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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第四章 吸血鬼
33/35

其の参



 それからどれくらいの時間が立ったのだろう。私の意識は不意に現実へと引き戻された。それは自然な目覚めではなかったし、心地よい目覚めでもない。私は教室で嗅いだ、あの鉄臭い錆びたような強い臭気によって引き起こされたのだ。

 目を開けることが出来ない。それでも意識ははっきりしており、この血生臭い周囲の臭いの元凶が私の傍にいるという気配だけは感じていた。

 目を開けることが出来ない私の周囲は完全なる闇。その闇の中でも感じる気配と息遣い。それは呼吸を必要とする生物が私の傍にいることを意味する。丑門君ではないだろう。彼ならばここまでの不快感を覚えない。

 その不快な空気が私の寝ているベッドに近づいてくるのが解る。徐々に血生臭さが強まり、息づかいの音が大きくなってきた。


『丑門君、いないの?』


 心の中で私の救世主の所在を尋ねるが、その声は音になっていない為、保健室内に響かない。そもそもここは保健室のベッドなのだろうか。寝ている間に何処か知らない場所に連れ出されたかもしれないと思う程に空気が変わっていた。

 強まっていく不快な臭気。他人の息づかいがここまで聞こえた事など今までなかっただろう。張り詰めた室内にその息づかいと、早鐘のように打たれる私の鼓動だけが響いていた。

 近づいて来た気配が私のすぐ傍で停止する。横たわっている私の顔付近に血生臭い臭気が強まった瞬間だった。


『身の程を弁えぬ愚か者が…。この日ノ本で勝手が出来ると思うな』


 突如何かが私とそれの間に入り、その不快な物を弾き返した。私の首筋近くに感じた血生臭い臭気も、不快な息づかいも距離が離れる。どこかで聞いた事のあるその声は、凛とした響きを持ちながらも、薄い死臭を漂わせている。

 私はその声に聞き覚えがあり、その死臭に覚えがある。まるで私を護るようにベッドの横に立つ気配。それは常に私に『死』を感じさせていたアレ以外の何者でもないだろう。


『この日ノ本を穢す下郎よ、自らの罪を知る時はそう遠くはない。楽しみにしておれ』


 不快な臭いが遠ざかるのを感じながら、先程それを弾くように追い払った気配を強く感じる。それは私が寝ているベッドの傍にまだ存在し、まるで私の顔を覗き込むような雰囲気を出していた。

 先程聞えたあの声に聞き覚えがある。実際は声として空気を震わせているわけではないが、私の脳に直接響くそれに記憶が刺激されたのだ。

 遥か昔の遊郭で、頂点に立ち続けた花魁が他者に放つ冷たさのように鋭く。それでいてその花魁が見習いである禿(かむろ)達に向けるような温かみも感じた。


『其方は、なかなかどうして、黄泉路を渡らぬのう』


 そしてそんな文言と薄い笑いを残して、その死臭は煙のように消え去っていった。

 その場にある気配が自分だけになって初めて、私は薄く目を開ける。まるで粘着剤が瞼に付いているのではと錯覚するほどに重い瞼を開くと、眠る前と同じ保健室の景色が広がっていた。唯一異なる点があるとすれば、窓の外の色が赤く染まり始めており、既に一日の終わりが近づいている事を示している事ぐらいだろう。


「あら、目が覚めたのかしら。本当に具合が悪かったのね。体調はどう?もう起きることが出来そうかしら?」


 まだ覚醒しきれない脳でぼんやりと虚空を見つめていた私は、ベッドと保健室を遮っていたカーテンが遠慮がちに開かれた事で視線を移す。そこには養護教諭である女性が立っており、目を開いている私を見て安堵するような表情を見せていた。

 この養護教諭はやはり真面目な教員なのだろう。大概私も面倒くさい生徒である自覚はあり、教員から関わりを持つ事を避けられている自覚もある。だが、そんな私に対しても事務的な心配ではなく、本当に体調不良を危惧している雰囲気を出しているこの養護教諭に対して、私は小さな好感を持ってしまっている事に気づいた。


「ありがとうございました。こんなに長い時間眠るつもりではなかったのですが…」


「そうね。もう授業は全て終わってしまっているわよ。一度も起きないから心配したけれど、大丈夫そうなら、今日はそのまま帰りなさい」


 ベッドを覆っていたカーテンを全部開きながら、養護教諭は口を開く。私一人に対してであれば、それほど忌避感を覚えないのだろう。私の体調が悪いという点もあるのかもしれないが、怯える様子もなく、私の顔を覗き込み、額に手を当てるようにして健康を計っていた。

 私はゆっくりとベッドから降り、地面に足を下す。少しのふらつきを感じながらもしっかり立つ事ができたため、そのまま軽く養護教諭に礼を述べて教室から出た。


 廊下に差し込む光も、既に夕暮れ時を示すように赤い。まるで太陽の炎によって世界全てが燃えているように赤く染まっていた。古来の日本の神様は、太陽の神である『天照大御神』、月の神である『月読命』、海原の神である『須佐之男命』の三貴神が広く知られているが、その三貴神の中で最も力を持っているのが、『天照大御神』である。

 今、この小さな箱庭から私が見ている景色は、その『天照大御神』様のお力の一端を見ているようであった。


「神山、大丈夫なのか?」


 黄昏時に外の景色を眺めながら黄昏ていた私の横から声がかかる。横へ視線を向けると、そこには私を教室から救い出してくれた男子生徒が心配そうに眉を下げながら立っていた。

 窓から入り込む真っ赤に燃え盛る神の力を一身に受け、彼の身体全てが燃え上がっているように赤く、それは地獄の豪炎に焼かれているようにさえ見える。地獄の炎の中から歩み寄る彼。まるで鬼のようだ。


「ふふふ」


 我ながら馬鹿げた考えだと思い、思わず笑みが零れる。そんな私の姿を不思議に思いながらも、その手に持っている私の鞄をぶっきらぼうに突き出す姿に、自然と笑みが強まってしまった。


「鞄まで、ありがとうございます」


「調子は戻ったみたいだけど、ほぼ半日以上眠るぐらいだから、早くに帰って休んだ方が良いぞ」


 鞄を受け取った私は、彼に頷きを返した後、昇降口へと歩き出す。その後ろをついてくるように彼も歩き出した。どこか、貴族のお姫様と騎士みたいだとまたもや馬鹿げた妄想が頭を過る。

 そんな騎士が、急に私の横に並んだ。それと同時に私の鼻先を血生臭い風が一陣吹き抜ける。


「今、帰りますか? Take care.」


 既に昇降口に入り、各自の下駄箱が見えて来たその場所に続く階段から一人の男が降りて来ていた。純粋な日本人であれば少し首を傾げる文法の日本語を話し、こちらに手を挙げるその男は、今朝私のクラスに顔を出した臨時講師として海外からこの学校に来た者。そして私が体調を崩すきっかけとなった者でもあった。

 そういえば、この臨時講師がどの国の人間なのかという事を、私達のクラス担任の女性教員は話していなかったように思う。通常であれば、「〇〇先生は、××という国から来てくれました」のような説明があってしかるべきだと思うのだが。


「か、神山?」


 私はその臨時講師に顔を向けた時にそんな考えに浸っていたため、彼の言葉に返答を返す事もなく、自身の下駄箱へと歩みを進めてしまっていた。傍から見れば、臨時と言えども教員からの挨拶を完全に無視するその態度は、お世辞にも良い生徒とは言えないだろう。

 校内一の問題児扱いをされている丑門統虎という男子生徒でさえも私のその行動に驚いて声を上げていた。だが、既に下駄箱に手を入れ、革靴を取り出していた私はそのまま靴を履き替えて昇降口から外へと出てしまう。


「神山が他人を無視するなんて珍しいな」


 校門を出る頃になって追いついて来た丑門君がそう呟いた。確かにこの学校に転校して来てからの私は、内心では無視していても返答は必ずしていたかもしれない。正直、そこまで毎回の自分の行動を把握していた訳ではないので、正確ではないのだが。

 それでも何故かそれを彼に言われるのが少し癪であった。彼こそ教員や他の生徒達を無視する事が多い筈だ。ただ、彼の場合、他者が彼を無視するために彼も他者の存在を除外しているにすぎない為、私とは根本的に異なる。


「正直、あの臨時講師に近づきたくないです。生理的に無理というか…」


「結構酷い事をさらっと言うな…」


 校門を出たためであろうか。先程まで感じていた不快感と体調不良がすっと抜けていくような感覚を覚える。それが原因なのか、私の口も軽口を叩ける程には滑りが良くなっていた。その言葉にドン引きしたような表情を浮かべた丑門君が私の斜め後ろでため息を吐き出す。だが、この私の発言は本心から出ている本音であった。

 あの臨時講師は初対面から良い感情を頂けていない。いや、正確には初対面とは言わないのかもしれない。何故なら、私はあの臨時講師の顔を正確に憶えていないのだから。ぼんやりと外国の人間だというのは分かる。だが、髪の色は何色かも、目の色や肌の色も憶えていない。初めて見た時は、その髪色などを認識していたかもしれないが、今憶えているのは、身の毛もよだつような不快感と、噎せ返るような血生臭さである。


「まぁ、一日中あの講師が教壇に立つ訳でもないしな。ただ、毎回保健室に逃げるわけにもいかないだろう」


「そうですね。あの臨時講師が授業に参加する時間は、保健室登校に切り替えようかしら」


 学校からの帰り道、アスファルトで覆われた南天神社へ続く坂道。いつかはこれが黄泉比良坂となり、黄泉へと続く道に変わった事もあった。

 だが、今は爽やかな秋風が吹き、一日の最後の天照大御神様からの恩恵を受けて真っ赤に染まった街並みが綺麗に見渡すことが出来る。この赤は、今日の学校で感じた血を連想させるようなどす黒い赤ではなく、朱色というような鮮やかな赤。それは何故か人の心を感傷的にさせた。


「身体の方はもう大丈夫そうだな。じゃあ、また明日」


「あっ、今日はありがとうございました」


 赤く染まった街並みを眺めながら歩いていると、いつの間にか一の鳥居が見える所まで辿り着いていた。見上げるように石段の先を見た丑門君は、私に小さな笑みを見せた後、片手を上げて歩き始めている。私は慌ててその背中にお礼を告げ、軽く頭を下げた。


「この辺りもお掃除しなくちゃ」


 二の鳥居に続く石段を歩きながら、私は呟きを漏らす。南天神社はその名の通り南天の木が多く植えられてはいるが、それ以外の木がない訳ではない。比率で言えば、南天の木よりもその他の木の割合の方が多い。それらの木々が夏に青々と広げた葉が、赤く、または黄色く色付き、地面へと溢していく。地面に落ちた色とりどりの葉は小さな虫達の憩いの場となったり、様々な生物を育てる豊かな大地の糧となるのだ。

 しかし、地面だけではなく、それらは石段にも舞い落ちる。既に高齢という年に足をかけている祖父母の事を考えると、足元が滑ってしまう可能性を考え、早急に掃き清めた方が良いと思われた。


「おねえちゃ~ん!」


 最後の石段を登り切り、二の鳥居を潜ると、今まさに境内の通路を清めていた有威が手に持っていた塵取りと小さな竹ぼうきを掲げて声を上げていた。

 私が石段を上がり切った所で気づいたのだろう。これ程に自分の帰りを喜んでくれる人間がいる事は素直に嬉しいのだが、今まさに手を上げて横に振っている為に、その手に握っていた塵取りから集めた落ち葉が舞い落ちている事に苦笑してしまった。


「有威、せっかく集めた落ち葉が広がっちゃっているわよ」


「あー! ごめんなさい…」


 私が近づいて来たので笑顔を濃くしていた有威であったが、頭に手をのせた私が口にした言葉に愕然とする。手に持っていた塵取りの中を覗き、自分の周りに散らばってしまった落ち葉を見て、涙を溜めた瞳で私を見上げてくる。零れ落ちそうな涙と共に謝罪の言葉が小さく漏れ出していた。

 どうにも笑顔になってしまいそうな自分の頬を抑える事が出来ず、小さな笑い声を漏らした私は有威の手にある竹ぼうきを受け取り、その小さな手を握る。


「仕方ない。私と一緒に、下の石段からもう一度お掃除をしよう」


「っ……うん!」


 有威の手を引いて、先程上り終えた石段を再び降りる。空になってしまった塵取りと、集めた落ち葉を入れる為のごみ袋を持った有威は、テレビアニメの主題歌を口遊みながら、私の手をぶんぶんと振り回していた。

 夕暮れになっているとはいえ、陽が完全に落ちて暗くなるまでもう暫く猶予はあるだろう。一番下まで降り終えた私達は素早く石段の落ち葉を集め、手際良くゴミ袋に入れて行く。ここに引き取られてから毎日自主的にお手伝いをしている有威も本来は手際よく作業をする事が出来るのだ。それだけに先程の失敗が可愛らしく、懸命に塵取りの中の落ち葉をゴミ袋に移す彼女の姿が尚更愛おしかった。


「あのね、あのね、おねえちゃん」


「ん?」


 既に石段の落ち葉履きも終え、再び二人で二の鳥居を潜った頃、『そういえば!』とでもいうように有威は私に向かって声を弾ませる。先程有威がひっくり返してしまって散らばった落ち葉を掃き始めていた私は首だけを彼女の方へと向けた。

 この頃ようやく自分が話しかけても答えが返ってくるのが当たり前である事を実感し始めた彼女は、私が顔を向けた事が本当に嬉しいとでもいうように笑顔になり、堰を切ったように言葉を溢れさせる。


「あのね、あのね、今日ね『吸血鬼さん』見たんだよ!」


「はぁ?」


 笑顔の有威が発した言葉が、私に混乱と驚愕と、そしてこれから始まる恐怖を届けた。


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