンクリートの通路であり、二階からの高さとはいえ、最悪は死に至る程の怪我を負うだろう。だが、その影は、落ちる女生徒を抱えて意図的にベランダから飛んだように見えた。

 綺麗と思うには不恰好で、凄いと思うには無様な姿。それでも女生徒を抱きかかえるように飛び出したその男子生徒の影に、私は見惚れてしまう。教室のベランダから少し離れた所に植えられた木の方へ飛び出した二人は、木の枝にぶつかりながら、その根元にある花壇に生えた草花を薙ぎ倒して着地した。


『またも邪魔をしおって……』


「はっ! う、丑門君!」


 着地という程に華麗なものではなく、女生徒を庇うように背中から彼が落ちてから、時間が止まったように音が消える。私自身、お弁当の箸を持ったまま、呆然と花壇で横たわる彼を見つめていたのだから、私達のクラスメイト達も同様であろう。

 しかし、そんな時間も、頭に直接響いて来た声によって動き出す。我に返った私は、遠地にお弁当箱を置き、未だにピクリとも動かない英雄の名を叫んで駆け出した。

 私の動きが契機となり、この学校の時間を止めていた箍は外れ、全ての人間の感情があふれ出す。二階のベランダには多くのクラスメイトが現れ、騒ぎを聞き付けた他のクラスの生徒達も一斉に外へ顔を出した。一階の教室から出て来た生徒達が花壇を囲むように集まり出し、一歩早く辿り着いた私を遠巻きに眺めている。だが、そんな些細な事よりも、私は目の前の状況を確認しなければならなかった。


「丑門君! 丑門君!」


 正直に言うと、未だに彼が抱える女生徒の安否など、私にとってはどうでも良かった。木々の枝にぶつかった事で、所々に擦り傷や切り傷はあるが、彼を下敷きにしている彼女が無事である事は解り切っている。むしろ、未だに意識を取り戻さない彼女の頭を張りたい気持ちすら持っていた。

 今思えば、この頃から、私の中で『丑門統虎』という男性は、特別な存在となっていたのかもしれない。改めて考えてみると、出会ってから僅か数日でそのような感情も持っていたのであれば、私はとても安い女にしか思えないが、私の十数年の短い人生の中でも、出会った事のない不思議な存在だったと言えるのだろう。


「ぐっ……いてぇ」


 呻くように痛みを訴える彼を見て、ようやく私は安堵の溜息を吐き出す事が出来た。二階とはいえ、数メートルの高さがある所から落下したのである。木の枝で衝撃を和らげ、花壇に敷き詰められた柔らかな土が緩衝剤となってくれたから良いものの、命さえも失う可能性もあった筈である。

 未だに意識を取り戻す気配もない女生徒を抱き抱えたままで眉を顰める彼を見ている内に、私の胸の奥から理由の解らない怒りの炎が燃え上がり始めた。


「当たり前でしょう! 何故、飛び出したの!? 二階なのよ! たまたま花壇だったから良いものの、コンクリートの上であれば、死んでいたのよ!」


 感情のままに私は叫び声に近い声を上げる。一気に吐き出された感情に、私の脳は感情を抑制する機能を放棄したのか、自然と涙が溢れ出し、喚き散らす子供のようになっていた。

 先程まで苦痛に歪んだ表情をしていた彼は、私の余りの変貌振りに虚を突かれたように呆け、呆然と私を見上げている。そんな彼の馬鹿面が私の怒りに拍車を掛け、最早自分でも訳が解らなくなるくらいの暴言を吐き続けていたと思う。

 いつまで経っても喚き続ける私を見上げていた彼であったが、突然、今まで開けていた口を閉じ、はにかむような微笑を浮かべた。


「何が可笑しいの!? 本当に死んでしまうところだったのよ!」


「ああ……いや、ごめん。心配してくれたんだな。ありがとう」


 気を失い続ける女生徒を支えながら身体を起こした彼は、照れ臭そうに頭を掻き、そんなふざけた事を口にする。余りにも馬鹿げた物言いに、今まで私の胸と脳を支配していた怒りが急速に冷え切って行った。

 力が抜けたように私も膝から崩れ落ち、膝に花壇の土が付着するのも気にならずに大きな溜息を吐き出す。もう、何も言うべき事もなく、言う気力さえも湧き上がらない。


「馬鹿なの? 本当に馬鹿なのね? その子を助けても、きっとお礼さえも言ってくれないわよ。昨日みたく、丑門君に怯えて、何も言わずに走り去って行くわ。天秤に掛ける自分の命の重みと吊り合う物じゃないでしょう?」


 『馬鹿は死んでも直らない』

 昔の人は上手い事を言ったものだ。彼は真性の馬鹿なのだろう。最早それを通り越した大馬鹿だ。結果的には彼も女生徒も助かっている。だが、一歩間違えれば、彼だけが死んでいたという結末を迎える可能性だってあった筈。そして、もしそうなってしまっても、この学校内であれば、誰も彼の行動を『勇敢』だと褒め称える事はないだろう。転校後、僅か数日ではあっても、それが理解出来るほど、この町に於ける『丑門統虎』という人物への扱いは異常なのだ。

 だが、先程まではにかむような微笑を浮かべていた彼は、私の言葉を聞いて『むっ』としたように表情を変化させる。私は、自分の予想は正しいと思っているし、間違いなくそうなると確信している。だが、彼はそう思っていないのだろうかと、私は真剣に首を傾げてしまった。


「解ってるよ。きっと神山の言う通りなんだろうけど、それでも他人が死ぬより良いだろう」


「自分の命の方が大事でしょう! 自分から飛び降りた人間を救う為に、貴方が死んでしまったら、貴方の家族は悲しむわ! 見捨てろとは言わないけど、考えて行動しなさい!」


 一旦収まりかけた怒りが再び燃え上がる。彼の表情を見る限り、彼は自己犠牲の精神でこの女生徒を救った訳ではないだろう。だが、その後先考えない馬鹿さ加減には、流石に頭に来た。

 彼の家族構成などは解らない。私は両親が好きではないが、祖父母は大好きだ。私が命を落としたとすれば、両親は解らないが、祖父母はとても悲しみ、涙を流してくれるだろう。それは家族であれば当然であり、いくら町全体から忌み嫌われている彼であっても、家族は彼を愛している筈であり、彼の命を大事に思っている筈なのだ。


「そうか……そうだな。ごめん」


「謝る相手は、私ではないでしょう!?」


 彼の曖昧な反応に私の怒りは頂点に達する。そして、そんな怒り心頭の私の傍に、ようやく学校の教員達が近づいて来た事で、私の怒りは爆発する事になった。

 それは、今更ながら駆けつけて来た教員達の表情が、とても女生徒一人の命を救った勇敢な男子生徒へ向ける物ではなかったからだ。

 彼らの瞳は、何処か濁っている。まるで全てが決められた結果へ繋がるように線を引かれ、その線に導かれる考えしか脳に入って来ていないかのようであった。

 そして、それは現実の物として、一人の教員の口から発せられる。


「な、何をしているんだ! う、丑門、お前が彼女を突き落としたのか!?」


 その言葉を聞いた瞬間で、私の頭の中は瞬間冷凍されたように冷やされた。自分自身でも全身の血の気が引き、身体全体が冷たくなって行くのを感じる。この時の私の視線は本当に冷たい物だっただろう。それこそ、私の目にはこの教員達が路傍の石というよりも、ゴミ屑のようにしか見えていなかったし、その気持ちを隠す気持ちもなかった。

 この教員達は、この場所へ来るまでの間に、教室を確認する事はなかったのだろうか。そして、今も尚ベランダ付近で騒いでいる野次馬達に、状況を尋ねるという事をしなかったのだろうか。もし、その全てを行う余裕がなかったのだとしても、この場に来ての第一声が決め付けの糾弾というのは、誰が考えても異常であろう。いや、この学校を含めたこの町の中で、それを異常と思う私自身が一番異常なのかもしれない。


「何をどう考えてその結論に達したのか全く理解出来ませんし、その結論に達した思考も理解に苦しみます。まず、やらなければならない事は、この女生徒を保健室へ連れて行く事ではないのですか?」


「……神山さん」


 私の物言いに唖然とした女性教員であったが、私が向けた冷たい視線に耐え切れず、顔を背ける。その姿が更に私の感情を冷やし、失望感を増幅させた。

 私の発言が身勝手な物である事は重々承知している。私自身も、女生徒の安否よりも丑門君の状態を優先させた訳だし、今も尚、女生徒の状況に関心はない。自分を冷たい人間だとは思わないが、私の中の優先順位からすればこの女生徒はかなり低い位置にいるのだ。そして、それよりも更に低い位置であり、最底辺どころか地中深くに位置するのがこの学校の教員達なのだ。


「丑門君も一応、保健室に行った方が良いわ」


「いや、俺は大丈夫だけど」


 固まる教員達に女生徒を押し付けた私は、起き上がった丑門君にも保健室へ行く事を勧めるのだが、その返答に対して、再び怒りが込み上げて来る。私はここまで激情家であっただろうか。誰に対しても関心を示した事はほぼなく、怒りは持っても、それを表面に出した事も余りなかった。

 だが、この学校に転入して以来、私の周囲が激変し、私自身も自分が理解出来ない程に変化していると思う。まるで何かに突き動かされているかのように、感情が爆発するのだ。特に、この丑門統虎という男子生徒に対してはそれが顕著に表れている。

 よくよく考えれば、八瀬紅葉という女生徒に対しても、初対面の時は怒りを感じてはいたが、全く興味はなかった。それこそ、今、教員の背中に乗り、保健室へと運ばれている女生徒への感情と同様にどうでも良い存在であったと言えるだろう。だが、私は彼女の名前を憶えた。それは、正直、異常な状況なのかもしれない。


「……もう、帰ります」


 『どっ』と疲れた。

 抑え切れない自分の感情にも、それに対する周囲の反応にも、そして何より、この学校で過ごす時間に、私は心から疲労感を覚える。午後の授業などあの教室で受ける気にもならないし、お弁当の残りを食べる気にもならない。この学校に通う学費などの事を考えれば、両親にも祖父母にも申し訳ないのだが、本当に再度転校を申し出たいとさえ考えていた。

 お弁当箱を包み、教室に鞄を取りに向かう。丑門君が動いた気配はあったが、それに気を留める余裕はなく、振り向かずに私は昇降口で靴を変え、階段を上った。

 教室へと繋がる扉を開けると、未だに教室内は騒然としており、クラスメイト達は口々に何かを喚いている。だが、私が入った瞬間にその喧騒はぴたりと止まり、静寂と共に不躾な視線が一斉に向かって来た。

 そんな視線を無視し、革製の鞄に用具を入れた私は、後れて入って来た丑門君の横を擦り抜けて廊下へ出る。まだ昼休み中という事もあり、廊下には数多くの生徒がいたが、まるでモーセが割った海水のように、私の歩く道を生徒達が自主的に切り開いて行った。

 流石に、それを喜ぶ事の出来る程、私の脳は茹で上がってはいない。恥ずかしく、そして気まずい空気を感じながら、私は昇降口へと早足で歩いた。


「……送って行くよ」


「結構です!」


 昇降口で靴を履き替えている時に掛かった声に、私は反射的に怒鳴り声を上げてしまう。だが、勢い良く振り向いた私の瞳に入って来た予想通りの人物は、想像以上に険しい顔をしてそこに立っていた。

 異常な程の表情に、一瞬虚を突かれた私は、一歩後ろに下がってしまう。それはとても失礼な事ではあったが、それでも彼が纏っている空気が尋常ではない事を考えると、致し方のない物だろう。


「悪かった。心配してくれた神山に失礼だった。だけど、気付いているか? たぶん、次に危ないのは、神山だぞ?」


「え?」


 険しい雰囲気を纏ったまま、彼は静かに私に向かって頭を下げる。雰囲気は別にしても、その声と言葉には彼の誠意が込められており、彼が真剣に謝罪をしている事が解った。だが、その後に続く彼の言葉は、私の理解の範疇を大きく超えていたと言えるだろう。

 今から考えれば、終始に及び、彼は言葉が足りない。相手に理解して貰おうという気持ちが足りないのか、努力が足りないのかは解らないが、自分自身が理解している事を他者へ伝えるのが、尋常ではない程に下手であった。


「飛び降りたのは、昨日、八瀬を口撃していた二人の内の一人だろう? あの娘がベランダへ向かった時の表情は異常だった。意識を失っているのに目が開いているような……。そうだな、何かに取り憑かれたようだった」


 謝罪に対しても、忠告に対しても返答が出来ない私を置いて行くように、彼は靴を履き替えて昇降口を出て行く。我に返った私がその後を追って行くと、校門を出た辺りで、ようやく彼は重い口を開き始めた。

 その内容は、この二日間を振り返るような内容であり、それを語る表情は真剣で、何処か焦燥感さえも滲ませている。ベランダから飛び降りた女生徒の状況などは、騒がしかったクラスでも相当話題になっていたようだが、それを間近で見ていた彼の目には、その異常性が際立って見えたのだろう。


「前に襲って来た他校の男達と同じような目だったと思う。自分の意識なんか無かったんだろうな。それと……」


 以前、下校中に他校の男子生徒に襲われた事がある。あれは、間違いなく私個人を狙っていたのだと、今ならば断言出来た。

 あの男子生徒達は、八瀬紅葉という女生徒と一緒に居た者達である。私を助けてくれたのが『丑門統虎』という名前の彼である事を考えると、彼への復讐と考える事も出来るが、あの時の男子生徒の目と、その動きを考えると、彼らもまた何かに取り憑かれた状況のまま、私を狙ったと考えるべきであろう。

 そこまでは納得出来たのだが、その後の言葉を言い澱む彼に私は首を傾げる。私の勘違いかもしれないが、彼は何かに怯えているようにさえ見えたのだ。

 この町全体から忌避され、何かに取り憑かれたような数人の男子生徒を相手にしても怯む事無く打ち倒し、自分を疎む女生徒の為に二階からも飛び降りた人間とは思えないその雰囲気を、私は心底不思議に思った。


「たぶん、昨日、俺が蹴り飛ばしたアレだとは思うんだが、今日は嫌にはっきりと見えた。女だとは思うけど……いや、間違いなく女だな。それがあの娘の肩を叩いたかと思ったら、そのままベランダへ誘うように出て行った、そのまま飛び降りたんだ」


「……そ、それは裸婦でしたか?」


 いつも以上に彼の口が重い。言い辛そうに、そして出来れば話したくないとでも言うように、彼が語った内容は、私の心の奥に仕舞い込んだ恐怖を再び湧き上がらせた。

 ここ数日で、何度も私の前に現れたあの気味の悪い女を彼も見たのだろう。そう考えた瞬間、私の背筋を凍るような汗が一筋流れ落ちる。暗い闇と、来るべき死の恐怖を思わせるあの女を思い出すだけで、私の身体は硬直していた。それでも恐る恐る聞いた私の言葉は、本当に決死の思いで搾り出した勇気の欠片であったのだ。


「は? 裸婦? 裸って事か? いや、女だろうとは思うけど、服とかまでは見えないだろう」


「え?」


 しかし、そんな私の勇気は、訝しげに首を傾げる彼によって切って捨てられる。

 今であれば、彼が言っている事の方が正論であると理解出来る。もし、あの裸婦がこの世で生きている者でなければ、はっきりと見える方が異常なのだ。

 だが、私がこの数日で見たその女は、最初から裸である事が理解出来るほどしっかりと見えていたし、今日に至っては、その口元の動きさえも見えている。最早、私にとって、あの裸婦はこの世に存在する者と同じ存在感を持っているのだ。


「裸婦か……。それは見てみたい気もするな」


「ふざけないで!」


 故に、彼が考えるような素振りで口にした軽口が、必要以上に私の神経を逆撫でする。『私は真剣に悩んでいるのだ』、『私は本当に怖いのだ』という想いを彼に馬鹿にされたようにさえ感じてしまった。

 冷静に考えれば、彼が本気で私を心配してくれている事ぐらい解る。そうでなければ、私を送ろうとは思わないだろうし、忠告のようにそれを口にする必要もないのだ。だが、この時の私は、本当に余裕が無かったのかもしれない。

 自分が考えている以上に、転校という環境の変化へのストレスは大きく、そんな環境下での不可思議な出来事が私の精神を追い詰めていたのだろう。

 吊り上げた目で彼を睨み付け、大声で怒鳴りつけた私は、傍から見れば最悪な女に違いない。学校の中庭から、彼に対して怒鳴り散らしてばかりの私に対し、それでも済まなそうな表情を浮かべる彼は、本当に優しい人間だった。


「ごめんな。だけど、そこまではっきり見えているんだな。気をつけろよ……アレが何かは解らないけど、良い物ではない事だけは確かだから」


 彼の真剣な表情を見た時、私は何故か恐怖を感じる。通常であれば、その優しさに対して胸が熱くなったり、頼もしさを感じたりする筈なのだが、私が感じたのは本当の恐怖だったのだ。

 それはあの裸婦を目にした時とも違う恐怖。例えて言うならば、『死』への恐怖ではなく、その『存在』に対しての恐怖なのかもしれない。丑門統虎という男子生徒を教室で初めて見た時に感じた恐怖はそういう物であった事を、今初めて私は理解した。


「とりあえず、神社までは送る。出来れば、明日は学校を休んだ方が良いと思うけど、神山は他人の忠告を聞かないだろうからな」


 そんな私の青褪めた顔色を見た彼が気を遣ってくれ、再び軽口を叩くのだが、その言葉は、音として耳に入っても、言語としては私の脳へ届かない。自分でも気付かぬ内に身体は震え、何故か涙が溢れ出す。今すぐにでも命乞いをしたい程の恐怖が私の全身を襲っていたのだ。

 その恐怖は何に対してなのだろう。先程も見た裸婦に対しての物なのか、それとも今は苦笑交じりの笑みを浮かべ、柔らかな空気を纏っている彼に対してなのか、それは私にも解らなかった。


「で、でも……。教室でも何度かあの裸婦を見た時、凄く苦しくなって……。息も出来なくて、胸が痛くて、もう駄目だと何度も思って……」


「お、おい、神山?」


 私の中にある何かが決壊してしまったのか、言葉と共に抑えていた感情まで溢れ出す。こうなってしまえば、自力で抑え込む事など不可能であり、次から次へと涙が零れ落ちて行った。

 切っ掛けは、先程彼から感じた恐怖であろう。私が心の奥へと押し込め、蓋をしていた物が、その恐怖によって表へと引き出されたのだ。恐怖が恐怖を呼び起こし、相乗効果を生み出した結果、私が私ではなくなってしまった。

 子供のように泣きじゃくる私に、困惑した彼は、私の肩に手を置き、何度も何度も私の名前を呼び掛ける。その声も僅かにしか私の脳には届かず、壊れたように泣く私を彼は家まで送ってくれたのだった。


 この不可思議な事件の最終局面は、私の精神崩壊と同様、すぐそこまで忍び寄って来ていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ