其の肆
有威の衝撃の告白を受け、一瞬固まってしまった私ではあったが、徐々に暗くなる境内に残って話を聞く訳にもいかない為、残りの掃除を手早く済ませ、落ち葉をゴミ袋にまとめると、有威の手を取って家の中へと入った。
家までの短い道のりの中でも、私を見上げて早く話したいオーラを全開にする有威であったが、手を洗い、着替え終わったら聞くからねと告げると、少し残念そうに顔を下げる彼女がまた可愛らしかった。
「おねえちゃん、お着替え終わった?」
可愛らしかったのも玄関を超えるまでで、手を洗い終えて私が部屋に入るや否や、即座にその扉が開かれて有威が顔を出す。やはり、この娘は虐待と呼べる幼少期を過ごしている為、幼児返りを起こしているのかもしれない。確かに小学生の低学年ではあるが、それでも幼稚園生に比べればまだ落ち着きがある筈なのだが、ここ最近の彼女を見ていると、この家に来た当初よりも幼くなってしまっている気がする。それが安心感の裏返しならば良いのであるがと切に願った。
「もう! お着換え中です!」
「えぇぇぇ」
突然開いた扉に驚き中断していた着替えの続きを始めた私に不満を口にする有威の頭をかるく小突く。最近では彼女もこうした行為を怯える事無く受け入れる事が出来るようになっていた。少なくともこの家で暮らす人間が不当に自分を傷つける事はないと心も身体も理解したのだろう。以前は入る事が出来なかった湯船にも最近は肩まで浸かる事が出来るようになっていた。
「でもね、幸音ちゃんも『きっと吸血鬼さんだよ』って言ってたんだよ」
「ちょっと待って。引っ張ったら服が伸びちゃう」
我儘全開になった有威は着替え途中の私の服を引っ張りながら話を始めようとする。境内の掃除を始めた頃はこの話を完全に忘れていたのに、思い出したら一刻も早く伝えたいという何とも子供らしい姿に思わず笑ってしまうが、今は私のお気に入りのブラウスの危機である。裾を掴んでいる有威の指を優しく外し、スカートを履き替えた私は不満そうに頬を膨らませている有威の頭に手を乗せた。
「じゃあ、行こうか。有威の大好きなお祖母ちゃんのご飯を食べながら聞かせて?」
「あっ、今日はね、おねえちゃんと有威はハンバーグなんだよ!」
待ち切れないというように口を開こうとしていた有威であったが、私の口から夕飯のことが出ると、先程以上にキラキラした瞳で嬉しそうに献立を叫び両手を突き上げる。最早、この可愛い生き物に対して私は笑いしか出なかった。
『吸血鬼の話はどこへ行った?』と問いたくなる程に、私の部屋から居間までの間は、有威が如何にハンバーグが好きか、その下拵えを手伝った自分の頑張りを含めて熱弁を始める。
「おじいちゃんは、大きなハンバーグは食べられないから、ピーマンとナスに詰めるんだって。秋はナスが美味しいんだよ。おねえちゃん知ってた?」
「ふふふ。そうなの? 確かに秋のナスは美味しいかもね」
秋ナスが美味しいというのは、今日祖母から聞いたのだろう。その知識を披露したくて仕方がなかったのだろう。彼女が今日知りえた事、今日遭遇した事、楽しかった事、悲しかった事を私に話してくれるのは何時頃までだろう。私が有威ぐらいの年齢の頃には、既に母親との対話は諦めていたように思う。
出来るならば、彼女が一日でも長く、自分の身に起こった事を家族に話してくれる日が続く事を願っている。
「おばあちゃん、お姉ちゃん連れて来たよ!」
「あら、有威ちゃん、ありがとう。ちょうどご飯も出来上がったから、机を拭くのを手伝って」
「はい!」
私が居間に入った事を自分の手柄のように祖母に伝える有威の姿に苦笑を浮かべながら、私も祖母の配膳を手伝うために台所へと足を踏み入れる。祖母から渡された布巾を持って机を拭きに行く有威は、本当に吸血鬼話を忘れてしまったのではないかと不安になる程であった。
皿に盛られたデミグラスソースの掛かったハンバーグからは湯気と共に食欲を促進させる匂いも漂ってくる。付け合わせのキャベツの千切りにミニトマト。彩りもまた私の空腹を増幅させていった。
「あっ、おじいちゃん!」
「うん、良い匂いだ」
食卓に食事が並び切る直前に、居間へ祖父が顔を出す。有威の嬉しそうな声に、祖父もまた笑みを浮かべた。ハンバーグが乗った自分の皿を目の前にして座り込んだ有威は、全員が揃うのを今か今かとそわそわし始め、未だに立っている私の手を取り、自分の隣へと座るように急かしている。その姿に、今日何度目になるか分からない笑みが零れてしまった。
「はいはい、お待たせ。では頂きましょうか」
「いただきます!」
人一倍元気な声を上げた有威は、箸を使ってハンバーグを切り分け、デミグラスソースをたっぷりと絡めて口の中に頬張る。切り分けが甘かったのか、それとも意図的なのか、彼女の小さな口には大きかったハンバーグを、目尻を下げながら懸命に咀嚼する姿は、リスやハムスターのような小動物のようであった。
「美味しい!」
「そう、それは良かった」
ようやく飲み込んだ有威は、その味に対する感想を全力で祖母に告げる。それを聞いた祖母もまた、嬉しそうに顔を緩め、自分の口の中には茄子の肉詰めを入れた。
この小動物の頭の中は、最早ハンバーグで埋め尽くされてしまったため、吸血鬼の話など明日にでもならない限り出てくる事はないのだろう。今はお米を食べて、お味噌汁に口をつけている小動物の姿に私も笑みを浮かべた。
本当に有威は食べる事が好きである。基本的に間食はしない。たまに祖母が作る蒸かし饅頭は喜んで食すが、この家で市販のお菓子を買う習慣がなく、有威自身も以前の生活ではそういう物を食べる事はなかったためなのか、間食がないことに不平な不満を口にする事はなかった。
故にこそ朝食、昼食、夕食の三食を全力で食すのだ。そして以前よりも関係に遠慮がなくなった丑門幸音という少女と全力で遊ぶから、また腹を空かし、食事が更に美味しくなる。良い循環が彼女の中で出来上がっているのだろう。
「それで、有威? 吸血鬼さんの事は話してくれるの?」
「あっ! あのねあのね…」
「有威ちゃん、お箸を振り回さない!」
「あっ、ごめんなさい……」
元気一杯過ぎて、彼女の行動は祖母に窘められる。瞬時にシュンと肩を落とす姿は哀愁を漂わせるが、食事中の箸の持ち方などは厳しい家の為、私も敢えて助け舟を出す事はなかった。最近は食事のマナーで有威も叱られる事が少なくなったが、当初はよく祖母に叱られていたのだ。
『お茶碗やお椀を置いたまま食べない』、『お米を食べる時は必ず左手でお茶碗を持ち、味噌汁を飲む時は必ずお椀を持つ』など、当たり前の事ではあるが、現在それをしっかりと教える家庭がどれぐらいある物なのか。
祖母の教えは怒鳴る事はないが、間違っていればその場で必ず指摘が入る。私も子供の頃は祖母に何度も何度も指摘を受けたものだ。普通の子供だったら祖母と一緒に食事をする事が嫌になるのだが、そう思わせないのが祖母の凄さでもあるのだろう。
「今日ね、幸音ちゃんと一緒に帰って来たの。その時にね、髪の毛が金色で目が青い人が二人歩いて来たの」
それはただ単純に欧米の人間がこの町を歩いていただけの話ではないか。
もしかして、有威は欧米の人間を見たことがないのだろうか。
確かに、このような田舎町に観光に来る諸外国の人間は皆無に等しい。何か有名な文化遺産がある訳でもなければ、日本の田舎らしい景観がある訳でもない。そんな場所にわざわざお金を落としに来る観光客もいないだろう。
「それでね、幸音ちゃんが吸血鬼さんも金色の髪で青い目だって言ってて」
いや、そもそも吸血鬼であるドラキュラ伯爵の元となったのはルーマニアのウラド三世とも云われており、おそらくは金髪ではなかっただろう。女性版吸血鬼の元となったのも、ハンガリーのバートリ・エルジェーベトであり、これもまた肖像画では金髪ではない。
日本人ではないという共通点はある物の、ドラキュラ=金髪碧眼というのはかなり現実とは異なると思われる。そこは小学生低学年の幼さ故なのかもしれない。
「怖かったから、幸音ちゃんと一緒に離れて歩いてたんだけど、その二人が有威達に向かって笑ったの」
「うん」
話が良く分からない。
なんとなく相槌を打ってはいるが、只の外国人観光客であっても、前方から可愛らしい女子小学生2名が歩いて来たら、にこにこと笑顔を見せる事は不思議ではない気がする。金髪碧眼が多い国の中には少女への偏愛を持つ男性もおり、最近は特にそういう物が厳しく取り締まられている為、歩行中の少女に笑いかけただけでも『変態』のレッテルを貼られ、最悪通報される場合もある事はある。
だが、笑いかけるぐらい、別段普通の事ではないのだろうか。やはり有威の話が呑み込めない。
「それでね、それでね、髪が金色の人達が笑った時、ここが牙みたいに尖ってたの! 吸血鬼さんはここの歯が牙になってて、その牙で人間の首を『ぶすっ』って刺すんだよ! だからあの二人は吸血鬼さんだって思って、幸音ちゃんと走って逃げて来たの!」
興が乗って来た有威は、佳境に差し掛かった話を一気に話し切った。
『その牙は、只の八重歯では?』という思いが浮かんだ事を否定できない私は、興奮冷めやらぬ有威に曖昧に頷きを返す。ただ、一生懸命に話す有威の姿を微笑ましく見ていた祖父母の表情は若干の変化を見せる。
「この町に外国の人間が入るのは珍しいな」
「そうね。外国の方には少し難しい土地の筈なのにね。やっぱり弱まっているのかもしれないわね…」
有威の話も理解が難しいが、祖父母の会話も理解する事が困難であった。祖母の話が理解出来ない事は時々あるのだが、祖父の話が理解出来ないのは珍しい。
私がこの町に来る前に居た場所では外国人観光客など珍しくもなく、観光地によっては日本人よりも外国人の数の方が多いのではないかと思うような場所もあった。それは何も不思議ではなく、外国人の事を『外人』と言っていた古い時代ではないのだ。だが、祖父は『この町に入ってくる』事自体が珍しいと言う。町に入る事が珍しいなど、『ここは海のど真ん中に浮いている孤島か何かか?』と問いたくなる。
「やっぱり吸血鬼さんなんだ!」
疑問に思い、頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいる私とは反対に、有威は自分の話の信憑性を高めるような発言に勢いを増す。デミグラスソースを口元にべっとりと付けたまま、有威は立ち上がらんばかりに声を発した。
「有威、口を拭いてから話しなさい」
「あっ、ごめんなさい…」
私の指摘にまたもやしょんぼりと眉を下げた有威は、キッチンペーパーで口を拭う。拭き取ったデミグラスソースの香りに食欲が勝ったのか、彼女は再びハンバーグを食べ始める。その変わり身の早さに呆れ、祖父母と顔を見合わせた私は吹き出してしまった。
「今日、私の高校に英語の臨時講師として外国の方は赴任したから、その人の関係者なのかもしれないね。吸血鬼さんかどうかは分からないけど…」
「吸血鬼さんだよ、絶対! 幸音ちゃんもそうだって言ってたもん!」
有威の幸音への信頼感は強い。有威がどんな状況であっても声を掛け、普通に接し続けてくれていた幸音の存在は、有威にとってそれだけ大きかったのだろう。幸音がそうだと言えば、そうに違いないのだ。
私は、有威と幸音の関係性が少し羨ましくも思えた。私が子供の頃、そんな存在が居ただろうか。いや、今現在もいるだろうか。そう考えると、私の十数年間の人生のなんと薄っぺらい事か。胸を張って友人だと言える存在など一人もいないのだから。
「でも、吸血鬼がいるのなら、危ないから学校はいけないね…」
「え? 学校行けないの?」
つい先日まで学校という場所に安らぎを見出していなかった筈の有威ではあるが、ここ最近は、生活スタイルの変更により周囲からの奇異の視線を感じる事無く、友達である幸音との仲も良好である為、楽しい場所にランクアップされたのだろう。
吸血鬼という空想の存在が実在するのであれば、先日の殺人鬼と同様に無差別に襲われる可能性もあり、とてもではないが学校などに通わせる訳にもいかないだろう。本当に実在するのならば。
「まぁ、吸血鬼だと確定したわけではないから、暫くは大丈夫だと思うけど、有威と幸音ちゃんが皆にこの事を話して回っていたら、学校も休みになっちゃうかもしれないね」
「言わないよ! 今日の事は秘密だって幸音ちゃんと約束したから」
約束したにも拘らず、既に私達に話しているではないかと思わないでもないが、有威の中では私達は別枠なのだろう。それはそれで嬉しい事である。
しかし、幸音も有威も純粋過ぎではないだろうか。小学校低学年とはいえ、ここまで純粋に物を信じられるのだろうか。もしかすると、有威も幸音も今まで他者と関わる事が少な過ぎた為に、自分に入ってくる情報が少なく、分別が偏っているのかもしれない。
「有威ちゃんは、学校が終わったら真っ直ぐ帰ってらっしゃい。幸音ちゃんと一緒にお家でお菓子でも食べて遊んでいれば良いし、夕方になったらお祖母ちゃんか深雪ちゃんと幸音ちゃんを送って行けば良いわよ」
「幸音ちゃん来てもいいの!?」
以前までは自分の家に誰かを呼ぶなんて考えもしなかったのだろう。それが許される嬉しさは有威の顔の輝きを見れば解る。祖母が笑顔で頷くのを見た有威は、再び大きく切ったハンバーグを口に頬張った。
そんな有威の姿を微笑ましく見ていた祖母は、不意に私の顔へ視線を向ける。突然自分に向けられたその目は、とても真剣な物で、私自身も思わず姿勢を正してしまった。
「深雪ちゃん、以前に作った巾着袋はまだ持っているかしら?」
「お祖母ちゃんが作ってくれた巾着? うん、持っているよ。大事に仕舞ってあるけど」
突然話題に上がった物は、私が小さな時に祖母に強請って作ってもらった物であった。
あれは私が今の有威よりも小さな時まで遡る。祖母の部屋を探索していた時、箪笥の中に一枚のストールのような物を見つけた事がある。それはストールというには素材が少し異なり、輝くような光沢を持つ滑らかな素材で出来ている物で、絹のようで絹ではなく、不思議な素材であった。
幼い私にとって、そのストールは本当に魅力的であった。陽の光を受けてキラキラを輝きながらも、向こうが透けて見える程に透き通っており、それでいながら生地自体は薄くない。なんとも言い難いその魅力に、私は思わず自分の首から掛けてしまった。
幼い私の身体には余りにも大きなそれは、首の周りを何周しても畳についてしまう。それでもそれが身体に密着している事がとても温かく、とても安らいだ。まるで母の腕に包まれているかのような安心感を持ち、私はそのまま祖母の部屋で眠りに落ちていた。
その日は勝手にそれを出した事を祖母に叱られるのだが、それの魅力に取り憑かれた私は、何度叱られても祖母の部屋からそれを取り出し、身に着ける事を繰り返していく。何度目かに叱られた際に、溜息を吐き出した祖母が、そのストールで幼い私が常に持ち歩ける巾着を作ってくれたのだった。
「そう。大事にしてくれて嬉しいわ。今日から必ずあの巾着を身に着けていてね。ポケットの中でも良いし、首から下げても良い。鞄の中とかではなく、必ず自分の身体に付いている場所に入れておいてね」
「どうして?」
「ん? どうしてもかな」
また始まった。
祖母の祖母にしかわからない物。
このような場合、何度理由を聞いても教えてくれた事はない。正直、分からないという事はストレスだ。もし、このような発言を丑門君がしたのならば、理由を話すまで問い詰めて最悪実力行使に出るかもしれない。
それでも今までこのような物言いの時に、祖母が私を揶揄っている事はなく、常に間違っている事はなかった。
「なんだか解らないけど、わかった」
「きんちゃくって何?」
祖母に言葉に頷きを返した私に、隣に座る有威が不思議そうに首を傾げる。
私は祖母に作ってもらった現物を持っているから巾着というのがどういう物かを知ってはいるが、有威のような子供には巾着という言葉自体が馴染みのない物だろう。私だって、現物を持っていなければ巾着袋という物を知る事はなかったように思う
「後で見せてあげるね。私にとっては、有威の持っている十字架やポシェットと同じような宝物なの」
「おねえちゃんの宝物! 見たい!」
宝物という言葉に有威の瞳が輝く。幸音から貰った十字架は、私が送ったポシェットの中に大事に仕舞われており、今も食卓に着いている彼女の傍に置いてあった。
自分の送ったポシェットをここまで大事にしてくれている事を嬉しく思うし、本当に宝物のように扱う彼女を愛しく思う。
『本日未明、マンションの一室で女性が倒れているのが発見され、病院に搬送されました』
そんな和やかな神山家の夕飯の空気を切り裂く声が付けたままであったテレビから流れて来た。食卓を囲んでいた全員の目が居間の角に置かれているテレビに向けられる。そこに映っているのは、見慣れた街並みであり、私も何度か行った事のある、駅近くの風景であった。
ニュースキャスターのような人間が状況を報告している。今日連絡をくれる筈だった娘からの連絡がない事を不審に思った両親が一人暮らしをしている娘が住むマンションに向かうと、ベッドで倒れて意識不明の娘を発見した為、救急車を呼んで病院に搬送したとの事であった。
部屋は荒らされた経歴がなかったが、女性が衣服を身に着けていなかった事で、事件性があると判断されて報道されたようであった。
「吸血鬼さんに襲われたんだ…」
ぼそりと呟かれた有威の言葉に私も我に返った。このテレビ放送は地方テレビの物ではない。全国に流れる物である。正直、全国的に見れば、この程度の事件などは毎日のように起きているのではないだろうか。男女間のトラブルによる物だと思われ、よくある話のようにも感じる。それにも拘わらず、全国ネットでの放送がされるという事は被害者である女性が既に亡くなっており、殺人事件として立件されたのか、それと同程度に不審な何かが被害者の女性に見受けられるかのどちらかだろう。
病院に搬送されたという事は、まだ命があるとも考えられるし、それであれば、小さな可能性であるが、有威が言うような吸血鬼のような何かに害された形跡があるのではないかと考えてしまう。
こんな小さな田舎町に起こり始めた事件が、私の人生を変えてしまう程の物になるとは思いもしなかった。




