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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第一章 鬼気迫る
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其の陸



 『甘かった』

 最早、この言葉を思い浮かべるのは何度目になるだろう。だが、この学校の私が所属するクラスの教室に入る度に、前日の夜までの私の考えがどれ程に楽観的だったのかをいつも思い知るのだ。

 昨日、私の身に起きた災難ともいえる数々の出来事は、既にこのクラスの話題の中心になっていた。逃げるように外で昼食を取っていた私に、まるで天罰のように鉄柵が振って来て、大怪我どころか、危うく死ぬ程の場面を丑門という男子生徒に救われ、そしてその男子生徒と下校したというそれは、噂ではなく、全て事実である。故にこそ、それには更なる尾ひれが付いてこの学校を泳ぎ回る大きな噂となっていたのだ。


「八瀬さんが言っていたように、やっぱり付き合っているらしいよ」


「そうなの?」


「そうそう、昨日保健室の前で二人して騒いでいたらしいし、その後は二人で一緒に帰ったみたいよ」


 二日前と変わらぬ程の離れ小島となった私の席に着くと、かなり離れた場所に居る近場の席の三人の女生徒の噂話が耳に入って来る。最早、何も言う事はない。反論するのも馬鹿馬鹿しいし、噂話を気に留めなければ、ある意味平穏な学生生活を送れるのであれば良いとさえ思っていた。

 あの保健室近くには、保健室の中に居る女性職員しか居なかった筈。ならば、あの年配の女性職員が他の教員達にその話をし、それがいつの間にか広まったと考えるのが妥当だろう。本来の教職員の成す行為ではないが、彼女達もまた只の人間である事を考えると仕方のない事なのかもしれない。


『黄泉比良坂への道はもう開けているのに……』


「ぐぅ」


 そんな私の楽観的な考えは、後方から襲って来た圧倒的な悪寒に塗り潰された。

 覆い被さって来るような悪寒は身体中を瞬時に巡り、急速に手足を冷たく凍らせて行く。身動きする事が出来ない程に私の全身は硬直し、圧迫される胸が呼吸を許さない。視界は急速に狭まり、喘ぐように開いた口からも酸素は入って来ず、瞳に涙が溜まって行った。

 耳元で囁かれた言葉は、保健室の前で聞いた声と同一の物であり、それを発しているのが、丑門君が口にしていた黒い影と呼ぶ物であるだろう事は予想出来る。そして、それは私が何度か目撃しているあの裸婦であろうという事へ思考が及ぶ頃には、私の意識は徐々に遠退いて行った。


「……邪魔」


「う、丑門……」


 だが、そんな私の苦しみも、既に登校していた彼によって霧散して行く。私の背中に覆い被さっている何かを払うように右手を横へと振った彼は、そのまま教室を出て行った。

 その言葉は、私に覆い被さっていた物に対しての物だったのだろうが、離れた場所で私達の噂話をしていた女生徒達にとっては、脅威を感じる程の物だったに違いない。顔を真っ青にした彼女達は、蜘蛛の子が散るように離れて行った。

 ようやく肺に入って来た酸素が全身を駆け巡るのが解る程、私の身体は疲労感に襲われる。じっとりと滲み出した汗が、これまで感じた圧迫感よりも強かった事を物語っていた。


「……本当にもう嫌だな、この学校」


 小さく呟いた言葉は誰にも届かない。私の周りには既に誰も居ないし、着席している生徒達の席は、私の席から遠く離れていた。それにも拘らず、何か不快な感覚に襲われた私は思わず顔を上げてしまう。

 そして、その顔を私は見てしまった。醜く歪み、暗く翳ったその微笑を。

 彼女の生来の容姿は悪くない筈である。軽薄そうであるし、芸能人になれる程ではないだろうが、それでも本来は女性としてはそれなりの物を持っていた筈のその顔は、憎悪と憤怒によって醜く変貌を遂げていた。

 『八瀬紅葉』という名のその女性は、再び襲い掛かる苦しみにもがく私を表現し難い表情で見つめ続けている。その目を見ている内、再び胸の奥を締め付けるような苦しみが襲って来るが、そう何度も何度もこれに屈するのは、私の矜持が許さない。苦しみに歪みそうになる顔を必死に抑え、負けじと彼女を睨み付けた。

 そんな私の必死の覚悟の中で、事態は動き始める。


「痛っ」


 私に怨念の篭った視線を送っていた八瀬紅葉が急に私の視界から消えたかと思えば、悲鳴にも似た声が聞こえてきたのだ。

 私と彼女との間を遮ったのは、数名にクラスメイト。そして、その悲鳴は八瀬紅葉の物である。小さな悲鳴は苦悶の色も滲ませているが、視界が遮られている私には、彼女の状況が掴めない。しかし、先程まで私の胸を圧迫していた空気が霧散しており、私に向けられていた憎悪の視線もまた消えていた。


「あっ、ごめんなさい。足を踏んじゃったみたい。でも、足を出している八瀬さんも悪いのよね」


「折角、席を離してあげたんだから、他人様の領域に入って来たら駄目じゃない」


 私、神山深雪の短くはあっても充実した十六年の人生の中で、この時ほど、人間という種族の愚かさと醜さを見た事はなかっただろう。吐き気がする程におぞましく、醜い。

 今まで『いじめ』という陰湿且つ愚かな行動を行っていた者が、『いじめ』を受ける側へと転がり落ちた。本当に僅かな違いであるが、この狭い世界の中では空気を一変させる程の大事件なのだ。

 今までこのクラス、若しくはこの学校内で頂点付近に居た人間が底辺に落ちる。その査定方法も、査定基準も馬鹿馬鹿しい程にくだらない物ではあるが、『八瀬紅葉』という一人の女性が『恐れられる者』から、『見下される者』へと変化した事は事実であった。

 今まで、彼女の何を恐れ、何に対して遠慮をしていたのかさえも忘れたように、宛も自身が強者になったかのように振舞う。それは、この学校という枠からはみ出した私のような部外者から見れば、不快な物以外何物でもなかった。


「止めなよ。八瀬さん涙目じゃん」


「え~、もっと酷い事をして来たのに?」


「あんまり言うと、お弁当ぐちゃぐちゃにされちゃうよ? 私、張り手とか出来ないし」


 よし、蹴り飛ばそう。

 あの馬鹿達は、八瀬紅葉にではなく、この私に喧嘩を売っているのだろう。昨日、凄まじい雄の闘争を見たばかりの私にとって、他者を嘲笑う事しか出来ないような馬鹿共など障害にもなりはしない。一人の青年さえも蹲らせたローキックを叩き込んでやろう。

 八瀬紅葉を取り巻き、馬鹿にするような笑い声を上げながらも、その場所を移動しようとない女子達に私が怒りを燃え上がらせている中でも、他のクラスメイト達は身動きさえもしない。むしろ同じように楽しんでいる者達がほとんどであった。

 基本、日本人は『触らぬ神に祟りなし』の考えがある。関係しなければ、自分には災いが及ばないというその考えは、事勿れ主義の国民性を持つ日本ならではの物という訳ではないが、過半数を占める事は確かであろう。

 だが、人間は数の暴力に弱い。それは攻撃する側もされる側もである。それが今のこのクラスを示していた。


「何その目?」


「こわ~」


「藁人形でも作ってるのかもよ。私、釘打たれちゃうかも」


 聞くに堪えないとはこの事なのだろう。不愉快というレベルではない。八瀬紅葉という女性に私が受けた被害など、正直些細な事であり、それこそ翌日に彼女が謝ってくれれば、『私の方こそごめんなさい』と口にして終わる程度の物なのだ。

 私は、今、この場面に来て、ようやくあの時に丑門君が口にした『やり過ぎ』という言葉を身に染みて理解する事になる。私のあの行動がこの状況を作り上げてしまったのだとすれば、猛省しなければならない程だと思った。

 怒りはしたし、その怒りは正当な物だと今も思っている。だが、その方法は間違っていたのかもしれない。あの時、張り手をしただけで教室を飛び出せば良かったのだろうか。そうすれば、状況は変わっていたのだろうか。

 そんな堂々巡りの思考に私が陥っている間に、事態は急変した。


「えっ?」


「あがががががが」


 八瀬紅葉を取り巻いて嘲笑っていた女生徒の内の一人が、突如苦しみ出す。隣に立っていた友人が突然首を上げ、苦しみの喘ぎを発し始めた事に困惑した女生徒達は呆然とそれを見上げる事しか出来なかった。

 まるで何かに首を絞められているかのように顎を上げ、何かを退かそうと自分の手を首に持って行く姿は、周囲から見ていても異様の一言に尽きる。だが、彼女のその姿が偽りでない事を示すように、彼女の顔は真っ赤に染まり始めた。

 そして、少し離れている為にはっきりとは見えないまでも、その首には手形のような窪みが浮き出始めており、その手形がくっきりと見え始めると同時に、先程まで真っ赤に染まっていた彼女の顔から血の気が引いて行く。周囲の友人は何が起きているのか解らない故に、おろおろとするばかりであった。


「ちょ、ちょっとどうしたの!?」


「え? う、浮いてる?」


 焦りに突き動かされるように傍に寄った友人達は、そこに来てようやく自分達を取り巻く空気自体が変化している事に気付く。どす黒く染まった霧の中に迷い込んだような錯覚をする程に濃密な死の香りが、離れている筈の私にまで届いていた。

 苦悶の声を上げ続けていた女生徒の声は徐々に小さくなり、首を絞める何かに抗おうとしていた手は力なく垂れ下がる。そしてその身体は、何かに持ち上げられているかのように、宙に浮いていたのだ。

 最早、これは発作などという物ではない事は、この教室にいる全員が理解する。先程まで我関せずを貫いていた者達も、その異常事態に目を向け始めていた。


「邪魔って、言ってるだろ?」


 しかし、そんな異様な光景は、突如割り込んで来た一人の男子生徒に、死の香り諸共吹き飛ばされる事となる。

 席に座りながら苦しむ生徒を睨み付けていた八瀬紅葉と、最早抗う力さえも失いつつあった女生徒の間にいる何かに向かって繰り出されたような彼の前蹴りは、張り詰めていた空気を一気に霧散させた。

 直立不動となって苦しんでいた女生徒は、糸の切れた人形のように床へと倒れ込み、睨み付けていた八瀬紅葉は、我に返ったように目に光を戻す。そして、彼が出した足をもう一度床へと付けると同時に、教室の黒板近くにあったゴミ箱が吹き飛んだ。

 まるで何かが衝突したように吹き飛んだプラスチック製のゴミ箱が、教室の扉にぶつかって転がるのを全ての生徒が呆然と眺める。その時間は本当に僅かの物だったかもしれないが、私にはとても長く感じられた。


「だ、大丈夫!?」


「こ、これ何なの!? 何があったのよ!?」


 この不可思議な状況の中で真っ先に我を取り戻したのは、意外にも倒れ付した女生徒と共に八瀬紅葉を攻撃していた女生徒達であった。

 気を失って倒れている友人の傍に駆け寄り、その身体を揺すりながら半狂乱になって叫ぶ姿を見る限り、我を取り戻したとは言えないのかもしれない。そして、そのように取り乱した思考で辿り着く答えは、既に常識とは掛け離れた物になるというのは自明の理である。


「……八瀬さん、何をしたの?」


「……呪い?」


 その二人の女生徒の片方が発した言葉が、静まり返った教室内に響き渡る。恥ずかしながら、私はその言葉を聞いて、ようやく我に返ったと言えるだろう。それぐらい荒唐無稽な物だったのだ。

 だが、本来であれば、馬鹿馬鹿しいと鼻で笑える言葉なのだが、ここ数日で私の身に起こった出来事の数々や、先程までに見た女生徒の末路を思えば、頭ごなしに否定が出来なくなるというのも事実である。そして、私の席よりも近くから見ていた生徒達であれば、より強くそう感じていた筈であった。

 どれ程に荒唐無稽な物であっても、事実無根の物であっても、それを信じる者が多ければ、それは事実として定着し、入れ替わる。


「いやぁぁぁぁ!」


「の、呪われる!」


 半狂乱になった二人の女生徒は、まるで何かに操られているかのように、教室を飛び出して行く。先程まで心配していた筈の友人を置いて飛び出して行った二人に放心状態になった教室内は、再び奇妙な空気に包まれた。

 八瀬紅葉が、何も言葉を漏らさずにふらりと立ち上がる。それと同時に、周囲の生徒から一斉に机と椅子を動かす音が響き渡った。出て行った彼女達の発した妄言は、既にこの教室内では公然の事実となっており、この教室にいる全ての生徒の瞳に、八瀬紅葉への恐怖が宿る。だが、当の本人の瞳にもまた、恐怖に近い怯えの色が宿っており、周囲の自分に対する態度と、空気に戸惑いを覚えているようでもあった。


「おい、八瀬」


「ひっ」


 その怯えは、先程空気を一掃した男子生徒が発した僅かな声掛けによって爆発する。

 ただ、名前を呼び掛けただけ。だが、それは彼女にとって地獄からの呼び掛けのようにも聞こえたのかもしれない。先程までの怯えを通り越した明確な恐怖に彩られた瞳は、焦点を合わせる事無く虚空を彷徨い、自身の座っていた椅子に蹴躓きながら教室を飛び出して行った。

 この空気を生み出した元凶と言っても過言ではない彼女が教室を飛び出して行っても尚、異様な雰囲気は消える事はないが、先程まで張り詰めていた静寂は破られ、教室は騒がしい程のざわめきに包まれて行く。各自が勝手に話し、そこには身勝手な憶測が入り込み、膨れ上がっていた。

 八瀬紅葉という一人の女生徒を揶揄し、愚弄する。最早、そこに人間に対しての尊厳の確保という物さえも見つける事は出来なかった。

 聞くに堪えない程の言葉の数々に私は眉を顰める。その行動自体が身勝手な行為である事は承知しているし、八瀬紅葉という女生徒をここまでの状況に追い込んだ原因は自分であるという事を理解していても、それを囃し立てるこのクラスの生徒達に覚える不快感を否定する事は出来なかった。


「神山」


「え?」


 顰め顔をしていた私は、八瀬紅葉の座っていた席近くに視線を動かした時、そこに未だに立っていた丑門君と目が合う事になる。そして、目が合った事を確認した彼は、何でもない事のように私の苗字を口にした。

 突然の事に素っ頓狂な声を上げてしまった私とは別に、彼の言葉は騒がしかった教室を一瞬の内に静めてしまう。張り詰めるような静寂が広がる中、彼がもう一度私の苗字を呼び、片手を上げて手招きをした。


「この子を保健室に運ばないといけないから、俺の背中に乗せるのを手伝ってくれないか?」


「え? あ、うん」


 彼に近寄った私は、そんな彼の言葉に反射的に頷いてしまったが、この教室に居る生徒達にとっては、衝撃的な言葉であったのだろう。周囲から息を呑むような音が聞こえて来た。

 そんな周囲の反応を気にする素振りもなく、彼は近づいた私の前に屈み込む。だが、正直、私一人では倒れ伏した女生徒一人を彼の背中に乗せる事は不可能であり、それを理解した彼はもう一度立ち上がった。

 女生徒に触れるという事を躊躇いながらも、彼はその両脇に手を差し入れ、持ち上げるように椅子へ一度座らせる。そして、椅子に背中を向けて屈んだ彼は、私へ目線で合図を送った。

 私は、ゆっくりと女生徒の身体を動かし、彼の背中へ彼女が倒れ込むように支える。その間、周囲のクラスメイト達は誰一人手伝おうとはせず、声さえも掛けて来る事はなかった。


「神山も行くか?」


「え? う、うん」


 この時の私は、壊れた人形のように同じ返答を繰り返していたと思う。それ程にこの一連の出来事は衝撃的な事であったし、それはこの教室に居た全ての生徒達も同様だろう。そんな状況の中でも、唯一冷静であったのは、丑門統虎という一人の男子生徒だけだったのだ。

 今から思えば、それは異常な事だと思う。八瀬紅葉という女生徒とそれを揶揄した女生徒の間で起こった出来事は、決して日常であり得るような物ではない。突然首を絞められたかのように苦しみ出し、抗う事の出来ない力で持ち上げられたように人間が宙に浮かぶなどという事は、現実ではあり得ない出来事であり、怪奇現象に近いだろう。

 この教室に居るほとんどの生徒はそれを目撃し、その異常性を理解している。それでも、間近で見ていた筈の彼に動揺がないという事により、この異常な空間を共有していた者達はパニックに陥る事はなかったのだ。

 だが、その余韻は確かに残っており、既にホームルームが始まる時間が迫り、担任の教員が来るであろう時間にも拘らず教室を出た私達へ声を掛ける人間など誰もおらず、異様なまでの静けさが教室内を支配していた。





「呼吸も落ち着いているし、大丈夫だとは思うけれども……」


 現在、ベッドに女生徒を寝かせ、私はその横で彼女の脈を取っている。ベッド脇にあった丸椅子に座った私の後方で、丑門君は立ったままその様子を見ていた。

 彼女を保健室へ連れて来た時、この場所には確かに女性の養護教諭が居たのだが、入って来た私の後ろから入って来る彼と、彼の背中で意識を失っている女生徒の姿を見比べた後、面倒ごとは御免とばかりに、理由を付けて保健室を出て行った。

 残された私達は、専門的な知識もなく、女生徒をベッドへ寝かせて様子を見る事しか出来ない。保健室にあった綺麗なタオルを濡らして彼女の額に乗せ、肌を湿らす汗を拭ってやる事しか出来なかったのだ。

 通常の怪我などであれば、養護教諭を引きとめ、是が非でも病院へ向かわせる所ではあるのだが、彼女の首筋に未だに残る痛々しい手形のような痕が彼女の身に起きた事の異常性を物語っており、彼女を表に出す事を私達に躊躇わせていた。


「でも、あれは何だったの? 何故、丑門君はあの場所に居たの?」


「ああ……うん、まぁな」


 今頃になって、私の身体を先程の恐怖が襲って来る。小刻みに震えて来た手の先の振動は、徐々に身体全体に広がって行き、私はそれを隠すように自分の身体を抱いた。

 正直に言おう。私は今、ベッドで横になっている彼女の首を絞め、持ち上げていた者を見た事がある。最初は何も見えなかった。突如苦しみ出した彼女の首に手形のような物が浮かび上がり、その身体が持ち上がった時もまだ何も見えはしなかったのだ。

 だが、濃密な死の香りを感じたその時、私の目には彼女の首を両手で絞めながらも、こちらを向いて歪んだ笑みを浮かべるあの女性を見る事になる。それはあのベンチで見た裸婦であり、保健室の前で見た者であった。

 その時の恐怖を思い出し、私の身体が悲鳴を上げている。生者としての本能が鳴らす警笛が身体の隅々に届き、その活動を抑制しているように、私の身体は命令を受け付けない肉塊になってしまっていた。


「今回の黒い影は、嫌にはっきりしていたな……。女のようでもあったし、化け物のようでもあった気がする」


「やっぱり!」


 私の問いかけに曖昧な返事をしていた丑門君であったが、一向に震えの止まらない私を見て、頭を掻きながら何でもない事のように口を開く。私の恐怖を増幅させないように気を遣ってくれているのだろう。出来るだけ軽く明るい声で発してくれたその言葉であったが、私が見た者と同じである事を感じた為、私は過剰なほどに反応してしまった。

 それを見た彼は、明らかに失態を犯したというように顔を顰め、勢い良く振り向いた私の目を避けるように顔を逸らす。だが、今の私はそんな彼の行動を許す事が出来る精神状態ではなかった。

 彼の目線を追い、回り込むように彼を睨み付けると、観念したように彼は溜息を吐き出す。


「まぁ、暫くは大丈夫じゃないか? 蹴り飛ばせたからな……」


「は?」


 しかし、彼が溜息と共に吐き出した言葉は、恐怖と緊張によって身構えていた私の心を行き場を失わせるような物であった。

 何を言っているのか理解に苦しむというような物ではない。何語を話しているのかさえも理解出来なかった。もしかすると、彼が話しているのは『黄泉語』と呼ばれる、死者の国の言葉ではないかとさえ思ってしまったのだ。

 それぐらい、常識の範疇を逸脱した内容。教室に居る全ての生徒達が視認出来ない物を蹴り飛ばしたなど、最早、彼の存在自体が異常としか言えない物だろう。


「影を払おうと蹴ったら、確かな感触と共にゴミ箱まで吹っ飛んだからな……。多分、蹴り飛ばせたんだと思う」


 この人は馬鹿なのだろうか。いや、馬鹿なのだろう。もしかすると、阿呆なのかもしれない。日本語を話して欲しい。せめて、この世界で生きる者達が理解出来る内容を、理解出来る言語で語って欲しいと思った。

 世の中には、中学二年生ぐらいの年の頃に持つ『自分は特別だ』と思う気持ちを持ち続ける病気があると言う。もしかすると、彼もまたそんな病気に苛まれている一人なのかもしれない。そう考えると、彼を痛ましく思った。


「本当だぞ。俺も信じられないけど、確かに感触はあったし、ゴミ箱自体も吹っ飛んだだろう?」


 痛ましい瞳で見つめる私を前に、居心地が悪くなった彼は弁明を始めるが、その一言一言が尚更痛ましく思える。

 確かに、あの時の彼の動きは誰かを蹴るような仕草であったし、その直後に黒板の横にあるゴミ箱が扉の方へと吹き飛んだ。それは間違いがない。だが、その理由が、誰も見る事の出来ない者を彼が蹴り飛ばしたからと言われて、『はい、そうでしたか』などと納得出来るような物でもないだろう。

 呆れるように溜息を吐き出した私を見て、彼は明らかに不機嫌な表情へと変わった。だが、彼の言葉を聞いて、『わぁ、凄い!』などという反応を返せるのは、それこそ小学生の低学年ぐらいまでであろう。


「ストーカーともなると、そんな事が出来るのですね」


「何でだよ!」


 もし、彼が、私の身体が恐怖で震えている事を気遣ってくれたのだとすれば、その目論見は成功したと言える。私の身体の震えはいつの間にか収まり、口元には笑みさえも浮かんでいた。

 不満そうに憮然とする彼の表情がとても面白く、私の笑みは徐々に大きくなる。くすくす笑いだった物が、先程の恐怖の反動を吐き出すように大きくなり、口元を手で押さえなければ年頃の娘としては恥ずかしい程の笑い声が出てしまいそうであった。


「うっ……」


 私達が騒がしくし過ぎたのか、ベッドで横になっていた女生徒が意識を取り戻す。ゆっくりと覚醒して行く意識と共に、彼女の瞳に保健室の景色が映りこんで行った。

 先程まで身体を震わせていた私が言う事ではないが、彼女は私以上の恐怖を直にその身で受けているという事を私達は失念していたのだろう。彼女の意識が戻った事を確認する為に、無遠慮に彼女へと身体を近付けてしまった。


「きゃぁぁぁぁ!」


 絹を切り裂くような悲鳴とはこのような物なのだろう。耳から入るその音が、直接脳へと叩き込まれ、否応なしに生物の本能を揺さぶられる。再び襲って来る恐怖に、私の身体は硬直し、小刻みに震え出した。

 半狂乱になって叫び続ける女生徒へ手を伸ばす事も出来ず、私は胸の前で手を合わせ、その姿を見つめる事しか出来ない。彼女の瞳は本当に私達を映しているのかさえも定かではなく、その叫びだけが己の身を守る唯一の術であるかのように続けていた。

 彼女の恐怖が痛い程に伝わって来る。その手を己の喉を掻き毟るように動かす姿は、まるで誰かに首を絞められている事に抗っているようであった。


「大丈夫だ! もう大丈夫だから! もう誰もお前の首を絞めたりしていないから!」


 何も出来ない私の横をすり抜け、今まで近寄らないようにしていた彼が彼女の手を喉から剥がし、押さえ付ける。だが、それでも暴れる彼女の肩をベッドへと押し付け、何度も何度も繰り返す彼の言葉は、彼女へは届いていなかった。

 彼女に掛けられていた布団は剥がれ、剥き出しになった足が振り抜かれる。その足がベッドの傍で呆然としていた私の腹部に突き刺さり、蹲った所にもう一方の足が襲い掛かった。

 咄嗟に丑門君が身体の位置を替え、辛うじて顔面を蹴られる事はなかったが、その足先が鼻に当たり、あの独特の感触が鼻の奥から湧き上がって来る。


「な、何があったの!? あ、貴女達、何をしているの!?」


 そんな最悪の状況で、無責任な養護教諭が戻って来る。未だに狂ったように叫び続ける女生徒を、力尽くで抑えつける男子生徒。そしてその横には、鼻から血を流し始めた私が居るのだ。これ程に異常な光景はなかなかないだろう。

 案の定、その養護教諭は勘違いしたらしく、慌てたように叫び声を上げ、そして自分の手には余ると感じたのか、職員室へと走って行った。


「……う、丑門」


 養護教諭が消え、その慌しい足音さえも聞こえなくなった頃になって、ようやく女生徒が正常へと戻って行く。虚ろだった瞳に光が戻り、先程とは異なった恐怖の色が宿り始めた。

 半狂乱になるような理解出来ない恐怖から、現実に目の前に居る者への恐怖。それは同じように見えても、全く異なる種類の物であろう。小刻みに震えている身体が新たに感じている恐怖を明確に物語っていた。


「もう大丈夫そうですね。今日はもう、帰られた方が良いと思います。帰ってゆっくり休んで下さい」


「あっ……神山…さん?」


 恐怖で固まった女生徒と丑門君の間に割り込むように入った私は、彼に彼女の鞄を取って来るようにお願いし、彼女に帰宅を促す。ようやく私の存在に気付いた様子を見せる彼女は、丑門君が保健室を出て行った事で落ち着きを取り戻したのか、私の言葉に壊れた人形のように何度も首を縦に振った。

 彼女にとっても、渡りに舟の提案だったのだろう。あのような怪異に巻き込まれては、この学校で過ごしたくないと思うのは仕方がない。即座のベッドから降りた彼女は、もどかしそうに靴を履き、鞄などどうでも良いと言わんばかりに外へ飛び出して行った。


「え? あれ? 鞄は?」


 残された私は、ただただ呆然と保健室の入り口を見つめる事しか出来ない。だが、嵐のように去って行った彼女であったが、嵐はまだ終わる事はなく、入れ替わりに入って来た養護教諭と教員数名によって、私は拘束されるのであった。

 そして、そんな拘束時にあの女生徒の鞄を持った丑門君が登場した事によって、事態は加速度的に変貌し、ようやく私の説明に納得し始めていた教員達がパニックを起こしたように騒ぎ立てる。

 色々と事態が動き出し、これから始まる恐怖の下積みが出来上がった日は、慌しく暮れて行くのであった。



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