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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第四章 吸血鬼
35/35

其の伍



 翌朝、私は祖母の言いつけ通り、祖母から貰った巾着袋を制服のポケットに入れて家を出る。最近は私が家を出ようとすると、慌てて食事を平らげて、有威がランドセルを背負う姿を目にする。小学校への登校には早い時間なのだが、それでも私と一緒に登校したいという想いが見え隠れしていてとても微笑ましく、少し意地悪をしたくなってしまう。

 有威が昨日の搬送された女性のニュースに目を向けながら朝食を食べている隙をついてそっと居間を出る。自分の部屋から鞄を取って玄関に向かい、『行ってきます』と声を掛けると、居間の方から『あっ、おねえちゃん待って!』という叫び声が聞こえ、そんな有威を窘める祖母の声が聞こえる。


「境内で待っているから、慌てなくても良いよ!」


「す、すぐに行くから、待っててね!」


 居間の方に声を掛けると、それ以上に大きな声が返ってくる。意地悪をしてしまい申し訳ない気持ちもあるが、やはり可愛らしい有威の行動に自然と頬が緩んだ。私自身、ずっと一人っ子であった為か、小さな妹のような存在が煩わしい事は全くなく、本当に可愛く思っているのだ。

 境内に入り、一度二の鳥居を潜り直して参道の端を通って手水舎に行く。作法通りに水で身体を清め、拝殿へと進む。二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)にて参拝を行った。

 私がこの町に来る前は、参拝する事など皆無に等しかった。二年参りなどした事はなかったし、初詣さえもしていなかったように思う。私が育ってきた土地にも、地主神様はいらっしゃったと思うが、知っていて伝える者が誰もいなかった。

 昔は、子が別の土地で暮らし始める時に、その親がその土地の地主神様を祀っている神社に赴き、『自身の子供をお預け致します』と参拝をしていたと祖父に聞いた事がある。私の父親の時は、祖父母の二人で行っていたのだろうが、その後に父も結婚し、引っ越しているから、私が幼年期に過ごした場所の地主神様を私は知らない。


「おねえちゃん、待っててって言ったのに!」


「ん? 境内に居るでしょう?」


「有威も一緒にお参りしたかったのに!」


 玄関で急いで靴を履いた事が解るほど、有威は靴を履き終えていなかった。その姿に思わず吹き出してしまうが、それほど急いでいても尚、礼節に則った作法で参拝を始める姿に、祖父の教えがしっかりと根付いているのだと実感出来た。

 彼女を初めてこの境内に連れて来た時、私の思い違いでなければ、彼女は拒絶されていたように思う。日本の神様は穢れを嫌う。あの頃の有威は穢れそのものであった。身体が汚いのではなく、彼女の真の心を包む殻のような物が穢れであったのだ。

 だが、今二拍手を終えて、元気良く『行って参ります!』と神様へ告げる彼女は、その存在を認められ、許されているのだと思った。


「おねえちゃん、行こう!」


 声と共に差し出された手を躊躇いなく私も握り返す。手を繋ぐ事を恥ずかしがる年だとしても可笑しくはない年齢ではあるが、有威は常に誰かと手を繋ぎたがる。祖父が居れば祖父と、祖母が居れば祖母と、だが、三人いれば必ず私に手を伸ばして来る。それが唯一の繋がりだとでもいうように、彼女は必死にその手を伸ばして来るのだ。

 だからこそ、私も祖父母もその手を握る事に一切の躊躇はない。彼女に私達は家族なのだと毎回伝えるために。


「今日はね、幸音ちゃんと、おばあちゃんと幸音ちゃんのお母さんと四人でお買い物に行くんだよ」


「あら、そうなの?」


 二人で石段を下りながらも、有威は楽しそうにおしゃべりを始める。昨日の吸血鬼騒ぎが嘘のように満面の笑顔でそれを伝える彼女の姿は、思わず抱きしめたくなってしまう程に可愛らしかった。

 おそらく、夕飯と明日の分の買い出しなのだと思うが、彼女にとってその約束はとても楽しい約束なのだろう。


「今日のご飯は、オムライスかな?」


「あははは。本当に有威はオムライスが好きね」


 この町に来る前、私はこんなに楽しい会話が出来るとは微塵も思っていなかった。祖父母は大好きだし、尊敬もしているが、純粋に会話が楽しいかと言われれば、少し悩む。学校ではどうかと問われれば、知り合いは居ても屈託のない会話をするような相手は居なかったし、この町で出来るとも思っていなかった。

 丑門君…? う~ん、何かが違うような気がする。会話が楽しくないのかと問われれば、『楽しい』と答えるが、それは何かが違うような気がするのだ。


「でも、昨日の事もあるから、気を付けてね」


「あっ、吸血鬼さん! でも、これもあるし、おばあちゃんも居るから大丈夫だよ」


 私の手を離した有威は、最後の2段になった石段を飛び降りた。本当は神様に続く石段を飛び降りるのはご法度なのだが、このくらいの年の子供にそこまで厳格になる必要はないと思うため敢えてそれを咎めなかった。

 にこにこしている有威は、そのままポシェットの中から例の十字架を取り出す。ランドセルを背負って、更にはポシェットを肩から下がるなど本当に器用な物だと感心するが、自分の宝物を取り出す姿を微笑ましく思う。彼女は幸音から貰った十字架を裸のままポシェットの入れる事を良しとせず、祖母から貰った眼鏡拭きのような生地の布に包み込んでポシェットに入れている。私と同じだ。


「それは、有威の宝物だものね。大事に持っていて、偉い!」


「えへへ。あっ、おねえちゃんの宝物も見せて!」


 再び大事そうに十字架を仕舞う有威の頭を撫でてやると、嬉しそうに微笑んだ後、思い出したように顔を上げる。その瞳は純粋な興味と好奇心でキラキラと輝いていた。

 私は少し怯みながらも、上着のポケットから一つの袋を取り出す。実は私も有威と同様に宝物を裸でおいておくことが出来ず、巾着袋よりも少し大きな袋にそれを入れていたのだ。物を入れる巾着袋を袋に入れるというのも少し変かもしれないが、有威が言うように、この巾着袋は本当に私の宝物なのだ。


「それが、キンチャク?」


「ふふふ。これは違うの。この中に入っているこれが私の宝物」


 既に私達は神社を離れて通学路を歩き出している。鬱蒼と生い茂っていた南天神社の木々に邪魔される事無く降り注ぐ朝陽が、私が取り出した巾着袋の生地に反射し、キラキラと輝いていた。

 本当に不思議な生地で、私は祖母に作ってもらった巾着袋と同じ生地の服やストールが欲しいと思って、中学に上がった頃から色々と探し回ったが、終ぞ見つける事が出来なかった。


「綺麗だねぇ」


「でしょう。これが私の宝物」


 私が取り出した巾着袋にうっとりと魅入られている有威は、正直な感想を口に出す。それでも、彼女はそれに対して『いいなぁ』や『おねちゃんだけずるい』というような言葉を口にすることなく、ゆっくりと仕舞われて行く巾着袋を見ていた。

 まだまだ遠慮があるのか、それともそれぞれの宝物という形で割り切っているのかは分からないが、それでも有威は私の持っている巾着袋を欲しがりはしなかった。


「今度、幸音ちゃんにも見せてあげて!」


「それは駄目かな。これは、私と有威の秘密の宝物」


 友達にも見せてあげて欲しいという有威の願いを私は却下した。昨日話が出て来たからこそ有威には見せてはいるが、もし万が一にもこれを彼女達が欲しがったとしても、私は譲る事が出来ない。大人げないと言われようとも、私はこれを手放す事は出来ないと確信している。その時には、有威や幸音を悲しませてしまうような発言もしてしまうかもしれない。出来るだけそういう事にならないようにするためにも、私は有威に秘密にするように提案した。


「秘密の宝物…。わかった! 有威も秘密の宝物見つけよう。何が良いかな…。十字架は幸音ちゃんも知ってるし、ポシェットはいつも持ってるから秘密じゃないし…」


 私の提案に対して、何か琴線に触れたのか、元気よく返事をした彼女は深く考え込み始める。それだけ大事にしてくれているとすれば、ポシェットを送った側としてもとても嬉しい限りだ。


「じゃあ、今度のお休みの日に、私と秘密の宝物を探しに駅前まで行きましょうか」


「おねえちゃんとお出掛け! 行く!」


 満面の笑みを浮かべる有威ともう一度手を繋いで私達は登校を再開する。私自身結構早めに家を出ている為、通学路を歩く学生は疎らであり、有威と同じ小学生などは皆無である。それでも私の手を握って嬉しそうに歩く彼女の横顔に思わず笑顔になった。


「あっ、幸音ちゃんのおにいちゃん」


「ん?」


 もう一つ、有威の不思議なところ。

 彼女は丑門君を怖がらない。世界中の人から恐れられ、忌避されているのではないかと思う程に周囲との壁がある丑門君なのだが、有威にはその壁が見えないようで、屈託のない笑みを見せる事もあれば、普通に声を掛ける事もある。

 ここ最近は丑門君も慣れて来たようだが、最初に有威が声を掛けた時には、幽霊でも見たのかとツッコミを入れたいぐらいに目を見開き、固まってしまったのだ。あの時の丑門君の顔を写真に収めなかった私を叱りつけてやりたい。


「丑門君、おはようございます」


「幸音ちゃんのおにいちゃん、おはようございます」


 有威は丑門君を『幸音ちゃんのお兄ちゃん』と呼ぶ。その呼びかけが思いのほか丑門君に刺さっていたようだ。彼は幸音という妹と仲の良い友達からそう呼ばれる事を照れくさそうに受け入れて、いつも小さな微笑みを浮かべるのだ。

 その微笑みを知っている私と有威だからこそ、彼を忌避したりする事はないのだ。だが、幸音は未だに彼を恐れ、避けている。それが有威には我慢ならない。あれ程に仲が良く、幸音の言葉を信じる有威だが、事、丑門君の事だけは、幸音の言葉を一切受け入れる様子がなかった。


「おはよう。神山、体調は大丈夫か?」


「ええ、学校を出てから全く問題ないですよ。でも、また学校に入ればどうなるか…」


 有威に対して柔らかな挨拶を口にした丑門君は、私の体調を気遣う。昨日一緒に帰ってくれたから事こそ、私が学校を出た後は体調を戻している事は知っている筈だが、それでも気遣ってくれる気持ちに嬉しくなった。


「おねえちゃんの学校には吸血鬼さんがいるかもしれないもんね」


「吸血鬼?」


 私の手を握り直した有威は、私と丑門君を見上げながら昨日の話を口にする。それを聞いた丑門君は、怪訝そうな表情を浮かべて真意を探るように私へと視線を移した。

 だが、正直に言えば、有威が大層な話にしているだけであって、本来は怪異のような話ではない。私が遭遇した黄泉醜女のような恐怖を感じる事もなければ、殺人鬼に遭遇した時のような焦りもない。有威の食事風景を初めてみた時のような恐ろしさも哀れみもない。強いて言うのであれば、不快感。うん、この感覚が一番合っているような気がする。不快感である。


「う~ん、昨日、有威と幸音ちゃんが帰り道で外国の方とすれ違ったらしくて。二人の中での今の流行が『吸血鬼』だから、それと結び付けたみたいです」


「あれは、吸血鬼さんだよ。幸音ちゃんも言ってたもん」


「そうか、幸音も言っていたのか。じゃあ、本当に吸血鬼なのかもしれないな」


 私の説明に反論する有威を宥めるように丑門君がそれをやんわりと肯定する。その答えに満足したのか、もの凄いドヤ顔で私を見上げる有威の姿に私は思わず吹き出してしまった。

 丑門君のこのギャップにも流石に慣れて来た。実の妹にもあれ程に恐れられているのだから、子供の相手は苦手なのかもしれないと思っていたが、とても子供の相手が上手い。話している有威が気持ち良く続ける事が出来るように相槌を打ちながらも、先を促すような合いの手も入れる。楽しそうに話す姿を優しい目で見つめながら聞くため、有威も更に話をしたくなるのだろう。


「ストーカーではなく、ロリコ…」


「神山、他人に対して口にして良い冗談と、口にしてはいけない誹謗中傷がある事を学んだ方が良いぞ」


 小さく呟くような私の言葉に対して丑門君から鋭い警告が響く。流石の私も今の自分がしようとした発言が謂れのない誹謗中傷である事を理解し、即座に謝罪した。珍しく『次はないからな』と低い声で呟く彼に、私は小さくなってしまう。


「おねえちゃん、怒られた?」


「怒られました…」


 私が肩を落としたのを見ていた有威は、私を見上げる形で首を傾げる。小さく呟く私の手を握って微笑む彼女は、私を励ましてくれているのだろうか。


「本当の姉妹のようだな。羨ましいよ」


 私達にやり取りを見ていた丑門君が、少し寂しげに口を開く。

 彼の家の事情は全く分からない。私がお会いした彼の父親も母親も心から息子である彼を愛しているのだと分かる人だった。だが、彼の実の妹だけは彼に怯え、忌避している。正直、学校にいる生徒や教員以上に彼に対しての恐怖があるのではないかと思う程だ。


「…聞いて良いのか分かりませんが、妹さんと何かあったのですか?」


「……」


 私の問いかけを聞いた丑門君の足が一瞬止まる。だが、すぐに何事もなかったように歩き出し、私の問いかけへの返答はなかった。有威は何か言いたそうに口をもごもごと動かしてはいたが、それを発して良い雰囲気ではない事を理解している為か、結局黙ってしまう。

 大人の顔色、場の空気を感じて己を守ってきた有威だからこその行動だろう。普通の小学校低学年であれば、思った事を口にする事に躊躇いなど無い筈だ。


「何もないよ、何も…」


 だが、丑門君もまた私と有威が持っていた空気を感じたのだろう。小さく、本当にか細い声で呟いた。それがとても悲しく、とても寂しく、私や有威でさえも涙が滲んで来そうな空気を運んでくる。彼が何を抱え、何を恐れているのかが分からない為、どんな言葉を掛けて良いか分からず、私は黙り込んでしまった。


 そのまま会話もないまま登校を続け、小学校へ向かう分かれ道で有威と別れる。別れ際には笑顔を見せて、私たち二人に手を振る姿を見る限り、彼女にとって今から向かう学校が楽しい所に変化している証拠のように見え、私も小さく手を振った。


「あの子の笑顔を見ていると、神山の凄さを実感するよ」


「何がですか?」


 再び高校への通学路を歩き始めた私に後ろから丑門君の声がかかる。一瞬何を言っているのか分からなかった私は、ぼんやりと聞き返す。

 そんな私の呆けた表情を見て、小さな笑みを作った丑門君は、歩き出しながら口を開く。


「もし、神山がいなければ、あの子はずっと苦しみ続けていたと思う。今も、この先もずっと。そしてどこかでその苦しみによって命は絶たれていたかもしれない」


「そ、それは…」


 確かに、有威がもしあのままクズ親の元に居続けたら、彼女の心は完全に壊れていたかもしれない。自分で強固な殻を作り、外敵からそして内敵からも守り続けていた有威であったが、餓鬼という『鬼』に少しずつ精神を侵食されていたのだ。

 クズ親によって命を落とすか、それとも完全に『鬼』に喰われてしまうか。それは私達が考えていたよりもずっと切羽詰まった状態だったかもしれない。


「でも、今は本当に心の底から笑顔を浮かべている。幸音と遊ぶことをあんなに楽しそうに話して、神山が傍にいる事に安心して、それを当然の事と思えるようになってる。あの子を救ったのは、神山だ。誰が何を言おうと、神山があの子の未来を変えたんだって思う。それは凄い事だよ」


「丑門君と、丑門君のご両親、そして有威をずっと友達と思ってくれている幸音ちゃんのお陰です。幸音ちゃんの存在が、ずっと有威をこの世界に繋ぎとめていてくれていました。それこそ、流石は丑門君の妹さんだなと思ってしまいますよ」


 私の返しに、一瞬驚いた顔をした丑門君は、どこか曖昧な笑みを浮かべてそのまま学校へと歩き出した。

 今日は珍しくどんよりした曇り空。今にも雨が降りそうなため、私は鞄に折り畳み傘を入れているし、有威には先日購入した黄色い可愛らしい傘を持たせていた。丑門君も片手に透明なビニール傘を持っている。

 まるで学校へ向かう私の心を表すかのような空模様であった。


「日を追うごとに酷くなるな」


「ええ、入りたくないですね」


 想像通り、高校の近門から先は、何かに覆われているように黒く、校内を歩く生徒達の姿も覆い隠してしまうのではないかと思う程に酷い物だった。これはもう、魔王の城と言っても過言ではないのではないか。


「丑門君、これはきっと、もう学校は魔物に支配されているわ。私達の通う2階に辿り着く為には、1階のBOSSを倒さなくてはならないでしょうね」


「何を馬鹿な事を…。ゲームじゃあるまいし。ただ、神山の言いたい事は解る。そう思いたくなる程に酷いな」


 大きな溜息を吐き出した丑門君は、まるで私の護衛騎士のように私の少し後ろを歩く。その行動が本当にダンジョンに挑むパーティーのようで、思わず私は噴き出してしまった。

 だが、この学校というダンジョンの中にいる動く死体…もとい生徒達の表情を見るに、体調などに変化があるようにも見えない。ましてや、この瘴気に飲み込まれているようには見えなかった。


「しかし、これは何が原因なんだ?」


「有威じゃないけど、本当に吸血鬼がいるのではないかと思いますね」


 学校の中にいる生徒達は別に覇気がない訳でも、生気がない訳でもない。だが、どうしても私と共に校舎内に入って行く姿が、ダンジョンを徘徊する幽鬼にしか見えなくなっていた。

 ひのきの棒も銅の剣もない私には、このダンジョンから生きて帰れる自信がない。この場所でこれから六時間近く過ごさなければならないとなると、かなり厳しい。

 教室へ入ると、いつもの場所に座るが、何処かしらいつも以上に他の生徒達との距離を感じた。それは私ではなく、隣に座る男子生徒に対してであるが。


「皆さん、席についてください」


 入って来た担任の女性教員がホームルームを始める。最近の事件の影響も含め、下校時間になるまで校外に勝手に出ない事。昼を外に出て取る事も禁止という旨が伝えられる。元々昼食を校外で取る事は暗黙のルールとして禁止であったが、そこまで厳しいものではなかったが、今後は罰則もある物になるという。

 まるで檻に閉じ込められた動物のようだ。いや、ダンジョンに閉じ込められた冒険者といった方が良いような気がする。檻に入れられた動物は基本的に保護の為という目的もあるだろうが、後者であれば、それは食料の確保という面が大きい。

 とすれば、私達は誰の食料なのだろう。


「では、皆さん授業を頑張ってください」


 ホームルームを終えて、担任の女性教員が教室を出て行く。それと同時に教室内は喧騒に包まれた。皆が口々に愚痴をこぼし、学校への不満を口にし、それは噂の吸血鬼のような事件を起こす犯人へ向かう。そして、最終的にこの教室にいる異質な存在へと向かった。

 久しく聞いていなかった悪意ある言葉。それは私に向けた物から隣に座る男子生徒へと変わって行く。全生徒から忌避された存在として遠巻きにしか注がれていなかった悪意が、この僅か数日の間に直接的な悪意に変化しつつあることを初めて知った。


「最近の事件にも拘わっているんじゃないの」


「絶対に何かやってるよ」


「昔、同級生を半殺しにしたって…」


「え? 殺したって聞いたよ。半年ぐらい少年院に入ってたとか」


 最早聞くに堪えない悪意。この教室にいる人間達は自分の頭で考える事は出来ないのだろうか。特に最後に話した女生徒は本物の馬鹿なのだろう。

 人を殺した人間が、たとえ未成年だと云えども半年の少年院収容で出て来られる訳がないだろう。そのような国であったら、恐ろしくて暮らす事も出来ない。

 しかし、同級生を半殺しにというのは、私にも完全否定は出来なかった。何故なら、丑門君の中学生時代などは知らないし、以前に見た彼の喧嘩からすると、相手を打ちのめし、心を折る事など容易いように感じたからだ。


「今日って、ヴァーニー先生の授業あった?」


「今日はない筈よ。もう本当に残念」


「隣のクラスは昨日も今日もヴァーニー先生の授業があるって言ってたわ」


「本当、毎日でも良いわよね」


 そんな悪意ある言葉が、ある女生徒が発した疑問で一気に流れが変わった。その周辺にいた女生徒達も加わりその場所は一見華やかな空気を醸し出す。ただ、そこに渦巻くのはどす黒い瘴気の塊にしか見えなかった。

 彼女たちがある人物の名を口にすればするほどにその黒さは濃くなり、今では私の目で彼女たちの顔を確認できないぐらいまでに覆われている。『気持ち悪い』という感情だけが私の胸を支配した。


『けらけらけら』


 頭の中であの笑い声が響く。何かを楽しむような、それでいて何かを待ち侘びているような、そんな笑い声。不自然なほどにその笑い声を不快に感じなくなった私の精神は既に壊れてしまっているのかもしれない。ただ、そんな女子生徒達へ白々しい視線を送る男子生徒達の口から丑門君への悪意が出なくなった事には安堵していた。


「でも、知ってる? ヴァーニー先生に付きまとってた魚林さん、ここ数日学校休んでるんだって」


「ああ、あの人ね。結構色んなとこで遊んでるって噂あったし。ヴァーニー先生に腕を強引に絡めたりしてたし、いい気味じゃない?」


「確かに。夜遊びもかなりしてたって話だもんね。なんか、結構ヤバめな人達と付き合ってたみたいよ」


 ああ、悪意の方向が変わった。

 本当に嫌だな…。何故、こういう人達って、こんなに無邪気に悪意を振り撒けるのだろう。その魚林さんという女子生徒が彼女達に何かをしたのだろうか。いじめなどを受けたりして恨みでも持っているのだろうか。


「席に着けぇ」


 そんな悪意が振り撒かれる教室に一限目の授業担当教員が入って来る。皆が慌てて席に着いていく中、私は充満した悪意による瘴気で息苦しくなっていた。ふと窓側に視線を送ると、たまたま丑門君と目が合う。


「丑門君、ごめんなさい。少し窓を開けてもらえないかしら」


「ん? ああ、わかった」


 そんな小さなやり取りなのにもかかわらず、がやがやと騒がしい教室内に良く響いた。そしてまるで教室内全ての視線が私に集まったかのような錯覚に陥る。いや、実際に集まっていたのかもしれない。驚愕と嫌悪の入り混じったような視線が私に刺さる中、別段そんな視線に恐怖を覚える事もなく、ただ真っ直ぐ教壇に視線を送り続ける私に、教員が一つ咳払いをした。


「ごほん、今日は前回の続きから…」


 教員が授業に入って行くと、生徒達の視線も前へ移動し、逆に私の視線は机へと落ちる。つらつらと教科書の内容を話す教員の言葉を上の空で聞きながら、私はある事に気が付いた。


『先程話に出て来た魚林さんが何故そこまで嫌われているのかという事と同様に、私は丑門君が何故ここまで忌避されているのかという理由について全く知らないじゃないか』


 よくよく考えれば、本当に不思議だ。転校初日には、共に下校した女子生徒に尋ねるくらい疑問に思っていたのに、それ以降は何故か『そういうもの』として受け止めてしまっている。元来の私の性質という部分も多分にあるとは思うが、それでもこの放置っぷりは異常であろう。

 聞くにしても、おそらくこの学校の生徒達は誰も私と会話をしようとしないだろう。まさか本人に聞く訳にも行かないし。

 気になり始めると、どこまでも気になって来る。私の悪い癖なのか、人として当たり前なのか。授業の内容などはBGMのように流れて来るだけ。当然のように私や丑門君を教員が指す訳もなく、私は思考に没頭して行く。

 その間も乾いた笑い声は私の後ろからずっと聞こえていた。



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