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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第一章 鬼気迫る
6/34

其の伍




 私は、この日初めて、男性という性別を持つ者達の戦いを見た。

 喧嘩慣れというべきなのか、その争いは小学生の物とは次元の異なる物であり、最早、格闘技の試合を見ているようでありながら、それよりも獣くさい物であった。

 そして、それと同時に私を護るように立つ『丑門統虎』という男性の異常性も際立つ。正直、私は彼を見誤っていたのかもしれない。

 確かに、襲い掛かって来た四人の他校生は、お世辞にも格闘家とは言えない動きではあるが、それでも女性の私からすれば脅威である。それにも拘らず、彼は一切揺らぐ事なく、四人の男子生徒を翻弄していた。


「ぐっ」


 そして、初めて振り抜かれた彼の拳は、先頭を切って襲い掛かって来た一人の男子生徒の顎を正確に打ち抜く。何処か間の抜けたような苦悶の声を漏らしたその他校生は、まるで釣り糸が切れた人形のように、そして身体の全ての間接が硬直してしまったように、両足を揃え、手を真っ直ぐに下げたままコンクリートの地面へと倒れて行った。

 このままでは頭部をコンクリートに強打してしまうと思った私は、思わず両手で目を塞いでしまう。無責任な行動であると今ならば思うが、あの時は初めて見る男性同士の争いに混乱していたのだ。

 だが私の心配は杞憂に終わり、その他校生がコンクリートに頭を打つ事はなく、自分に向かって倒れて来るそれを丑門君が受け止めていた。


「まだやるのか?……って、なんだか引きそうにないな」


 僅か一発の拳で人一人の意識を刈り取ってしまった彼が凄いのだろうが、その凄さの度合いは私には解らない。彼が茶化すように口にしていた私の張り手では、女性と一人の身体を少し飛ばす事は出来ても、その意識を刈り取るような事は出来ない。そもそも、そんな肉体的な暴力を常に振るっていた訳ではない私にその違いなど解ろう筈がないのだ。

 だが、彼の凄さというのは、私のようなか弱い女性から見れば理解出来ない程の物であっても、同じように肉体言語を使用する男子生徒にすれば、それ程の物ではないのかもしれない。意識を刈り取った他校生の身体を転がした丑門君が、残る三人の他校生へ視線を向けた時には、既に彼らの振るう拳は丑門君へと迫っていた。


「面倒くせぇな」


 しかし、心底面倒くさそうに振るわれた拳を肩で弾くように防いだ彼は、そのままその男子生徒の鼻目掛けて拳を突き出す。鼻が潰れるような音が鳴り、その男子は道路と家屋を隔てるブロック塀に背中を打ち付けた。打たれた鼻からは真っ赤な血液が流れ出し、そのままずるずると座り込んで行く。

 そんな姿に意識を向ける事なく、丑門君は、二人同時に襲い掛かって来た男子生徒の一人の足目掛けて右足を振り抜いた。何とも形容し難い不快な音を立てて、足を蹴られた男子生徒はコンクリートの地面へ座り込むが、先程鼻血を出した男子生徒が突き出した拳が丑門君の頬に突き刺さる。そして、もう一度不快な音を立て、丑門君の口から赤い血液が飛び散った。


「っ!」


「……いってぇな」


 正直に言おう。

 私は、初めて見る『雄』同士の争いに、恐怖し、言葉を失っていた。そして、それと同時に、いや、そんな恐怖よりも大きな感情によって、私はそれに魅入られていたのかもしれない。

 世の中に格闘技が好きな女性は多くいるだろう。前の学校でも、ボクシングファンのクラスメイトや、プロレスファンのクラスメイトなども少数ではあるが存在していた。だが、そんな気持ちが私には全くと言って良いほどに理解出来ない物であったのだ。

 汗臭く、血生臭く、何処か汚らしく思えるその姿に、嫌悪感さえも持っていたと言えるだろう。今思えば、知りもしない世界について、勝手な先入観と偏見で決め付けていたのだと思う。それ程に、私は今、目の前で繰り広げられている光景に恐怖し、怯え、そして魅了されていた。

 雌は、強い雄を欲する。それはどれ程に歴史を重ねようとも、生物としての本能の中に植え付けられている感情なのだろう。普段はそれを理性で覆い隠していても、やはり、私も性別上は女なのだ。


「鬱陶しいな!」


 自身が傷つけられた事で何かのスイッチが入ったように表情を変えた丑門君は、自分を殴った相手の顔面に裏拳を叩き込み、先程地面に膝を付いた方の男子生徒の顔面に膝を突き入れた。

 膝を顔面に受けた方は、鼻血を噴出し、そのまま地面へと倒れ伏すが、裏拳を受けた男子生徒は、そのまま丑門君へと掴み掛かる。そのまま力任せに彼をブロック塀へと叩き付けた男子生徒は、彼の腹部に向かって右足を突き出した。

 腹部に蹴り入れられた足には相当な力が込められていたのだろう。丑門君は身体をくの字に折り、口から大きく息と共に体液を吐き出した。その中には若干の血液も混ざっていたので、先程の攻防で口の中も切れてしまっていたのだろう。

 そんな男同士の壮絶な戦闘に魅入られていた私は、相手になる他校生の正確な人数を忘れていた。最初に丑門君の一撃で昏倒したのが一人、足を蹴られ、地面に膝を付いたところに膝蹴りを受けて倒れたのが一人、そして今、丑門君の腹部を蹴った人間が一人。計三人である。しかし、この場に現れた人数は四人。


「死ねぇ!」


 残る一人の声が閑静な住宅街に響き渡る。よくよく考えれば、このような閑静な住宅地に人が一人もいないという事自体が可笑しいのだが、それが偶然だったとしても、これだけの騒ぎを起こして尚、誰一人顔を出す事もないという事が異常であった。

 そんな場違いな方面に思考が飛ぶほどに、私の目の前に見える光景は受け入れ難い物であったのだ。

 目を血走らせ、奇声のように呪詛を吐き出して迫って来る他校生の手には、鉄パイプのような太い棒状の物が握られており、その血走った目は私以外を捉えてはいない。そこから導き出される答えは、彼の狙いが私であり、その鉄パイプのような物で私を殴り倒す事が目的であるという事。そして、それが成された場合、彼が発する呪詛が現実となり、私は確実に死に至るであろうという事実であった。


「!!」


 恐怖であった。

 あの正体不明の黒い物を見た時のような背筋が冷たくなるような物でもなく、体育教員を見る丑門君が発した圧迫感のような物でもない。それは純然たる死への恐怖。

 普通に暮らしていれば感じる事のない痛みと、苦しみへの恐怖である。身は竦み、足は震え、瞳孔は開き、噛み合わない歯が鳴っていた。スローモーションのように流れる景色が現実とは思えず、私は目を瞑る事もなく、只々、迫って来る鉄パイプを凝視する事しか出来なかった。


「ぐっ」


 しかし、結果だけを言えば、その鉄パイプが私の頭を割る事はなかったし、私の身体に届く事さえなかった。

 勢い良く振り下ろされた鉄パイプは、私の前に強引に入って来た一人の男性の背中を強打し、不快に感じるような音を出す。見開かれた私の瞳の中に、苦痛に歪む丑門君の顔が入り込んでいたのだ。

 まるで抱かかえるように私の前に立った丑門君の耳の後ろから赤黒い血が流れている。鉄パイプが背中を打つ時に、そのささくれ立った先端部分で切れてしまったのだろう。私は何かを言おうと口を開くが、感じていた恐怖と、現状への混乱によって言葉が出て来なかった。

 その時の私は相当な表情を浮かべていたのだと思う。恐怖によって歪み、混乱によって引き攣り、安堵によって涙さえも流していたかもしれない。瞬きなど出来る訳もなく、目の前で苦痛に歪む彼の顔を凝視していたと思う。

 そんな私の身体を離した丑門君は、苦痛に歪んでいた顔を小さな笑みに変え、私の頭にそっと手を乗せた。撫でられた訳ではない。ただ、手を頭に乗せられただけ。それは小さな子供を安心させる為にするような何でもない所作であった。

 しかし、その笑みは安堵とは程遠い感情を私に植えつける事となる。笑みを消し、私から顔を背けた彼の背中が、この場所に居てはいけないとさえ感じる程の圧倒的な恐怖を齎していたからだ。


「ごぶっ」


 再度振り上げられた鉄パイプが振り下ろされるよりも早く、丑門君が相手の顔面に頭突きを繰り出す。正確に打ち抜かれた相手の鼻から盛大に血が噴出すが、丑門君が止まる様子は微塵もなかった。

 よろめく他校生の顎を打ち抜き、倒れこんだ所を上から蹴り付ける。その姿に容赦など存在せず、憎しみさえも感じる程に荒々しかった。彼の足が地面へと振り下ろされる度に、他校生の苦悶の声が漏れ、手から鉄パイプを零して身を守るように身体を丸くする。そこに見える光景は、既に雄同士の闘争ではなく、一方的な断罪に近い物であった。


「弱い者を狙ってんじゃねぇよ!」


 先程までの私とのやり取りは何だったのだろうとさえ思える丑門君の変貌振りに、私の身体は硬直したように動かない。それは鉄パイプという脅威に晒された時とは異なる恐怖である、明確な本能が鳴らす警笛に近い物であった。

 『怖い』ではなく、『恐ろしい』。潜在的な何かを揺り動かすようなそんな恐怖が鎖のように私を縛りつけ、根を下ろしたように私の足を固定する。今までの、女性としての本能をくすぐられるような強さ、逞しさではなく、動物としての本能を呼び起こすような危なさとおぞましさであったのだ。

 だが、それでもこのまま放置する訳にはいかない。それは、本能ではなく私の理性が導き出した答えであったのだろう。何が彼の逆鱗に触れたのかは理解出来なくとも、今の彼が理性を飛ばしてしまっている事だけは理解出来る。それの原因となったのが自分である事も容易に想像出来る以上、この場を収めなくてはならないのも自分であるのだ。


「う、丑門君! もう駄目! それ以上は駄目!」


 私自身、その時、どんな言葉を発したのかを憶えていない。震える足を無理やり動かした私は、まともに歩く事さえも出来ず、何かに躓いたように彼の背中に倒れ込み、その身体にしがみ付いた。

 不意に圧し掛かった重みに多少よろめいた彼は、蹴り入れるために振り上げていた足を地面に付いてバランスを取る。それによって攻撃も止み、身を守るように丸まっていた他校生も身を逃がすように彼から距離を取った。

 その頃には、丑門君に倒されていた内の二人が目を覚まし、ふらふらとしたブロック塀に手を掛けて立ち上がる。丑門君の背中にしがみ付きながらそんな二人を見た私は、少し違和感を覚えた。

 未だに小刻みに震える足で立ち上がった二人の他校生には、先程まで有った『鬼気迫った』姿がない。それこそ、何故自分がこのような時間に、このような場所に居るのかさえも理解していないように、呆然とした表情を浮かべていたのだ。


「おい……。この事は追求しないから、転がってる二人を連れて帰れよ」


 違和感を覚えても、それが何かという明確な答えは導き出せず、男性の大きな背中にしがみ付いたままの私は、未だに呆然としている他校生達に向かって告げた丑門君の言葉で我に返った。

 同じように、ようやく自分達の傍で仁王立ちしている人物の存在に気付いた他校生達は、先程までの困惑という表情を一変させる。真っ青を通り越し、真っ白に近い顔色になった彼等は、慌てふためきながらも意識を失ったままの二人を起こし、そのまま逃げるように去って行った。

 謝罪の言葉も、襲って来た理由も口にする事無く、我先にと逃げて行く他校生の背中に怒りが湧いて来るが、あそこまで徹底的に殴り倒しておいて、『追求しない』という被害者側の言葉を口にする丑門君も相当であると思った。そして、私もまた、彼側に立っている以上は同罪であり、むしろ原因であるという可能性を考えると、主犯に近いだろう事に思い至り、溜息を吐き出す。


「な、何だったのでしょうか?」


「神山を襲いに来た事は確かだと思うけど、それが八瀬の指示なのかというと、疑問だな」


 確かに、彼等の行動を見ると、私を襲って来たという事実だけは揺るがないだろう。だが、あの襲い方は、とても高校生の出来る事ではない。最後には明らかに私を殺害しようとしていたのだ。

 例え、交際している女性が依頼したとしても、只の高校生が殺害という行為を行うとは思えない。それを実行に移す事がどれだけのリスクを齎すのかを理解出来ない年齢ではないだろうし、もしそのリスクを無視出来る程の指示であったというのであれば、それを指示した人物にどれだけの魅力があるのかという次元の話だ。

 殺人という行為は、世界中共通の禁忌である。意識が薄れたなどという報道が近頃多くなっていたりするが、全国的に見た殺人事件の数自体は数十年前よりも少なくなっているというのが事実であり、禁忌であるという事には変わりなかった。


「あっ! 丑門君、大丈夫!? ご、ごめんなさい、私のせいで……。私の家で手当てをするわ」


「ん? ああ、いいよ、このくらい。それよりも、そろそろ離れてくれない?」


 色々と考え込んでしまっていた私も、ようやく現状に思考が戻る。すると、目の前に見えた丑門君の耳の下から結構な量の血が流れ、学生服の下に来ているワイシャツに染みを作っている事に気付いた。

 溢れて来る罪悪感。この状況は全て私の責任であり、他校生の狙いも私であり、それに巻き込まれる形で彼が怪我をしたのも私の責任である。そう考えると、申し訳なく思うのは当然だろう。

 彼の首筋に伝う乾いた血液がどす黒い色へと変化しているが、その上から真新しい真っ赤な液体が重なるように流れ落ちているのを見る限り、傷口は塞がっていない。早く消毒し、手当てをしなければという思いから自分の家へと誘おうとするが、この時の私は未だに混乱から抜け出せていなかったのだろう。

 どこか呆れたような口調で丑門君が発した言葉で、自分の状況がどういうものかをようやく理解する事になる。

 彼を押さえ、正気に戻す為とはいえ、私は彼の背中に抱きつくような形でしがみ付いていたのだ。そして、それは今も変わらない。ということは、女性である私が男性に抱きつきながら我が家へと誘っているという構図になる。どれ程に私は破廉恥な女子高生なのだ。


「ち、違うの! ご、ごめんなさい! そういうのではなく、いえ、あの、手当てをしなければならないのは本当で! で、でも……」


「ふっ……あはははははは」


 この時の私の混乱具合は、思い出したくもない。慌てて彼の背中から身体を移動し、身振り手振りを加えて誤解を解こうとするが、その顔は真っ赤に染まっていた事だろう。漫画やアニメなどであれば、私の黒目はぐるぐると渦を巻いている絵になっていた筈だ。

 そんな私の混乱振りに、丑門君は堪え切れないというように大きな声で笑い出す。そこに先程までの圧力など欠片もなく、年相応の男の子が、腹を抱えて笑い転げる姿しかなかった。

 徐々に冷静さを取り戻していった私は、その笑い声に怒りが湧き上がって来る。五百歩譲って、彼が怪我をしたのは私の責任だとしても、『送って行く』という提案をしたのは彼であり、男性が女性を送って行くのであれば、その道中は男性が身を挺しても女性を護るべきなのだ。うん、私は悪くない。この怪我は、彼が私を護った勲章であり、彼はそれを誇るべきだろう。

 とすれば、私は彼を褒めてやるべきなのかもしれない。


「護ってくださった事にはお礼を言います。か弱い女性を護る事が男性の義務とはいえ、ありがとうございました」


「か、か弱い?……ぷっ、あはははははは」


 しかし、そんな私の必死な虚勢は、どこがツボだったのかは解らないが、先程以上の笑い声に吹き飛ばされる事になる。

 やはり、許すまじ男であろう。いや、これを許してしまっては、女性として駄目である。絶対に駄目だ。許さん。

 私がか弱い女性でなくて、何だというのか。そんな思いを込めて、私は思い切り彼の脛をローファーの靴の先端で蹴り付ける。結構な力を込めた為、相当な痛みがあったと思うが、それでも彼は蹴られた片足を上げながら、尚も笑い続けた。

 もう一撃必要なのだなという問いかけの視線を送り、再度蹴りを繰り出すが、その一撃は簡単に避けられる。それがまた悔しく、何度か蹴りを出すが、彼は大声で笑いながら軽々と避け続けた。


「もう良いです! とりあえず、そのままでは化膿してしまう可能性もありますから、手当てをしますよ!」


「あはははは……大丈夫だって」


 未だに笑いを収めるつもりもなく、私の好意を無碍に断ろうとする彼に、私は振り向き様に右足を振り抜く。既に背中を向けていた事もあり、その行動が予測の範疇にはなかったのだろう。私の右足は鋭く彼の左足太腿を抉った。

 自分の想像以上に力が込められていた右足は、彼の太腿に直撃すると共に大きく乾いた音を立てる。ハリセンで叩いたようなスパーンという小気味良い音とは反比例した痛みが彼を襲ったのだろう。笑い声は止まり、息が詰まったような呻き声が聞こえた。


「さ、流石にやり過ぎじゃないか? 笑った事は謝るけど……とんでもなく、痛いんだけど……」


「だ、だって……。と、とにかく、手当てをするから!」


「耳の傷よりも、湿布が欲しいよ……」


 他校生との喧嘩の最中は、殴られても蹴られても痛がる素振りをしなかった丑門君が、今は太腿を手で押さえながら前屈みになっている。気のせいか、額からは脂汗のような物を流しているが、きっと耳の傷が痛むのだろう。そういう事にしておこうと思う。

 私の家がある神社へ向かって歩き出すと、何やら不満げな声が後ろから聞こえるが、聞こえなかった事にすると、何かに諦めたのか、彼は黙って私の後を着いて来た。

 この場所から、『南天神社』と呼ばれる家まではそれ程距離はない。既にここからでも神社のある山は見えているし、赤い鳥居も見えている。昨日とは異なり、私の背に圧し掛かるような暗い圧力もなく、私の足取りは軽かった。


「神山は、前の学校でスケ番とかだったのか?」


「はぁ? 何ですか、それ? というか、この時代に『スケ番』? 死語というか、何というか、丑門君は実は60年前からのタイムトラベラーですか?」


「60年も前じゃねぇだろ!」


 かなり渋っていたが、私の家に行く事を受け入れたのか、私の隣を歩き出した彼が口に出した言葉に、『むっ』と来た私は、意趣返しでもするように挑発を口にする。このような軽口のやり取り自体が本当に久しぶりな事もあり、無意識に口が良く回った。

 しかし、この丑門という男子生徒は、本当に失礼な人間だと思う。この私を、既に死語というか、存在すらも確認出来ない、絶滅種だと言うのだ。そもそも、『スケ』という言葉が、女性への蔑視語である。誕生時はそのような意味はなかったが、時代の流れで、好色な女性を指す言葉になったり、余り良い意味で使われる事はなかった。そんな女型番長を指す言葉がスケ番なのだが、元々『番長』とは、護衛などの統率者を指す手前、武芸に秀でる者でなければならない。つまりは強い者だ。

 この私を、触れれば折れてしまいそうな可憐な花である私を、強い者だと彼は言うのである。


「そもそも、か弱い乙女に向かって、『番長ですか?』とはどういう了見なの?」


「いや……か弱い乙女は、人を吹き飛ばす張り手も、鋭いローキックもしないと思うぞ」


 調子が狂う。確かに、八瀬さんという女生徒を叩いたのは私であるし、彼の太腿を蹴ったのも私である。だがそれでも、私は声を大にして言おう。『私は可憐な女性である』と。

 『さっきの奴らに殴られた時よりも痛かった』という小さな声は、私の耳には届きはしない。聞こえたけれど、届いてはいないのだ。

 無視、徹底的に無視である。忍び笑いのような小さな笑い声も、聞こえはするが届きはしない。


「まぁ、番長というよりも、裏番みたいな感じか……」


「いい加減、失礼ですよ! 何ですか、裏番って? 本当に丑門君は何時の時代を生きているんですか? というか、この町が実は1900年代初頭なの? タイムトラベラーは私なのかしら……」


「……1900年代初頭って、江戸時代が終わったばかりだぞ?」


 馬鹿馬鹿しいやり取りであろう。いつもの私なら、こんなやり取りはしなかった筈だ。これでは、クラスメイト達が短い休み時間に交わす意味のない会話のようである。だが、それでも、私は楽しかったのだと思う。それ程に、このときの私は、自分でも気付かない程に消耗していたのかもしれない。

 嫌気が差すような学校という小さく狭い社会。そしてそんな小さな社会の中で起きた本来であれば小さな出来事。それが自分の想像を超える程に大きな問題となり、命の危機さえも感じるような度重なる恐怖が、私の心を少しずつ蝕んでいた。

 だからこそ、こんな何気ない会話が楽しかったのかもしれない。何も考える必要もなく、何に遠慮する事もなく、只々思いついた事を口にするというそんな会話が笑みを齎すほど楽しかったのだ。


「江戸時代は、1867年の大政奉還で終わっていますから、1900年代初頭は、江戸から既に50年近く経過しています。明治も終わり、大正に入っている頃ですよ? 来週の試験は大丈夫ですか?」


「知ってるわ! 1912年に始まった大正の時代に、学校に番長なんかいねぇだろ!」


 あら意外。大正時代の始まりの年号まで覚えているなんて、なかなか博識なのですねと笑う私に、今度は丑門君が『むっ』と表情を歪める。こんなにくだらない会話が楽しいと感じたのは、いつ以来だろう。もしかすると生まれて初めてなのかもしれない。

 小さな笑い声を発しながら歩いていると、ようやく神社の境内へと続く階段の入り口へと辿り着く。しかし、私はそこで視界に入った女性を見て、急に恥ずかしくなってしまった。

 階段の麓では、買い物袋を持った一人の女性がこちらを見て、にこにこと微笑んでいる。既に老齢に差し掛かっているその女性は、年齢相応の皺を顔に浮かべながらも、正確な年齢が解らない程の柔らかで優しい笑みを浮かべ、私達が近づいて来るのを待っていたのだ。


「あら、深雪ちゃんが笑っていると思ったら、一緒に居るのは虎ちゃんじゃない」


「お祖母ちゃん……え? 虎ちゃん?」


 恥ずかしさで顔を赤くしながらも、踵を返して離れる訳も行かず、仕方なく階段まで歩いて来た私に話し掛けて来た祖母は、本当に楽しそうに隣に居る丑門君へと視線を移す。そして、その口から出て来た言葉に、私は首を傾げた。

 神社と丑門君、祖母と丑門君。どちらも全く縁のないように感じる。だが、祖母の口ぶりでは、彼の事を知っているのだろう。それこそ、『ちゃん』付けで呼ぶ程に彼の事を知っているのだ。

 祖母は気難しい人間ではない。誰にも分け隔てなく接し、怒りさえしなければいつでもにこにこと微笑んでいるような付き合い易い人間であろう。だが、誰も彼をも『ちゃん』付けで呼ぶような図々しい人間でもない。それなりに付き合いがなければ、そのような事はしない人間であった。


「ど、どうも、お久しぶりです」


「は?」


 そして、そんな祖母の行動に戸惑う私を嘲笑うかのように、丑門君が遠慮がちに祖母へと挨拶をする。何処かやり難そうに頭を下げる彼の姿が、かなり昔から祖母の事を知っていたという事実を物語っていた。

 ばつが悪そうに手を頭に付けた丑門君は苦笑しながら祖母を見て、そんな丑門君を見て、祖母は優しく微笑みながら頷きを返す。何か私一人が状況から置いて行かれているような気がして、少し不愉快に感じた。

 そんな私に気付いたからなのかは解らないが、祖母は丑門君の首筋を見て、慌てたように声を上げる。


「あらあら、虎ちゃん、怪我をしているじゃない。応急処置ぐらいしか出来ないけれど、うちにいらっしゃい」


「あ、はい。ありがとうございます」


 そして、私の不愉快な気分は、祖母の提案に素直に従った彼の姿を見て増大した。太腿を蹴り抜かねば私の言葉を聞く事もなかったにも拘わらず、何故祖母の言葉には即座に従うのだ。

 確かに、祖母には不思議な力がある。その笑みと声は、何処か他人を安心させるような力があり、それに加え、何故か他人に違和感や抵抗感を覚えさせずに従わせてしまうような力があった。

 本当に、実は長い歴史を持つ神山家という神主の血筋を受け継いでいるのは、祖父ではなく、この祖母だと言われても、どこか納得してしまうだろう。そんな祖母の不思議な力を知ってはいても、彼の対応の違いには不快感を覚えた。


「ほら、深雪ちゃんも」


 既に祖母は百四十九段の階段を上り始めており、それに続いて丑門君もまた境内に向かって階段を上っている。取り残された形になった私は、怒りを含めた視線を彼に注ぎながらも、祖母の後ろを付いて行くように歩み始めた。

 昨日は一歩ごとに身体を重くしていた階段も、今は何かに護られているかのように、清々しい空気に満ちている。階段の周囲に生い茂る木々から漂う青い香りが鼻を擽り、青々と葉を生い茂らせる夏が近い事を雄弁に語っていた。

 柔らかく優しい香りを漂わせながら前を歩く祖母がこの階段を清めているかのように錯覚する。この人の背中に居れば、何を恐れる事もないと思わせる何かが祖母にはあった。


「でも、虎ちゃんも久しぶりね。もう五年ぐらいになるかしら? 一瞬、誰だか解らなかったけど、近くで見たら、昔と変わらなかったわ」


「……すみません」


 何故、謝るのだ。五年も前でとなれば、小学生から中学にあがるかどうかの頃である。その頃から変わっていないと言われれば、人によって怒り出す者もいるぐらいに失礼な物言いであろう。

 俗に言う『天然』気質を持つ祖母の言葉は、不思議な力を持っている。学校全体から忌み嫌われ、喧嘩を始めれば見ていた者まで恐怖に陥れるような男性をここまで萎縮させてしまう私の祖母は、一体何者なのだろう。

 百四十九段の階段を上り切るまで、当たり障りのない言葉を掛ける祖母に、丑門君は恐縮しっぱなしであった。神社の境内にある待機所のような建物の縁側に彼を座らせた祖母は、中から薬箱と手拭いを持って来る。そして、私は祖母に言われて、桶に水を張って持って来た。

 桶の水で手拭いを濡らし、軽く絞ったそれで丑門君の首筋を祖母が拭いて行く。首筋で乾いた血を拭い、凝固し始めた傷口へと手拭いを滑らせた時、私は変な物を見た。


「っ!」


 私が桶に張って来た水は、この家にある井戸から汲んだ水を一度沸騰させた物である。この時代であるから、井戸から汲んだ水をそのまま飲む事はしない。一度煮沸消毒した物を手洗いなどに使用するのだ。

 誤解があるといけないので言っておくが、この家に水道が通っていない訳ではない。だが、井戸というのは、使わなくなれば中の水も腐るし、井戸の周囲にも虫の死骸などが溜まったりして二度と使えなくなる。故に、飲み水や食事など以外には、井戸の水を昔から使用しているのだ。

 古くから続く神社にある井戸だからなのか、それとも山を切り開いて作った場所の井戸だからなのか、この家の井戸の水はとても清らかであった。

 そんな井戸の水で濡らした手拭いで彼の耳の後ろにある傷を拭くと、私の目には、その部分から煙のような湯気が立ち上ったように見えたのだ。だが、それは幻であったのか、瞬時に見えなくなり、祖母は傷口を押さえるように手拭いでその部分を覆い隠していた。


「大丈夫……まだ大丈夫。虎ちゃんなら、まだまだ大丈夫」


「お祖母ちゃん?」


 傷口に布を宛がいながら、何かを呟くように口にする祖母を見て、私は首を傾げる。痛みを堪えるように眉を顰める丑門君と、それを宥める祖母の姿が、現実の物とは思えないように感じた。

 鉄パイプで殴られても、彼はあそこまで痛みに耐えるような表情を浮かべてはいなかった。少し大きめの切り傷だとしても、傷がしみた程度であのように痛がるとは思えない。それはとても不思議な光景であった。


「深雪ちゃん、消毒液取ってくれる? あと、ガーゼと」


「え? あ、うん」


 ゆっくりと、剥がすように手拭いを離した祖母は、呆然と見つめていた私へと声を掛けてくる。その声で我に返った私は、急いで立ち上がり、薬箱とガーゼを持って戻った。

 戻って来た私の手から薬箱を受け取った祖母は、消毒液を取り出し、ガーゼで傷口をふき取るように消毒する。直に塗布した訳ではないが、結構な切り傷に消毒液を掛けた時のあの独特の痛みを知っている私は顔を歪めるが、当の丑門君は平然としていた。

 水で傷口の血液を拭き取る時よりも絶対に痛みは上だと思うのだが、彼にとって、消毒液の方が痛みは薄いのだろうか。


「はい、おしまい」


「ありがとうございました」


 そんな事を考えている内に、手当ては終了していた。大きめに切られたガーゼをテープで止め、手当てをし終えた祖母は、軽く丑門君の背中を叩く。それは、私が幼い頃にも良くしていた行為であった。

 傷の手当をし終えると、その付近を軽く平手で叩き、『おしまい』と口にする。子供の頃は『何故、怪我をしているのに叩くのか』と思っていたが、あの行動と言葉が、不思議と傷口の痛みをいつも和らげてくれていた。

 不思議な力を持っている祖母を、私は何時頃までだったかは忘れたが、『魔法使い』だと思っていた程である。一度、『お祖母ちゃんは魔法使いなの?』と聞いた事があったが、祖母は優しい笑みを浮かべながら、『そうだったら、とても素敵ね』と私の問いを否定したのだ。だが、それでも私は、今でも祖母は魔法使いなのかもしれないとさえ思っている。高校生が考える事ではないのだが、そう思える程に不思議な人なのだ。


「虎ちゃん、幸音ちゃんは元気かしら?」


「っ!!……はい、元気にしています」


 学生服の上着を着直した丑門君に、祖母が何気ない話題のように問いかける。だが、その問いかけは彼の中で何らかの痛みを伴う物であったのか、傷口の手当の時よりも大きく顔を歪め、慎重に言葉を選ぶように呟きを返した。

 搾り出すように出て来た答えが陽も落ち掛けた境内に溶けるように消えて行くと、祖母は柔らかな笑みを浮かべて静かに頷きを返す。彼の奇妙な態度を気にもしていないような笑みが、それ以上追求をするつもりがない事を物語っていた。


「そう。なら、また今度、お菓子を貰いに二人でいらっしゃいね」


「……はい。ありがとうございます」


 しかし、祖母の行動言動も不思議であるが、丑門君の態度の不思議さの方が上である。祖母が不思議であるのは、私が子供の頃から知っている事ではあるが、学校からここまでの丑門君を見ているだけに、祖母の前では借りて来た猫のような姿をしている事が何よりも不思議であった。

 確かに、私の祖母には誰も敵わないと思える程の不思議さはあるが、それは身内である私だからこそ知る事実であり、他人である丑門君がそう感じる必要は何処にもない。だが、彼もまた、祖母の不思議さを知っているかのように振舞っている事が、何処か悔しく、何故か不愉快であった。


「っ!」


「あら? まだ何処か怪我をしているの?」


 手当ても終わり、会話も終了した事で、丑門君が立ち上がる。だが、立ち上がった瞬間、彼は何かの痛みに耐えるような表情を作り、小さな呻き声を発した。

 首筋の切り傷以外に怪我をしているのかもしれないと考えた祖母が問いかける。確かに、あの鉄パイプは、彼の耳の後ろを切っただけではなく、その背中も強打した。背中は頑丈である反面、非常に繊細である。背骨の中にある脊髄を傷つければ、半身不随にさえなる程の物で、私もまた大いに慌てた。

 だが、そんな私の心配は、その後に続いた会話によって、強い怒りへと変わって行く事となる。


「……厚かましいお願いですが、湿布を一枚頂けませんか?」


「湿布? やっぱり背中が痛いの!?」


 祖母に湿布を要求する彼の言葉に、私の焦りは増して行く。だが、静かに首を振る彼の姿に、何やら不穏な空気を感じ、私は目を細めた。

 首を傾げている祖母も、続く丑門君の言葉を静かに待っており、彼の口を止める事は出来ない。必然的に、その後に続く言葉を聞く以外に術はなかった。


「いや、背中よりも、神山に蹴られた左足の方が痛い」


「あらあら、深雪ちゃん、駄目じゃない」


「くぅぅぅ」


 まさか、この場でその事を口にするとは思わなかった。

 やはり、彼はどうしても私を敵に回したいようだ。祖母は困ったように苦笑を浮かべながら、薬箱から湿布を数枚取り出し、丑門君を呼び寄せる。だが、湿布の治療を固辞した彼は、それを受け取ると、深く一礼をした後で階段の方へと歩き出した。

 私が蹴ったのは彼の太腿である為、治療をするのであればズボンを脱がなければならない。流石にこの場所でズボンを脱ぐ気はなかったのだろう。しかし、少し片足を引き摺っているように歩く姿が偽りのようには見えない事から、彼の言葉通り、相当傷むのかもしれない。少し罪悪感を覚えながらも、鳥居を潜る前に振り向いた彼に、私は小さく手を振った。


 正確に言えば、これが私、『神山深雪』と彼、『丑門統虎』との出会いである。

 その後に続く、奇妙な巡り合わせの始まりでもあった。




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